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主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
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2006/05/22 [Mon] 04:16:11 » E d i t
東京新聞(平成18年5月21日付朝刊)において、「週のはじめに考える 『平等』を問い直そう」という表題の社説がありました。この社説についてコメントしたいと思います。


1.東京新聞(平成18年5月21日付朝刊)の社説によると、

http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20060521/col_____sha_____001.shtml

 「週のはじめに考える  『平等』を問い直そう

 「格差は必ずしも悪くない」と小泉首相は言いましたが、激しい競争社会が招くのは、一握りの強者と多数の弱者です。「平等」は普遍的な価値であるはずです。

 卓球の愛ちゃんも、ゴルフの藍ちゃんも有名人ですが、天才チンパンジーのアイちゃんもそれに劣らず“有名人”です。

 愛知県犬山市にある京都大学霊長類研究所に、アイちゃんを訪ねたことがあります。人間とは何か。それをチンパンジー研究者・松沢哲郎教授に聞いてみたかったからです。

 ■人間とは共感する動物

 人間とは直立二足歩行し、文字や火、道具を使う動物だと、習った覚えがありました。喜怒哀楽のあるのが、人間だとも…。

 ところが、アイちゃんを知れば知るほど、人間の定義そのものが怪しくなってきました。何しろ、アイちゃんは0から9までの数字やその大小関係をちゃんと理解しています。モノの名前や色を表す漢字など百以上もの語彙(ごい)を持っているのです。

 「チンパンジーは“チンパン人”」と松沢教授は言いました。

 「言語を理解し、道具も使います。ほとんど人と変わりません。まさに『進化の隣人』といえます」

 では、人間とは…、ますます分からなくなります。松沢教授はこんな回答をくれました。

 「介護が必要になった者などに手をさしのべる行動は、チンパンジーには、ヒトほどのものはありません。ヒトは相互に助け合うように進化してきたのだと思います。人間とは、他者の立場に立って思いやる『共感する動物』といえるでしょう」

 助け合い、お互いを思いやるのが人間の本性である…、それが取材で感じられた結論でした。

 さて、市場原理主義が闊歩(かっぽ)する世の中です。米国式の弱肉強食主義や能力主義がはびこり、まるで競争に勝てばすべてという時代です。

 ■「一億総中流」はどこに

 何百億ものお金を手にするIT長者の現実を目の当たりにする一方で、貧困の問題も見過ごせません。

 一九九五年に六十万だった生活保護世帯は、もはや百万を突破しました。連合総合生活開発研究所の今春の調査では、収入格差の拡大を実感する人が六割強にのぼりました。

 「一億総中流」は見る影もありませんね。小泉首相は「格差が出るのは悪くない」と国会で答弁し、こう続けました。

 「成功者をねたむ風潮、能力ある者の足を引っ張る風潮を慎んでいかないと社会の発展はない」

 ねたんでも、足を引っ張ってもいけませんが、むしろ問題は富者はどんどん富み、貧者はますます貧しく…という風潮です。市場原理主義は「一人勝ち」を許します。勝ち組は一握りにすぎず、大半は負け組という冷厳な事態を生みます。「平等」という価値観について、問い直していいときではないでしょうか。

 古代ギリシャの哲学者・プラトンの時代から、「平等」については論じられてきました。当時はこんなことわざがあったようです。

 《平等は友情を生む》

 プラトンの著書「法律」(岩波文庫)にそれが記述されています。

 「奴隷と主人とでは、友情はけっして生まれない」としつつ、「くだらない人間と優れた人間とが、等しい評価を受ける場合も、やはり友情は生まれない」と書いてあります。そして、古いことわざは真実だと、プラトンは評価しているのです。

 たしかに米国のように、社長と社員の年収格差が百倍も千倍もあるような社会では、まるで主人と奴隷のような関係で「友情」などは生まれないでしょう。では、「くだらない人間と優れた人間」とは、どの程度の差が適当なのでしょうか。

 いわゆる「結果の平等」の問題です。でも、いくら有能といっても、米国のように収入が、百倍も千倍も違うというのは、ちょっと行き過ぎでしょう。血の通う人間同士にそれほどの隔たりがあるとは、とても思えません。

 従来の日本社会では、社長と社員の年収格差は、四倍程度といわれてきました。これこそが、戦後日本がつくり出した「一億総中流」という平等社会だったわけです。終身雇用や年功序列などの“セーフティーネット”に守られて、それなりに安定した社会でした。

 ヒトの全遺伝情報が解読され、チンパンジーのそれも、解読が終わりました。その結果、塩基配列の実に98・77%が同じでした。残る1・23%の部分に、人類の人類たるゆえんがあるはずです。

 ■「1・23%」の自覚を

 果たして、その1・23%とは何でしょう。「弱い者へ手をさしのべる」のが人間の本性ならば、今こそ、それを自覚したいものです。格差が固定し、教育や就業の機会が奪われてもなりません。「機会の平等」は何としても死守すべきです。

 それにしても、プラトンの時代のことわざは、ちょっと心にとどめておきたい言葉ですね。

 《平等は友情を生む》」

としています。

この社説では、平等は普遍的な価値であるのに、格差社会の広がりにより貧困層が増大しつつあり、いまや「機会の平等」の確保さえ、危ぶまれているといった趣旨を述べていると思います。
プラトンの著書「法律」(岩波文庫)から、「奴隷と主人とでは、友情はけっして生まれない」という印象的な文章を引いて、平等の実現を、「格差は必ずしも悪くない」と言う小泉首相と異なり、格差社会の是正を説いているわけです。




2.ここで出ている「平等」とはどのように考えられてきたのでしょうか? 「平等思想の歴史」について説明しておきたいと思います。
戸波江二「憲法」(新版)(平成10年、ぎょうせい)188頁~は次のように述べています。

 「平等思想の歴史

 平等の観念は、人権思想の基本前提をなす。個人の尊厳の原理に立脚する人権体系は、論理必然的に、すべての人が平等に尊重され、各人の人権が平等に保障されることを要求する。アメリカ独立宣言が『すべての人は平等につくられ』ていることを強調し、フランス人権宣言1条が『人は自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する』と定めていることは、平等が近代人権宣言の基礎をなすことを物語っている。

 平等の思想の淵源は古く、ギリシャ時代にさかのぼるが、とりわけ中世キリスト教の『神の下の平等』の思想は近代的人権の平等観の素地をなした。もっとも、実際の中世社会には、封建制度に基づく身分差別が厳然として存在していた。『自由・平等』を標語とした近代革命は、まさにそのような封建性の打破をめざすものでもあった。

 近代革命を経て、平等が憲法原則として確立するが、しかし、それによって直ちに平等の理念が現実の社会で実現したわけではない。むしろ、平等の理念と社会の現実との間には矛盾があった。すなわち、個人の自由な活動を尊重する19世紀自由主義の下では、平等は『出発点の平等』『機会の平等』を保障するものであり、個人が自由に活動する可能性を各人に平等に保障するものとされたが、それは『結果の平等』を意味せず、各人の具体的な差異や自由競争から生じた結果の不平等を放置するものであった。

 このような形式的平等観は、現実の社会の富の偏在、社会的・経済的弱者と弱者との分化など、事実上の不自由・不平等を前にして批判されざるをえない。そこで、社会的・経済的弱者により厚く保護を与え、それによって一般国民と同等の自由と生存を実質的に保障し、事実の世界での現実の平等を達成しようとする実質的平等の思想が唱えられる。それは、社会国家・福祉国家の理念や社会権の思想とも結びつき、現代における平等のあるべき指標となっている。

 また、平等の実現にとって重要なことは、平等の理念が確立したというだけでは不十分であり、現実の社会構造や国民意識の中にある差別が実際に除去されなければならないことである。現に、近代憲法の成立以降も、貴族制度や奴隷制度は直ちに廃止されなかったし、人種差別や女性差別などは現代でも根強く残っている。特殊日本的な部落差別や朝鮮・韓国人差別は現実に日本の社会の中で克服されずに存在する。平等の理念は、現実の不平等との不断の戦いによってこそ達成されるのである。」


要するに、近代革命を経て、平等が憲法原則として確立したが、それは「機会の平等」を保障する形式的平等観であり、現実の社会の富の偏在など事実上の不自由・不平等がある以上、現実の平等を達成しようという実質的平等観が、現代における平等のあるべき指標であるのです。そして、平等の理念だけでは意味がなく、現実の不平等を除去すべく努力が必要であると論じているのです。




3.格差をなくすこと。これは人々がずっと、挑戦してきた課題でした。


(1) 東京新聞(平成18年5月14日付)の社説によると、
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20060514/col_____sha_____001.shtml

「格差是正は、いまに始まった話ではありません。いわば近代国家が成立して以来の大テーマといってもいいほどです。たとえば約百六十年前、カール・マルクスの一連の著作に始まる共産主義もそうでした。

 すべての労働者が自分の能力に応じて働き、格差のない公平な社会をつくる。それが理想だったのですが、結果は旧ソ連にみられる通り、非効率な政府がいびつなほど巨大に増殖し、最後は原発事故も引き金になって崩壊してしまいました。

 共産主義を含めて、人々が政府に期待する役割の一つは、いまも昔も「公平で公正な社会」の実現です。最近、会った中堅の自民党衆院議員がつぶやいた一言が、問題の重さを如実に物語っています。

 「格差是正。これはわれわれの魂に触れる課題なんだ。自民党の存在意義にかかわるといってもいい」

 自民党が格差是正とは、いまや意外に聞こえるかもしれませんね。でも、農村の生活水準改善に最も熱心な政党が従来の自民党だったことを思い出せば、納得できるでしょう。格差是正は洋の東西を問わず、あらゆる政治勢力が取り組んできた課題なのです。」

としています。
要するに、格差是正は洋の東西を問わず、あらゆる政治勢力が取り組んできた課題であり、本来、自民党にとっては「格差是正。これはわれわれの魂に触れる課題」なのです。



(2) 実際問題としても、国民年金の未納者は四割に迫る勢いですし、そのうち払う金がなくて未納状態という場合が多いでしょうから、将来、生活保護を受ける者が激増するはずです。

さらには、給食費さえ払えない家庭が増加しているとのテレビ報道や(例えば、 「給食費扶助家庭が急増―タウンニュース」参照。もちろん、生活困窮のためでなく、支払能力があるのに意図的に給食費を支払わない家庭もあります。)、低所得ゆえに1校くらいしか受験できない子供が増加しているとのテレビ報道もありました。これでは、良い教育を受ける機会さえ、奪われているといえるかと思います。

このように、現実的にも将来は確実に、現在においても、格差社会の弊害が深刻化しつつあるといえると思います。



(3) このように、憲法論という理念としても、現実の政治問題としても、実質的平等の確保は、取り組むべき重要問題であるのです。それどころか、今の日本社会では「格差が固定し、教育や就業の機会が奪われてもなりません。『機会の平等』は何としても死守すべき」とまで言われてしまうほど、形式的平等さえ失いつつあるという、深刻な状況にあるといえるようです。

言い換えると、資本主義社会である以上、格差が生じることは必然であるとしても、貧困層がより貧困になり、しかも増大するような格差社会は、格差を固定化し、実質的平等はおろか、結果的に「機会の平等」さえ保障されなくなるのです。この点で憲法上、問題であるのです。

小泉首相が「格差が出るのは悪くない」と言って、格差社会の是正を怠り、現実の不平等を除去すべく努力しないことは、政治問題としてだけでなく、憲法上も問題があると考えます。

テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

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 今回は、前記事のつづきをアップするのだが・・・。 当初は2~3回に分けてアップする予定だったものを一気にアップすることにしたのでおそろしく長い記事になってしまった。(-_-;) 興味を抱いて下さった方は、どうか疲れない程度に、何回かに分けて読んで下されば幸い
2006/05/27(土) 22:30:46 | 日本がアブナイ!