3.「下級審判決において原告を敗訴としておきながら、参拝を違憲だとして原告の主張を容認する判断を示すと、被告側である国(行政)は傍論の内容に不満があっても控訴・上告は認められないから、『裁判を受ける権利』の侵害となる(百地章「首相の靖国神社参拝と憲法判断」法律のひろば57巻7号(2004年)73頁)という批判があります。
これと同趣旨のものとして、「『ねじれ判決』の形を取った傍論は、被告側の上訴権を奪う」もので違憲・違法である(百地、高橋)という批判があります。
では、この批判は妥当でしょうか?
(1) 裁判を受ける権利(憲法32条)は、人権保障を確保し、「法の支配」を実現する意義を有する人権です。この人権に関する第3章の表題が「国民の権利及び義務」とされているように、人権は「国家権力」に対する権利ですから、人権保障は、国に対しては及ばないのです。また、憲法の基本的特質として、個人の自由を保障し、国家権力を制限する法であること(戸波「憲法」5頁)からしても、国家は人権を有しないわけです。
そうすると、人権である「裁判を受ける権利」は国には保障されていないのですから、憲法の基本的特質からすれば、「被告側である国(行政)の『裁判を受ける権利』の侵害となる」ことはありえないのであって、批判は妥当ではないのです。
渡辺康行教授は「ジュリスト1287号」64頁において、
と手厳しく反論なされています。「『裁判を受ける権利』が侵害されるということは、行政主体にそのような憲法上の権利が保障されているという一般的ではない前提をとらない限りは、そもそも考えられない。」
要するに、この批判は、憲法の基本的特質に反する理解に基づいた批判であるから、批判者は憲法の基本的理解を欠いているのではないか、というわけです。
(2) また、最高裁・通説は、従来から一貫して、上訴に関する制度設計(=いかなる理由で上告できるか)は、立法裁量に委ねられ、憲法上の要請ではないとしています(最高裁昭和23年3月10日判決、最高裁平成13年2月13日判決、山元一「平成13年度重要判例解説」21頁、三宅=塩崎他編「新民事訴訟法大系」第4巻60頁)。
そうすると、被告側である行政が上告できないのは、上訴の利益が欠けるという立法政策に基づくのですから、上告が制限されても違憲・違法の問題となりません。結局、「傍論は被告側の上訴権を奪う」という批判は妥当でないと考えます。
4.「判決に不満があっても上告できないのに、『傍論』の中で違憲判断を行うのは、最高裁を終審裁判所とした憲法に違反する」という批判もあります(産経新聞・9月30日付参照)。
これと同趣旨のものとして、「下級審の場合は、その憲法判断が最終となってしまう形で行うことは許されない」(高橋和之「憲法判断の方法」(1995年)65頁)という批判があります。
では、この批判は妥当でしょうか?
(1) 憲法81条にいう「終審裁判所」とは、元々は、その裁判所の裁判に対しては、上訴が許されないという意味にとどまる(宮澤=芦部補訂「全訂日本国憲法」(1978年)675頁)から、常に最高裁への上告を認める趣旨ではないといえます。
仮に憲法81条の趣旨を徹底して、合憲性の争いについては、その点の最終的決定権は最高裁に留保される、すなわち、最高裁への上訴を許さなければならないとしても、訴訟手続上の限界(=立法裁量)があるから、常に最高裁へ上訴されるわけではないと考えます。これは、上告審の負担軽減を図るという平成10年の民訴法改正の趣旨に沿うものだといえます。
このような理由から、「『傍論』の中で違憲判断を行うのは、最高裁を終審裁判所とした憲法に違反する」という批判は妥当でないと考えます。
(2) また、上に挙げた高橋教授のご見解に対して、高橋=大石編「憲法の争点」257頁で、野坂教授は「疑問である」として、
「傍論での憲法判断は事実上の影響力をもつにとどまり、何ら法的な拘束力をもたないと解されるからである。」
と理由を述べています。
要するに、憲法学の立場からすれば、傍論での憲法判断は事実上の影響力しかない(=法的拘束力がない)ので、上告が認められなくても、下級審の憲法判断が最終となったわけではないので、批判は妥当でないというわけです。
5.1~4にわたって批判に対して反論を行いましたので、「憲法上、傍論での憲法判断は許される」ということが明らかになったと思います。
補足として、行政側は上告する方法はなかったのか? 最高裁で憲法判断なされる余地はないのか? という点について検討してみたいと思います。
(1) 憲法学上、次のような点が指摘されています(野坂「法学教室」137号95頁参照)。
「『実質は…憲法20条に違反するか否かを争点とする憲法訴訟』であり、…言ってみれば、当事者にとっては、請求の当否についての判断もさることながら、その前提となる憲法上の争点に関する判断こそが重大な関心事であった…。…憲法訴訟においては、結論で勝てばよいというものではなく、いかなる理由で勝つかが決定的に重要であり、既判力の生じる判決主文の判断と理由中の判断とを画然と区別して、後者を前者に至る手段的なものとしてのみ位置づけることは必ずしも適切でない…。そこで、かような観点から傍論であっても判決理由中の違憲判断には一定の拘束力を生じうるというのであれば、請求棄却判決に対しても理由中の違憲判断にのみ不服がある被告に特別に上訴の利益を認める余地がないではないと思われる。」
このように、憲法学の立場から、判決理由中の違憲判断については特別に上訴の利益を認めるという理論構成もありうるとの提言があるのです。
(2) また、上訴の利益が認められないとして却下されるとしても、その決定に伴って、何らかの形で「下級審判決の違憲判断を実質的に批判する独自の見解」を付加する可能性も指摘されていました。すなわち、
「最高裁がその却下判決の中で、傍論として(たとえば「ちなみに」と前置きした上で)、本判決の憲法解釈ないし違憲審査権の行使の仕方について、最高裁としての意見を展開すること自体は、法令上排除されているわけではないから、…原判決の違憲判断を実質上批判する判示を付加する可能性もあろう。」(初宿正典「ジュリスト」979号(1991年)43頁)
という指摘です。
要するに、上告が却下されるとしても、最高裁において(傍論として)憲法判断がなされる可能性があるから、上告をしてみる意義があるというわけです。
(3) もっとも、岩手靖国訴訟において、最高裁は上告を却下し、控訴審判決の違憲判断を実質上批判する方向での判断を付加しなかったので(野坂「法学教室」137号97頁参照)、この2つの指摘は認められなかったのです。ですので、この2つの指摘は1度は最高裁で受け入れられなかったわけです。
しかし、最高裁は特に否定した判断は示しませんし、また、現在のように公式参拝訴訟が頻発している状態では、最高裁での憲法判断をする必要性は高いのですから、この2つの指摘は認める余地は十分にあると考えます。
(日経新聞において渋谷教授は、大阪高裁判決の確定で拘束力を肯定するコメントをしていますから、尚更、認める余地があるといえるでしょう)
そうすると、行政側は上告する方法は皆無ではなかったのであり、最高裁で憲法判断なされる余地はあるといえるのです。(もっとも、東京高裁で敗訴した原告が上告していますから、もはやこの「2つの指摘」を論じる意味は乏しいのですが)
6.長々と論じてきましたが、「傍論での憲法判断」については認められるとするのが妥当であり、これが憲法学上の多数説です。むしろ、傍論での憲法判断は、事実上の効果しかないとしても「一種の違憲の宣言判決」であるとか「勧告的意見」であると位置づけ、好意的に評価する見解も有力です(奥平康弘「憲法裁判の可能性」4頁、斉藤小百合「法学セミナー」597号31頁、木下智史「法学セミナー」597号33頁)。
批判する見解で気になったのは、上でも論じましたが、「上告が認められない場合には、下級審は憲法判断をすべきではない」という点です。これは、3・4で論じた批判をまとめたものといえます。
これは、「上訴の利益がないという訴訟法(法律)上の限界を理由に、下級審の憲法判断に制限を加えるもの」と言い換えることができるでしょう。しかし、下位の法規範で、下位の法規範を制限すべき憲法に制限を設けるものですから、およそ国法の解釈として妥当性を欠いていると感じるのです。
憲法解釈が統一されることが望ましいのは当然であり、これ自体は異論のないことなのです。しかし、だからといって、下級審での「傍論での憲法判断」を否定することは、憲法秩序の維持を図るべきという憲法保障の観点からして妥当なのでしょうか? また、裁判官が明らかに違憲と判断した場合でも、憲法判断することを否定することは、裁判官の憲法尊重擁護義務(憲法76条3項・99条)と矛盾しないのでしょうか?
「傍論での憲法判断」を否定することは、色々と問題が多いと思われます。
<平成18年1月19日追記>
野坂「法学教室」137号95頁参照部分の引用を増やしました。
マスコミが「違憲判決」と報道し「だから靖国参拝はイカン」と権威付けしてし
まう現象には問題がありますよね?
>>傍論での憲法判断は事実上の影響力をもつにとどまり、何ら法的な拘束力をもたないと解されるからである
はずなのに、世間的には、そのような了解は得られていません。
#「裁判所が法的な拘束力をもたない判決をいう」などと、一般人にはなかなか
解しにくいことは明らかでしょう?
(上)の最新のコメントで、
>>これに対して政治思想論的な答えの要求は、他のブログでお願いするだけです。ここではあくまで法律論として答えるので。
とおっしゃっていますので、その旨の要求をするのにいささか気が引けますが、
冒頭に書いた「現象」に責任をもつならば、「あくまでも法律論」であることを
しつこいぐらいに表明することをお願いします。
URL | 高田明 #-[ 編集 ]
>ブログ主様のエントリとは直接関係しないかもしれませんが、この判断をもって、
>マスコミが「違憲判決」と報道し「だから靖国参拝はイカン」と権威付けしてし
>まう現象には問題がありますよね?
靖国問題についてきちんと理解しないまま、マスコミ報道を聞いて鵜呑みにしてしまうことは問題があります。高田明さんが書かれたとおりです。
もっとも、ここのブログで何度か触れていますが、首相による靖国(公式)参拝は違憲と考えますので、「靖国参拝はイカン」という結論自体の理解は妥当だと思います。政治思想論の見地からはともかく、憲法論としては「小泉首相の靖国参拝」を合憲とするのは難しいと思うのですが、どうでしょうか?
>>傍論での憲法判断は事実上の影響力をもつにとどまり、何ら法的な拘束力を
>もたないと解されるからであるはずなのに、世間的には、そのような了解は得られていません。
新聞には、傍論での憲法判断には法的拘束力がないなんて、ちらっとしか書いていませんから、「世間的には、そのような了解は得られていません。」ね。高田明さんが書かれたとおりです。
ただ、法的拘束力をもたないとしても、事実上の影響力があるのです。すなわち、行政や国会、そして小泉首相も行政機関のトップとして、その憲法判断を尊重しなければならないのです。
そうすると、実際上は、法的な拘束力と事実上の影響力とはどれほどの差異があるのかな~と思ってしまうのですけど。特に、いわゆる憲法判例については。
>冒頭に書いた「現象」に責任をもつならば、「あくまでも法律論」であることを
>しつこいぐらいに表明することをお願いします。
一般論としてですが、マスコミ報道には誤解を招くような記事があることが確かです。そのような点を指摘することも、このブログを始めた理由ですから(「法律系ブログを始めたわけ」というエントリーをご参照下さい。)、「法律論」について「しつこいぐらいに表明」することを心掛けたいと思います。
感謝いたします。
その上で、若干の余談ですが・・・
>> 憲法論としては「小泉首相の靖国参拝」を合憲とするのは難しいと思うのですが、どうで
しょうか?
残念ながら、これに答えることができるだけの知識を持ち合わせていませんので、回答で
きません。
が、疑問はあります。
・小泉首相の靖国参拝といっても数度あるが、すべて違憲か?
・また、小泉首相以外の過去の首相靖国参拝もすべて違憲か?
・将来の首相が靖国参拝するとき、どのような形式によっても違憲か?
先に書いたとおり、
>>マスコミが「違憲判決」と報道し「だから靖国参拝はイカン」と権威付けしてしまう現象
とは、「参拝違憲傍論」をもって、上記3点すべてを違憲とする文脈にのせてしまうことで、こ
れはマズイ、と思うわけです。
#靖国違憲傍論の論理は、靖国に限らず、すべての施設参拝に適用すべきもの(参拝方
法の是非)であるのに対し、靖国反対論者の手にかかると、靖国に限った論理(参拝対象
の是非)に変貌している(ミスリードが行われている)と思っていますので。
URL | 高田明 #-[ 編集 ]
>・小泉首相の靖国参拝といっても数度あるが、すべて違憲か?
>・また、小泉首相以外の過去の首相靖国参拝もすべて違憲か?
>・将来の首相が靖国参拝するとき、どのような形式によっても違憲か?
こういう疑問はあるでしょうね。このような疑問に答えるようなことを書く予定です。
そのときにお答えします。お待ち下さい。
本当は1月16日に書く予定でしたが、「ライブドア・ショック」で延び延びになりました(汗)。16・17日の事件は絶対触れておきたかったですし。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

