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2008/11/08 [Sat] 23:59:09 » E d i t
 ジャーナリストでニュースキャスターも務めた筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが平成20年11月7日午後1時50分、肺がんのため東京都内の病院で死去しました。73歳でした。

「メディアに携わる者にはなくてはならない、流れに流されてはならない「反骨」の人であった。希代のニュースキャスター、逝く。」(朝日新聞平成20年11月8日付夕刊1面「素粒子」)





1.朝日新聞平成20年11月8日付朝刊1面

筑紫哲也さん死去 NEWS23前キャスター 73歳
2008年11月7日21時26分

 政治・外交から文化まで幅広く報道するテレビキャスターとして長く親しまれ、雑誌「朝日ジャーナル」編集長も務めた朝日新聞元編集委員の筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが7日午後1時50分、肺がんのため都内の病院で死去した。73歳だった。葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻房子(ふさこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。

 大分県生まれ。59年に朝日新聞社に入社し、68年には米軍統治下の沖縄特派員として返還交渉を取材。71年からの米ワシントン特派員時代には、当時のニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件を取材した。

 84年に朝日ジャーナル編集長。「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」などの企画が話題になり、「新人類」は流行語になった。

 外報部次長時代の78年、「こちらデスク」(テレビ朝日系)のキャスターになり、テレビでも知られるように。89年に朝日新聞社を退社し、TBS系の報道番組「筑紫哲也NEWS23」のキャスターに就いた。穏やかな語り口で、フリップにタイトルを示して世相を評論する「多事争論」のコーナーが話題を呼んだ。98年11月にはクリントン米大統領(当時)をスタジオに招くなど、各国の首脳と市民が直接対話する場の司会を務めた。

 07年5月、番組中で初期の肺がんを告白。治療に専念し、約5カ月後の10月に、がんを「ほぼ撃退した」として生出演を果たしたが、番組のキャスターが12月から後藤謙次氏に代わってテレビ出演が減っていた。

 08年度の日本記者クラブ賞を受賞。著書に「筑紫哲也のこの『くに』のゆくえ」「職業としてのジャーナリスト」「旅の途中」などがあり、共訳に「メディアの権力」など。「スローライフ」にも着目し、NPO法人「スローライフ・ジャパン」の理事を務めていた。」



89年10月からTBSの報道番組「筑紫哲也NEWS23」キャスターになりましたが、当時、夜のニュースは久米宏さんの「ニュースステーション」(テレビ朝日)が高視聴率を獲得しており、「報道のTBS」の威信をかけての外部からの抜てきでした。筑紫哲也さんは、活字ジャーナリズム出身らしく知的で抑制の効いた語り口で、久米さんと並んで、民放キャスターの代表的存在となりました(東京新聞平成20年11月8日付12面「芸能面」)。

筑紫哲也さんの死去を受け、筑紫さんが18年半、メーンキャスターを務めたTBS系「NEWS23」は、11月7日夜の放送冒頭、約20分間にわたって活躍を振り返りました。番組には、ジャーナリスト仲間の鳥越俊太郎さんが出演、「本当に残念」と声を詰まらせた。野中広務元官房長官や広島カープの山本浩二前監督、歌手の忌野清志郎さんら、筑紫さんと親交が深かった著名人らの談話を映像などで紹介していました(共同通信)。

テレビ番組での最後の「多事争論」は3月28日。少数派を切り捨てることが戦争につながる――。一貫した主張でした(日刊スポーツ平成20年11月8日付22面)。



筑紫哲也さん死す、がん全身転移
2008年11月8日

 ニュースキャスター筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが、7日午後1時50分、肺がんのため、東京・聖路加国際病院で死去した。73歳。昨年5月、レギュラー出演していたTBS系報道番組「筑紫哲也ニュース23」で、肺がんであることを告白していた。7月に鹿児島の病院に入院したが、すでにがんは全身に転移していた。10月末、都内の病院に転院し、一時、危篤となったが、危機は脱していた。葬儀は密葬で営まれる。喪主は妻房子(ふさこ)さん。後日、お別れの会が行われる。

 がんは全身に転移し、肺や膵(すい)臓にも水がたまり、激しい痛みとの闘いだった。都内の病院で息を引き取ると、遺体は午後5時ごろ練馬区内の自宅に運ばれた。

 筑紫さんは、がん告白後、都内で入退院を繰り返していた。7月7日、痛みをやわらげるペインクリニックの名医の治療を受けるため、鹿児島県内の病院に転院した。その時には、すでにがんは全身に転移していたという。直前の同5日、ネット上で続けていた「ニュース23」の人気コラム「多事争論」の収録を屋外で行った。「この国のガン」と書いたボードを掲げ、国内の問題点に切り込んだのが最後の「多事争論」だった。

 親しい関係者によると、10月15日に肺に水がたまり、呼吸困難で危篤状態になったという。その後、同県内の別の病院に転院し、危機を脱したため、10月末には都内の病院に転院した。だが、病魔の勢いは止まらなかった。たんを切る力がなく、11月1日には再び危篤状態となってしまった。必死に闘う筑紫さんは、のどを切開する手術を行い、何とか2度目の危篤状態も脱していたという。関係者は「危篤の状態は脱したものの、手足がやせ、目に力がなく、予断を許さない状態だった」と明かした。最期は家族にみとられ、旅立った。(中略)

 肺がんは昨年5月上旬、毎年行っている検査入院で発見された。メーンキャスターを務める「ニュース23」の放送内でがんを告白した。「がんを生きぬく」と自筆のフリップを掲げ、番組を休んで治療に専念することを視聴者に明かした。放射線治療のほか、東洋医学とも出会った。

 落ち込んでいた気持ちを立て直すことができたようで、「病は気から」と周囲に語り、食欲も上向きとなり、一時はこのまま全快に向かうのではないかと思えるほどだった。昨年10月8日には147日ぶりに番組に復帰し「ほぼ、がんは撃退した状態になった」と語った。マルボロやハイライトなど強いものを好んだたばこの量を控えめにし、多少、顔も丸みを帯びていた。髪形の頭頂部がつけ毛であることを明かし、髪を引っぱりながら「抗がん剤で一時的に髪が2割くらい減って、まだ発展途上中」などと、照れ笑いを浮かべた。(以下、省略)」(asahi.com(2008年11月8日)(日刊スポーツ平成20年111月8日付1面)


筑紫さんは、「肺がんは昨年5月上旬、毎年行っている検査入院で発見」したわけですが、(今年)「7月に鹿児島の病院に入院したが、すでにがんは全身に転移していた」ようです。そうなると、元々、行っていた定期検査自体が不十分だっただろうかとも思ってしまいそうです。経緯としては、昨年5月「がん告白後、都内で入退院を繰り返していた」ようで、(今年)「7月7日、痛みをやわらげるペインクリニックの名医の治療を受けるため、鹿児島県内の病院に転院した。その時には、すでにがんは全身に転移していた」のですから、がん治療の効果は芳しくなったのでしょう。

こうした経緯があるとはいえ、昨年5月から今年7月でがんが全身に転移しており、がんの進行が早すぎるので、「発見の遅れや治療の点で医療過誤があったのでは?」と疑うこともできそうです。(医療過誤を疑うとすぐに(批判でなく)揶揄するコメントが来るので、面白いのですが。)

もっとも、「昨年10月8日には147日ぶりに番組に復帰し『ほぼ、がんは撃退した状態になった』」と述べています。ですが、本当のところは、撃退したというほどではなかったのかもしれません。それでも、今年7月入院「直前の同5日、ネット上で続けていた『ニュース23』の人気コラム『多事争論』の収録を屋外で行った」ほど、がんや報道に対して前向きに立ち向かう姿勢をとり続けたのです。
11月11日追記:11月11日付の追悼番組。筑紫さんは小細胞肺がんだったそうです。小細胞肺がんは細胞の増殖スピードが速く、脳や骨、リンパ節、肝臓、副腎などに転移がしやすい悪性度の高いがんとのことです。)




2.追悼記事を幾つか。

(1) 朝日新聞平成20年11月8日付朝刊39面

「多事争論」貫き、戦後日本の姿追う 筑紫哲也さん死去
2008年11月8日3時4分

 新聞から雑誌、テレビまで垣根を超えて縦横に走り続けた筑紫哲也さん(73)が亡くなった。数少なくなった、戦争を知るジャーナリストの一人。ほぼ半世紀の間、メディアの世界に身を置き、戦後日本の姿を追い続けた。病を背負ってからも、その意欲は最期まで尽きなかった。

 「いつかこの日が来るかも知れないと思っていたが、本当に残念です」

 ニュース番組「筑紫哲也NEWS23」デスクを務め、親交が深かったTBS前報道局長の金平茂紀アメリカ総局長(54)は7日、電話取材に声を震わせた。「『多事争論』などで身をもって毎日戦っていた。テレビ報道にかかわった人間で筑紫さん以上の人は見あたらない」

 筑紫さんは敗戦を10歳で迎えた。59年に朝日新聞社に入社。68年から2年、米軍統治下の沖縄を追い、沖縄は終生のテーマとなった。大田昌秀・元沖縄県知事(83)は「筑紫さんほど沖縄の現場を本土に発信してくれた記者は後にも先にもいない。弱い立場の者への温かいまなざしと正義感にあふれた人だった」。

 70年代からはワシントン特派員や政治部記者として健筆をふるった。日本経済新聞客員コラムニストで早稲田大大学院教授の田勢康弘さん(64)は官邸記者クラブで席が背中合わせだった。「同僚と群れず、ひょうひょうとしていた。企業メディアの中でのジャーナリストの限界を突き破る闘いをずっとしていたのではないか」と話す。

 「朝日ジャーナル」編集長時代には、対談企画「若者たちの神々」など斬新な視点で注目を集めた。84年に対談した作家林真理子さん(54)は「時代の寵児(ちょうじ)として、物事を鋭く切っていく。怖い感じもした」と振り返る。「でも、海の物とも山の物ともつかない私をサブカルチャーの一員として認めてくれた」

 女優の渡辺えりさん(53)も84年に対談。その後は舞台のたびに渡辺さんの地元山形の日本酒などを手に楽屋を訪れた。「人情味のある方でした」。演出家の鴻上尚史さん(50)は「20代半ばの僕を取り上げてくれて以来、一度も欠かすことなく芝居を見に来てくれた」。数年前、芸術関係者のパーティーで、背広姿で会場が埋まる中、2人だけがラフな半袖シャツだった。鴻上さんの姿に「やっとまともな人間に会った」とうれしそうだったという。

 89年秋、朝日新聞社を退社し、「NEWS23」のキャスターに就任。激動する世界をお茶の間に伝えた。

 その視線は、自らが属する組織にも厳しく注がれた。取材映像をオウム真理教幹部に見せたことが坂本弁護士一家殺害事件につながったことが判明した際には「TBSは死んだに等しい」と発言した。ジャーナリストの田原総一朗さん(74)は「出演を続けることに批判もあったがそれが彼のやり方だった」と語る。

 雑誌「週刊金曜日」の創刊に携わり、市民運動などにも深い理解を示した。辻元清美衆院議員(48)は96年に社民党から立候補要請を受けた日を思い出す。引き留めてもらおうと自宅を訪れたが、開口一番で「やれ」と言い切られた。「泥船だからこそ乗れ。市民の政党に変えろ」

 その後、ジャーナリストの領分を逸脱しているとの批判もあったが、「おれには政治家辻元清美の製造元責任がある」と言い続けた。

 「平和や平等に強いこだわりを持って、戦後の一つのともしびのような役割を果たしてこられた」

 闘病中も朝日新聞の無料会員サービス「アスパラクラブ」のサイトでコラムを連載した。最後となった5月21日付では中東の紛争や軍事政権の閉鎖性に思いを巡らせ、次の一文で締めくくった。「歴史は繰り返さず、人間は変わるものだ――と信じたい」」(*紙面での見出しは、「多事争論貫く 筑紫さん「戦後」追い半世紀」という文章になっています。ここではHPの見出しのまま引用しています。



(2) 朝日新聞平成20年11月8日付朝刊39面「評伝」

3つのメディア生かしきる

 この国で、メディア間の人材移動の壁は意外に厚い。それでも共に活字メディアという共通性か、新聞、雑誌間を行き来するのはまだしも、映像というまったく異質の媒体のテレビとの間の壁は、かつては相当高かった。それを、早くから苦もなく乗り越え、それぞれのメディアの特性を生かしきった筑紫さん。その存在は、戦後のメディア史でも稀有(けう)なものだ。

 筑紫さんが朝日新聞に入社した1959年ごろは、新聞がニュースメディアの王様として君臨していたころだ。その恵まれた体制の中で、事件や政治、そして沖縄返還交渉や特派員としてアメリカなど海外にも駐在するなど、様々な取材が、後にテレビで発揮される硬骨のジャーナリストの骨格を作り上げた。

 それだけなら、一時、沈黙した週刊誌「朝日ジャーナル」を、再び、時代を象徴する週刊誌に押し上げることができただろうか。新聞という速報性が求められるメディアに比べ、雑誌というメディアの特色は、より広い視野とジャンルで時代を語れるところにある。

 もともと、鋭敏な時代感覚と共に、文化や芸術に関心が深かった筑紫さんだからこそ、当時のニューアカデミズムなどの学問や、新しい風俗を引っ張る若者に次々インタビューした「若者たちの神々」や「新人類の旗手たち」などの企画が成立した。筑紫さんの才能と資質が、ゴシップなどとは一線を画して、雑誌という器の新しい可能性を、開花させた。

 では、何故、最後にテレビを選んだのだろう。新聞にも勝る速報性、そしてジャーナリストとして個人の主張をより直接的に視聴者に語りかけることもできる。しかも、多くの文化人や芸術家を番組に招いたように、雑誌的な肌合いもだせる。

 そんな、テレビのニュース番組がもつ可能性を感じとっていたからではないか。それを、十分に生かし切って、テレビジャーナリズムの新しい形を作り上げた。

 それは、3つのメディアを経験した筑紫さんにしか出来ないことだった、とつくづく思う。 (編集委員・四ノ原恒憲)」



(3) 日刊スポーツ平成20年11月8日付朝刊1面「解説」

「朝日新聞」「朝日ジャーナル」「ニュース23」19年 ジャーナリズム貫き続けた自由人

 個人主義。自由人的ジャーナリストだった。組織が前面に立つ日本だけに、企業ジャーナリズムの枠からははみ出たが、だからこそ、市民からは支持を得た。人脈もあくまでも個人ベース。正義のない組織は敵で、権威権力に立ち向かった。

 そんな個人主義を貫いたのが96年のTBSのオウムビデオ事件だった。中途半端に調査を打ち切った同局に対し「TBSは死んだ」と発言。同局幹部から不快感を示されたが、自局に対してもジャーナリズムを貫いたことで「ニュース23」は矜持(きょうじ)を示せた。TBSとの契約延長の際には、番組の提供スポンサーを外す案を提示。民放ではありえない提示に、自分の保身はなかった。

 クラシック音楽、映画を愛し、好奇心旺盛で番組直前まで取材を続けた。それが幅広い見識となり、キャスターとしての安定感となっていた。懇談会やパーティーでも、ワイングラス片手に記者の取材に気さくに応じ、忌憚(きたん)なく語った。個人主義だが、後輩記者を大事にしてくれた。

 朝日新聞社東京本社政治部に配属後、首相官邸詰めとなり、流行の慎太郎カットに、まだ珍しかったブルーのカラーシャツで出勤し、キャップに怒鳴られたという。テレビデビューの78年、テレビ朝日系「こちらデスク」にはロン毛にサファリジャケットで登場した。

 スタンスもかなりとんがっていたが、キャスター業が長くなるにつれ、取材相手への突っ込みがたりないと批判されたこともあった。ただ、それは北風と太陽に例えるなら「太陽」だったから。巨大権力には立ち向かうが、基本は優しい人だった。 【文化社会部デスク・竹村章】」





3.追悼談話。
 
(1) 時事通信(2008/11/07-22:42)

筑紫哲也氏死去・談話

◇放送ジャーナリズムの基本築いた

 交流があったコラムニスト天野祐吉さんの話 権力の重要な見張り番の一人が消えた感じだ。ニュースキャスターは個性を出さなければいけない一方、それが強すぎると独善的になる。筑紫さんは微妙なバランスを保ちながら、「話し言葉のジャーナリズム」を確立した先駆者であり、以降の放送ジャーナリズムの基本路線を築いたといえる。これからも重要な局面ではテレビに出て意見を述べたいと言っていたが、かなわなくなってしまった。細かいことにこだわらない豪快な性格だった。かけがえのない人を失い、残念だ。(2008/11/07-22:42)」



(2) 日刊スポーツ[2008年11月9日6時37分 紙面から]

久米宏氏がライバル筑紫さんへ惜別の思い

 肺がんのため7日に亡くなったニュースキャスター筑紫哲也さん(享年73)の通夜が8日、密葬で、東京都練馬区の自宅でしめやかに営まれた。女優渡辺えり(53)歌手井上陽水(60)辻元清美衆院議員(48)フリーキャスターの田丸美寿々さん(56)ら生前の筑紫さんとゆかりの深かった友人や仕事仲間らが弔問に訪れた。また、筑紫さんとつねにライバル視された久米宏氏(64)がこの日、ラジオで筑紫さんへの惜別の思いを語った。

 久米氏は8日、パーソナリティーを務めるTBSラジオ「久米宏 ラジオなんですけど」(土曜午後1時)で、7日に亡くなった筑紫さんについて「後ろにいてくれる安心感があった」と、思いを語った。

 久米氏は番組の冒頭、「昨日(7日)、悲報と同時にコメントを求められたが、言うべき言葉がない、何を言っていいの分からなかった」と、さまざまな思いが脳裏をめぐったと言いたげに切り出した。

 「サッカーで言えば、筑紫さんは左のサイドバック。僕の後ろにちゃんといてくれて、たまに前に行って僕のパスをゴールしてくれる。つまり、僕が少々、乱暴なことを言っても、あとで、ちゃんとフォローしてくれる安心感がありました。安心してサッカーができる貴重な感覚」と語った。久米氏はテレビ朝日系「ニュースステーション」のキャスターとして、約1時間後に放送開始のTBS系「ニュース23」の筑紫さんとはライバル視もされたりしたが、信頼し合い、しっかりとテレビジャーナリズムの一時代をつくった。

 「ニュースステーション」終了後は、何度か筑紫氏と一緒に仕事をし、05年にはTBSで放送された総選挙の報道特番でも共演した。「もう1回できるといいなと思っていた。選挙が遠くへ行って、できなくなったな」としみじみ。

 筑紫さんが朝日新聞記者時代にキャスターを務めたテレビ朝日系「こちらデスク」も「1回も見逃していません。必ず見ました。ああ、ニュースってこうして伝えるのか。こういう見方もあるのかと、ひそかに勉強していたんです」とも告白した。

 2人はライバル番組のキャスターを、偶然だがともに18年半務めた。久米氏は「2人ともずいぶん長くやったな」と語ると「筑紫さんは本当のニュースキャスターでした」と、天国へ向けて言葉を送った。

 [2008年11月9日6時37分 紙面から]」



(3) 東京新聞平成20年11月8日付朝刊25面

◇沖縄の恩人失った

 太田昌秀・元沖縄県知事の話 筑紫さんは米軍基地問題をはじめ沖縄に関する数々の取材を手掛けてきた。沖縄にとってかけがえのない恩人を失い、大きなショックを受けている。「特派員」として(本土復帰前の)沖縄に赴任された時代から積極的な取材を続け、筑紫さんが本土の人々に沖縄問題を伝えたと言ってもいい。わたし自身もテレビに招かれ、基地問題について話す機会をつくっていただいた。

 昨年、死後に会った時にやつれて疲れているように見えたが、たまたま昨晩(6日夜)筑紫さんがなじみにしていた沖縄の店で、周りの人たちと「どうしてるかな」と話したばかりだったのだが…。残念で言葉にならない。」



(4) 朝日新聞平成20年11月8日付夕刊10面

土性骨の強さ、言葉の力  筑紫哲也さんを悼む  

立花隆(評論家)

 筑紫さんには、大きく分けて、朝日新聞時代(政治部、ワシントン特派員、編集委員)、朝日ジャーナル時代(デスクと編集長)、テレビ時代(テレビ朝日とTBS)の3つの時期が少しずつ、重なり合いながら存在する。

 そのすべてにおいて、私は筑紫さんと一緒の仕事をしてきた。特に田中角栄の金脈追及、ロッキード事件、ロッキード裁判の過程においては、朝日ジャーナルのデスク時代、編集長時代の筑紫さんが最大の支援者になってくれた。

 初公判から判決まで、「ロッキード裁判傍聴記」(朝日文庫『ロッキード裁判とその時代』)という形で、あの足かけ4年にわたる大裁判の全過程を追わせてくれたのは、デスク時代の筑紫さんだった。控訴審において、突然、右翼からも左翼からもロッキード裁判の批判者たちが、雨後のタケノコのように現れてきて、あたかもそれが世の正論であるからのごとき声高の議論をする人々が論壇を占拠し始めた時、私に『ロッキード裁判批判を斬(き)る』(朝日文庫)を書かせ、反批判論を、「いくら書いてもいいよ」と、ほぼ無制限に紙面を提供してくれたのが、編集長時代の筑紫さんだった。

 時あたかも、「闇将軍田中角栄」の権力の絶頂期であり、気にくわない総理大臣のクビを次々にすげ替えたり、田中軍団の所属メンバーを最大限にのばしたりしていた時期である。「大義名分さえつくなら」、ロッキード裁判だっていつひっくり返ってもおかしくない状況が生まれつつあった。

 あの時、筑紫さんのあの決断(連載)がなかったら、群れをなして登場してきた批判者のキャンペーンによって、「ロッキード裁判を批判する側にこそ大義名分がある」との空気が醸成されつつある時だっただけに、本当に裁判がひっくり返ってしまう事態だって大いにあったと思う。何しろ歴代の法務大臣、元警視総監などが、みんなロッキード裁判批判の側にまわったのだ。

 筑紫さんは、味方に付ければこれほど頼もしい味方はなく、敵にまわせばこれほどやっかいな相手はなかったろう。筑紫さんには言葉の力があり、言うことに理があった。言論の力そのもの体現者だった。

 私は幸いなことにほとんどの場面を味方として過ごすことができたために、敵にまわした時の怖さを十分には知らない。しかし、世に筑紫嫌いの人もまた多いといえば多かった。筑紫さんの言葉の力(理の力)の反作用として、「言うことなすことに理を持たない人々」が、筑紫さんをこの上もなく憎んだからである。筑紫さんは性格的に八方美人にはなれない人で、こういう場面でそういうことを言ったら、また敵を作ることになるぞとわかりきった場面でも、平気で言うべきことを言った。「なんとなく時流に流されてものを言ってしまう」ということが決してなかった人だ。

 自分独自の見解を世に出すためにTBSの「NEWS23」に設けたほんの1分半の「多事争論」(異論反論オブジェクション)のコーナーこそ、そういう筑紫さんの真骨頂を示すものだ。スタジオで「本番まであと数分」というギリギリの時間に追われながら、その日の「多事争論」のためのメモを作る姿を何度も見た。あれば台本もテキストもなしで、走り書きのメモだけを頼りにやってのけた「準ぶっつけ本番」の口頭論説だった。いま活字で読める「多事争論」集を読んでみると、たった90秒の論説がその時代時代を映す実に見事な鏡になっていることに感心する。

 毎日分秒きざみで追われる生活の中で、よくぞあれだけの活動を15年以上の長きにわたってつづけられたと思う。

 最近、日本のジャーナリズムの歴史を語ってもらうには筑紫さんの自分史を語ってもらうのが一番と思って、筑紫さんにオーラルヒストリーを語ってもらううプロジェクトを始めたところだった。まだ新聞記者時代までしか聞いていないが、その中でも、あの土性骨(どしょうぼね)の強さの秘密の一端が聞きだせたと思っている。近いうちにそれを何らかの形で活字にできたらと思っている。」



 
4.筑紫哲也さんは、政治、経済、社会だけでなく、文化、芸能に関する領域までカバーしていました。
クラシックからロック、邦画・洋画問わず、国内・国外にわたって。
国内外の広告批評も紹介していました。「ニュース23」では。

「ニュース23」では、他の報道番組と異なり、積極的に文化や芸術に関してかなりの時間をさいて紹介していたのです。
黒沢明監督や指揮者の小沢征爾さんが出演し(東京新聞平成20年11月8日付朝刊25面)、見識を持って映画談議・音楽談議ができたことも、他の番組のキャスターではできなかったことです。


朝日ジャーナルの時代を振り返り、立花隆さんは次のように述べています。

「あの時、筑紫さんのあの決断(連載)がなかったら、群れをなして登場してきた批判者のキャンペーンによって、「ロッキード裁判を批判する側にこそ大義名分がある」との空気が醸成されつつある時だっただけに、本当に裁判がひっくり返ってしまう事態だって大いにあったと思う。何しろ歴代の法務大臣、元警視総監などが、みんなロッキード裁判批判の側にまわったのだ。」


法律の側にいた身としては、なぜ、首相の犯罪は免責すべきであるといったような「ロッキード裁判を批判する側にこそ大義名分がある」といった立場が世の中に蔓延したのか、不思議でなりませんでした。不可罰にする法的根拠はあまりも乏しかったのですから。おそらく法律界側の多くが、立花隆さんによる反論に賛同していたはずです。「朝日ジャーナル」だけが、真っ当な記事を掲載していたのです。

高く評価するべきこととしては、「統一協会(世界基督教統一神霊協会)」批判もあります。<1>統一教会は、洗脳・マインド・コントロールを行うカルト宗教であること、<2>先祖の因縁が不幸の原因であるなどと言った虚言で、ほとんど価値のない壺や多宝塔を法外な価格で販売しているこ(いわゆる「霊感商法」)、洗脳された信者たちを集めて、見ず知らずの相手と結婚式を行っていること(合同結婚式)、<3>大学のサークル活動と称して、統一協会の名前を隠して、大学内で入信活動を行っていること、<4>益の出口当たりで声を掛け、手相を見ると称して入信活動を行っていること(今でも、よく見かける)など、厳しい批判を繰り広げていたのは、筑紫哲也さんが編集長を務めていたときの「朝日ジャーナル」だけだったのです。何処の報道機関も躊躇して批判していない「統一協会」相手に対しても、徹底して批判するだけの矜持を有していたのです。今でも駅の出口当たりで入信活動を行っているにも係らず、「統一協会」を批判を行っている報道機関はほとんどないのです。


あらゆる領域にわたり、一定以上の見識・理の力をもって論じることができた、という視野の広さと深さがありました。(アナウンサー教育の際に新人アナウンサーに対して)「物事に対して偏見を持つな」と言い、少数意見を取り上げ、少数派であることを恐れない「自由人的ジャーナリスト」(日刊スポーツ)という、稀有な人物でした。

もちろん、「筑紫さんの言葉の力(理の力)の反作用として、『言うことなすことに理を持たない人々』が、筑紫さんをこの上もなく憎んだ」ようです(立花隆さんの論説)。それもまた、ジャーナリストであったという「勲章」といえるでしょう。


最近は、「WEB多事争論」というサイトに関わっていたようです。

「『Web多事争論』とは…。


2008年3月。18年あまり続いたひとつのニュース番組が終わりました。
「筑紫哲也 NEWS23」。自らの名を冠した番組の最後の放送で、
アンカー・筑紫哲也は自らが目指したニュースのあるべき姿をこう語りました。

「力の強い者、権力に対する監視の役を果たし」
「ひとつの方向に流れやすいこの国の中で、少数派であることを怖れず
多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由の気風を保つ」


(『多事争論』3月31日放送“変わらないもの”より)
『Web多事争論』は、この言葉に示された理念に共鳴する人たちによって、
新たに立ち上げられたウェブサイトです。
今後さまざまな立場からの情報の発信、問題提起を通じて、
“論を楽しむ”人々の輪を拡げてゆきたいと願っています。」


日本人は多数派に流れやすい日本人・日本社会において、少数派に耳を傾け、少数派を尊重し、「理」を説く者がどれほどいるというのでしょうか。天野祐吉さんが、「権力の重要な見張り番の一人が消えた」と嘆いているように、権力に対する監視という姿勢をはっきりと打ち出していた方でした。日本社会は稀有な人物を失ったように思います。




<11月9日追記>

誤解を招く記述の修正、追記を行いました。久米宏さんのコメントを、共同通信のものから、日刊スポーツの記事に差し替えました。

テーマ:政治・時事問題 - ジャンル:政治・経済

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コメント
この記事へのコメント
発見が去年5月、鹿児島に行ったのは今年の7月。

で帰京後すぐ息を引き取られたんですけど?

何でこんな記事の読み方になるんだろう?法律的について語ろうともおっしゃるお方が?
2008/11/09 Sun 08:42:41
URL | 通りすがり2 #-[ 編集 ]
>通りすがり2さん:2008/11/09 Sun 08:42:41
コメントありがとう。


>発見が去年5月、鹿児島に行ったのは今年の7月。
>で帰京後すぐ息を引き取られたんですけど?

「発見が去年5月」で、「鹿児島に行ったのは『今年の』7月」ですよね。それが、昨年5月に発見、昨年7月に全身にがんが転移した、と誤解を受けるような記述になっていました。ありがとう。感謝します。文章を書き直しました。

2008/11/09 Sun 21:56:20
URL | 春霞 #5oClkA7g[ 編集 ]
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 個人的には、かなりビックリしてます。主義主張の関係で嫌いな方が多いと思いますが、私は結構好きでした。何とも・・・・・  ご冥福を...
2008/11/10(月) 19:20:45 | Ali della liberta (in Stadio)
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2008/11/15(土) 21:51:43 | ????Υ???Q
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