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主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
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2009/09/21 [Mon] 15:54:44 » E d i t
お彼岸を迎えました。平成21年9月19日、諸宗山無縁寺回向院(東京都墨田区)において秋季彼岸会「家畜総回向」がありましたので、この法要のため参詣してきました。「家畜総回向」について触れるのは、1年ぶりとなります(「平成20年秋季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向」(2008/09/21 [Sun] 22:06:54)参照)。


諸宗山回向院は、安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されており、有縁・無縁にかかわらず生きとし生けるすべてのものを供養する寺院です。この回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院ですが、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」というのが、この寺院の理念となっています。



1.毎年のことですが、9月19日の法要も、11時と2時の会がありました。最近の法要で気になっているのは、お経の部分(15分ほど)が終わり、卒塔婆をお願いした施主・動物名を読み上げるところに至ってから、「家畜総回向」のために来る方がかなり多くなってきたことです。

「家畜総回向」に行くも行かないも個人の自由でしょう。ぎりぎり3時までなら、卒塔婆に水をつけてもらうことまで間に合うのかもしれません。ただ、明らかに開始の時間に遅れて回向院に参詣するとなると、それは心から供養を望んでいる態度といえるのでしょうか。

回向院に供養にくる方は、それなりに供養の心を持ち合わせてはいるのだと思います。ペットも家族と同様の意識を持っている方も少なくないはずです。ですが、家族間でさえも互いの関心が希薄になってきた現れなのか、それともペットは、結局のところ「生きた玩具」にすぎず家族ではないのか――。飼い主の意識が変化してきたように感じます。




2.今回も、「家畜総回向」の際に頂いた「散華」に書かれていた言葉を引用しておきます。なお、「散華」とは、道場にみ佛をお迎えし、佛を讃え供養する為に古来より広く行われてきたものです。元来は、樒の葉や菊の花、蓮弁等の生花を用いていたのですが、現在は通常蓮弁形に截った紙花を用いています。

今回の語句(仏教用語)は、「法句経」(ほっくきょう)423の詩句のうち、第5番です。「法句経」は、最も早い時代に成立した経典で、原始仏教、インドで人間として活躍されていた生身(しょうじん)のお釈迦様の生の声に近いものと考えられています。この「法句経」からの引用といえば、必ず引用されるほど著名な詩句が第五番です。

まこと怨みごころは

いかなるすべをもつとも

怨みを懐(いだ)くその日まで

ひとの世にはやみがたし

うらみなさによりてのみ

うらみはついに消ゆるべし



(1) 「散華」で引用した法句経第5番は上の通りです。ただ、法句経第5番の全文は、もう1文ありますので、全文を引用しておきます。

「まこと、怨みごころは

いかなるすべをもつとも

怨みを懐(いだ)くその日まで

ひとの世にはやみがたし

うらみなさによりてのみ

うらみはついに消ゆるべし

こは易(かわ)らざる真理(まこと)なり (友松圓諦訳)」



「まことに、他人をうらやむ心をもってしては、どうしても、そのうらみを解(と)くことはできない。ただ、うらみなき心によってのみ、うらみを解くことができる。このことは永恒(えいこう)に易(かわ)ることのない真理(しんり)である。」(【現代語訳】(友松圓諦「法句経講義」(1981年、講談社学術文庫)20頁))



瀬戸内寂聴さんはこの句を次のように意訳(いやく)しておられます。

「ほんにそうよ

怨みこころというものは

どんな手だてをつくそうと

怨みをすてるその日まで

この人の世から消えはせぬ

怨みをすてたその日から

怨みは影を消すものよ

これこそ真実永遠の

変わらぬ真理というものよ

  (『寂聴 生きる知恵―法句経を読む』 瀬戸内寂聴著 集英社)」


(2) この法句経第5番の詩句については、次のような説明がなされています(友松圓諦「法句経講義」(1981年、講談社学術文庫)19頁以下)。

 「心臓にささった棘(とげ)

 この第五番は、「うらみ」ということを中心に取り扱ったのでありますが、怨(うら)みなどといってつまらないことのようにすぐ考える人があります。もちろん、考え方によっては、さして重大な意味をもっていないかも知れません。しかし、人間の心の悩(なや)みというものは大きい問題などにはあまり胸を傷(いた)めるということが少ない。身体(からだ)の上のいたみだってそのとおりで、胃が悪いとか、肺を病むというよりは、なにか、ちょうど、小さい棘(とげ)が手にささったときとか、もしくは、小指に怪我(けが)をしたときとか、こんな小さいいたみどころのほうが、いつも身体(からだ)を深く傷(いた)めることであります。

 「怨(うら)み」などと軽く取り扱いたがる人があるなら、それは、棘(とげ)のささったときの痛みを知らぬ人です。「怨(うら)み」といいますものは、いわば、ちょうど人間の心臓につきささった棘(とげ)のようなものです。それだけに痛みが非常に内面的で、外にはあまり出なく、したがって人にはさほどに感ぜられなくとも、自分には非常に疼(うず)き痛むのです。この痛みのためにひとは煩悶(はんもん)し、ときには一生を紙屑(かみくず)のようにしてしまうひとがあります。ですから、この小さい問題のように思われる怨(うら)みということをここで考えるということが、そこに大きな問題、人生問題、社会問題という大きな問題も、この一本の棘(とげ)をどう考えるか、どうやってぬくのかというまじめな考え方からほどけて来(き)はしないでありましょうか。

 ましてや、この怨(うら)みということはどんな人生経験の浅い人にも見覚(みおぼ)えがある。そう申します私にも怨(うら)んだこともあり、怨(うら)まれたこともあります。いま聴(き)いておいで下さる皆さんにも、そういえば「あの人に怨(うら)まれている、この人も怨(うら)んでいる」ということがかならずやおありだろうと思います。このうらみという心の病気は風邪(かぜ)のように誰(だれ)でも、どの家庭も、経験をもっています。

 この、ざらにある万人(ばんにん)の内的な悩(なや)みから正しい人生理解に導こうとされた釈尊(しゃくそん)の御心(みこころ)は、尊いものがあります。しかし、問題は、いかに、この私どもの内心にうずき、いたみを与えている「うらみ心」を除き去ってゆくかという実際の方法であります。私どもはこの第五番の中に釈尊(しゃくそん)の尊いお考えを発見するのです。

うらみの生誕(せいたん)

 それではこの怨(うら)みというものはいったい、どこから出て来(く)るものでありましょうか。怨(うら)みの発生(おいたち)というものはいろいろな場合がありましょう。けれども、つまりは自分にむかってのある他人の行ないに対して、口には出さずとも内に深く不満や憎悪(にくしみ)を感ずるということであります。たとえば、

 「この銀行が取付(とりつ)けをした。そのとき、あの人はこうなることを知っていて自分の金だけは取った。ついでにこんなになるんだったら知らしてくれればよいのに……知らしてくれなかったばかりに自分はこんなに貧乏してしまった。いまの貧乏というものはことごとく、あの男が知らしてくれなかったからである。そういえば銀行のときばかりでない。あのときも、このときも、いつでも自分のことを考えてくれないどころか、私が不幸になるように、貧乏するように、苦しむようにばかりたくらんできたらしい。ほんとうに憎(にく)らしいやつだ」

 こういうのは、なんと申しますか、人こそいい迷惑(めいわく)で、怨(うら)まれた当人(とうにん)の立場になってみますれば、かならずしもそうではなく、いろいろと言い分があることでしょう。

 「私も知らせようと思ったが時間がなかった」

 とか何とか、どうせこの生きた世間のことですからそれ相応(そうおう)にいろいろな理由がありましょう。それを分別(ふんべつ)もなく、同情もなく、いちずに、「他人が匿(かく)して知らせなかった」と内に深く含(ふく)み、憎(にく)む。この気持ちが怨(うら)みであります。

 その怨(うら)みがだんだん昂(こう)じてきますと、うらみのほのお内に消しがたくなりまして、その友人がふとしたかりそめの病気にでもなりますと、

 「もう、あんな自分にわるさをする奴は死んでしまったが良い。あれが因(もと)になって死んでしまうがよい」

 口には出しませんが、こんな空(そら)おそろしい呪(のろ)いをかけてくるのです。美しい顔をして、きれいな雄弁(ゆうべん)で挨拶(あいさつ)しているひとりの女性も、ひそかに彼女の心の中では憎(にく)しみ、怨(うら)みの心がたけりくるっている。皆さん、ほんとうに心臓の棘(とげ)なんです。バラのかげにひそんでいるとげなんです。他人の不幸をひそかによろこぶ悪魔の微笑、これがうらみです。(中略)

うらみの小車(おぐるま)

 さて抜こうとする、棘(とげ)を抜こうとする。なかなか棘(とげ)なんというものは抜こうとあせっても、抜けるものじゃない。誰(だれ)しもあることですが、汽車に乗ってちょっと窓を開ける。開けたはずみにゴミが眼にはいる。「痛いっ」と思って眼をこする。取れない。もう一ぺんこする。こすればこするだけ、だんだん痛みがふえてゴミが眼の中により深くはいっていくというように、また、それと同じく、棘(とげ)を抜こうとすればかえって中にはいってしまうように、怨(うら)みというものも、この怨(うら)みを何とかしようと思って悶(もだ)えても、あせり、いらだっても、なかなかその怨(うら)みというものは心の底深く残る。なんとすることもできない。

 これは「まことに、他人をうらむ心をもってしては、どうしても、そのうらみを解くことはできない」とこの法句経(ほっくきょう)で釈尊(しゃくそん)がいわれた言葉のとおりです。原典を読みますと、そこにはもっと強く、このうらみに対して、うらみの心をもって解(と)こうとしたところで、「いかなる術もない」と書いてあります。

 どんなことをしたってその苦悩、怨(うら)みというものを持っているあいだは駄目(だめ)だ。なんとしても駄目(だめ)です。「あの男は自分を怨(うら)んでいるな、どうもおれは怨(うら)まれているぞ」という考えをうちに抱(いだ)きながら、なんとかこの怨(うら)みを解(と)いてゆこうとしても、怨(うら)みはそのものの根本的な反省がないあいだは駄目(だめ)だ、とここで釈尊(しゃくそん)が言い切られたことはさすがに含蓄(がんちく)の深い、よく人生をかみしめた言葉であると思います。

 火を消すのに火ではとうてい、消えるものではない。どうしたって火を消そうと思えば水を持って来なければいけない。火を消そうと思いながら、その上になおも火をかければよい火がだんだん燃えさかるばかりであります。

 「なんとかしてこの眼の中にはいったゴミを取ってしまおう」とあせればよけい奥のほうにはいってしまうように、ちょうど怨(うら)みというものは、こぶのように結びかたまった羽織(はおり)の紐(ひも)を解(と)こうとして、引っぱれば、引っぱるほど、その羽織(はおり)の紐(ひも)のコブが固(かた)まって解(と)けることはないと同様に、怨(うら)みもちょうどそのように、おたがいが怨(うら)みを結んで苦しんでくれば、いよいよふかみにはいっていく。仏教の言葉で申しますると輪廻(りんね)の小車(おぐるま)、あの男が怨(うら)んだからこちらも怨(うら)み返す。なかなか解(と)けてゆくものでない。(中略)

うらみの解消

 こうした心のなやみ、うらみをなんとかして、解消するといいますか、怨(うら)みを解(と)きほどく道はないだろうか。その答えこそ、釈尊(しゃくそん)が「ただうらみなき心によってのみ、うらみを解(と)くことができる」と言い放(はな)たれたものです。

 ほんとうにそうだと思います。「うらみなき心」、この心がなければ自分のこの怨(うら)みを解決することはできない。火を消(け)すには水、雪にはお湯をかければすぐ解(と)ける。なんでもないことなんです。だから、棘(とげ)を抜くには抜くのじゃ駄目(だめ)だ。自然に、むこうから抜けてこなければいけない。抜こうとしたって抜けるものじゃない。ちょうど先ほど言ったように、眼にゴミがはいったときにはただ、じっとしているがいい。なまじっか、眼をこするより、じっと眼を伏(ふ)せているがいい。一分間なり、二分間なり、じっと眼を伏(ふ)せていれば、泪(なみだ)が自然に出てくる。するとゴミも泪(なみだ)とともにいつの間(ま)にかとれてしまう。

 じっと自分の心の上に観念することなんです。なまじっか怨(うら)みを抜こうとするから抜けない。「抜こうとする」という意識、「あなたを怨(うら)んでいませんよ」という意識、それがいけないんです。「怨(うら)んでいませんよ」ということはその実、怨(うら)みの一つの片鱗(へんりん)なんだ。その怨(うら)みというものとさっと変わった、本質的にちがったもの、「怨(うら)みでないもの」、いわゆる、火を消そうと思えば水のように、怨(うら)みでないもの、うらみなき心によってのみそのうらみを解くことができる。」


では、その「うらみなき心」というのは具体的にはどういうことでしょうか。うらみ心を解決する方法にはどういうものがあるのでしょうか。

 「無心(むしん)

 それは無邪気(むじゃき)な心持ちです。たとえば大人気(おとなげ)ないことではありますが、わが子の仕打(しう)ちに母親が軽いうらみを持つとする。「ほんとうに家の子供はどうしてこんなに悪戯(わるさ)をするのだろう。きのうもああだった、きょうもああだった」と、心に苦しんでおりました母親のところに「ただいま」と子供が帰ってくる。そうして「おかあさん」と言って膝元(ひざもと)に甘(あま)えてくる無心の気持、わざとらしい心持ちの寸毫(すんごう)もないこの無邪気(むじゃき)な気持が母の心をやすけさに導くように、この無心(むしん)の気持でたしかに怨(うら)みを解いてゆけます。(中略)

 ……日も月も無心(むしん)に照る。自然、山水、草木、そういったものはいつでも無心ですから、自然の気持になぞらえて、そうしたあわれゆかしい気持、水がさっと流れてゆく、あんな気持になってしまうと、怨(うら)みなどという深く昂(こう)ずる気持を捨ててみようという無心の気持、いままで怨(うら)んでいた人の前に素直(すなお)な気持になってゆきさえすれば、それは怨(うら)みを解(と)く一つだと思います。

等心(とうしん)

 仏教ではそれを等心(とうしん)といいます。みんな平等な、傾かぬ心で行けと申すのであります。船が静かな湖の上を走るように、かたよらず、かたむかずにゆくのです。「あの人は私を怨(うら)んでいる、だから挨拶(あいさつ)するときにはよほど、気をつけて、ていねいに、お早うございますと言ってみよう」などと考えたところで態(わざ)とらしいていねいな言葉を使っても駄目(だめ)だ。なんにも屈託(くったく)しない気持、殊更(ことさ)らでない気持、そういった態度でお辞儀(じぎ)する、普通に挨拶(あいさつ)する、そういう気持になってゆけば自然と和(やわ)らいでゆくだろうと思います。

真実心といのり

 しかしこの気持などは、なかなか口で言うようにはやすやすゆきません。こちらで考えるように素直(すなお)に先方が受けとらぬときが多いのです。ままにならぬのが世の常(つね)です。

 「彼はどうしても私のことを怨(うら)んでいる。こんなにそのために心をくだいているのに受けつけない。かなり友達に頼んで自分の心を訴えてみたが、そのときは曲(まが)りなりにすんだが、はやりどうしても怨(うら)む心がどこかに残っている。いったい、この場合、どうしたものだろう」

 こうしたところに、私たちの悩み、苦しみがあります。

 「そうだ、なんと向こうが思おうと自分のほんとうの気持を出せばよいのだ。ほんとうの気持というものは向こうの人にきっと通じる日がある。通ぜずにはいない」

 こうした、自分が祈(いの)るような気持になって、「どうかあの人の気持が安らぎますように、自分のこの真実の気持が通りますように」、こういったキリスト教などで申します、人の祈(いの)り、仏教には祈(いの)りという言葉はありませんが、そういった真実の思念(おもい)、この至誠(しせい)の心持ちを向こうに通そうというほどの気持になってくれば、確かにそれは一つの怨(うら)みを解(と)く道でありましょう。

慈念

 しかしこういう気持は、かなりに反省的でありますが、仏教でいえば、そういう祈(いの)りが向こうに聞かれようなんという気持はほんとうの怨(うら)みを解(と)く道でない。釈尊(しゃくそん)の心境、もとより私どもには釈尊(しゃくそん)の偉大な気持をこうだと言い切ることはできませんが、お経などに書いてあるところを推(お)しはかってみますと、たしかに対手方(あいてがた)の上に心配をもつような気持でありましょう。釈尊(しゃくそん)にとって、かなりに致命(ちめい)的な反対をしました提婆(だいば)(デーヴァダッタ)の身の上さえも心配されたというのが彼の心境でありましょう。おのれにいつも怨(うら)みかかってくる人に対しても、親しい人についてと同じように、その人のことが心配になってくる。これが慈念(じねん)という心持ちでありましょう。」


「うらんだ相手の病気はどうだろう」と心配する心が起こったらおのずと怨みが解けてきます。それが「うらみなき心によりてのみ、うらみを解くことができる」といえるのです。ただ、もう一歩進んで考えることができます。

 「怨親不二(おんしんふに)

 宗教の世界はもう一歩進まねばなりません。怨(うら)んでいるという気持がそもそも考えの足らぬものです。「いやあのときは怨(うら)んだ」。分別(ふんべつ)もなくうらんでみたが、しかしいまになってみれば、怨(うら)んだり、怨(うら)まれてこそ、あのように、発奮をしたのだ。怨(うら)んでもらってこそ、そのおかげでとうとうあんないい結果になったのだ。ひとはほめそやされて地獄(じごく)に落ちるのだが、あのように人を怨(うら)み、怨(うら)んだればこそ、はげみもちからも出てこうもなったのだと感謝する世界まで進むことである。

 私なども「名古屋弁」を笑った小学校の同窓を怨(うら)んでこそ、早くなまりもとれたのだ。「お寺の小僧なんか」と悪口言われたればこそ、「なにがお寺の小僧だ、忘れるな、俺(おれ)だっていまに立派な人間になって見せるぞ」と――立派な人間になれませんでしたが、とにかく、緊張(きんちょう)した、はずんだ心持ちをもつことができました。あのときに「お寺の小僧なんか」と言われたのだが、それがかえっていまではおかげだったのだ。

 怨(うら)みというものがおかげになって、恩寵(おんちょう)に変わってくるところ、それを仏教では怨親平等(おんしんびょうどう)、怨(うら)みも親しみも真実(ほんとう)は一如(いちにょ)だ、不二(ふに)の世界だと教えていますが、この境地(きょうち)になってこなければいけない。怨(うら)みの刃(やいば)をうちこんでくるのを、この温かい不二(ふに)の心に、やんわりと受けとる。そしてむしろこの毒矢(どくや)を感謝と緊張(きんちょう)のよすがとする。釈尊(しゃくそん)の心境はおそらくこうしたものであったでしょう。

すまないという心持ち

 その境地(きょうち)になれば、

 「自分が何も気づかずにいるけれども、ふとした一つの言葉、一つの振舞(ふるま)いでひとに怨(うら)みをかけていないだろうか、自分はいま、このご飯をいただいているが、はたして自分はこれにふさわしい働きをしているだろうか、他人の心血(しんけつ)を吸(す)ってはいないだろうか、怨(うら)みのかかったご飯をいただいてはいないだろうか、そうしたことによって怨(うら)みを人に与えてはいないだろうか」

 こういった申しわけのない、すまないというような宗教的反省が出てくるのです。つぐのいの気持です。こうした心境、何ごとも人の怨(うら)み心(ごころ)さえも有難いことだと喜んで考えうるような境地(きょうち)、また自分自身がいままでまったく無関心であったところの生活の上にはじめて新たなる宗教的反省をしてくるという、この心境こそ、ここに怨(うら)みも親しみも平等、怨親(おんしん)平等、不二(ふに)の世界であります。

不易(ふえき)の真理

 こういった気持を「このことは永恒にかわることのない真理である」と釈尊(しゃくそん)はいわれた。これは決して釈尊(しゃくそん)個人の小さい体験でない、私だけの体験でない、昔からみんなの人が経験してきた道なんです。ですからここには永恒(えいこう)にかわることのない真理であると申しましたけれども、英語の翻訳(ほんやく)では「これは古き真理なり」と訳しているくらいです。ですから、これは客観的に誰(だれ)にも妥当(だとう)的な、またいつでも妥当(だとう)することであるとこう考えることであります。それは釈尊(しゃくそん)ひとりだけの特別の境地(きょうち)ではない、やればかならず達しうる心境だというのです。さればこそ、その昔からの尊い体験の上に信頼といいますか、一つの自覚を持ってくるということであります。

 こうした一本の棘(とげ)、心臓にささった小さい棘(とげ)の除(と)り方の中に、私たちはたしかに仏教を味わう一つの門口(かどぐち)があります。「何でもない、怨(うら)みなんかなんだ、こんな小さい怨(うら)みが何ものだ」と考えているひとには永久に正しい人生の理解、宗教の門は開かれない。私たちは心のうらみという棘(とげ)一本をごまかしてはいけない。この一本の棘(とげ)の上に一大事因縁(だいじ・いんねん)の心をつかみとるところに、そこにはじめて宗教にはいる道があります。」




3.法句経第五番は、「うらみなき心によってのみ、うらみを解くことができる」と説く詩を扱っています。この第五番についてかなりの分量の説明を引用しましたが、この説明を読んだとしても納得できず、「判っていても、実行できやしない」と斥ける方もいるでしょう。

しかし、戦後昭和26年、サンフランシスコ平和条約が締結された際、スリランカ(1972年まではセイロンという名称)代表は、「怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、怨みのキャッチボールとなってどこまでも続くことになる。怨みをすてさることでこそ争いが終わるのだ」と述べて、日本に対する損害賠償の権利を放棄しました。太平洋戦争という甚大な被害を生じた戦争直後という人々の激しい怨みが渦巻く状況下で、法句経第五番の詩句が引用され、その精神が施策されたのです。「実行できない」詩句ではないのです。

ところが、2001年9月11日に起きた、米同時テロに対して米国は報復を開始しましたが、ベトナム戦争のように泥沼化してしまっています。テロに無関係な人々への殺戮も行われ、怨みと憎悪の応酬が続いているのです(佐伯快勝(さえき・かいしょう)「智恵のことば 『法句経』に学ぶおだやかな生活」(2008年、淡交社)29頁以下参照)。

日本においても、被害者がその被害感情・憎悪を加害者にぶつける場としての被害者参加制度、市民感覚を司法に反映させるという名目で、市民感情で量刑を左右し、本来公正な第三者である立場の裁判員が(質問という名目で)被告人に説教をする場と化した法廷に変化してしまった裁判員制度、被害者遺族の処罰感情は永遠に消えないという主張を主な根拠として、公訴時効廃止論が声高に唱えられる――。

「何でもない、怨(うら)みなんかなんだ、こんな小さい怨(うら)みが何ものだ」と考える人に対しては、そんな考えは良くないことはもちろんです。「怨み」などと軽く取り扱うことはないことを心にとめつつ、法句経、特に法句経第五番は、時代や社会を超えた普遍性をもつものとして、今こそ、その精神を学び、実践するときであると思えるのです。


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2009/10/19(月) 12:18:42 | ?? ????θ?
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