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1.J-CASTニュース:「子猫殺し」直木賞作家 タヒチ刑法に抵触か : 2006/8/28
「「子猫殺し」直木賞作家 タヒチ刑法に抵触か
2006/8/28
日経新聞に掲載された直木賞作家・坂東眞砂子さんのエッセイ「子猫殺し」が大きな波紋を呼んでいる。J-CASTニュースには「理解できない」といった意見のほかに、「法律に抵触するのでは」「動物愛護法について取り上げてください」という声も寄せられた。では、タヒチでの「子猫殺し」は法律的にどうなるのか、現地の動物愛護団体に直接問い合わせた。
日本の動物愛護管理法では「愛護動物をみだりに殺し又は傷つけた場合は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金」とある。「子猫殺し」にある行為が「みだりに」かは判断が分かれるが、環境省によれば、「生まれたら殺すを繰り返していれば、それは『みだり』が当てはまるかもしれない」という。ただし、これまでに「間引き」で動物を殺害したことが問題になった事例はなく、「あくまでも司法の判断」によるという。もっとも、坂東さんが「私は子猫を殺している」というのは、タヒチでのことであって、日本の法律は適用されない。では、タヒチではどうなのか。
■安楽死は獣医にのみに許されている行為
タヒチは、正式名称を「フランス領ポリネシア」といい、フランス領であるために、フランスの刑法が適用される。タヒチの動物愛護団体「Fenua Animalia(主要ポリネシア動物愛護協会)」にフランス語で質問を送ると、英語で返答があった。それによれば、「子猫殺し」にはフランス刑法「art.R655-1」が適用されるという。これには、「むやみに、飼っているあるいは管理している動物を意志を持って殺害すると、762.25〜1,524.5ユーロの罰金(再犯の場合は3,049ユーロまで)が課される」とある。「むやみに(必要なしに)」が該当すれば、あきらかに「違法」だ。また崖から突き落とす行為が「残虐行為」に該当すれば、「禁固2年と30,000ユーロの罰金」が該当し、さらに罪は重くなる。
J-CASTニュースがコンタクトをとった同協会副会長のエリックさんは、「子猫殺し」のエッセイで描かれた行為は、「個人的な安楽死行為」にあたり、フランス刑法「art.R655-1」が適用され、「法律に触れる」と見ている。
「ペットの安楽死は獣医にのみに許されている行為です。個人によるすべての安楽死行為は法によって虐待とみなされ、最も重い刑を科されます」
しかし、こうした事例によって実際に法が適用されて処罰されるケースは日本と同様にタヒチでもほとんどないという。
■「彼女は主に個人的な名声のためにこのエッセイを書いたのではないか」
また、エリックさんは次のように言う。
「現在の私の意見では、彼女は主に個人的な名声のためにこのエッセイを書いたのではないかと思います。そして、彼女が望んでいたことをするのに、このエッセイで大きな騒動を起こしたことは、最良の方法ではなかったのでは」
タヒチ観光局では、「子猫殺し」に関連した内容で20件ほどの問い合わせがあった。同観光局では、坂東さんの「子猫殺し」のエッセイに対して次のよう述べた。
「すごく残念です。結果的にタヒチに対して悪いイメージを持たれたかもしれない。坂東さんが持っていた意志とは違った意味で捉えられてしまったのだと思います」
タヒチの動物愛護団体も観光局も、「タヒチでも到底受け入れられることではない」といった思いが強い。法的にも、倫理的にも、である。ただ、両者とも坂東さんの「子猫殺し」のエッセイは、彼女自身が狙った「意図」とは、ずいぶん違った結果を生んでしまったと考えている点では共通している。」
2.「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(中)〜フランスのペット法事情」でも、フランス刑法の適用があることを紹介しました(ただし、紹介した論文の発表時の法律は、1999年法であり、現行法ではありませんでした。申し訳ありません。)。
J-CASTニュースが、タヒチの動物愛護団体に直接問い合わせると、
ということですから、坂東氏の行為は「残虐行為」に該当し、「禁固2年と30,000ユーロの罰金」に処せられることになりそうです。「J-CASTニュースがコンタクトをとった同協会副会長のエリックさんは、「子猫殺し」のエッセイで描かれた行為は、「個人的な安楽死行為」にあたり、フランス刑法「art.R655-1」が適用され、「法律に触れる」と見ている。
「ペットの安楽死は獣医にのみに許されている行為です。個人によるすべての安楽死行為は法によって虐待とみなされ、最も重い刑を科されます」
もっとも、事例によって実際に法が適用されて処罰されるケースはほとんどないそうです。その理由は、立証の問題があるでしょうし、通常、飼主であれば、1回限りのやむを得ない殺害であって、坂東氏のように繰り返し何年も何匹も子猫を投げ殺すことはしないから、処罰しなくてよいと判断していると思われます。
ただ、処罰されるケースが殆どないとはいえ、坂東氏の子猫殺しは犯罪行為に当たりうることはかわりがありません。そのことはしっかり認識しておく必要があります。
3.タヒチ観光局の反応については、「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(上)」でも紹介しましたが、この記事でも、坂東氏の「子猫殺し」のエッセイに対して、
「すごく残念です。結果的にタヒチに対して悪いイメージを持たれたかもしれない。坂東さんが持っていた意志とは違った意味で捉えられてしまったのだと思います」
と述べています。
タヒチに暮らす一般の人々は、坂東氏と同様の考えなんて持っておらず、 坂東氏が産まれる度に子猫を投げ殺して動物虐待をしていますが、それは稀有なことであって、タヒチでは「坂東氏のような動物虐待」が日常的に行われているという事実はないのです。タヒチ観光局は、坂東氏のような動物虐待が一般的なタチヒの状態と勘違いされることは迷惑だと感じているのです。
4.主要ポリネシア動物愛護協会副会長のエリックさんは、「坂東氏は、このエッセイにより共感を得て、名声を得ようとしたのではないか」と考えているようです。
坂東氏の意図はともかく、
のです。タヒチでも法的・倫理的に許されず、日本の動物愛護管理法によっても犯罪行為であり、法的にも許されないのです。現地(タチヒ)でも日本でも法的に許されない行為は、坂東氏がどう正当化しようとしても、法治国家においては許されないのです。「タヒチの動物愛護団体も観光局も、「タヒチでも到底受け入れられることではない」といった思いが強い。法的にも、倫理的にも、である。」
コメント欄で触れたことですが、坂東氏は、自然豊かで何匹猫を飼っても近所迷惑にならない高級リゾート地のタヒチで、子猫を飼う財政的余裕が十分にあって、優雅に暮らしているのですから、子猫を殺す必要がありませんし、避妊手術する必要もないでしょう。
「日経の読者の大半は……自然が失われた狭い日本で暮らし、殺伐とした日常の癒しのためにネコを飼っている。そういう人たちに向かって、南太平洋の楽園で印税暮らしの作家が「子猫殺しの話」をしても共感は得られないだろう。……日本の都市部での「生死の意味」はタヒチのものとは全く違うのだ。そういう条件を考えるセンシビリティが全く欠けている。」(「FRENCH BLOOM NET」さんの「2006年08月27日:週刊フランス情報 21 - 27 AOUT 「子猫殺し」作家、フランス刑法に抵触?」)
タヒチと日本とは、環境が全然違うのです。坂東氏がタヒチで優雅に暮らしながら子猫殺しを正当化しようとしても、説得力は皆無だと思います。
<8月31日追記>
なぜ板東氏が「交尾と出産」にこだわるのか、分かりませんでしたが、性に対する関心が強いからだったようです。江戸の性風俗を描いた春画に小説を組み合わせた短編集『春話二十六夜』(新潮社)を出版したときのインタビュー記事から板東氏のコメントを抜粋します。
「ZAKZAK:坂東 眞砂子 縛りのないエロスを (1/17) 」
「「現代の日本では性はタブー視されている上、冷たい扱いを受けているが、昔はちがった。性をめぐる精神的な“縛り”を解き放つために選んだモチーフが春画でした」
「江戸時代までさかのぼり、春画を通して理想的な性を描きたかった」。
「生の根源は欲望。現代人にとって希薄になってしまった皮膚感覚を取り戻すためにも性は重要なテーマなのです」
板東氏は、こういう価値観をもち、それを徹底したからこそ、猫も人と同じように「交尾が大切だ」という価値観を持ったということなのでしょう。
テーマ:びびっと!からつニュース - ジャンル:ニュース
今回の件は、最後に上げてくださった「週刊フランス情報」の内容で、すべて言い尽くされている気がします。
で、質問なのですが。
坂東氏の文章が、日本の法律に反する主張を含み、書かれている行為が事実であれば、現地・フランス領タヒチの法律で処罰される可能性があるとのこと、理解しました。
では、日本でこの文章を掲載した日経新聞には、法的な責任は発生しますか?
私は、厳密には発生しないと思いますが、もし触れるとしたら何に抵触する可能性があるのか興味があります。教えていただけるとありがたいです。
気を悪くなんてしてません。ご安心下さい。元々、共感されているところに、「共感」できないなんて書いたわけですので…。
>今回の件は、最後に上げてくださった「週刊フランス情報」の内容で、
>すべて言い尽くされている気がします
あれ? 私が、美也子さんのブログで書いたこととあまり変わらないと思いますけど…。
「この考え方は、あまりに安易で危険です。人のできることには限界がありますから。猫が増え続ければ、いずれ手に負えなくなります。坂東さんだって、いつでもいつまでもお元気でいられるわけではないですし。だから、私も坂東さんも悩むんですよ。」
というコメントでしたから、批判的だと思っていました。
日本とタチヒの環境の違いについて、付け加えるならば。坂東氏のエッセイを読むとタヒチでは室外飼いが普通なのかもしれませんが、今や日本では室内飼いが普通ですね。
さて、この子猫殺し問題には、いくつかの問題点があります。
日本とタヒチとの環境の差、坂東氏の法的責任、坂東氏の倫理的問題、避妊手術の理解度、日経新聞の責任、動物虐待の影響です。最初の2つはこのブログで触れました。
倫理的問題点については、↓の「カウンセリングルーム」さんが秀逸です。ぜひご覧下さい。私は納得できる内容でした。
http://charm.at.webry.info/200608/article_12.html
避妊手術の理解度については、↓「All About(オールアバウト)」「ネコ」の欄です。
http://allabout.co.jp/pet/cat/closeup/CU20050220A/index.htm
避妊手術の利点が書いています。また、発情抑制剤の入ったインプラント手術による避妊手術があるので、妊娠不可能な避妊手術ばかりではないのです。今は薬効は4年に延びているようです。
>日本でこの文章を掲載した日経新聞には、法的な責任は発生しますか?
>私は、厳密には発生しないと思いますが、もし触れるとしたら何に抵触
する
>可能性があるのか興味があります。教えていただけるとありがたいです。
基本的には、著者の表現の自由(憲法21条)の問題ですから、一般論としては、その自由はできる限り尊重する必要があります。それゆえ、原則として、日経新聞も内容変更・掲載停止は控えるべきで、法的責任を負わせることは好ましくありません。
ただし、坂東氏のエッセイは犯罪行為を正当化し、奨励するものですから、公共の利益を害するものとして制限を受ける言論であることは確かです。これが憲法論のスタンスだと思います。
法的責任としては、「犯罪を正当化し、犯罪を奨励するエッセイを載せた新聞(媒体)には、不法行為責任が生じるのか」という問題です。
こういう「新聞(雑誌)の媒体責任」については、新聞や雑誌の広告で詐欺を受けた被害者が新聞・雑誌に媒体責任として不法行為責任(民法709条)を求めた事件については、最高裁・下級審判例が幾つかあります。責任を否定したものと肯定したもの両方あります。
学説上は、「新聞社には、広告内容に法的に違法性があるかどうかの調査義務がある」というのが多数説のようです。最高裁(日本コーポ事件:最高裁平成元年9月19日判決)も一定限度で調査義務を認めています(法的責任自体は否定)。
これに対して、新聞社は媒体責任は一切ないと主張するのが一般的です。
広告でも調査義務があってエッセイでは義務がないというのも不均衡ですから、調査義務はあるのでしょう。そうすると、調査義務があり違法だと判明して、利益侵害があるか否かです。
広告の場合には、消費者保護の点から、新聞社は詐欺行為に信用を与えたとして不法行為責任を負うのですが、それと異なり、坂東氏のエッセイでは読者は精神的ショックを受けたという精神的被害による不法行為責任ですから、そういう精神的損害にどこまで保護を与えるかどうかです。
裁判で争う価値はあるとは思いますが、何百万という読者すべてが被害者となるような損害は希薄であって、保護する利益としては難しい気がします。もちろん、名目的な損害賠償という形で認めることもありえますが。
ですので、法的責任(民法709条)は生じうるが、実際上、裁判において、日経新聞に法的責任(損害賠償責任)が肯定される可能性は低いと思います。もちろん、「エッセイについての新聞の媒体責任」について論じた文献は見つからなかったので、かなりの推論となっています。
ただ、日本新聞協会の新聞倫理綱領に違反すると思います。
http://www.pressnet.or.jp/
「自由と責任 表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。」
「品格と節度 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。」
犯罪行為の肯定・奨励は、「公共の利益を害する」でしょうし、「品格」を欠くといえるでしょう。仮に掲載するとしても、犯罪行為に該当するので、坂東氏の行為は法的には許されないとの注意書きが必要でした。
ただし、掲載したことで、坂東氏の人間性が理解できたので、それだけは収穫です。子猫殺し自体は気に悩んでいる(週刊朝日9月8日号155頁)ようにも思えますが、小さな声で鳴き続ける子猫を投げ殺して喜んでいるとしか思えないのです。殺すことで「生の充実」を感じるそうですから(アエラ9月4日号71頁)。
>仮に掲載するとしても、犯罪行為に該当するので、坂東氏の行為は法的には許されないとの注意書きが必要でした。
この配慮は、確かに必要だったと思います。
でも現実問題、この件で日本新聞協会が日経に対して除名などの処分を科すとは思えないですね。
ところで、一つ誤解を正しておきたいのですが、私は「週刊フランス情報」の記事(引用部分)には納得しています。あちらでの引用が中途半端でしたが、「この考え方は、あまりに安易で危険です」と書いたのは、引用の上に書かれている春霞さんのご意見に対してであり、引用の下については記事と同様、安易とも危険とも思っていません。
春霞さんは「アエラ」をお読みになったのでしょうか?
坂東さんは
>殺すことで「生」の充実を感じる
とは書いておられません。
「生の充実と、殺し、とは対立するものではなく、殺しはその中に含まれるものだ」と書かれています。
その前段には
「肉は、自分の殺せる範囲の生き物しか食べないことを基本としています。つまり、魚介類と鶏です」
「鶏は、たまに犬が捕ってくると、自分で捌いて、料理して食べています。そうして食べる鶏の肉は、私にはとても貴重で、確かな「生」の手応えがあります」とあるのです。
これらから、どうして
>子猫を投げ殺して喜んでいる
とか
>殺すことで「生」の充実を感じる
などの結論が導かれるのか、私には理解できません。
記載と異なる内容を、坂東さんが書いたとも読まれかねない書き方であちこちに掲載するのは、風評の流布に当たりませんか?
本文とコメント欄の違いがあるとはいえ、春霞さんの記事本文での丁寧な引用の仕方に比べて、少なくとも公平な態度とは言えないと感じました。残念です。
URL | 美也子 #-[ 編集 ]
>日本でこの文章を掲載した日経新聞には、法的な責任は発生しますか?
>私は、厳密には発生しないと思いますが、
法的責任について少し書いてみました。では、「厳密には発生しない」とはどういう根拠からだったのでしょうか? お聞かせ下さい。
>>殺すことで「生」の充実を感じる
>とは書いておられません。
>「生の充実と、殺し、とは対立するものではなく、殺しはその中に含まれるものだ」と書かれています。
>その前段には
>「肉は、自分の殺せる範囲の生き物しか食べないことを基本としています。つまり、魚介類と鶏です」
>「鶏は、たまに犬が捕ってくると、自分で捌いて、料理して食べています。そうして食べる鶏の肉は、私にはとても貴重で、確かな「生」の手応えがあります」とあるのです。
>これらから、どうして
>>子猫を投げ殺して喜んでいる
>とか
>>殺すことで「生」の充実を感じる
>などの結論が導かれるのか、私には理解できません。
文章の読み方の問題ですね。
「生の充実と、殺し、とは対立するものではなく、殺しはその中に含まれる」という文章ですから、「その中」には「生」又は「生の充実」が入るのが自然です。アエラの見出しも、「殺しは生に含まれる」と書いています。
次は、「殺しは生の充実に含まれる」という文章から、なぜ「殺すことで「生」の充実を感じる」という文章になるのか? です。
アエラの「生の充実と、殺し、とは〜」のすぐ前の文章は、「生の充実がないと、「生きる」とはいえないのではないかと感じ、考えるようになりました。そして、」です。
これは、「生の充実で生きると感じる」と要約できます。この要約も無理がないと思います。
こうすると、「殺しは生の充実に含まれ」「生の充実で生きると感じる」と繋げると、「殺すことで(も)生の充実を感じる」となります。(も)を除いたのは、坂東氏はやたらと、殺しにこだわっているからです。
さて、次は、「子猫殺しを喜んでしているのではないか」という推測は正しいのか? です。
アエラ編集部が板東氏に質問した内容は、「『殺しの痛み、悲しみも引き受けて』なで、なぜ、子猫を殺すのか。真意は何か。」でした。その答えが、「殺しは生の充実に含まれ」「生の充実で生きると感じる」からです。
この答えや、アエラ編集部に寄せたメール全文でも、「子猫殺し」の文字がなく、子猫殺し自体に直接触れる動機が書いていないのです。論理が飛んでいるんですね。ならば、その論理をつなげるために推測せざるを得ないと思うのです。
>>子猫を投げ殺して喜んでいる
「子猫を投げ殺して喜んでいる」のではないかと推測するのは、殺すことで「生」の充実を感じているからです。
このことは、坂東氏の他のエッセイからも読み取れます。
「日経新聞:プロムナード『天の邪鬼タマ』」によると、坂東氏は2匹の雌犬を放し飼いにしています。そうすると、犬猫5匹のメスがいて放し飼いをしていますので、必然的に子供が大量に生まれ、雑種の子犬と子猫はすべて殺害しています。猫の場合、子猫が産まれた直後に殺せば、子猫がいる場合より多く発情期をむかえてしまい、その度に(子猫は崖から投げ殺して)殺害となります。言い方は悪いですが、一言で言えば大量虐殺です。
もし本当に、子猫殺しは喜んでおらず子猫殺しが嫌なら、大量虐殺が嫌なら、なぜ5匹のメスを飼うのでしょう?
エッセイの最初に述べているように、子猫殺しは動物愛護法に反していることも分かっているに、犯罪行為であると自覚しながら殺害しているのです。犯罪と分かっていてあえて何度もやって反省もなく、むしろ正当化しようとしているのですから悪質です。坂東氏が一緒に住んでいる相手はフランス人であるそうですが、それが正しいのなら、フランス刑法に違反していることも分かっているはずです。
こうなると、実のところ、子猫殺しも含めて、殺すこと自体が楽しいのではないかと思ってしまうのです。
アエラに寄せたメールの後半では、「都市生活は多くの殺しの上に成り立っているのに、人々は、それからといわんばかりの顔をして暮らしています。自分の手はきれいだといわんばかりの顔をして暮らしています。自然の中にいれば、それは幻想であるとわかります。」と書いています。
これは、「お前だって殺している、私も同じことをしているだけだ」ということですね。しかし、都市の人間が食べるために殺すからといって、犯罪行為である子猫殺しを正当化できるわけではないです。適法と違法の違いと言うはっきりした分水嶺があるのです。
>「鶏は、たまに犬が捕ってくると、自分で捌いて、料理して食べています
これはそういう場合もある、くらいですね。
「ドライブの楽しみは、鶏の死骸を発見することだ。それを拾って、新鮮ならば食用に、傷んでいれば犬の餌にするのだ。」(7月7日:プロムナード 「生と死の実感」 坂東眞砂子)と書いているように、犬が捕まえることも、拾って食べることもあるわけですから。
鶏の死骸発見を楽しみにしていること自体どうかと思いますが。
>記載と異なる内容を、坂東さんが書いたとも読まれかねない書き方であちこちに掲載するのは、
>風評の流布に当たりませんか?
真実でない噂を流しているのではないか?ということですね。風評の流布で、どういう法的責任が生じ、果たしてその成立要件を満たすものなのか今一歩不明です。ぜひ教えて下さい。
私は「殺すこと自体が楽しいのではないか」という子猫大量殺害の動機を推測したのです。坂東氏の動機は、今のところ誰にもよく分かりません。言ったところで、本心なのかさえ、よく分からないでしょう。なぜ、真実でない噂といえるのでしょうか?
>春霞さんの記事本文での丁寧な引用の仕方に比べて、少なくとも公平な
>態度とは言えないと感じました
内容を紹介するときには、「公平な態度」であるべきです。しかし、週刊ポスト9月8日号36頁で、左近司教授も「坂東さんの論理は破綻している」と述べているように、論理破綻している坂東氏の文章を公平な態度で理解するのは非常に難しいです。誰もが主観的に判断せざるを得ないのです。本心は違うのではないか?と。
美也子さんは、坂東氏に肩入れしているから、「公平な態度」でないと言うのではありませんか? 法律論を離れて問題となっているのは、避妊手術がいいのか、子猫投げ殺すのとどちらがマシなのか? なのですよ?
私から見ると、美也子さんが、犯罪行為を肯定・奨励している坂東理論を認めること自体、公平以前の遵法意識に欠けた態度です。たとえ被疑者・被告人の弁護についた弁護士でも、犯罪行為を肯定・奨励するような弁護はしません。
坂東氏の個人的立場自体に共感することまで否定するつもりはありません。昔の日本では猫の間引きがなされていて、その過去まで今更否定し非難しようというのでもありません。今の坂東氏の犯罪行為を問題にしているのです。もっとも、昔の日本でも、5匹のメスを放し飼いにして産まれたらすぐに、毎回何匹もの子犬子猫を崖から投げ殺し(大量虐殺)をしていないと思いますが?
こういった方が分かりやすいかもしれません。昔の日本では子供の間引きを行っていました。その過去を非難しても仕方ありませんが。しかし、昔でも子供を崖から投げ殺すことなんてしてなかったはずですし、ましてや今子供を間引く(投げ殺す)ことは犯罪行為なのです。
坂東氏は、悪質な犯罪行為(大量虐殺)を正当化し、まだ続ける意思があり、しかも犯罪行為を助長・奨励する言論を繰り返しているのです。これは日本はおろか、「法の支配」がある限り、世界中のどこでも許されないのです。私の個人的感情や板東氏の価値観・思想がどうであろうと、許されない行為なのです。
<追記>
アエラ9月4日号の記事での坂東氏のメールに対する「りんどう畑」さんの評価です。
http://plaza.rakuten.co.jp/rindou8/diary/200608300001/
「彼女の第一の問題点は、食肉処理や害虫の駆除と、無益な“殺生”の区別が付かない事です。」
「鶏肉に感謝される生活と飼い猫に子供を産ませ続け放り投げ続ける動機の間に何等繋がりがありません。
「私は、自然の中で鶏肉を自分で捌き生の充実を感じるの」=「この世の中は、私と同じ殺しが生活に含まれている」=で、どうして飼い猫に仔猫を産ませ続けては崖に放り投げるのでしょう。」
坂東氏の論理は問題点が多く、論理が破綻しているのです。こういう評価が普通だと思います。
2点あります。私が問うたのはあくまで「法的責任」ですので、根拠についても「社会的責任」「道義的責任」を含まない前提でお読み下さい。
>坂東氏のエッセイは犯罪行為を正当化し、奨励するものですから、公共の利益を害するものとして制限を受ける言論であることは確かです。
と説明していただきましたが、私も同じ争点を想像し、春霞さんと同様
>実際上、裁判において、日経新聞に法的責任(損害賠償責任)が肯定される可能性は低い
のではないかと考えていました。
というのは、坂東氏のエッセイは犯罪行為を「告白」し「正当化」する内容ですが、「奨励する」文章が見当たらないからです。
正当化によって、春霞さんが指摘されるような、著者が今後も犯行を繰り返す可能性が想像できるのかもしれません。でも実際にエッセイにあるのは
「私は子猫を殺している」「子猫殺しを犯すに至った」「子殺しを選択した」
であって、「これからも子猫を殺す」とは書かれていません。「この作家はこれからも子猫殺しを繰り返すだろう」というのは読者の想像に過ぎません。
将来の犯行を宣言してはいないのに、想像させるだけの理由で「奨励」とはいえないと思いました。
それとも、犯行の「告白」と「正当化」だけで「奨励」と見做されるのでしょうか? (門外漢の私には知識がありませんので、字義通りの質問なのですが)
もう1点は、エッセイの冒頭に
「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒(ばとう)されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが」
とあることです。
「承知で」というのは、「打ち明ける」ことによって起こる一切を引き受ける、責任を取る、という意味にとれます。この文章があるから、日経は掲載に踏み切ったのかな、と思ったのです。
>文章の読み方の問題ですね。
>「生の充実と、殺し、とは対立するものではなく、殺しはその中に含まれる」という文章ですから、「その中」には「生」又は「生の充実」が入るのが自然です。アエラの見出しも、「殺しは生に含まれる」と書いています。
はい、OKです。ただ、雑誌の見出しは扇動的で、取材相手の了解を受けないのが一般的ですから、ここで根拠に入れるべきではないとは思いますが。
>アエラの「生の充実と、殺し、とは〜」のすぐ前の文章は、「生の充実がないと、「生きる」とはいえないのではないかと感じ、考えるようになりました。そして、」です。
これは、「生の充実で生きると感じる」と要約できます。この要約も無理がないと思います。
これも異議ありません。
>こうすると、「殺しは生の充実に含まれ」「生の充実で生きると感じる」と繋げると、「殺すことで(も)生の充実を感じる」となります。(も)を除いたのは、坂東氏はやたらと、殺しにこだわっているからです。
ここが問題です。読解で三段論法を行うなら、格段とも原文に忠実に文意を汲み取らなければいけません。
A)「殺しは生の充実に含まれ」
B)「生の充実で生きると感じる」
の先にあるC)は、原文では以下の部分です。
「自然の中の暮らしには、殺す、ということは日常的に起こります。」
「都市は殺しを隠蔽する。そんな言葉が頭に浮かんでいます。都市生活は多くの殺しの上に成り立っているのに、人々は、それから目を逸らし、自分の手はきれいだといわんばかりの顔をして暮らしています。自然の中にいれば、それは幻想であるとわかります。幻想の中で泣き笑い、怒っている。それは、ほんとうに「生きている」といえるのでしょうか」
つまり坂東さんの論旨は
A)「殺しは生の充実に含まれ」
B)「生の充実で生きると感じる」
C)「日常にある殺しから目を逸らして生きるなら、ほんとうに生きているといえない」
です。
A)「殺しは生の充実に含まれ」
B)「生の充実で生きると感じる」
C)「殺すことで(も)生の充実を感じる」
という短絡的な解釈は、論法としては成り立つかもしれませんが、読解とはいえません。原文を無視して、A)B)の前提のみから原文にはまったく書かれていない独自の結論を導いているのですから。
確かに「殺すことで(も)生の充実を感じる」のであれば、「生の充実」は「喜び」に繋がり、「殺す」は「虐殺」の臭いを帯びてくるでしょう。
しかし、原文にそうした記述がない以上、
>「子猫を投げ殺して喜んでいる」のではないかと推測するのは、殺すことで「生」の充実を感じているからです。
は、誤読が招いた曲解です。
私が上記に引用した部分についての
>これは、「お前だって殺している、私も同じことをしているだけだ」ということですね。
も、正確な読みではありません。
>アエラ編集部が板東氏に質問した内容は、「『殺しの痛み、悲しみも引き受けて』なで、なぜ、子猫を殺すのか。真意は何か。」でした。その答えが、「殺しは生の充実に含まれ」「生の充実で生きると感じる」からです。
>この答えや、アエラ編集部に寄せたメール全文でも、「子猫殺し」の文字がなく、子猫殺し自体に直接触れる動機が書いていないのです。論理が飛んでいるんですね。ならば、その論理をつなげるために推測せざるを得ないと思うのです。
子猫を殺す理由は、既に日経のエッセイに書かれています。避妊手術を施すのが嫌だからです。原文にはさらにその理由も書いてあります。
アエラでは「真意は」と問われたので、より詳しくという気持ちで、こうした考えを持つに至った背景を書かれたのでしょう。ちなみに、
>その答えが、「殺しは生の充実に含まれ」「生の充実で生きると感じる」からです。
という読み方より、実際にアエラに書かれていた「タヒチ・ライフの影響が色濃い」という解釈の方が、より原文に忠実だと思います。
原文の内容が理解できない、肯定できないからといって、「論理をつなげるために」原文にはない「子猫を投げ殺して喜んでいる」という理由をくっつけていいことにはなりません。
また、断っておきますが、私がこう指摘したからといって、坂東さんの理屈を肯定しているわけではありませんので、それは混同しないでくださいね。勝手な推測を挟まなくても、原文から読み取れるということを解説しているだけです。
>もし本当に、子猫殺しは喜んでおらず子猫殺しが嫌なら、大量虐殺が嫌なら、なぜ5匹のメスを飼うのでしょう?
「タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。」
と日経のエッセイにありますから、野良猫を保護したのでしょう。ペットショップで買ってきたわけではなさそうです。おそらくは、室内飼いでもないでしょう。でも、避妊手術はしなかった。結果、生まれてきた子猫を殺した。
見えてくる事実はこれだけです。
この事実から飼い主としての責任を問う事はできますが、「殺すこと自体が楽しいのではないか」とまでいうのは邪推であり、言いがかりです。違いますか?
>鶏の死骸発見を楽しみにしていること自体どうかと思いますが。
これも、「殺すこと自体が楽しいのではないか」の根拠にはなりません。死骸を拾って弄ぶなら問題ですが、自然の中で食べ物を見つけて喜んでいるという話です。
>真実でない噂を流しているのではないか?ということですね。風評の流布で、どういう法的責任が生じ、果たしてその成立要件を満たすものなのか今一歩不明です。ぜひ教えて下さい。
なぜ法の専門家である春霞さんが、素人の私にこのような質問を返されるのでしょうか。私は春霞さんの法的責任など問うてはいませんよ?
春霞さんの言論活動の一部が、風評の流布に当たるのではないか、についての見解を伺いたかっただけです。
春霞さんがそう思われないのなら、そう明言してくださればいいのです。
>なぜ、真実でない噂といえるのでしょうか?
既に述べたとおり、それが坂東さんの言葉を離れた春霞さん独自の解釈だからです。
誤読に導かれた恣意的な結論に基づいて
>要するに、殺すことで生きる喜びを感じているのですから、子猫を殺すことで喜びを感じているでしょう。もはや異常な感覚の持ち主だと思っています。
http://ameblo.jp/editorialengineering/entry-10016321410.html
といったコメントを書かれているのを目にしたからです。
>坂東氏の動機は、今のところ誰にもよく分かりません。
というのが春霞さんの現状認識であるなら、今の段階で「殺すことで生きる喜びを感じている」「子猫を殺すことで喜びを感じている」「もはや異常な感覚の持ち主」とエキセントリックな言葉を重ねた理由はなんなのでしょう?
2次犯罪の抑止ですか? そのためには既に(春霞さんにとって)「悪質な」犯罪者である作家の名誉、人権は踏みにじられても構わないと?
>法律論を離れて問題となっているのは、避妊手術がいいのか、子猫投げ殺すのとどちらがマシなのか? なのですよ?
>私から見ると、美也子さんが、犯罪行為を肯定・奨励している坂東理論を認めること自体、公平以前の遵法意識に欠けた態度です。
私は避妊手術より子猫殺しのほうがいいと発言した覚えはありませんし、子猫殺しを正当化する坂東さんの論理が破綻していることについても肯定してきたはずですが?
私がこの件でこれまで発言してきたのは、坂東さんのメンタリティ(主に生死観)には共感できるということです。
私が「犯罪行為を肯定・奨励している坂東理論を認め」ているとおっしゃるのなら、その箇所を、具体的に示していただけますか?
私が前回、春霞さんに対して「公平な態度とは言えない」と感じたのは、繰り返しになりますが、春霞さんが「原文に基づく主観」で論じたのではなく、「原文を離れた主観に基づいて」論じておられるからなのですが。
さらに今回は
>私の個人的感情や板東氏の価値観・思想がどうであろうと、許されない行為なのです。
と法律論を語る一方で
>鶏の死骸発見を楽しみにしていること自体どうかと思いますが。
と、社会的にも人道的にもなんら問題はないのない行為について、個人的な否定感情を差し挟む書き方についても、公平ではないと感じました。
この感想は、読者に「子猫を殺して喜ぶ鬼畜ホラー作家」のイメージを喚起させます。流行の言葉でいえば、印象操作です。
こうした書き方になってしまうのは、春霞さん自身が「子猫殺し」の先入観に囚われて作家の文章を読み込むことを拒否しているからではありませんか?
その先の行為に危うさを感じるのは、私が坂東さんに肩入れしているからでしょうか?
まずは、大変な長文を書き込んで下さってありがとうございます。負けじとこちらも、と思っていたところ(汗)、さきほど、美也子さんのブログを拝見したら、短めのお返事を望んでいるとのこと。ということで短めに。
文章の忠実な読み方について、丁寧にありがとうございます。文章の読み方はなかなか難しいですね。ただ、折角、丁寧に書いて頂いたのに申し訳ないのですが、坂東氏の文章を読み方にはさほどのこだわりがないのです。
さほどのこだわりがないのは、この「子猫殺し」問題については、「ペットとはどういう存在なのか?」が本質的な問題ではないかと思っているからです。坂東眞砂子氏はペットを「物」扱いしている意識がある、このことにこそ、問題があると思うのです。
ペットは「物」か「者」なのかは、何度かエントリーをしている「ペット供養訴訟」とも深く関わる問題でもあります。美也子さんもまた「ペットとはどういう存在なのか?」について、坂東眞砂子氏と同じ意識を持っているのではないかと思いました。きっと意識はしていないとは思うのですけどね……(汗) こちらも真意をエントリーせずにコメントしてましたし、なぜ私が批判的なコメントをするのかよく分からなかったとも思います。
いずれも、「坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(下)〜「物」から「者」への狭間で」で触れていますので、申し訳ありませんが、そのエントリーでお返事とさせて頂きます。
>というのは、坂東氏のエッセイは犯罪行為を「告白」し「正当化」する
>内容ですが、「奨励する」文章が見当たらないからです
>「承知で」というのは、「打ち明ける」ことによって起こる一切を
>引き受ける、責任を取る、という意味にとれます。
日経新聞の法的責任ですね。
新聞社が犯罪行為を正当化する文章を紙面に載せること自体、公序良俗(民法90条)に違反するおそれがあり、妥当ではありません。「奨励」しているか否かに関わらずです。
なお、日経新聞は、数百万の読者がいますからその読者に「犯罪行為正当化」の意見を広め、影響力を与えかねませんから、暗黙のうちに読者に犯罪行為を「奨励」していると評価できるとは思いますが。もちろん「奨励」しているか否かは評価が分かれるのでしょうけど。
日経新聞の法的責任と坂東氏の法的責任とは別個の責任ですし、坂東氏が責任を取る意味で書いても、意味がありません。日経新聞と坂東氏との間の勝手な「談合」は、訴える側にとっては無関係ですから。
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