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主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
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2006/09/15 [Fri] 00:04:14 » E d i t
坂東眞砂子氏が産まれた子猫を直ちに、自宅の隣にある高さ15~20mの崖から投げ落として殺害する行為は、フランス刑法上、動物虐待罪に該当し、日本で行えば動物愛護法上、動物虐待罪に該当することは、すでに何度も述べている通りです(「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(上)」「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(中)~フランスのペット法事情」「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(中)(追記)~J-CASTニュースがタヒチの動物愛護団体に問い合わせ」「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(下)~「物」から「者」への狭間で」参照)。

動物虐待はその行為自体、欧米や日本では犯罪ですが、動物虐待はもっと広がりのある問題ではないか、として研究が進みつつあります。東京新聞(9月12日付夕刊)において、横山章光助教授が「犯罪抑止力としての動物虐待研究」という論説を書いているので、これを紹介したいと思います。これは、「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(下)~「物」から「者」への狭間で」の最初に問題点として指摘した「動物虐待の影響」の問題です。


1.東京新聞(9月12日付夕刊7面「文化欄」)

犯罪抑止力としての動物虐待研究 横山章光

 陰惨な青少年犯罪が起こるたびに、その前兆としての動物虐待歴が語られることが多い。例えば、神戸児童連続殺傷事件や西鉄バスジャック事件などの加害者が事件を起こす前に動物虐待を行っていたことが明らかとなっている。驚いたことに、日本では動物虐待の研究はほとんどなされておらず、ただただ『おどろおどろしいもの』として事件のあとに語られるだけである。

 ☆ ☆

 しかし欧米ではその行動に科学のメスが入り、成果を挙げ始めている。『動物虐待研究』の方向性をまとめてみると、

 <1>子どもの発達との関係

 幼い子どもは好奇心から動物をいじめてしまうことがある。成長してくると非行の一つの形として集団的な動物虐待がありうる。『他』を認識、共感することは成長段階と非常に関係している。

 <2>犯罪との関係

 動物虐待をする者がしない者と比べて、後に対人暴力を起こす可能性がかなり高いことや凶悪犯罪(特に対人暴力や殺人、性犯罪)者を調べると過去に動物虐待行動があった確率が高いことなどから、動物虐待は犯罪への第一歩であり、見逃してはならない。

 <3>小児虐待やDV(家庭内暴力)との関係

 小児虐待がある家ではペットも虐待されている可能性が高く、虐待されている小児がペットをいじめる場合も多い。DVのある家では暴力者がペットも虐待している可能性が高く、それを子どもが目撃している場合も多い。現在では『動物虐待』『小児虐待』『DV』がリンクしていると考えられている。

 <4>精神疾患との関係

 子どもにおける行為障害、成人における反社会性人格障害が動物虐待を引き起こす可能性があること。また獣姦など性嗜好(しこう)異常も隠れた問題であること。

 ――などが挙げられる。

 ☆ ☆

 従来ペットについての問題は、動物愛好家以外にはそう関心を持たれなかった。その理由のひとつとして、子どもは社会に属するが、ペットは個人に属するものであるからである。

 しかし動物虐待問題はそこに潜む様々な対人暴力の観点から社会全体が考えていかなければならない問題であろう。そのためには、

 ▽あらゆる分野での調査=日本では全くデータがないため、各分野での早急な調査が必要である。例えば、少年院や刑務所に入った者がどれぐらいの割合で動物虐待を行っていたか、一般の子どもや成人ではどのぐらいなのか、小児虐待やDVが関与している場合はどうなのか、獣医療現場や精神医療現場ではどのぐらいなのか。

 ▽協力体制の構築=動物虐待が発見される現場としては、教育・司法・医療・福祉・獣医療など様々な場所が考えられる。これらの分野がお互い学び合い、連絡を密にして速やかに情報を伝え対処していく。

 ▽教育=動物虐待を根っ子から絶つためには教育の関与が重要となる。どういう教育をすれば動物虐待が、そして対人暴力が減るのか、命の大切さや相手の立場に立って行動することを子どもたちにどう教えていくか。

 ――などが必要であろう。

 今年五月に来日したこの分野の第一人者である米ユタ州立大学のフランク・アシオーン教授は全国でシンポジウムを開き、この研究を進めていくことの重要性を説いた。彼の近著『子どもが動物をいじめるとき 動物虐待の心理学』も翻訳され、我が国でも研究会などが開かれていく予定である。

 ☆ ☆

 凶悪犯罪や小児虐待・DVなどへの対策が叫ばれているが、依然として我が国における動物虐待の全体像は曇ったまま見えていない。シンポジウムに参加したある政治家はこう発言した。『自分は今まで小児虐待の法律作成にも関与してきたし、動物愛護法改正にも関(かか)わってきた。しかしこの二つが関係あるなどとは思ってもみなかった』。今までと違った全く新しい視点が必要なのである。

 様々な分野が協力した研究・連携・対策が急がれる。

 (よこやま・あきみつ=帝京科学大アニマルサイエンス学科助教授、精神科医、ヒトと動物の関係学会事務局長)」



2.要するに、動物虐待研究の成果からは、<1>子どもの発達との関係、<2>犯罪との関係、 <3>小児虐待やDV(家庭内暴力)との関係、<4>精神疾患との関係があることが分かって来ているということです。

(1) この解説をはっきりとした言い方に言い換えると

<1>子どもの発達との関係では、成長後の虐待は非行の一つといえること、
<2>犯罪との関係では、動物虐待をする者は、後に対人暴力を起こす可能性がかなり高く、凶悪犯罪(特に対人暴力や殺人、性犯罪)を起こす前兆であり、動物虐待は犯罪への第一歩であること、
<3>小児虐待やDV(家庭内暴力)との関係では、動物虐待を行っている者の家庭では小児虐待やDV(家庭内暴力)を行っている可能性が高く、『動物虐待』『小児虐待』『DV』の3つはリンクしていること、
<4>精神疾患との関係では、動物虐待は子どもにおける行為障害、成人における反社会性人格障害の表れであり、性嗜好(しこう)異常の表れでもあること、

と説明できると思います。
こう書くと、動物虐待が及ぼす影響は、単なる倫理観・死生観の違いや(子猫殺しを普通にしてきた一部の日本人がしていた)昔の日本への郷愁や、坂東眞砂子氏が言う「愛の不妊というビョーキ」ではおよそ正当化できない、深刻な問題であることが分かると思います。



(2) このような動物虐待研究の成果からすると、坂東眞砂子氏に対して、次のような評価ができると思います。

坂東眞砂子氏は、対人暴力を起こす可能性がかなり高く、凶悪犯罪を行う可能性もありえることになり、子どもがいれば虐待している可能性があり、同居人に対してDV(家庭内暴力)を行っている可能性があり、坂東眞砂子氏は、本当に、反社会性人格障害を患っているかどうかは不明ですが、反社会性人格障害を患っている可能性があるといえます。

坂東眞砂子氏は、一度だけ子猫殺しをしたわけではなく、子猫殺し・子犬殺しという犯罪行為を常習的に行い、その行為を(子猫殺しについては明確に)正当化しているのですから、極めて危険で悪質なので、十分にありえる評価だと考えます。



(3) 坂東眞砂子氏の精神状態が危ういことは、日経新聞のエッセイと週刊現代での反論を読み比べるとよく分かるのではないかと思います。


日経新聞のエッセイの段階では、最初に「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだとう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが」として、自らのした行為の反社会性を認識しているように書き、「(子猫殺し)それに伴う殺しの痛み、悲しみを引き受けてのことである」と苦悩を見せていました。

ところが、週刊現代の反論では、「タヒチではおおっぴらに話されることはなくても、一般的に子猫子犬が棄てられている。しかし刑に問われたとは聞いたことはない」と述べて、まるで犯罪性がないかのように開き直っています。また、「この騒動を通して見えてくるのは、社会がいかに病んでいるかということだ。子猫殺しに対する病的な攻撃はやめて」と書いて、批判する側すべてを病気扱いし、もはや自らが犯した罪への苦悩の説明はなく、苦悩の気配は皆無になってしまいました。
「子猫殺しをするしかなくなる。拷問である」などと、あたかも他人から暴力を受けたかのような言い回しを使うことは、「『するしかなくなる』行為が『拷問』である以上、自分以外の誰かに強いられた苦痛というニュアンスになって、自省の意味合いはまったく読み取れない。」(「黒猫亭日乗」さんの「『週刊現代』私の反論」より)のです。


また、日経新聞のエッセイでは「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」として、猫を擬人化し、飼い猫の側の視点から正当化していました。

ところが、週刊現代での反論では、坂東氏は、飼猫に不妊手術を施すことは「自分自身に不妊手術を施すのと同様の気分だ」から、避妊手術をしないのだとして、飼猫と自己を同一化し、飼猫に自己を投影させてしまい、坂東氏自身の視点からの正当化に摩り替えてしまいました。

このように、批判されてしまう内容を書いていたのに、批判する者はすべて病気扱いにする精神状態批判を「子猫殺しに対する病的な攻撃」扱いする精神状態日経新聞のエッセイとの内容と、週刊現代での反論での内容を変容させてしまっても平気な精神状態なのです。坂東氏の精神状態の危うさを感じています。


(4) 週刊現代の反論だけを読んでも、精神状態の危うさが感じられます。

坂東氏は、「子猫を崖の下に投げ棄てるたびに頭の中が真っ白になり、恐怖と動転に襲われる。しかし、不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穽を前にする気分になる。どちらを向いても、恐怖と動転がある。そりゃ、ビョーキだよ。」と書いています。

これは、子猫を殺す行為で「恐怖と動転」に襲われているのに、止めることなく何度も繰り返し「恐怖と動転」を味わっています。なぜ、一度で止めることなく、何度も繰り返し「恐怖と動転」を味わうのでしょうか。あまりに危うい精神状態です。

また、不可解なのは、自ら不妊手術を受けないのに、猫を擬人化し、猫が不妊手術を受けることで被る不利益を想像するという抽象的な「恐怖と動転」を感じてしまい、しかも抽象的な「恐怖と動転」よりも、実際に投げ殺すという具体的な「恐怖と動転」の方を何度も実践してしまう点です。なぜ、不妊の部分だけ猫を擬人化し、具体的な「恐怖と動転」の方を何度も実践してしまうという合理性に欠けた行動を行うのか、その精神状態は、あまりに不可解です。

これらの点からしても、坂東氏の精神状態の危うさが感じられます。坂東氏は自らのことを「ビョーキ」と何度も書いている以上、本音かどうかは不明ですが、「ビョーキ」と指摘されても仕方がないはずです。



 
3.坂東眞砂子氏自身の問題とは別に、坂東眞砂子氏が犯罪の正当化を繰り返し発表し、坂東眞砂子氏による動物虐待を大して悪いことではないと述べるブログや、東野氏のように「自分には罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればいい」として擁護する文章を流すことの影響を懸念しています。


(1) 犯罪を正当化したり、大して悪いことではないと喧伝すると、動物虐待を行う者が増加する可能性が高くなります。動物虐待は、対人暴力、特に凶悪犯罪を行う前兆ですから、「動物虐待を根っ子から絶つためには教育の関与が重要」となります。

それなのに、犯罪を正当化したり、大して悪いことではないと喧伝すると、動物虐待を助長するような教育効果を持つことになり、凶悪犯罪を抑止できない結果になります。他方で、動物虐待を行う者にとっても、凶悪犯罪を実行しないうちに阻止できれば、加害者にならず、一生の大半を刑務所で過ごしたり、死刑にならずにすむのに、それができなくなるのです。



(2) 「大して悪いことではない、騒ぎすぎだ、非難しすぎだ」と喧伝すること。この「大して悪いことではない」という言い分は、動物虐待に限らず、聞き覚えのあることです。例えば、「万引きは大して悪いことではない」とか、「飲酒運転は大して悪いことではない」とか。DVも以前は「『自分の言うとおりにならない妻を殴ることは夫として珍しくない行為であった』ことから、大して悪いことではない」とされていました。

「飲酒運転は大して悪いことではない」と思う意識があるからこそ、飲酒運転による事故によって、多くの人命が失われても、危険運転致死傷罪(刑法208条)という重罰化規定を創設しても、「自分は事故を起こさない」と思い込み、あげく多数の人を死傷させる事故を起こしてしまうのです。

飲酒運転の法改正へ、酒類提供に罰則新設
 
 飲酒運転による重大事故が相次いでいることを受け、警察庁は、運転手にアルコールを提供した人にも罰則を科す規定を道路交通法に新設する方針を固めた。

 同法には、アルコールを提供してはいけないという条文はあるものの罰則がなかった。

 同庁では、飲酒運転に甘い現状を変えるため、運転者だけでなく、周囲にも厳しく責任を問う姿勢を打ち出す。さらに、道交法違反(ひき逃げ)の懲役刑についても、現行5年以下から10年以下に引き上げる。いずれも、来年の法改正を検討する。……」YOMIURI ONLINE(2006年9月14日14時36分 読売新聞)


このように、今後はさらなる重罰化が予定されていますが、「飲酒運転は大して悪いことではない」と思う意識が変わらなければ一向に飲酒運転は減らないのです。


DVも、ドメスティック・バイオレンス(DV)防止法で処罰や接近禁止命令や退去命令があるほどの犯罪なのです。万引きも窃盗罪(刑法235条)という犯罪であって、もし万引き後逃げる途中で店員を殺傷すると、強盗致傷罪(負傷で無期又は6年以上の懲役、死亡で死刑又は無期)という重罪が問われるほどの深刻な問題なのです。

しかし、DVも万引きも「大して悪いことではない」という意識のままでは、一向にこれらの犯罪は減らないのです。



(3) もし、「大して悪いことではない」として、性犯罪の芽を摘むことができないと、再び性犯罪を犯す可能性が高くなります。

今度は女子高生に痴漢行為、植草教授を現行犯逮捕
 
 女子高生のスカートの中を手鏡でのぞこうとしたとして有罪判決を受けた名古屋商科大客員教授の植草一秀容疑者(45)(東京都港区白金台)が、電車内で女子高生に痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条例違反の現行犯で警視庁蒲田署に逮捕されていたことがわかった。

 調べによると、植草容疑者は今月13日午後10時10分ごろ、品川―京急蒲田間を走行中の京浜急行の電車内で、神奈川県内の高校2年の女子生徒(17)の下半身を触った。女子生徒が「やめてください」と声を上げたため、植草容疑者は周囲の乗客に取り押さえられ、京急蒲田駅で同署員に引き渡された。植草容疑者は当時、酒に酔った状態で、調べに対しては「覚えていない」と否認しているという。

 植草容疑者は一昨年4月、JR品川駅構内のエスカレーターで女子高生のスカートの中を手鏡でのぞこうとしたとして、現行犯逮捕された。裁判では「誤認逮捕」として無罪を主張したが、罰金50万円の有罪判決が確定している。

 この事件で植草容疑者は早大大学院教授を解任されたが、今年4月から名古屋商科大大学院の客員教授として、「国家の経済政策」をテーマに講義していた。」YOMIURI ONLINE(2006年9月14日13時48分 読売新聞)


植草一秀氏はまた性犯罪で逮捕されましたが、今度で3度目です。こうなっては、被害者に精神的ショックを与えるだけでなく、植草一秀氏にとっても今までの人生が台無しになり、家族もずっと居た堪れない思いですごさざるを得ません。これは、あまりに不幸極まりないことです。



(4) 窃盗罪という犯罪なのに「万引き」と言い換え、売春という犯罪なのに「援助交際」と言い換え、動物殺害という犯罪なのに「間引き」と言い換える。どれも、犯罪性を薄め、遵法意識を鈍磨させる効果をもたらしています。

「たかが間引きじゃないか、坂東氏の行為は大して悪いことではない」「自分には罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればいい」。いずれも犯罪を薄め、遵法意識を鈍磨させています。こういう意識が他の犯罪の場合にも波及してしまうのではないか、との危機感を抱いています。

坂東氏の犯罪行為を「大して悪いことではない」などと擁護することは、動物虐待を行う者を増加させ、凶悪犯罪のみならず、犯罪行為をためらう規範意識を失わせ、より社会不安をもたらす危険な行為であるのです。


もしかしたら、坂東氏の犯罪行為を正当化し、動物虐待を大して悪いことではない、「自分には罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればいい」として、坂東氏の子猫殺しを擁護する人達は、動物虐待を行った経験があるのではないか、との危惧感をもっています。

へたをしたら、すでに小児虐待やDVどころか、凶悪犯罪を行う一歩手前までの状態にあるのかもしれないとの危惧感も的外れではないかもしれません。すでに述べた「動物虐待研究」の成果からすれば、常習的で悪質な子猫殺しでさえ擁護するのですから、少しも大げさなことではないと思えるからです。

どれも危惧感で留まることを祈るばかりです。


なお、評論家・呉智英氏は、「坂東眞砂子『子猫殺し』を論ず」(文藝春秋2006年10月号で、「私は、子猫殺しに賛成しない」とはっきり明示しつつ、表面的には坂東氏を擁護しています。しかし、わざと間違った動物愛護法の理解を提示してそれを根拠に擁護しているので、本音の部分では坂東氏の擁護になっていない論説なのです。これは、呉智英氏の「いつもの遊び」であり、これならまだマシなのですが。
追記「黒猫亭日乗」さんの「呉智英の軽率」が説明する動物愛護法の説明は正しいので、正しい理解はそちらで。呉智英氏は昔から無茶苦茶な法理論・法解釈をするので、論理遊びとして面白かったが、今回は程度が低すぎて面白くないです。)




4.今までも色々書いてきましたが、このエントリーの締めとして、東京新聞平成18年9月14日付朝刊14面の「言いたい放談」での湯川れい子氏のコラムを引用してみたいと思います。

慈悲を失った人間  湯川れい子

 風邪をひいての休日。新しい週刊誌をぺらぺらとめくっていたら、例の『子猫殺し』の女性作家に対する、友人という人の立派な援護射撃の文章が載っていた。

 フランス領タヒチでは、子猫殺しはかなりの罰金を払わされ、場合によっては逮捕もあり得ると聞き、やれやれと少し胸をなで下ろしていたのに、また熱がぶり返した。

 私はとくに猫が好きだというわけではない。でも、犬も猫も、人間が飼い慣らして数千年。もはや野生では生きられないのだから、その生命と暮らしには等しく責任があると思っている。生殖能力を奪い取るのは残酷だ、と避妊せず、生まれてきた子猫を『自分の痛みの責任において』投げ殺す。そのどこが気持ち悪いかといったら、性と生殖を切り離して考えている人間の身勝手さだ。

 人間以外のあらゆる動物は、子孫を生み育てるために交尾する。そして彼らは命がけで出産し、寝食を忘れて子供を育てるのだ。

 つかの間の快楽のために、平気でメスを殺したり、我が子を殺したりするのは、この厳粛ないのちの営みを忘れてしまった“下等”な人間たちだけである。生きていくうえで、慈悲の理念を忘れてしまったら、もはや人間は人間ではない。いやな社会になったものだ。

 交尾はさせてもらえても、この後に命がけで生んだ子猫を取り上げられた母猫は、さぞ悲しんで子どもたちを探し回ったことだろう。あどけない無力な命を奪うことに、どんな理屈も要らない。
                       (音楽評論家)」


坂東氏がどう正当化しようと、どう擁護しようと、「生きていくうえで、慈悲の理念を忘れてしまったら、もはや人間は人間ではない」のです。

ずっと法的観点、動物学の観点、犯罪抑止の観点から、坂東氏の理屈や行為を非難してきました。しかし、「あどけない無力な命を奪うことに、どんな理屈も要らない」のです。生まれてきたばかりの無力な命をたびたび奪うことに対して、自然と、「おぞましい、嫌悪感をもつ、異常である」と意識することこそ、大事なことなのではないかと思うのです。




<9月16日追記>

「真空亭別館別館/2次元雑記」さんの「[雑記]それはたったひとつの冴えたやり方じゃない。その2「死はさだめ、さだめは愛」」(2006-9-10)からの一部引用です。週刊現代での坂東氏の反論、東野氏による擁護論に対して、論理的な反論を行っています。

「東野氏の見解を大雑把にまとめると、「坂東氏の行為は、倫理的な問題ではなく、社会的責任の問題として読み解くべきである」というもので、すなわち、倫理的には明らかに問題視される仔猫の殺害は、社会的責任という観点で言えば「猫を必要以上に増やさない」という意味において避妊手術と同等であり、避妊手術が容認されている以上、子猫の殺害もまた容認されるべきである、ということになります。

 ではその社会的責任とはなんでしょう。

 坂東氏によればそれは「人間の生活環境を害する」野良猫を放置してはいけないというものだということなのですが、氏の場合にこれを当てはめてみると、生まれた子供をその場で殺すことは、野良化することを完璧に防ぐわけなので、確かに社会的責任を果たしているといえるでしょう。

 もっとも、初めから生ませなければ、そういう社会的責任を負う必要もないのですが、そこは「坂東氏の信念」です。なんとしてでも飼い猫の交尾と妊娠は守らないとならないのです。そして一匹たりとも余剰の猫を育てるつもりなどはないのです。……

 かくして多数の仔猫の屍とともに「社会的責任」は果たされた――ということになります。両氏の主張の上では。

 しかし、「人間の生活環境を害さない」とは、野良猫を出さないことだけで終わりでしょうか? 放置された猫の死体はどうなるのでしょう。タヒチには野生動物の死体がごろごろ転がっているらしいので、問題ないということですが、産業廃棄物の不法投棄地帯にも同じことが言えそうな論理で、説得力に欠けますし、仔猫たちは「野生」ではどう考えてもありえないので、自然現象と見ることも無理です。定期的にペットの生んだ仔猫を投棄する人間というも一種の自然現象であるかもしれませんけども。

 死体だけの問題ではありません。坂東氏の三匹の雌猫たちの問題があります。生の充実を与えられた(あくまで坂東氏的な価値観によってですが)三匹の猫たち、彼女らはどうやって暮らしているかというと、放し飼いなのです。

 考えてみてください。放し飼いの猫たちは人間の生活環境に害しないのでしょうか? 坂東家の三匹の雌猫はちゃんと坂東家の敷地内でのみトイレをし、虫を取り、発情期には近所には聞こえないような声でしか鳴かず、それ以外ではいっさい悪戯などはしないように躾けられているのでしょうか? 避妊すらしない「生の充実」が正しいという信念の坂東氏がそういう「非自然的な」躾けを猫に行なっているとは到底思えません。この場合たまたま三匹とも雌だったからよかったようなものの、雄猫だとすると、あたり構わず種付けをして回って、野良猫を増やす元凶になるわけですが、社会的責任の名において、坂東氏に飼い猫の去勢ができるかというと非常に疑問です。

 それでなくても放し飼いというのは非常に飼主が責任をとりにくい飼い方なのは、考えなくてもわかることです。自宅から遠く離れた散歩先で猫がした粗相を飼主はいちいち突き止めて清掃するでしょうか? 

 ぶっちゃけ、放し飼いの猫と野良猫とを隔てる垣根は限りなく低いのです。東野氏の言うところの「害獣化」を防ぐには「室内飼い」かそれに準じた、猫が外に出られない敷地内で飼う以外ないのです。

つまり坂東氏は自身の規定した社会的責任すら達成しているわけではないのです。

坂東氏のいう社会的責任を果たすとは、せいぜい、仔猫を生かさないことだけなのです。。……

 とりあえず現在のところわかっているのは、坂東氏のいう生の充実とは、苦痛を伴う交尾、「結果」の得られない妊娠と出産――この二点に尽きているいうことです。

 果たして、これのどのあたりに「生の充実」があるのか、非常にわかりにくいものがあります。否、はっきりいってまったく理解できません。一体、坂東氏の「正義」は那辺を見据えたものなのでしょう。信念とはかっこいい言葉ですが、一貫性や説得力がなければただの妄執であるように思えます。妄執が言い過ぎに聴こえるようならば、思い込みでもいいでしょう。どちらにせよ、それはどこまでも個人の価値観の発露であり、論理的根拠をもたないものでしかないように見えるのです。

 そもそも、猫に生きがいという概念があるという発想に過剰な擬人化があってその時点ですでに首肯できないものがあるわけですが……。

 かように坂東氏の「信念」は謎めいたものであり、坂東氏と東野氏の文章の根本的な問題点はおそらくことにあるのです。すなわち「信念」を絶対的根拠としたこと。

 台が砂なら楼閣は簡単に崩れます。

 そのことに、二人は思い至らなかったわけです。東野氏は猫に話し掛けたり、キリストの口真似をしたり「私は罪深い」などと言っている暇があったなら、「坂東眞砂子の猫たちが確保している『生』」とやらを無条件に前提化せず、その実体と理論的根拠をもっと考えるべきだったのです。……

 なぜ親猫の生の充実を最大限に確保するのに、生まれた仔猫はゴミ同様の扱いをするのか? 

 放し飼いという選択に社会的責任を果たせるものなのか?

 このあたりを曖昧にしたままで、いくら日本社会の歪みや生命を所有する傲慢といっても、何の説得力もないのです。」


「放し飼いの猫と野良猫とを隔てる垣根は限りなく低いのです。東野氏の言うところの「害獣化」を防ぐには「室内飼い」かそれに準じた、猫が外に出られない敷地内で飼う以外ない」。実際上、放し飼いの猫と野良猫とを隔てる垣根は限りなく低いことは、「猫害」を受けている人の方が実感しているかもしれません。
坂東氏のいう「社会的責任」を果たすために子猫を殺し、他方で、放し飼いによって生じる「社会的責任」は果たさないのでは、説得力はありません。論理が一環しないのです。坂東氏の日経新聞でのエッセイや東野氏の擁護論で主張する「社会的責任」には、全く説得力はありません。

「真空亭別館別館/2次元雑記」さんは、坂東氏の行動と理論に無理があることを、はっきりと指摘しているわけです。ここでは一部を引用させて頂きましたが、全文読むことをお勧めします。

テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

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2006/09/16(土) 12:46:44 | 雑談日記(徒然なるままに、。)
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2006/09/16(土) 22:21:41 | 黒猫亭日乗