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主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
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2008/07/06 [Sun] 22:17:59 » E d i t
諸宗山回向院(東京都墨田区)において、7月5日、家畜お施餓鬼法要(施餓鬼会)がありましたので、この法要のため参詣してきました。以前に「家畜お施餓鬼法要」に参詣したときのことは、「平成19年総回向・家畜諸動物施餓鬼会」(2007/07/01 [Sun] 23:36:53)をご覧下さい。



1.施餓鬼会(せがきえ)とは、生きとし生けるものすべてを対象にして行われる法会です。施餓鬼会は布施の実践であり、供養を受けることのできない無縁の精霊を供養する儀式でもあります。このような法会なのですから、回向院は7月5日、動物供養のために行ったわけです。

(1) 施餓鬼会の由来について説明しておきます。

釈尊の弟子の阿難(あなん)は、喉が針のように細く、やせ衰えて醜い姿をした餓鬼から、「お前の命はあと3ヶ月しかなく、死んだ後は餓鬼に生まれ変わる」と言われました。そこで、阿難は釈尊にどうしたらいいかと教えを乞うたのです。阿難は、釈尊に教えられた陀羅尼(だらに)を唱えながら餓鬼に食を施したところ、かえって長寿を得られたのです。施餓鬼会は、こうした、はからずも餓鬼道に堕ちた精霊に布施をしたという、仏説に由来しています(藤井正雄監修「わが家の仏教・浄土宗」147頁参照)。


(2) 今回、参詣した印象について幾つか書いておくことします。

参詣者をカウンターで計測しているわけではないのですが、年々、彼岸会や施餓鬼会のために参詣する方々は増えているように感じます。毎回、法要のための参詣者が本堂に入りきれず、整列している方々がいるのですが、年々、長くなっているからです。

何十年か昔は、ペットが亡くなった場合、役所に問い合わせをすると、「箱に入れずにビニールに入れてゴミとして出して欲しい」などということであったり、飼っていた側としても良くて庭に埋める程度が普通でした。ペットを寺院で供養するという意識は、一般的ではなかったのです。

法要のために参詣者が増え続けている様子を見ると、ペットを供養する意識は根付いていると感じられます。

もちろん、回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院ですが、回向院での動物供養の歴史は、回向院の開創間もない頃(回向院二世信誉上人の時代)まで遡るほど古いものです。動物供養は回向院と切り離せないものなのです。回向院で供養できるほどの距離に住んでいる方に限られるのでしょうが、回向院で供養する方は、ペットを供養する意識がとくに強いといえるのかもしれません。


今年、7月5日の法要は、11時と2時の会があったのですが、2時の会の頃は30度近い暑さでしたから、本堂の外に並んでいる方々にとっては、ことのほか体に堪えることになってしまいました。長年、事務を取り仕切っているお坊様は、参詣者に対して並んでいることを求めていましたが、参詣者の体のことを考えれば、良い対応だとは思えませんでした。現に、具合を悪くされてしまったご老人もいたのですから。

お葬式に無理をして出掛けて、その結果、体を悪くして亡くなってしまう……。こうした出来事は、よく聞く話ですが、今回の施餓鬼会の結果、そうしたことがないようと願うばかりです。


3月17日、諸宗山回向院(東京都墨田区)において行われた、春季彼岸会「家畜総回向」では、五つの色が順番に縫い付けられた幕である「五色幕(ごしきまく)」が吊るしてありました。本堂に吊り下げられている幕だけでなく、参道の入り口にもありました(旗の形でしたが、これも「五色幕」のようです)。

ところが、今回の施餓鬼会では、「五色幕(ごしきまく)」は、参道の入り口に旗の形であるだけであって、本堂には吊り下げていませんでした。なぜなのかは、お聞きしませんでしたが、彼岸会と施餓鬼会で異なるのかもしれないとも思いました。

しかし、五色幕を張ることは、仏教を広めるための道場であること示し、またお釈迦さま以来ご開山(無相大師)さまを経て今日まで伝えられてきた大切な心の教えを、未来永劫にも絶やすことなく伝えていくという強い意思表明でもあるのです(「平成20年春季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向」(2008/03/18 [Tue] 19:58:09)参照)。そうすると、彼岸会と施餓鬼会で異なる理由はないように思います。


今回の法要では、今までずっとお見かけしていた御住職でないお坊様が読経をなされていました。以前の御住職はかなりのご高齢のようでしたから、代替わりをしたのかもしれません。




2.今回も、「家畜お施餓鬼法要」の際に頂いた「散華」(道場にみ佛をお迎えし、佛を讃え供養する為に古来より広く行われてきたもの。元来は、樒の葉や菊の花、蓮弁等の生花を用いていたが、現在は通常蓮弁形に截った紙花を用いている)に書かれていた言葉を引用しておきます。今回の語句(仏教用語)は、親鸞聖人の説かれた教えの1つです(やさしい信仰Q&A 【10】“自然法爾”(じねんほうに)についておしえてください。-親鸞聖人晩年の法語-)。




自然法爾(じねんほうに)  あるがままに




自然法爾(じねんほうに)とは、「自力をすて、如来の絶対他力にまかせきること」、「人為を捨て、ありのままにまかせること」を意味すると、説明されています。“自然”という言葉は仏教語では呉音で“ジネン”と発音し、「阿弥陀さまの救済に一切を委ねる」ということを意味していると説明したほうが分かりやすいかもしれません。
 

 「仏教では、自然を〈じねん〉と訓じて「自ら然る」という意味に解する。人間の作為のない「そのまま」の在り方が自然である。法(真理)が「そのまま」に顕現していることを示す法爾(ほうに)と自然とは同義語で、その両者を合わせて「自然法爾(じねんほうに)」「法爾自然(ほうにじねん)」という四字熟語ができた。
 浄土宗開祖の源空は、「法爾自然」を略して法然と号した。浄土真宗を開いた親鸞は、「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と称する一文を認め、その中で「自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり」(『末燈鈔(まっとうしょう)』)と説いている。明恵はの、漢語「自然法爾」の意味を「阿留辺幾夜宇和」という和語で表わした。〈あるべきようは〉とは、しかるべき状態のことである。また「自然法爾」を〈身の程を知れ〉と言い換えた古人もあった。これらは「自然法爾」を人間の生き方になぞらえて表現したものである。」(「大谷大学」の「生活の中の仏教用語(244):“自然”」(木村宣彰(きむら せんしょう)・仏教学教授)より引用)




物事や物の見方にしても、自分の都合を優先したり、ごく個人的な経験を一般的な物差しとして使ってしまい、誤った判断をしてしまうこともあると思います。誤解した思い込み・先入観を持って判断していまうこともまた、よくあることだと思います。自分では広い心で判断しているように思えても、他人から見れば、人を受け入れる心が狭いと思われているかもしれません。

こうして人々は、「あるがままに」受け入れることができないでいるのです。

別に運命に任せるとか、成り行きのままの人生を行い、現状維持を肯定しろというのではありません。「自然法爾」とは、先入観を捨てて、度量の狭さを反省し、仏様の眼を基準にして、広い心情・考え方で物事や人に接して生きていくことで、何物にも遮られることのない精神の自由を手にできるのです。それによって、より良い人生となり、ひいては何事でも人と融和できるより良い社会になっていくのではないか、ということなのだと思うのです。



テーマ:政治・時事問題 - ジャンル:政治・経済

2008/03/18 [Tue] 19:58:09 » E d i t
お彼岸を迎えました。3月17日、諸宗山回向院(東京都墨田区)において春季彼岸会「家畜総回向」がありましたので、この法要のため参詣してきました。前回の「家畜総回向」については、「平成19年秋季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向」(2007/09/23 [Sun] 21:14:58)をご覧下さい。


諸宗山回向院は、有縁・無縁にかかわらず生きとし生けるすべてのものを供養する寺院であり、動物供養の寺としても有名です。この回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院ですが、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」というのが、この寺院の理念となっています。

近時、回向院が当事者となったペット供養訴訟の判決が出ているため(「“ペット供養は宗教活動”で課税取り消し~東京高裁平成20年1月23日判決」(2008/01/26 [Sat] 18:40:46)参照)、余計に動物供養を行っている寺院として知られた存在になったといえるでしょう。



以前の「家畜総回向」で気づかなかっただけかもしれませんが、今回の「家畜総回向」では、五つの色が順番に縫い付けられた幕である「五色幕(ごしきまく)」が吊るしてありました。本堂に吊り下げられている幕だけでなく、参道の入り口にもありました(旗の形でしたが、これも「五色幕」のようです)。

「五色幕(ごしきまく)」とは、青、黄、赤、白、紫の五色であり、それぞれに意味があります。

「青」はお釈迦さまの髪の色であって、心が穏やかに落ち着いた状態で「禅定(ぜんじょう)」を表しているあらわします。
「青;お釈迦さまの髪の色。心が穏やかに落ち着いた状態で「禅定(ぜんじょう)」をあらわします。
黄;お釈迦さまの身体。豊かで確固としたゆるぎない性質「金剛(こんごう)」をあらわします。
赤;脈々と流れとどまることのないお釈迦さまの血液の色。大いなる慈悲心で人々を救済してやまない働き「精進(しょうじん)」をあらわします。
白;お釈迦さまが説法されるその口元の清らかな歯の色。諸々の悪業(あくごう)や煩悩(ぼんのう)を清める「清浄(しょうじょう)」をあらわします。
紫;お釈迦さまの聖なるお体を包むお袈裟の色。あらゆる侮辱や迫害などによく耐えて怒らぬ「忍辱(にんにく)」をあらわします。

これら五色は、お釈迦さまの教えといきざまを象徴的に表した色です。五色幕を張ることは、仏教を広めるための道場であること示し、またお釈迦さま以来ご開山(無相大師)さまを経て今日まで伝えられてきた大切な心の教えを、未来永劫にも絶やすことなく伝えていくという強い意思表明でもあるのです。」(「臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺」の『五色幕』」


普段は質素な色具合の寺院も、大変色安鮮やかな「五色幕」を吊るすことで華やかな感じになりますが、この「五色幕」にも重要な意味があったわけです。



今回も、「家畜総回向」の際に頂いた「散華」(道場にみ佛をお迎えし、佛を讃え供養する為に古来より広く行われてきたもの。元来は、樒の葉や菊の花、蓮弁等の生花を用いていたが、現在は通常蓮弁形に截った紙花を用いている)に書かれていた言葉を引用しておきます。今回は「法句経」(短詩型の教説を集成したもので、初期の仏教の教えを伝える仏教経典)にある語句であり、お釈迦さまの根本的な教えとして知られている言葉です。




少欲知足


足るを知るは上なき財なり

法句経



「小欲」でなく「少欲」という点が重要です。もちろん「無欲」ということでもありません。

「仏教では、古来「少欲知足」を教えています。「少欲知足」とは、欲を少なくし、
足を知る心をもて、といった教えです。

欲を少なくするのは、別段無欲ではありません。よく、仏教は「無欲」を教えて
いると受け取られますが、それは錯覚です。無欲では、人間は生きられませんよ。
また、「小欲」でもありません。欲望が小さいことはいいことですが、
仏教は必ずしも欲望が小さくなければならない、とは言っていません。

そうではなくて、「少欲」は、私たちの欲望を少なくすることです。
そして、足を知る。それが「少欲知足」です。そして、その「少欲知足」が
ほかならぬ布施そのものであると、仏教は教えています。」(「心のページ」さんの「ひろさちや『般若心経』生き方のヒント」より



道元禅師も自らの最後の教えとして説かれた「八大人覚」において、「多欲の人は、利を求めることが多いから、おのずから苦悩もまた多い。これに対して少欲の人は、求めることもなく、欲もないからわずらうこともない。いつも満ちたりて苦悩もなく心穏やかである」と、このように少欲を行じることを諭されたそうです(「鐘の音 和尚の一口法話」の「第85話・少欲知足」)。

欲望を少なくし、その小欲で満足することは、心豊かに暮らすことができる――。人は自分自身の心の中に生じてしまう、貪りの心、愚かな心に負け、自分を見失ってしまうことがしばしばです。欲望すべて放棄するのではなく、「少欲知足」を実践することで心の満足を得えて良き人生を得ることができ、そして、その心の余裕が他の人を思いやる気持ちにつながるのだと思うのです。



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テーマ:動物愛護 - ジャンル:ペット

2008/01/26 [Sat] 18:40:46 » E d i t
宗教法人「回向院」(東京都墨田区)が東京都側に供養施設への課税(固定資産税と都市計画税)取り消しを求めた訴訟について、控訴審判決が1月23日、東京高裁でありました。東京高裁の一宮なほみ裁判長は「回向院での動物供養の宗教性は社会的に認知されている」と述べ、訴えを退けた一審東京地裁判決を取り消し、課税(固定資産税と都市計画税)を認めませんでした(時事通信(2008/01/23-21:53)「ペット供養は宗教行為=寺院への課税取り消し-東京高裁」)。そこで、「ペット供養訴訟」に関するこの判決について、取り上げたいと思います。


“ペット供養は宗教活動”

 東京の寺で江戸時代から続く飼い犬や飼い猫の供養が課税の対象になるかどうかが争われた裁判で、東京高等裁判所は、地域に根ざした宗教活動で営利活動ではないとして、東京都が行った130万円余りの課税を取り消しました。

 東京・両国にある「回向院」は350年余り前の江戸時代から飼い犬や飼い猫などを供養する寺として知られています。寺には高さ10メートルを超す動物の供養塔があり、お彼岸に営まれる動物の法要には、かわいがっていたペットの死を悼む大勢の参拝客が訪れます。

 これについて、東京都が「料金をとる供養は営利活動に当たる」として、4年前、固定資産税など130万円余りを課税したため、寺が「人の供養と同じ宗教活動だ」として取り消しを求めていました。

 23日の2審の判決で、東京高等裁判所の一宮なほみ裁判長は「江戸時代の文献には回向院に多くの動物が埋葬されたという記述があり、動物を供養する寺として古くから地域の人々のあつい信仰の対象だったことが認められる。供養料は取っているが、地域に根ざした宗教活動で営利活動ではない」と指摘し、東京都の課税を認めた1審とは逆に課税を取り消しました。

 判決について東京都の主税局は「主張が認められず、きわめて残念だ。判決の内容をよく見たうえで今後の対応を検討したい」と話しています。

1月23日 18時16分」(NHKニュース(1月23日 18時16分)



新聞紙面では大きな扱いではありませんでしたが、NHKで何度も報道されたためか、多くの関心を呼んだ裁判例だったようです。



1.いわゆるペット供養訴訟については、「ペット供養訴訟~宗教法人が行うペット供養(葬祭)も収益事業なのか?(上)」(2006/07/26(水) 23:04:32)「ペット供養訴訟~ペットの火葬や霊園の現状」(2006/08/13(日) 09:10:57)で触れています。


古来から日本の動物観は、どんな動物でも命あるものとして尊重し、供養を行ってきていました。動物供養で有名な「回向院」は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院ですが、その理念は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」であり、その理念は現在までも守られてきているのです。

回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を当院に葬ることになりました。その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻し安置した馬頭観世音菩薩像は、享保年中(1716~35)の頃から「江戸三十三観音」に数えられています。また、回向院の境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」(文化十三年・1816)、「唐犬八之塚」(慶応二年・1866)、「オットセイ供養塔」(大正15年)、さらに義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合による「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があります。

人間はもちろん、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという、回向院の理念が守られていることは、「平成19年春季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向~彼(か)の岸(きし)へ生まれることを願う」(2007/03/17(土) 22:25:41)「平成19年総回向・家畜諸動物施餓鬼会」(2007/07/01(日) 23:36:53)「平成19年秋季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向」(2007/09/23(日) 21:14:58)といったようなことでも、いくらかでも理解できるかと思います。

このように、回向院での動物供養の歴史は回向院の開創間もない頃(回向院二世信誉上人の時代)まで遡るほど古いものであり、動物供養は回向院と切り離せないものなのです。東京高裁は、「回向院での動物供養の宗教性は社会的に認知されている」としていますが、極めて妥当な理解です。



この問題について検討する前に。

飼い主により、死後回向院に供養のために連れてこられたペットは幸せです。多数の犬・猫などが殺処分となっており、生涯を全うできずにいるのですから。

「無責任な飼い主による動物虐待や置き去り、利益追求ばかりで無計画な繁殖を行う悪質な業者は後を絶たない。炭酸ガスにより殺処分される犬や猫は年間約40万匹。環境省は、罰則などを強化した改正動物愛護管理法を先月から本格運用した。しかし、引き取り手がない犬や猫を動物管理センターからもらい受け、民間の動物愛護団体などが新たな飼い主を探す構図は変わってはいない。」(YOMIURI ONLINE:ズームアップ・ウィークリー(2007年7月4日)「無責任飼い主の罪」



深夜、犬が吠えて近所から苦情を受け、家族が睡眠不足になったからなど多くの身勝手な理由――深夜吠えないように教えるのが飼い主の務めなのに――で、殺処分になっているのです。殺処分を待つ犬は、目が虚ろになり、恐怖におびえ口からよだれを流し続けています。飼い主としての務めを果たす意思がない者に飼われる動物は不幸です。

昔の地域住民は、犬が吠えるのは当たり前だと思い、文句を言い出すものはほとんどいませんでした。昔に比べれば、今の犬はほとんど吠えることがなくなっているのにも関わらず、今の日本社会は、犬が少しでも吠えることを許容出来ないほど寛容さをなくしてしまっているようにも思います。



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テーマ:裁判 - ジャンル:政治・経済

2007/09/23 [Sun] 21:14:58 » E d i t
お彼岸を迎えました。9月20日、諸宗山回向院(東京都墨田区)において秋季彼岸会「家畜総回向」がありましたので、この法要のため参詣してきました(前回の「家畜総回向」については、「平成19年総回向・家畜諸動物施餓鬼会」をご覧下さい)。

午後(2時)1回予定の法要について、過去には午後2回行われたことがありましたが、今回は多数の参詣者はいても、もう1回行うほど多数ではなく午後1回のみでした。


このブログにおいて、「家畜総回向」について最初に触れたのは、「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題~毎日新聞が「坂東氏を動物虐待で告発する」との記事を掲載」のエントリーであり、そこでも触れたように、9月20日から26日までは動物愛護週間です(動物愛護法4条)。彼岸の期間には、各寺院では彼岸会法要が営まれますが、参詣することはなくても供養の気持ちをもつとともに、動物も命あるものであることを今一度理解してほしいと思います。

「日本動物愛護協会」は、「平成19年度■ ■ ■ 動物愛護ふれあいフェスティバル ■ ■ ■ ~いのち輝け 人と動物の愛の輪で~」を開催しており、20日(土)と23日(日)において、「飼う前に考えよう」をキーワードにしたイベントが行われました。


今回も、「家畜総回向」の際に頂いた「散華」(道場にみ佛をお迎えし、佛を讃え供養する為に古来より広く行われてきたもの。元来は、樒の葉や菊の花、蓮弁等の生花を用いていたが、現在は通常蓮弁形に截った紙花を用いている)に書かれていた言葉を引用しておきます。今回は「禅語」であり、その中でもよく知られている言葉です。

「禅語」とは、その短い一句の中に、禅の心や悟りの境地を込めたものです。禅語は、宗教の世界だけのものではなく、むしろ、悩む苦しむ世俗の中に生きる人々にこそ、知ってほしい言葉です。切実な日常に生きるものこそ、本物の禅といえるのです。


 「一期一会

2度とない今を そして 人との出会いを大切に 精一杯生きよう


「一期一会(いちごいちえ)」は、釈迦は「会者定離」といって、出会う者には必ず別れがあることを教えていますが、この言葉と類似する言葉です。

「一期一会」は、千利休の門人・山上宗二による「山上宗二記」が初出とされ、江戸時代の大老で茶人でもあった、井伊直弼が茶道の心得を記した『茶湯一会集』によって広まったとされる言葉です。 『茶湯一会集』には、次のように書かれています(金嶽宗信『禅語 ちょっといい話』(2007、芙蓉書房出版)21頁)。

 「――そもそも茶の交会(こうえ)は、一期一会といいて、たとえば、幾たびもおなじ主客と交会するも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実にわれ一世一度の会なり――

 たとえば今後、同じ人と幾度もお会いすることがあったとしても、今日この瞬間の出会いはもう二度ともどってこない。それこそ命がけでこの一回の出会いに臨まなければならない。」




先週、遠方に住むある方の突然の訃報を聞き、お通夜・告別式に参列してきました。闘病生活が長く続いていたため、まだ大丈夫だろうと思っていたので、予期していませんでした。もう少し前に会っていれば、との後悔の念も生じています。もはや取り返しがつかないことですが、お会いする機会はもう二度とありません。

現実の社会でも多くの方と接するのですが、ネット上の社会では現実に合える状況にない方とも出会いがあります。現実に会えることはなくても、ここのブログでの出会いもまた、二度と同じ時間を持つことができない大切な時間です。

人はそれぞれ別個の人生を生きており、しかも二度と来ない時間を歩んでいるのです。今日言葉を交わした人と、今度はいつ会うことができるでしょうか? 中途半端な生活を送っていませんか? 二度と戻らない時間を無駄に過ごしていませんか? 今日の出会いは一度きりであり、今という時間はもう二度とこないのです。

一期一会は、各人の生活そのものに対して問いかけている言葉なのです(金嶽宗信『禅語 ちょっといい話』24頁)。

テーマ:動物愛護 - ジャンル:ペット

2007/07/01 [Sun] 23:36:53 » E d i t
諸宗山回向院(東京都墨田区)において、6月30日、家畜お施餓鬼法要(施餓鬼会)がありましたので、この法要のため参詣してきました(以前参詣したときのことは、「平成19年春季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向~彼(か)の岸(きし)へ生まれることを願う」を参照)。


施餓鬼会(せがきえ)とは、生きとし生けるものすべてを対象にして行われる法会です。施餓鬼会は布施の実践であり、供養を受けることのできない無縁の精霊を供養する儀式でもあります。このような法会なのですから、回向院は6月30日、動物供養のために行ったわけです。


法要の際に施餓鬼会の由来について説明していましたので、ここでもその説明を載せておきます。

釈尊の弟子の阿難(あなん)が、喉が針のように細く、やせ衰えて醜い姿をした餓鬼から、「お前の命はあと3ヶ月しかなく、死んだ後は餓鬼に生まれ変わる」と言われました。阿難は釈尊にどうしたらいいかと教えを乞いました。そして、阿難は釈尊に教えられた陀羅尼(だらに)を唱えながら餓鬼に食を施したところ、かえって長寿を得られたという仏説に由来しています(藤井正雄監修「わが家の仏教・浄土宗」147頁)。


今回も、「家畜総回向」の際に頂いた「散華」(道場にみ佛をお迎えし、佛を讃え供養する為に古来より広く行われてきたもの。元来は、樒の葉や菊の花、蓮弁等の生花を用いていたが、現在は通常蓮弁形に截った紙花を用いている)に書かれていた言葉を引用しておきます。この和歌は、法然上人が詠まれた歌(浄土宗の宗歌)です。


「月影のいたらぬ里はなけれども 眺むる人乃心にぞすむ」



この和歌の意味について、浄土宗のHPから引用しておきます。

「月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺めるひと以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるひとのみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味です。

法然上人は「月かげ」のお歌に、『観無量寿経』の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」のこころを説き、私たちにお示しくださったのです。

法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力のあるものだけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは全く違ったものでした。

「南無阿弥陀仏」と唱えればみな平等に救われる・・・。法然上人のおしえは貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れられ、800年を経た今日もそのおしえはひとびとの「心のよりどころ」となっているのです。」(元祖法然上人のみ教え:浄土宗 総本山知恩院


「月影」とは、阿弥陀仏の光明の喩えであり、「ながむる人」とは、阿弥陀仏の光明に面を向け、心を開いて念仏を唱える人のことをいいます。要するに、月の光(阿弥陀仏の光明)が降り注がない地はないのだけれども、その素晴らしさを知ることができるのは、眺めようと心掛ける者(心を開いて念仏を唱える人)だけという意味です。

他力本願の浄土思想といっても、やはり自覚的出発なしには救いに気づくことはありません。救われてると本当に気づくことが至難であるとしても、そこに身をおいて月影を仰ぐほかないのです(「浄土の本」158頁)。


法然が仏教の道を選ぶことになったのは、父の遺言に基づいています。法然(幼名:勢至丸)が9歳の頃、父が非業の最期を遂げるのですが、復讐を誓う勢至丸に対して、「復讐をしてはならない。これも私の過去の業のせいであるから彼を恨んではならない。もしお前が恨みを晴らせば、次には彼の遺児がお前を恨もう。それでは永遠に恨みの尽きるときはない。それよりも恨みのない安らぎの心を手に入れるがよい」と言い残して息絶えました(松原泰道著『仏教入門』167頁)。

最近の日本では、裁判が被害者の復讐の場のようであり、弁護人が被告人に有利なことを述べることさえ非難する者たちさえいます。「恨みのない安らぎの心を手に入れる」ことを求める意識など皆無のようです。仏教国と言われた日本は、遠い過去のこととなりつつあるようです。

テーマ:動物愛護 - ジャンル:ペット

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