この判決手法に対して、多くの批判がなされています。そこで、その批判は妥当なのか? について検討してみたいと思います。
1.1つ目は、「この判決は結局は請求を棄却したのに、違憲判断を示すことは『憲法判断回避の準則』に違反しており、許されない」という批判です。
これと同趣旨のものとして、「余計な判断を付け加えることは裁判判決としてあるまじきことで、裁判官の政治的な発言に等しい」(渡辺洋三「法律時報39巻8号」(1967年)32頁)とか、「主文に影響しない憲法問題を理由欄に書くのは『蛇足』であり、越権の違法がある」(井上薫判事)という批判があります。
これらの批判は、要するに最高裁・下級審問わず傍論を付け加えることは許されないというものですが、この批判は妥当でしょうか?
この批判に対しては、次の3つの反論があります。
(1) まず、憲法判断回避の準則を原則的に肯定しつつ、憲法判断を行うかどうかは裁判官の裁量に委ねられるという「緩やかな肯定説(憲法判断裁量説)が通説であり、小泉首相による靖国参拝は、憲法判断回避の準則を適用すべきでない典型的なケースにあたるから、批判は妥当でないといえます。
これは、以前「大阪高裁は違憲判断をしてはいけなかったのか?」というエントリーで書きましたので、詳しくはそれをご参照下さい。
(2) また、芦部信喜「憲法訴訟の理論」(昭和48年)413頁では、朝日訴訟事件大法廷判決(昭和42年5月24日)が「なお念のために」付加した憲法判断の当否について、
「『少なくとも最高裁が、その事件の内容の重要性なり、法解釈ないし判例の統一の必要性に応えて、憲法判断を念のため付加すること自体は、まさに最高裁の政策的考慮にもとづく憲法判決の1つの方法として、場合によってはむしろ積極的に是認すべきではないか』と考える。最高裁にこの種の傍論を付加することを許さないような憲法訴訟の法理は存在しないし、傍論に展開された憲法判断が一定の政治的な意味ないし影響力をもつからといって、そのこと自体を非難するのは違憲審査権そのものを否認する(つまり、憲法判決はすべて多かれ少なかれ裁判官の政治的発言であるという事実を認めない)にひとしいからである。」
と述べています。
このように、傍論を付加する判決の形式を「裁判判決にあるまじきことで、裁判官の政治的な発言に等しい」という批判は妥当でないといえます。
(3) さらに、渡辺康行「『国家の宗教的中立性』の領分」ジュリスト1287号65頁~によると、
「裁判所が国家賠償訴訟おいて、訴えを棄却しながら違法性を認める判断をすることも、少なくない。例えば、最高裁は監獄法施行規則旧120・124条にかかる事件において、規則が委任の範囲を超えて無効であるとの判断によって、幼年者との接見を許さない拘置所長の処分を国賠法上違法としながらも、過失はないとして請求を棄却したことはよく知られている。…
裁判所が上記の最高裁判決のような仕方で国賠法による『制裁機能・違法行為抑止機能・違法状態排除機能』を果たそうとすることは、行政法学においても積極的に評価されている。
また、非嫡出子の住民票続柄記載にかかる事件の東京高裁判決…に関しても、『被告行政主体の側は上訴ができなくなり、原告が上訴しない限り上級審の判断が得られなくなる』という状態が生じた。しかし、『国家賠償の行政権統制機能をそもそも果たし得ないことに比べれば、より小さい問題』と評されていた。
このような国賠法に関する裁判例や行政学の議論状況からしても、福岡地裁の判断は特異なものということではない。」
としています。
要するに、傍論での憲法判断は、行政学上、違法行為抑止機能・行政権統制機能を果たすものとして積極的に評価されており、特異な裁判例とは評価されていないということです。
(4) このように「最高裁・下級審問わず傍論を付け加えることは許されない」という批判は妥当ではないと考えます。
2.2つ目の批判に移る前に、民事訴訟法の問題である上訴について、確認しておくことにします。
(1) 松本博之=上野泰男「民事訴訟法」(第4版)(平成17年)691頁を引用すると、
「控訴審判決が確定すると、自己に不利な判決効が生じることになる当事者に上告の利益が認められる(ただし、判決理由中の判断には既判力が生じないから、控訴審判決の理由にだけ不服があっても、上告の利益は認められない。最判昭和31.4.3…)。しかし、原判決に対し上告の利益があっても、それだけでは上告権は基礎づけられない。上告審は法律審として、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反だけを上告理由とし(325条1項・2項)、その主張がない上告は不適法として却下されるからである(315条・316条参照)。しかも、現行民事訴訟法は、最高裁判所の負担軽減のため最高裁判所への上告を制限し、最高裁判所への上告権は、上告理由のうち、憲法違反または絶対的上告理由を主張するときに限り認められる(312条1項・2項。…)。」
としています。
ここで確認しておくことは、上告が認められるには、憲法違反の主張だけでは上告できず、上告の利益が必要であるということです。そして、上訴の濫発を防ぎ、上訴審の処理の迅速を維持するため、判決理由中の判断の不服を理由とする上訴は認められないということです。
少し重複しますが、憲法学者である野坂泰司「岩手靖国訴訟最高裁決定」法学教室137号(1992年)95頁~では、
「1991年(平成3年)3月21日仙台高裁…は…「上告人らに上告の利益を肯認すべき理由は全く見当たらないから、本件上告は、その利益を欠くものとして明らかに不適法であり、かつ、その欠缺は、補正することのできないものである」として、上告を却下した。
一般に上訴が適法として認められるためには上訴の利益、即ち原判決に対する不服の利益の存在が必要とされる。而して、右不服概念については、いわゆる形式的不服説に立って、裁判の既判力が生じる判決主文に対する不服についてのみ上訴の利益を認め、既判力が生じない判決理由中の判断に対する不服については上訴の利益を認めないのが判例・通説である。以上の考え方を前提とする限り、原判決の理由中の憲法判断に対する不服のみを根拠に上訴を認めることは困難であると思われる。その意味では、仙台高裁による上告却下決定は、裁判所としてごく通常の判断をしたものということになろう。これに対して被告側は特別抗告を申し立てたが、最高裁はこれを不適法として却下した。」
としています。
(2) この2つの引用からすると、民事訴訟法学及び憲法学上の通説・判例は、判決理由の不服は憲法判断であるか否かを問わず、傍論か否かを問わず、判決理由中の不服については、上告の利益が認められないということです。
言い換えると、「傍論だから上告の利益がない」のではなく、「判決理由中の判断についての不服だから上告の利益がない」のです。
なお、上告の利益についての民事訴訟法自体の議論は、もう少し細かくなるのですが、その点はここでの本題に影響しないので、省略しています。
URL | 名無しの権兵衛 #-[ 編集 ]
これも確定した違憲判決であって国会や行政は、この違憲判決を尊重しなければならないのか、それともこれは違憲判決ではなく判決理由中の裁判官の意見のようなものにすぎないととらえるべきか、どちらと考えるべきなのでしょうかね。
URL | 渡辺 龍二 #-[ 編集 ]
>地裁や高裁の裁判官が、実質的に上訴や上告を封じて傍論で「ところで、あの法律は違憲だ」などと判決して確定した場合。
傍論と呼ばれる判例は、朝日訴訟など古い最高裁判例を除いて、私の知る限り、国家賠償法の違法性判断の中において違憲と判断するものばかりですから、「ところで、あの法律は違憲だ」という判決はありません。言い換えると、問題となっている賠償請求の成立要件において、その要件の検討として憲法判断をしているのであって、訴訟と無関係に「違憲だ」とする判決は皆無といっていいでしょう。
訴訟である以上、問題となっている訴訟と無関係に憲法判断をした判決文を出すこと自体、考えにくいのです。
渡辺龍二さんは、「傍論で憲法判断した下級新判例」について大きな誤解をしているのではありませんか?
>これも確定した違憲判決であって国会や行政は、この違憲判決を尊重しなければならないのか、それともこれは違憲判決ではなく判決理由中の裁判官の意見のようなものにすぎないととらえるべきか、どちらと考えるべきなのでしょうか
権力分立制の下においては、国会や行政は、傍論か否かを問わず、裁判所の判断を尊重しなければなりません。裁判所は法律の専門家であるわけですから。
なお、傍論での憲法判断であっても「違憲判決」ですから(憲法学上の慣用的用法です。詳しくは「違憲判決」という見出しは間違いか?」というエントリーをご覧下さい。)、傍論での憲法判断も、裁判官が個人的な意見を述べたものではありません。
それとも、傍論では「ところで、この行為は違憲である」というように行為(行政の行為や処分なども含む)だけを違憲と言えるのであって、法律を違憲というのは禁止すべきなのでしょうか。
その対象が行為でも法律でもどちらでも同じですが、上訴・上告を封じた違憲判決が、もし単なる意見でなく国会も行政もそれを尊重しなければならない違憲判決だとするなら、それは裁判官の専制政治になります。
ポイントは、最高裁が違憲判決の最終裁判所であり、最高裁の判事は内閣が任命し国民審査もあるということなのです。正しい判断?(靖国参拝に反対)ならなんでも許されるというものではないのです。
URL | 渡辺 龍二 #-[ 編集 ]
立法政策上、上訴の利益が欠けるから上訴できないのであって、裁判官が勝手に「上訴や上告を封じた」わけではないのです。裁判所が上訴を認めないのは、裁判所としてごく通常の判断です。
また、繰り返しになりますが、「傍論で『ところで、この法律は違憲だ、この行為は違憲だ』という判決」は皆無です。
>ポイントは、最高裁が違憲判決の最終裁判所であり
「最高裁が違憲判決の最終裁判所であり~」という「理由」については、詳しくは「傍論での憲法判断の是非(下)」というエントリーで検討していますので、そちらをご覧下さい。
少しだけ繰り返してみますと。
裁判所はあくまで訴訟を前提として憲法判断をする以上、訴訟手続上の制限があるのですから、当然に、「最高裁が違憲判決の最終裁判所」にならない場合が生じます。ですから、一般的には「この理由」にはあまり説得力がないと理解されていると思われます。
また、平成10年の民訴法改正による上告制限で、一層上告できなくなったので、「最高裁が違憲判決の最終裁判所」にならない場合がもっと増えました。簡単に言えば、民訴法の改正により、「この理由」は一層使えなくなったということです。
このようなことから、現在においては、あえて「この理由」を強調する憲法学者は殆どいないですね。訴訟法について理解があればあるほど、「この理由」を主張し難いはずですから。
ですから、下級審裁判所でも「傍論での憲法判断」ができるとするのが、憲法学上の多数説であるわけです。
もっとも、「傍論での憲法判断の是非」は、憲法上の議論は低調です。憲法学上は、決着のついた議論だからでしょうね。
それなのにどういうわけか、ネット上では、議論がなされ、「最高裁が違憲判決の最終裁判所であり~」という「理由」を強調する方を見かけますが、なぜでしょう? 法律をきちんと学んでいると思われる方で、「この理由」を強調している方をご存知でしたら、教えて下さい。
地裁の裁判官が、もし、傍論で法律を違憲と言って確定したらそれはどうなるのでしょうか。それとも、傍論で違憲といえるのは行為(行政の行為や処分なども含む)だけなのでしょうか。
私の言ったことは、こういうことなんです。この問いから本質を考えてほしかったわけです。傍論で憲法判断をしたって道徳判断をしたってそれはいいのですよ。そういう問題と混同してはいけません。それでは、ご活躍をお祈りいたします。
URL | 渡辺 龍二 #-[ 編集 ]
傍論での憲法判断(違憲判断を含みます)は、通常は、事実上の影響力をもつにとどまり、何ら法的な拘束力をもたないと理解されています(高橋=大石編「憲法の争点」〔野坂〕257頁)。ただし、事実上の影響力しかないとしても「一種の違憲の宣言判決」であるとか「勧告的意見」であって「傍論での憲法判断の是非(下)」というエントリー参照)、行政や国会はその判決を尊重すべきであるということになります。
もっとも、「違憲判断が確定すれば、首相の行動を拘束する効果を持つと考えるべきだ」とする考え(渋谷秀樹・立教大大学院教授(憲法))もありますが(「「靖国参拝・靖国参拝違憲判決」に対する憲法学者のコメント」というエントリーの1.を参照)。
>それとも、傍論で違憲といえるのは行為(行政の行為や処分なども含む)だけなのでしょうか
傍論であっても違憲審査を行っているのであって、そして、憲法81条は違憲審査の対象を「一切の法律、命令、規則又は処分」と明示しています。そうすると、「傍論で違憲といえるのは、行為(行政の行為や処分なども含む)」だけでなく、法律・命令・規則も含みます。
>この問いから本質を考えてほしかったわけです
おそらく、渡辺龍二さんは、以前コメントなされたように「上訴・上告を封じた違憲判決が、…国会も行政もそれを尊重しなければならない違憲判決だとするなら、それは裁判官の専制政治になります」という点に答えて欲しいということですね。
どうも下級審で傍論で違憲判決をした場合も、国側は上告できないと理解されているようですが、国側は「上告をしてみる意義」があったのです。靖国参拝大阪高裁判決において勝訴した国側が上告した場合、憲法学上は2つの学説があり、国側としては憲法判断を得られる可能性があったのですから(「「世に倦む日日」~靖国・共産主義関係を読んで」・「傍論での憲法判断の是非(下)」というエントリーの5.を参照)。
また、「上訴の利益がないから」上訴できないとされていますが、これは立法政策なのですから、民事訴訟法を改正して「傍論で憲法判断がなされた場合には上訴の利益が認められる」という規定を設ければよいのです。これなら国側も文句はないはずですし、裁判所が憲法判断する機会が増えることは良いことだともいえます。
このように下級審で傍論で違憲判決があった場合も、最高裁で憲法判断が得られる可能性がある(3通りの構成があるということです)以上、「裁判官の専制政治である」という政治思想的な非難は妥当しないといえます。
他の観点からも答えてみます。
「すべて裁判官は憲法と法律に拘束され、憲法を尊重し擁護する義務を負っているので、…裁判するに当たり、その法令が憲法に適合するか否かを判断することは、憲法によって課せられた裁判官の職務と職権と言わなければならない」(芦部信喜「憲法」354頁)のです。そうすると、下級審段階においても、当然に違憲審査権を行使できるのであり、違憲と判断できる事案であった場合、傍論であっても憲法判断を示すことこそ、「憲法によって課せられた裁判官の職務」を果たすことになるといえます(「傍論での憲法判断の是非(下)」というエントリーの6.を参照)。
このように考えると、地裁や高裁において「憲法によって課せられた裁判官の職務」を果たすことは、「裁判官の専制政治である」と非難できるのでしょうか。傍論になってしまうからといって、違憲判断をしないことは、裁判官の憲法尊重擁護義務(憲法76条3項・99条)を怠ることになりますが、それでよいのでしょうか。
仮に、裁判官の憲法尊重擁護義務(憲法76条3項・99条)を怠り、下級審での(傍論に限り)違憲審査権(憲法81条)を否定することは、これらの制度自体が憲法保障制度ですから(芦部信喜「憲法」344頁)、憲法秩序を維持するという「憲法保障」を損なうことになります。しかし、それでよいのでしょうか。それでも、傍論で違憲判断することは「裁判官の専制政治」なのですか。疑問に感じます。
このようなことから、「裁判官の専制政治である」という政治思想的な非難は、まったく当たらないと考えます。
>繰返しなので最後にします
またいつでもコメントをお寄せ下さい。
ただ、渡辺龍二さんの疑問に対して答えられているのかな? と思っています。ここのブログは法律論が中心であって、政治論は念頭においていないので、政治論的な答えを求められてもちょっと……。
例えば、「裁判官の専制政治である」は政治思想的な意見ですし、これに対して政治思想論的な答えの要求は、他のブログでお願いするだけです。ここではあくまで法律論として答えるので。
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