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2007/05/08 [Tue] 01:58:09 » E d i t
平成19年5月3日は憲法記念日、憲法施行60年を迎えました。各地で憲法に関する集会が開かれたりました。そこでは、国民投票法案を意識してか、憲法改正を巡る議論が多かったようです。ブログでの紹介としてかなり遅くなりましたが、朝日新聞が「あしたを考える」欄において、「日本国憲法の60年」という表題で連載していた記事の中から1つを紹介しつつ、憲法施行60年に関して触れてみたいと思います。



1.朝日新聞平成19年4月28日朝刊3面

日本国憲法60年<2>――安全に揺れる個の尊重

 <13条> すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反し限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


◆住基ネット 管理の不安無関心  防犯カメラ 住民自ら設置推進

 封を開けると、11けたの数字があった。東京都に住む岩本昌子(73)に住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)の住民票コードが送られてきたのは、02年8月のことだった。

 自分は番号なのか。「私のは消して下さい」と役所に訴えた。職員は「できません」とつぶやいて応じない。住基ネット訴訟の原告団に加わったのは、自分は自分でモノではない、そんな思いからだった。

 国に番号で管理されることが、なぜ問題か。金沢訴訟原則の浅野陽子さん(71)は、説明に苦労している。元高校教師で教え子たちが時々遊びに来るが、30代から40代の彼らに住基ネットを語っても、返ってくるのはポカンとした顔だ。

 「何が悪いの」「難しいことはわからん」

 自分自身、日常生活で被害を被っているわけではない。それでも、住基ネットの仕組みは、国が個人の情報を統括した戦争の記憶と重なる。

 住基ネット差し止め訴訟全国弁護団事務局長の渡辺千古弁護士は言う。「個の尊重も、生命身体にかかわる他社の権利と比較考量されれば制限されることもあり得る。だが住基ネットでは『便利さ』と比べられている」

 便利さの代わりに失うもの。どう言えば分かってもらえるのか、浅野さんは考え込む。

   ■

 店舗用機器などを扱う東京都世田谷区の武田忠秀さん(67)は今月、近くの人から「至急、防犯カメラを設置して」と頼まれた。駆けつけると、ガラス窓にバーナーであぶった跡がある。玄関先などに4台のカメラをつけ、リース代は月約1万円。依頼主は安心した表情を見せた。

 成城警察署は95年末から、「自主防犯」のかけ声で住民らに自費で防犯カメラを設置してもらう運動を始めた。

 武田さんの会社兼住居にもカメラがある。2台は軒下に、道路の左右に向けて設置されている。映像として記録される圧倒的多数は、通行人や近所の住人たちだ。

 40年ほど前までは周囲は畑で、武田さんはよく、農家の麦の脱穀を手伝った。だが今は、2軒離れるともう、住民の名前と顔が一致しない。人のつながりに生まれた空白を、カメラが埋める。

 「世田谷一家殺人事件がすぐ近くで起き、多くの住民が不安を感じている」と武田さんは言う。「プライバシーを主張している人も、実際に犯罪に遭ったらどうだろう」

 成城署管内の防犯カメラは現在、220ヶ所、440台に達している。


◆強まる「公」の重視

 すべて国民は個人として尊重される。憲法学者の樋口陽一氏は、日本国憲法でもっとも大切な条文を1つ挙げるとすれば、躊躇(ちゅうちょ)なくここだという。

 「主権者たる国民がみんなで決めたことでも、一人ひとりの『個人』を尊重するという原則は決して侵してはいけない」

 そこが揺らげば、どんなことが起きかねないのか。国家や民族、人民の名のしたに個人が否定されたナチズムやスターリニズムの悪夢は、その極限の姿として私たちの記憶にある。

 戦後日本、国民は自由を享受してきた。ただ、それが行き過ぎたという批判も絶えない。「個」を強調するあまり利己主義を広め、公共心を失わせてしまったという主張だ。自民党内に根強く、教育基本法改正にもつながった。

 13条に書かれた「公共の福祉」は、一昨年発表された自民党の改憲草案では「公益及び公の秩序」という言葉に差し替えられた。統治者は「個」に増して「公」を重視するのが常だ。

 そして21世紀を迎え、「安全」が「個」の前に新に立ち現れる。「個人の自由」より「公共の安全」「犯罪防止」優先の社会。一気に加速させたのは、01年の米同時多発テロの発生だった。

 「治安政策としての『安全・安心まちづくり』」の著者で明大兼任講師の清水雅彦氏は「防犯カメラ設置の動きが従来と違うのは、住民が自ら『監視』を望んでいること。安全・安心を望む人たちにプライバシー権を説いても届きにくい」と指摘し、こう語る。

 「人々が感じる不安感の底には、新自由主義による格差社会、競争社会化があるのに、表面的な治安強化だけが強調され、相互監視する社会が生まれている」

 市場原理主義が推進され、「自己責任」が強調される。国民は、安全のために自由が制限されてもやむを得ないと考える――。

 樋口氏は言う。「同じ条文の中に、『個人の尊重』と『公共の福祉』という言葉が出てくるのは、本来、個の主張を前提として公共が作り上げられるからだ。個を抑え込むことが、逆に公共を殺していく」

 個の支えがない公は、どこに向かうのか。


◆受けた恩恵、曲に託し――元軍国少年「一度失ったら…」

 知らぬ間に、巨大な何かに組み込まれていた。NHK交響楽団正指揮者の外山雄三さん(75)は、あの戦争を振り返ってそう思う。

 軍国少年だった。45年8月15日、昭和天皇の玉音放送を聞いて涙を流した。敵を一人でも殺してお国のために美しく死ねなかったのが情けない。そういう涙だった。

 とりたてて、学校や親に軍国主義的な教育を受けたわけではない。灯火管制下、切り忘れたラジオの赤いランプを隣組が見つけ、スパイだと密告しあったような時代。

 「世の中全体の空気が自分のような少年を育てたのだろう。皆と同じ方向に歩いていく性癖が日本人には確かにある」

 日本国憲法の公布で目の前が明るくなるような変化が起きたという記憶は、外山さんにはない。だが東京芸大を卒業し、音楽家として世界各地で自由に活動した自分を新たな空気として包んでいたのが、個の尊重を掲げた憲法13条だった。

 中学生の社会科教科書として憲法施行の年に当時の文部省が出した「あたらしい憲法のはなし」に曲を付けた。切り詰められた言葉で、私たちの考えの核心を突いていると思ったからだ。

 「私たちは、知らず知らずのうちに憲法から恩恵を受けていた。でも、空き地以前に何が立っていたか忘れてしまうように、一度失うと、何を失ったのかすら忘れてしまうのではないだろうか」

 憲法が生まれて半世紀以上がたった今、「個の尊重」は根付いたか。3年前の4月、それを試されたのがイラクで起きた日本人人質事件だった。

 武装集団に誘拐された3人の男女は、「無責任な行動で政府に大きな負担をかけた」と世間の批判を浴びた。写真家の郡山総一郎さん(35)は解放されて帰国した後、「自己責任」という言葉が自分たちに投げつけられていたことを知った。

 「自己責任」という言葉が、一人ひとりの責任は問われない形で、匿名の集団から放たれる。合唱に加わった人たちは本当に自分の考えでそうしたのだろうか、と郡山さんは疑問を感じている。

 「今考えると、あなたたちのしたことは間違っていなかったと思う」。彼のもとには、今になって、見知らぬ人からの電子メールや手紙が舞い込んでいる。  (真鍋弘樹)


<キーワード> 住民基本台帳ネットワーク

 住民に11けたの住民票コードを付け、氏名・住所などを国や全国の自治体で取り出せるようネットワークでつないだシステム。住民票の写しが全国で取れるなど「住民サービス向上」と「事務の効率化」が主な目的で、02年8月から稼動。個人情報がコードに合わせて集積される危険性も指摘され、住民が国や自治体を相手取った訴訟では金沢地裁で05年5月、大阪高裁で06年11月に住民勝訴の判決が出た。」




2.タイトルで示したように、「日本国憲法でもっとも大切な条文は?」は憲法13条であり、「個人の尊重」です。憲法13条には「幸福追求権」が規定され、そこには自己決定権が含まれていることから、このブログでは憲法13条はほとんど常にテーマとなっているとさえいえるのです。

「すべて国民は個人として尊重される。憲法学者の樋口陽一氏は、日本国憲法でもっとも大切な条文を1つ挙げるとすれば、躊躇(ちゅうちょ)なくここだという。

 「主権者たる国民がみんなで決めたことでも、一人ひとりの『個人』を尊重するという原則は決して侵してはいけない」」



(1) 個人の尊重というと個人主義の思想が前面に出てきて、 「個」を強調するあまり利己主義を広め、公共心を失わせてしまったという主張もなされることがあります。しかし、「個人の尊重」原理は単なる個人主義とは異なります。

 「憲法13条前段は、「すべて国民は、個人として尊重される」と定める。個人の尊重は「個人の尊厳」(憲法24条2項)ともいわれ、人権尊重主義の核心の原理であり、14条以下の個別的な人権規定の基礎をなす根本思想である。それは、一人ひとりの個人をかけがえのない存在ととらえ、個人の尊重の確保を人権保障の究極の目的とするものである。

 個人の尊重の原理は、まず第一に、個人よりも全体の優位を説く全体主義、とりわけ個人の全体のための道具として「滅私奉公」を強要した戦前のファシズム思想を根本から否定することを要求する。一人ひとりの個人こそが何もにもかえがたい最高の価値とされなければならないのである。

 そして第二に、個人の尊重の原理は、個人が人格的な自律性を維持することを要求し、また同時に、そのような個人の自律性を他者が尊重することを要求する。すなわち、個人の尊重の原理は、個人の思想・信仰に基づく人格的生存の保護をとくに要請するとともに、思想・信仰に対する寛容の精神を社会一般に要求していると解される。この意味では、個人の尊重は「人間の尊重」とほぼ同義である。しかし、個人の自律の尊重の要請は、復古的思潮がなお強く残り、あるいは会社などの集団志向の根強い現実の日本社会では、必ずしも実現しているとはいえない。個人の尊重を阻害する日本社会の意識を是正し、人権の現実の保障のために不断に努力することが求められる。

 さらに第三に、個人の尊重は、個人のあるがままの生活や人間存在そのものを保障しようとする。人間は常に人格的に生きるわけではなく、生きたいように自由に生きることがある。また、障害者や寝たきり老人のように人格的に生きることが困難な人々も存在する。日本国憲法はそのような人々もを含めて、人間の生活全体ないしは人間そのものを保護しようとしていると解すべきである。そして、同様に人権保障の及ぶ範囲についても、人間のあるがままの行動や存在をトータルに保障していると解するのが妥当である。」(戸波江二「憲法〔新版〕」121頁~122頁)


このように「個人の尊重」は、人権尊重主義の核心の原理であるとともに、多様な意味が含まれていることが分かります。自己の主張を押し通すのではなく、個人の主張・自律を他人も尊重することをも含んでいるのです。


(2) 

「憲法が生まれて半世紀以上がたった今、「個の尊重」は根付いたか。3年前の4月、それを試されたのがイラクで起きた日本人人質事件だった。……

 『今考えると、あなたたちのしたことは間違っていなかったと思う』。彼のもとには、今になって、見知らぬ人からの電子メールや手紙が舞い込んでいる。」

朝日新聞のこの記事では、この人質事件を取り上げていますが、「今考えると、あなたたちのしたことは間違っていなかった」というように、当時批判していた意見を翻す人々がかなりいることが分かります。

そうすると、当時批判していた意見を翻す人々の中には、当時においては日本人の「皆と同じ方向に歩いていく性癖」通り、自律的に考えて批判していなかったり、または、他人の自律的な考えを尊重してなかった者がいたということになります。要するに、個人の自律を尊重することができていなかったのです。


(3) 

「樋口氏は言う。「同じ条文の中に、『個人の尊重』と『公共の福祉』という言葉が出てくるのは、本来、個の主張を前提として公共が作り上げられるからだ。個を抑え込むことが、逆に公共を殺していく」

 個の支えがない公は、どこに向かうのか。」


個人の尊重を前提として公共による制限があるのにも関わらず、個人の自律の尊重の要請が日本社会では必ずしも実現していない中で、「公」を重視していくのです。これでは、「皆と同じ方向に歩いていく性癖」はますます強まってしまいかねません。

「個人の尊重」は人権尊重主義の核心の原理ですから、人権尊重主義を規定する憲法を有する国ではすべて認められていることになります。個人の尊重の意識がますます乏しくなりそうな日本国・日本人が、果たして諸外国と渡り合えることができるのでしょうか? 「戦後レジームからの脱却」などとして憲法改正をしたところで、人権尊重主義の核心の原理が尊重されないままでは、憲法改正は全くの無駄に過ぎないのです。

このように考えると、憲法60年施行を迎えまず必要なことは憲法改正ではなく、まず何よりも「個人の尊重」原理の要請を十分に認める日本社会・日本人であることこそが最も必要なことだと思うのです。




<追記>

「憲法施行から60年」ということで、各社が社説を出していましたが、その中から北海道新聞の社説を紹介しておきます。「憲法施行から60年*(上)は」憲法13条「個人の尊重」という憲法上、もっとも大切な条文に関しての社説ですし、「憲法施行から60年*(中)」は憲法改正論議の中心となっている憲法9条を巡る問題、「憲法施行から60年*(下)」は最近特に議論となっている憲法25条にかかわる問題を取り上げています。内容については色々と異論もあるでしょうが、社説のテーマとした日本国憲法の条文センスが秀逸だと思いますので、紹介しておきます。


1.北海道新聞平成19年5月1日付「社説」

憲法施行から60年*(上)*国家主義への回帰危ぶむ

 施行六十年の憲法の足元が大きく揺らいでいる。

 昨年九月の安倍晋三政権の発足以降、改憲への動きが、かつてなく強まっているからだ。

 首相は「自分の任期中に憲法改正を目指したい」「時代にそぐわない条文として典型的なものは九条だ。日本を守る観点や国際貢献を行う上で改正すべきだ」と明言した。

 戦後の民主主義を支えた教育基本法を変え、「わが国と郷土を愛する態度」や「公共の精神」などの徳目を「教育目標」に掲げた。

 防衛庁を省に昇格させ、自衛隊の海外活動を本来任務に格上げした。そして改憲手続きを定める国民投票法の参院選前の強引な成立を図る。

 米国など他国への攻撃にも日本が応戦する集団的自衛権の行使を、憲法解釈の変更で可能にする研究まで促した。

 従軍慰安婦問題への首相発言や、沖縄戦の集団自決をめぐる政府の教科書検定などで、先の大戦への反省を無にしかねない対応も続く。

 「占領下に素人が起草した憲法で、古くもなった。二十一世紀にふさわしいものにしなければ」との首相の物言いは、民主主義国家として再出発した戦後日本の否定でもある。

*戦争する国を目指すのか

 「憲法改正の中身を示さないとよく言われるが、新憲法草案で中身は立派に示している」

 首相は、自民党の「新憲法制定推進の集い」でこう強調し、党の草案を基本に、改憲を必ず政治スケジュールにのせると述べた。

 草案前文は、憲法にある国民の「平和のうちに生存する権利」を捨て去り、「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を書き込んだ。直接的ではないが「国防の責務」につながる表現だ。

 また戦力不保持、交戦権の否認を規定した九条二項を削除し「自衛軍」の保持をうたった。

 軍を公然と持ち、国際的に戦闘に参加できる国、米軍とともに戦争のできる国に国家体制、統治体制をつくろうとする。

 武器輸出、核保有論議を容認しようという動きも、軌を一にしていると言えるだろう。

 国家利益のために戦争に突き進んだ反省の上に、憲法は二度と戦争はしないとの不戦の誓いをした。

 草案は、その誓いを葬り去ることを意味する。侵略したアジア諸国への背信行為ともなる。

*人権より公益優先の発想

 草案のもう一つの眼目は、国家や社会の利益を優先し個人の人権に制約を課す方向への転換だ。

 憲法の基本理念は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義にあり、個人の尊厳を保障するために、国家権力に踏み外してはならない枠をはめている。

 多様な人間が、ともに暮らし、社会を構成する上で便宜を分かち合うため国家を認めるが、主権者の国民は憲法で国家の権力を限定する。

 これを立憲主義と言うが、草案はこの考え方と正反対の、国家主義的傾向が色濃い。国家が国民の権利を縛る力を強めようとする。

 国民の自由と権利には「責任及び義務が伴う」とし、「公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」として、国家的利益の優先を明示した。

 個人より全体に価値を置いた大日本帝国憲法型に近く、憲法観が、現行の憲法とは全く違うものを目指している。

 現憲法は改正の場合、「この憲法と一体を成すものとして」公布することを定めているが、憲法の基本理念を損ないかねない草案は、そもそも「この憲法と一体を成すもの」とはならないのではないか。

*国民が問い直すことこそ

 憲法をどうするか。それは国民に委ねられている。改正権は国民にある。いま進む改憲論に対し、どう意思を示すかだ。

 憲法は一人一人が人間として生きる自由を保障している。それが脅かされない限り、憲法は人々の意識に上りにくい水や空気のような存在かもしれない。

 しかし、国民が現在置かれている状況は違うのではないか。平和的生存権が脅かされ、人権制約の方向へと社会を作り替える力が強い。

 歴代政権が、改憲をこれほどまでに語らなかったのは、国民の支持が得られなかったからだ。いまは参院選の争点にもできると首相は考えている。

 共同通信社の最近の世論調査で改憲賛成は57・0%だった。抽象的に問えば、環境権などの新しい権利の追加などで賛成は当然多くなる。

 だが戦争放棄と戦力不保持を規定した九条については、改憲必要の26・0%に対し、反対が44・5%だ。

 平和主義が揺らぐことを、国民は恐れている。

 ただ、憲法が私たちの生活の中に真に血肉化されてきたと言えるだろうか。

 自民党の草案より、さらに国家主義的な主張も活発に出ている。

 すでに広がった閉塞(へいそく)感が社会への関心を失わせているにしても、主体的判断をしてこその主権者である。

 憲法が岐路に立つ今だからこそ、国民があらためて憲法に相対し、その意味を問い直すことが必要だ。」








2.北海道新聞平成19年5月2日付「社説」

憲法施行から60年*(中)*九条を変質させていいか(5月2日)

 「集団的自衛権の行使を含めて、よく議論していただきたい」

 安倍晋三首相の強い意向で、政府が集団的自衛権を検討する有識者会議を設置した。その狙いを首相はこう明言した。

 戦争放棄を定めた憲法九条の解釈は、政府の法律専門家組織である内閣法制局が担ってきた。

 法制局が積み上げた解釈は「ガラス細工だ」と評判が悪い。しかし「国際法上権利はあるが、憲法が禁じているから行使できない」という集団的自衛権に関する解釈は、安全保障政策の歯止めになってきた。

 有識者会議設置の目的は、そこで集団的自衛権の行使は可能だという論拠をつくり、首相主導で解釈を変更することにある。

 参院で審議中の国民投票法案が成立すれば、改憲の中身の議論が始まる。焦点は九条だが、投票法の施行は公布から三年後になる。

 まず解釈変更という九条の実質改憲を実現し、次に明文改憲へと進むのが首相の描く道筋だろう。

 改憲を掲げる首相のもとで憲法施行六十年を迎えた。平和を支えてきた九条の変質を許すかどうか、国民が問われている。

*実力行使の制約が消える

 九条は一項で「戦争の放棄」、二項で「戦力の不保持」を明記している。その解釈が問題になるのは、冷戦下で生まれた自衛隊の存在と集団的自衛権の行使についてである。

 自衛隊をめぐる法制局の解釈を要約すると次のようになる。自国を守る権利(個別的自衛権)は独立国として当然ある。憲法が禁じるのは必要最小限度を超えた戦力であり、自衛隊は違憲ではない-。

 これには「解釈改憲だ」と護憲、改憲両派から批判があり、改憲論議の焦点の一つに違いない。が、発足五十年余を経た自衛隊の存在は徐々に受け入れられてきた現実がある。

 一方、集団的自衛権の問題は、自衛隊の行動を制限する封印を解くかどうかである。

 集団的自衛権とは自国が直接攻撃されていなくても、自国と密接な関係がある国に対する攻撃を実力で阻止する権利を言う。

 それは行使できないとする法制局の解釈を変えれば、「自国を守る最小限の戦力」というこれまで維持してきた制約は消え去る。

*解釈変更は自由ではない

 日本は憲法を頂点とする法治国家である。内閣法制局は法律が矛盾なく整備されるよう目配りする役割を担っている。憲法との整合性にも注意を払う。「憲法の番人」と言われるのはこのためだ。

 歴代の内閣法制局長官は、憲法解釈は立法の意図と国会における議論の積み重ねを経て定着したものと説明してきた。解釈は憲法のぎりぎりの一線を示すものであり、時の政府が自由に変更できるものではないという意味である。

 歴代政府は法制局のこうした考えを基本にして答弁してきた。政権が変わるたびに解釈が変わるようなら法律は一貫性を失う。そうなればもはや法治国家とは呼べない。

 しかし、政界の一部には、憲法解釈を法制局が握ることへの反発がくすぶっている。首相も以前から「権利はあっても行使できない」とする法制局解釈に不満を述べている。

 集団的自衛権を検討する有識者会議には首相の考えに近いメンバーをそろえた。会議設置によって、法制局から政府が解釈を奪うという「禁じ手」に踏み込もうとしている。

*狙いは日米間の協力強化

 首相が、そうまでして集団的自衛権の足かせをはずそうとする背景には、日米防衛協力を強化すべきだという米国の要求がある。

 今年二月、アジアの安全保障に関心をもつ米国務省元高官らがまとめた「アーミテージ報告」の第二弾が発表された。二○○○年の第一弾に続き、集団的自衛権の行使を可能にするよう日本に迫っている。

 米国は在日米軍を世界戦略の要にするための再編を急いでいる。その重要な柱が、自衛隊とともに戦う協力関係を築くことである。

 首相はじめ日本側にも「守られているだけでは真の同盟とはいえない」と考える政治家が増えている。

 日米が呼応して集団的自衛権の制約をなくそうと走りだしている。

 政府が解釈変更に踏み切ったら、何が起きるだろうか。

 政府はイラク戦争を始めた米国を支持し、○四年に陸上自衛隊をイラクに派遣した。集団的自衛権の制約のため、比較的平穏な地域を選んで非戦闘地域だとして送り出した。

 幸い武力を使うことなく派遣を終えたが、全土で激しい戦闘が行われる中、薄氷を踏む状況だった。

 集団的自衛権の歯止めを外して同様の派遣を行えば、米軍と共同して戦う事態は現実のものになる。有識者会議の検討課題は、公海上の米艦船を含め共に行動する米軍が攻撃された場合の自衛隊の応戦である。

 安倍政権は防衛庁を防衛省に昇格させ、自衛隊の国際貢献を本来任務に格上げした。いずれも自衛力は抑制的であるべきだという考えから実現を見送ってきたものだ。

 首相はさらに集団的自衛権の行使へと進もうとしている。日本が維持してきた平和国家が崩れる。そんな危惧(きぐ)を抱かざるを得ない。」




3.北海道新聞平成19年5月3日付「社説」

憲法施行から60年*(下)*貧困を許さぬ生存権こそ(5月3日)
 給料が下がった。時間外の割増賃金がもらえない。解雇された…。

 もろもろの労働相談が昨年、道内で三万件を超えた。北海道労働局によるとわずか七年で三倍増だ。

 求人情報誌をめくってみる。札幌のコンビニの募集欄には「時給六百四十四円」が並ぶ。道内の最低賃金そのものだ。家族構成などにもよるが、生活保護より収入が少ない人も多いだろう。

 「働く貧困層」(ワーキングプア)が、全国で六百万人以上いるとする研究者もいる。

 なによりも生活保護を受ける人が増えた。全国で百万世帯を超えている。十年間で七割増の勢いだ。

 いつの間にか、貧困という言葉が広く切実感を持つ社会になった。

 憲法が保障する「生存権」は守られているのだろうか。

*問われる「最低限の生活」

 憲法は言論や表現の自由、職業選択や居住の自由などを保障する。だが「自由権」だけで人間らしい生活ができるわけではない。

 そこで二五条で生存権を定めた。第一項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたう。

 この実現のため第二項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と国の義務を定めている。

 二五条の第一項は、連合国軍総司令部(GHQ)案に基づく政府草案にはなかった。憲法制定の国会で社会党議員らの提案で盛り込まれた。欧州に広がっていた「福祉国家」の考えに根ざしたものだ

 問題は「最低限度の生活」の中身である。これを正面から問うたのが一九五七年に結核患者の朝日茂さんが起こした「朝日訴訟」だった。

 「肌着は二年に一着」などを基準とした生活扶助費が月額六百円では少なすぎる、という訴えだった。

 地裁は訴えを認めたが控訴審で朝日さんは敗訴。上告後に朝日さんが死去したため上告は棄却された。

 棄却に際して最高裁は、保護基準について「行政の裁量に委ねる」という判断を示し、同時に著しく低い保護基準や、行政の裁量権乱用は違法となりうると指摘した。

 朝日さんは訴訟に敗れたが、生存権という考えは裁判を通じて広く理解された。政府も一審判決後、保護額の大幅引き上げを行った。

 最低限度の生活がどのようなものかは、時代や社会状況によって違う。しかしある程度、客観的な保護基準を設けることはできるだろう。

 貧困問題が深刻ないまこそ、現状を検証する必要がある。

*総額抑制に悲鳴が上がる

 生活保護費は、政府の総額抑制路線の下で、世帯当たりの支給額が段階的に減らされている。

 七十歳以上の老齢加算は二○○六年度に撤廃された。受給者の半分近くが対象だ。高齢者からは悲鳴と不満の声が上がり、各地で老齢加算の復活を求める訴訟が起きている。

 国は本年度から母子加算の段階的廃止にも踏み込んだ。女性の賃金は男性に比べ低く、子育てと仕事の両立は簡単でない。先進国では母子家庭への支援が福祉政策の主流なのに日本は逆の方向に向かっている。

 生活保護の支給額削減が、貧困拡大や国民生活の水準引き下げにつながってはいけない。

 最低賃金も見直しが不可欠だ。

 日本の最賃は先進国の中でも低水準だ。各地の労働組合が最賃での生活を実験し「生活できない」という事例報告を出している。

 最低賃金を月収に換算した額が、生活保護費を下回る地域が全国で十都道府県に及んでいる。

 最賃法は抜本改正が急務だ。「生活保護を下回らない水準」と、きちんと法律に書き込んでほしい。

*「福祉」の旗を立て直そう

 行きすぎた平等社会に決別する-政府の経済戦略会議がこう打ち出したのは八年前だった。規制緩和や競争がいっそう進み、働く形は様変わりした。パートや派遣など非正規労働者は四百五十万人も増え、正規労働者は三百万人近く減っている。

 憲法は二五条で社会福祉・保障の対象を「すべての生活部面」と定めている。しかし自民党の憲法草案は「国民生活のあらゆる側面」と言い換えた。

 「側面」は、国の責務が主役から脇役に回り、国民に自助努力をうながすことを意味するだろう。

 経済協力開発機構(OECD)は先進各国の「貧困率」を定期的に調べている。国ごとに、国民の平均的所得の半分以下の所得者の比率を貧困率として計測する。

 驚くことに、日本の貧困率はこの十年でほぼ二倍に急上昇した。しかも先進国では、米国、アイルランドに次いで三位の高率だ。

 雇用と労働環境の急激な変化に社会が揉(も)まれている。

 それは戦後の日本が、欧州のような福祉国家の足腰をしっかり築かないまま、米国流の自由と競争の社会にかじを切ったからでもある。

 「働く貧困層」を含め多くの人が自立できず、家族などによる細く不安定な扶助に頼るのが現状だ。

 こうした社会だからこそ、国民一人一人に保障された生存権が重い意味を持つ。国の責務が問われる。」








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^(風 神 雷 神 ? 動 画)きっと、あの娘さんは、「風神雷神?」に乗れることを楽しみにされていたと思う。今日、告別式だといいます。謹んでご冥福をお祈り致します。   =合掌=風神雷神 尾形光琳・筆 ●PJニュース 2007年05....
2007/05/09(水) 00:27:48 | 晴天とら日和
すでに、GHQ草案に遡って憲法96条の解釈を検討しましたが、さらにGHQ原案以前の資料や帝国議会などでの審議経過も振り返りながら、改めて96条を解釈してみたいと思います。 [参照] 国民投票法案・国会法改正案の重大論点:GHQ草案から解釈する憲法96条――「3分の2以上
2007/05/09(水) 10:50:06 | 平和への結集第2ブログ
  (*゜▽゜)ノ☆+☆【祝・日本国憲法・施行60周年】☆+☆ヾ(゜▽゜*)  今日、5月3日は、日本国憲法が施行されて60周年の記念日である。 こうして、日本国憲法が60年間、守られ続けて来たのは、一重に戦後の日本の国民たちが、日本の平和や民主主義、そして国民
2007/05/10(木) 06:08:18 | 日本がアブナイ!
こちら↓の記事への補足です。 日本国憲法誕生過程に遡って解釈する憲法96条(憲法改正条項) http://unitingforpeace.seesaa.net/article/41239098.html 当時の審議経過から抜粋します。 枢密院委員会記録 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/111_1shoshi.htm
2007/05/10(木) 15:32:52 | 平和への結集第2ブログ
新年から彼の書評をすることになるとは。しかも、国際情勢を語っている本でなく、彼のもう一つの得意(オタク的?)分野、軍事のことについての本。軍事的なリアリティや、一般的な”法”と戦時の”特別法”との不整合
2007/05/15(火) 23:33:43 | ほしあかりをさがせ
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