そうなると、坂東氏の行為の法的評価の判断基準は、日本法ではなくフランス法となるので、フランス法を知っておくことが不可欠です。坂東氏がどんなに論理を連ねて「子猫殺し」を正当化しようとしても、犯罪行為(=違法行為)であれば、法治国家においては犯罪行為を許す(=適法)わけにはいかないからです。
そこで、フランス法において、動物がどのように扱われているのか?、について紹介してみたいと思います。
1.法律時報2001年4月号(73巻4月号)では、「特集=各国のペット法事情」が掲載されており、そこでは、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスのペット法事情についての論文が掲載されています。この中から、吉井啓子・国学院大学講師「フランスのペット法事情」という論文の一部を引用してみます((注)は除きます)。
「フランスにおける「動物法」の概観――動物虐待罪を中心に
動物が関係する法律の範囲はきわめて広く、ペットに関するものだけでも、民法典・刑法典・農事法典・地方公共団体法典・道路法典・公衆衛生法典などをあげることができる。そこで、ここでは、わが国でも大きな問題になっている動物虐待に焦点を絞り、フランスの立法がいかに早くからこの問題に対応してきたのかを見てみたい。
初めて動物虐待罪を規定したのは、1850年7月2日の「グラモン法(loi Grammont)」であった。グラモン法は、「家畜(animal domestique)」を「公然と虐待する(exerce publiquement de mauvais traitement)」行為を処罰したが、同法は後に廃止され、動物虐待罪は刑法典に違警罪(contravention)として組み込まれた。そこでは、さらに保護の対象が「飼い慣らされた動物(animal apprivoisé)」「捕獲された動物(animal tenu en captivité)」にも拡大された。その後、1963年11月19日法は、「虐待」に加えてより重大な「残虐行為(acte de cruauté)」を軽罪(délit)とする規定を新設し、これが刑法旧453条となった。さらに、1976年7月10日法は、より深刻な「重大な虐待(sévice grave)」を軽罪として付加し、また、故意の遺棄も「残虐行為」として処罰の対象となるとした。
この1976年法は、フランスの動物立法の中でも特筆すべきものである。第一に、同法9条は、「全ての動物は、所有者によりその生物学的要請と両立する条件の下におかれなければならない感覚ある存在(être sensible)である」と規定し、動物が人間と同じく「感覚ある存在」であるとした。第二に、同法14条は、公益性を承認された動物保護団体に、刑法旧453条所定の犯罪について、その団体が擁護する利益の直接・間接の侵害について私訴原告人(partie civile)としての諸権利を認めた。この規定は、1994年2月1日法による新刑事訴訟法2−13条に受け継がれ、行為時の少なくとも5年以上前までに届出がされている団体に私訴権が認められている。
その後、刑法旧453条は1994年新刑法典により刑法521−1条となった。内容はそのままに刑罰が強化され、公然であると否とを問わず、必要なくして家畜・飼い慣らされた動物または捕獲された動物に対して重大な虐待または残虐行為を行った場合、不法な動物実験を行った場合、不法な動物実験を行った場合には、6ヶ月の拘禁刑および5万フランの罰金が科せられることになった。この刑罰は、1999年法でさらに強化され、四倍となり(2年の拘禁刑および20万フランの罰金)、補充刑として確定的または一時的に動物の飼育禁止を命じることもできるという規定が新設された。この1999年法は、……コンパニオン・アニマルの売買と保有・動物の輸送・検査の執行などに関する数多くの事項を規定しており、近時のフランスの動物立法の中でもきわめて重要であると思われる。」
「動物の法的性質
1994年新刑法典では、動物虐待罪の編別上の位置づけが大きく変わり、同罪は「財産に対する重罪・軽罪」の章にではなく、「その他の重罪・軽罪」の章に規定されることになった。この点から、動物はもはや「物」ではなくなったと説明する論者もいる。はたして、フランスにおいて動物の法的性質はどのように考えられているのであろうか。
この点に関して、1999年法により興味深い改正が民法についてなされた。民法の旧524条・旧528条では、動物は「物」「物体」であるとされており、耕作のために用いられる動物などが「用途による不動産」となり得る場合はあるが、動物は原則として「性質による動産」であった。この点に関して、1980年に首相の命により国民議会議員ミコーが提出した報告書では、民法516条の「財物(bien)」の定義に不動産・動産の他にさらに動物を加え、旧524条の「物」を「動物および物」に変えてはどうかとの提案が既になされていたのだが、1999年法によってようやく「用途による不動産」「性質による動産」の定義規定に修正が加えられた。新524条1項は「土地所有者が、その便益または利用のために土地においた動物および物(les animaux et les objets)は、用途による不動産である」、新528条は「自力で移動し得るのと、他力によってしか移動し得ないのとを問わず、場所を移動し得る動物および物体(les animaux et les corps)は、性質による動産である」と規定している。そこでは、「動物」が「物」「物体」の下位概念ではないと考えられる。しかし、この民法改正は、解釈上何らかの変化をもたらしたというわけではなく、象徴的な意味しか持たないと思われる。確かに、動物は「物」「物体」ではないが、「動産」であり「財物」であることに変わりはない。物と動物を分けて併記する意義はないのではないか、動物を「動産」と規定する528条自体をなくすべきではないかという批判は、今回の改正とほぼ同じ内容を持つミコー報告について既になされていたところでもある。
しかし、動物を「動産」であるとする民法典の規定にもかかわらず、動物を単なる「動産」ではないとする判例は古くからあった。フランスの破毀院第一民事部1962年1月16日判決では、リュニュス号という競走馬が遠征先であてがわれた厩舎内で感電死した事件について、カーン大審裁判所1962年10月30日判決ではイエーダというダックスフントがシェパードにかみ殺された事件について、それぞれ飼い主の精神的損害の賠償請求を認めており、これが判例として定着している。それは、飼い主とペットの愛情的な結びつきの重要性を反映したものであり、動物を単なる「動産」と見る民法典の規定とは相容れないものだといえるだろう。だが、大審裁判所レベルではあるが、離婚の際に妻にペットの犬の監護権を与え、夫への犬の養育費用請求を認める判決があるのを見ると、ペットの家庭生活における重要性を認めつつも、ペットを子と全く同視してしまうことは行き過ぎであると思わざるをえない。破毀院は、離婚に際してのペットの帰属をめぐる争いについて、別れた配偶者のものとなった犬に対する訪問・宿泊権を否定している。当然の結論であろう。
学説においては、古くは、デュモーグの論文で、情動能力のあるすべての存在が権利主体となり得るのであり、動物は快楽または苦痛を感じる能力があるのだから「権利主体」となり得るのだと述べたものがあった。その後、30年ほど前から動物の権利主体性が盛んに議論されるようになった。そして、動物に関する一連の判例・保護立法から、動物は「胎児の状態にある権利主体」「生まれたばかりの権利主体」であるといえると述べる者、動物は「法的に保護される利益」を有するのであり制限された法人格を動物に認めるべきであると説く者が現れている。なかには「動物人(person animale)」という言葉を用いて、「自然人」「法人」に次ぐ第三の「人」として、動物に法人格を与えよと説く者もいる。フランス動物法の第一人者であり「私法における動物(L'animal en droit privé)」と題された大部の本を著しているマルゲノーも、やはり、1994年新刑法典での動物の位置づけの変化から、動物は既に「物」ではないと断じ、法人格を認める基準は固有の法的利益を持つことと意思表示の可能性があることであり、保護団体に私訴権が認められていることなどから、動物は既に「人」であると説いている。しかし、動物に制限された法人格を与えるとすると、どのような動物にどのような権利を認めるのかという問題が出てくるだろう。動物保護は、動物に対する人間の義務を強化することによればいいのであり、動物の権利主体性を認める必要はないとして学説の動きを批判する論者もいる。動物の権利主体性が議論されているのは、専ら動物保護に関連してであるが、この点について既に詳細な動物虐待罪の規定を持つフランス法の下、動物の権利主体性を認めることでさらにどのようなメリットが出てくるのかについては筆者も疑問である。」
2.フランス刑法521−1条によれば、必要なくして家畜・飼い慣らされた動物または捕獲された動物に対して重大な虐待または残虐行為を行った場合、2年の拘禁刑および20万フランの罰金に処せられ、故意の遺棄も「残虐行為」に当たります。また、補充刑として確定的または一時的に動物の飼育禁止を命じることができるのです。
坂東氏は、親猫の避妊手術が納得できないという感情的な事情で避妊させずに、産まれたばかりでひどく体が弱い子猫を、故意に崖の下に投げ捨てて殺害したのですから、ほぼ確実に「残虐行為」又は「重大な虐待」に当たると考えられます。
それゆえ、坂東氏の行為は動物虐待罪に当たると考えられますので、裁判になれば、2年の拘禁刑および20万フランの罰金に処せられると思われます。
また、何度も繰り返し殺害しており、正当化する発言をしていることから、今後も殺害を繰り返す可能性が高いのですから、裁判になれば、補充刑として、確定的または一時的に動物の飼育禁止の命令が下されると思われます。
このように坂東氏による子猫殺し行為は、フランス刑法によれば犯罪行為にあたります。犯罪行為である以上、坂東氏がどれほど理屈を述べて正当化しようとしても、犯罪行為を許す(=適法)わけにはいかないでしょう。
なお、動物保護団体に私訴権が認めれていることから、日本の動物保護団体はともかく、フランスの動物保護団体が訴えれば、坂東氏は動物虐待罪で裁判になると思われます。
3.フランスでは、動物はもはや「物」でなくなったと説明する論者もいるどころか、フランス動物法の第一人者は、動物は「物」ではなく、動物は既に「人」であるとさえ説いているのです。このように、フランスでは、批判はあっても、動物を「人」と扱う論者がいるほど動物の権利主体性を認める意識があるといえるわけです。
このような意識はフランスだけではありません。ドイツでも、動物の法的地位を向上させるため、「動物は物ではない」(ドイツ民法90条a1文)という規定があるのです。
詳しい各国のペット法事情については、「国における動物保護の主な法制度の歴史」(地球生物会議(ALIVE))や、尾崎裕子(日本女子大学大学院人間生活学研究科)「ペットをめぐる法律(2)海外編」を参照して下さい。
上で指摘したように欧州ではペット法が充実しているのですが、そもそも欧州では「ペット動物の保護に関する欧州協定」(1987年)も結ばれるほど、ペットの権利が保障されているのです。例えば、この協定の序文では、人間にはすべての生き物を尊重する倫理的義務があること、ペットと人間とは特別な関係にあることなどが、述べられています。また、この協定では、何人もペットに不必要な痛みまたは苦しみを与えたり、または不安にしてはいけない(3条1項)、何人もペットを遺棄してはいけない(3条2項)などとも規定しているのです。
このように欧州においてペットの権利が充実し、動物を「物」扱いしないような保障がなされているのは、欧米人の動物観に基づくものと思われます。
「20世紀前半の欧米人の動物観は、動物は可愛がられるもの、保護すべきものであったと思われる。その具体的な行動は、動物保護(animal protection)と呼ばれてきた。その後、欧米では、動物福祉(animal welfare)という言葉が多く使われるようになった。保護と福祉の違いは、保護が相手の立場・意向などを考慮することなく上から手を差し伸べるものであるのに対し、福祉は相手の人格・権利などを認めたうえで、手を差し伸べることである。」(長谷川貞之・駿河台大学教授「アメリカのペット法事情」法律時報73巻4号14頁)
4.欧米の動物観では、ペット動物に対する飢えや遺棄、不要な痛みや苦痛を避けることは、飼主の最低限の義務ですから、坂東氏による子猫投げ殺し行為の正当化は、到底、欧米の動物観とは相容れないといえるでしょう。
坂東氏の理屈を理解し、正しいと思う人もいるかもしれません。ある程度納得できるという人もいるかと思います。坂東氏の行為はそれほど非難するほどの行為ではないと思う方もいるようです。
しかし、坂東氏の理屈を正しいと思ったり、納得したり、さほど非難に値しないという考えは、今まで縷々述べてきたように、欧米のペット法体系・欧米の動物観とおよそ合致しないのです。欧米で通用しない理屈でもって、フランス法が適用される地で行った行為を正当化できるとは思えません。
坂東氏の理屈を正しいと思ったり、納得したり、さほど非難に値しないという考えをもつ人は、そのような考えは、欧米のペット法体系・欧米の動物観と合致しない考えであることを真摯に受け止めるべきであり、坂東氏の犯罪行為を擁護し、助長するものであることを明確に意識しておくべきでしょう。
坂東氏の子猫殺し行為は、もし日本で行った場合にも違法行為となることは、「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(上)」を参照して下さい。
TBのように、勝手にブックマークさせて戴きました。恐縮です。よろしくお願いします。
>動物の法的地位を向上させるため、「動物は物ではない」(ドイツ民法90条a1文)
>欧州ではペット法が充実
>特別な関係
>欧米では、動物福祉(animal welfare)という言葉が多く使われるようになった。保護と福祉の違いは、保護が相手の立場・意向などを考慮することなく上から手を差し伸べるものであるのに対し、福祉は相手の人格・権利などを認めたうえで、手を差し伸べることである。」
>飼主の最低限の義務
春霞さんが提示してくださった中から僅かな上記引用文脈ですが、欧州と日本の人権意識の差が歴然と表れていると感じました。こういう面で、特にわが国は劣っていますね。動物たちに対して(もはや動物ではない)、恥ずかしさと強い痛みを禁じえません。頭を垂れるばかりです。
坂東さんが裁かれるのは当然ですが、それは、そういう感性の中にいる「日本人」が裁かれることだろうと思います。動物に関わるすべて(保護の域を出ず、福祉の自覚に至らない飼い主)の人間が目覚めなければ、動物という名を張られた「人格」への虐待は終わらないのでしょう。
春霞さん。また、だいじなことを教えて戴いてありがとう。今ちょっと、我が家の「くう」ちゃんに謝りました。シュン
>よろしくお願いします。
ブックマークありがとうございます。折角ですので、こちらもリンクさせて頂きます。
>欧州と日本の人権意識の差が歴然と表れていると感じました。
「動物は物ではない」とか「動物は人である」だなんて、びっくりする日本人が結構いるのではないかと思います。まずは、欧州と日本の人権意識の差を知ることが大切ではないかと思います。
>坂東さんが裁かれるのは当然ですが、それは、そういう感性の中にいる
>「日本人」が裁かれることだろうと
そう思います。
現在の「動物愛護管理法」は、欧州の意識が反映されていますから、坂東さんの意識は、昔の日本人の意識のままの感じがします。このように、「昔の日本人の意識」も裁かれるように思えます。
もっとも、坂東さんはタヒチ島という高級リゾート地で、おそらく現地の人とは異なり、恵まれた生活を送りながら、子猫を飼う財政的余裕が十分にあるのに、投げ殺しているのですから、余裕がなかった「昔の日本人の意識」を主張するのもおかしな話ですけどね。
この問題について、気になったのが、日本人の意識で、外国で起きた問題を処理しようと考えている人が結構いることです。例えば、「坂東さんのようことは昔の日本の田舎では普通だった」とか。
ジダン選手の頭突き問題でも触れたように、外国で起きた問題なのですから、(日本法の適用はなく)外国法・外国の事情を考慮してはじめて問題解決ができると思うのですけどね……。
恥ずかしながらこの事実、まったく知りませんでした。
それにしても、この御仁は悪魔ですね。
あれこれと難しいことを言っているようですが、単なる子猫殺しの人。
それなら、「猫を飼うなよ」と言いたいですね。それこそ、「あなたには、動物を飼う資格など無い。」と!
気分が悪い話です。
(`´)ムカムカ
その通りですね! 坂東氏が投げ殺してまで猫を飼う理由がよく分かりません。
ゆうこさん宛てのコメントでも触れたのですが。
坂東氏は、自然豊かで何匹猫を飼っても近所迷惑にならない、高級リゾート地のタヒチで、優雅に暮らしているんですから、子猫を殺す必要がないんですよ。だから、「人間の生、豊穣性にも通じる」とか尤もらしいことを言っても、何を言っても説得力ないんですよね。
↓はそのことをしっかりと指摘しています。
http://cyberbloom.seesaa.net/article/22897143.html
「日経の読者の大半は……自然が失われた狭い日本で暮らし、殺伐とした日常の癒しのためにネコを飼っている。そういう人たちに向かって、南太平洋の楽園で印税暮らしの作家が「子猫殺しの話」をしても共感は得られないだろう。……日本の都市部での「生死の意味」はタヒチのものとは全く違うのだ。そういう条件を考えるセンシビリティが全く欠けている。」
URL | cyberbloom #-[ 編集 ]
>引用していただきありがとうございました
引用したのですから、本来なら、こちらからTBさせて頂いた方が良かったのですが、違う分野のブログでしたので、遠慮していました。TBありがとうございます。
>刑法のことが詳しくフォローしてあり参考になりました
フランス法刑法が関わる問題ですので、紹介してみました。この論文は、ペット法研究会での報告が基になっているそうです。
日本の研究者の報告と異なり、フランスに詳しいcyberbloomさんからすると、違っていると思う点があるかと思います。その場合は、ぜひご指摘下さい。
>これからもよろしくお願いいたします
こちらこそ宜しくお願いします。
現在日本で鯨料理が盛んであるとは言いがたい状況、調査捕鯨で捕獲された鯨の肉が余ってしまう状況ではもう文化ともいえないようですが。気になります。
URL | 質問 #-[ 編集 ]
>捕鯨反対も同じような論理で行われているのでしょうか?
捕鯨反対の理由は色々あるとは思います。「グリーンピースの捕鯨問題に関する主張」を見てみると、↓
http://www.greenpeace.or.jp/campaign/oceans/factsheet/6_html
「グリーンピースは、あくまでも生態系保護の立場から、捕鯨問題に取り組みます。現在クジラの仲間は約80種といわれていますが、そのなかでも大型の種は、捕鯨の対象としてその数は極端に減らされました。
クジラは、海洋生態系の複雑な食物連鎖を象徴する野生生物、そして、海洋を広く回遊する、人類の共通財産です。 」
これを読むと、絶滅しないように種の存続を図るという「動物保護」からの主張ですね。
欧米の動物観は、動物保護から動物福祉へ変わり、動物福祉の観点から、動物の命の尊重を図っています。ですから、今の(ペット法を含む)動物法は(動物保護の考えを含みつつも)動物福祉の考えに基づいているわけですね。
特に、このエントリーで書いたのは、ペット法であり、これは特に動物福祉の考えが強いです。
そうなると、「捕鯨反対」は、今と「同じような論理で行われている」のではなく、昔からの動物保護の論理から来ているのだと思います。
>文化ともいえないようですが。気になります。
昔の日本では、鯨の体はすべてといっていいくらい使っていて、人形浄瑠璃にも使用していたことは有名です。昔は「文化」でしたが、今はどうなんでしょうね?
鯨の肉は、水銀汚染で食用に適しているとは言い難いので、既に「食文化」としては成り立たないことは確かです。↓厚生労働省の調査結果です。
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/01/h0116-4.html
「日本人は鯨以外にも水銀、PCBをある程度含んでいる魚類を多く摂取するため、暴露量評価、リスク解析を行ったうえで、汚染度別にグルーピングされた鯨種(捕獲地域も含む)の摂食量を設定することが必要と考える。またPCB、水銀等について影響を受けるリスクの大きい女性、子供等については、鯨を安全に食べるための特別なメッセージが必要となろう。さらに水銀の含有量が特に高い各種のイルカを含むハクジラ類の腎臓、肝臓等の内臓は、加工品も含めて流通・販売を禁止すべきと考える。」
魚を食べる日本人にとって、水銀蓄積の多い鯨を食べるのはリスクが大きいです。女性や子供は注意が必要で、汚染で食べてはいけない部位まであるなら、もはや食べるべきではないのでしょう。
<追記>
asahi.com(マイタウン北海道)の記事によると、↓
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000000609060004
「11日の調査捕鯨開始を前に、かつて捕鯨の基地として栄えた釧路市で、学校給食にクジラ肉を使ったり、繁華街で安価のクジラ料理をふるまったりする、「クジラ」をテーマにした街おこしが盛んになっている。」
朝日新聞(9月9日付夕刊15面)でも、クジラの肉を「水産庁は『健康食』として学校や病院への売り込みをはかり、給食や新商品に取り入れる学校や外食産業も出始めた」という記事があります。
…学校や病院で食べて、大丈夫なんでしょうかね……。
<追記2>
捕鯨反対の有力な理由は、いわゆる「動物権」「動物の権利」、すなわち、動物福祉の動物観を更に拡張させたものに基づくと主張する方もいます。↓
動物権と捕鯨問題(日本鯨類研究所 1996年 3月発行「鯨研通信」第 389号より):三崎 滋子 日本鯨類研究所
http://luna.pos.to/whale/jpn_mis_ani.html
大分前の文献なので、色々な誤解もありますし、今では読む必要はないのでしょうね。
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