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すでにネット上では、「J-CASTニュース:女流作家『子猫殺し』ネット上で騒然」(2006/8/21)、「J-CASTニュース:『子猫殺し』女流作家 今度は『子犬殺し』?(2006/8/23)、「J-CASTニュース:直木賞作家『犬猫殺し』 批判の嵐拡大」(2006/8/24)、「きっこのブログ」さんの「猫殺し作家の屁理屈(2006.08.21)」(「きっこのブログ」さんでは、「子犬も殺していた鬼畜女(2006.08.23)」「人格異常者のルーツ(2006.08.24)」でも)でも扱っていました。
8月24日付朝刊(毎日新聞・日刊スポーツ)を皮切りに、同日の夕刊紙(朝日新聞・読売新聞・夕刊フジ・日刊ゲンダイ)が触れ、さらに中日新聞や産経新聞(8月25日付朝刊)も記事にしており、かなり騒然となっている問題です。日経新聞(8月25日付朝刊)も触れていました。
なお、坂東氏のエッセーは直接目にしたくないので、追記の形で載せておきます。ちなみにタヒチ観光局は、坂東氏のエッセーは主観に満ちており、「タヒチに暮らす一般の人々の考えや生活、環境について述べられたものとは全く異なる」とコメントしているようです。これだけ理解していれば十分かと思います。
1.まずは記事の紹介から。
(1) 毎日新聞平成18年8月24日付朝刊31面
「子猫殺し:直木賞作家・坂東さんがエッセーで告白
直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)が日本経済新聞に寄せたエッセーで、自身の飼い猫が産んだ子猫を野良猫対策として殺していることを告白し、波紋を広げている。坂東さんはフランス領のタヒチ島在住で、事実ならフランスの刑法に抵触する可能性もある。坂東さんは「避妊手術も、生まれてすぐの子猫を殺すことも同じことだ」との趣旨の主張をしているが、日本経済新聞社には抗議や非難が殺到、動物保護団体も真相究明を求めている。【鳴海崇】
坂東さんが日経新聞18日付夕刊15面の「プロムナード」に寄稿した「子猫殺し」。「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。(中略)承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している」と書き出し、飼っている雌の猫3匹には避妊手術をせず、子猫が生まれると自宅隣のがけ下に放り投げていることを明らかにした。
野良猫対策としての避妊手術は認めているが、「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」との論を展開。「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」と結んだ。
日本動物愛護協会によると、フランス刑法は犯罪を三つに分類、子猫を殺す行為は、中間の「軽罪」(最高2年の拘禁刑)か最も軽い「違警罪」(罰金刑)にあたる可能性があるという。協会は「事実なら到底許されない」と非難、日経に事実関係の調査を求める方針だ。
坂東さんは日経を通じて「タヒチ島に住んで8年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にある。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した。人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じ、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからだ」とのコメントを寄せた。
日経には23日までに、エッセーを巡って約300件のメールと約60件の電話が寄せられ、多くは批判や抗議だという。在日フランス大使館にも問い合わせが相次ぎ、業務に支障が出ている。
日経社長室は「原稿の内容は、筆者の自主性を尊重している。今回の原稿も事前に担当者が筆者に内容を確認した上で掲載した。さまざまなご意見は真摯(しんし)に受け止めたい」と説明している。
坂東さんは高知県出身で、ホラー小説の第一人者。97年に「山妣(やまはは)」で第116回直木賞を受賞した。映画「死国」「狗神」の原作者。7月から毎週金曜日のプロムナードを担当している。
毎日新聞 2006年8月24日 3時00分」
(2) 読売新聞(平成18年8月24日付夕刊18面)
「坂東眞砂子さん「子猫殺し」コラム、掲載紙に抗議殺到
直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)が、日本経済新聞の18日夕刊に「私は子猫を殺している」と告白するコラムを掲載したところ、インターネット上などで批判の声が上がり、日経新聞や動物愛護団体に抗議が相次いでいることがわかった。
「日本動物愛護協会」(東京都港区)は近く、コラムの内容について日経新聞に事実確認を申し入れる予定だ。
批判が上がっているのは、日経新聞夕刊の「プロムナード」というコーナーで、「子猫殺し」とタイトルが付けられた坂東さんのコラム。「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」で始まり、生まれたばかりの子猫を家の隣のがけ下に投げ捨てていると告白している。その上で、飼い猫に避妊手術を受けさせることと、子猫の投げ捨てを対比し、「生まれてすぐの子猫を殺しても(避妊と)同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ」と書いた。
掲載後、日本動物愛護協会などには抗議のメールやファクスなどが殺到。日経新聞には、24日正午までに、メールで508件、電話で88件の問い合わせがあり、ほとんどが批判や抗議という。
坂東さんは、仏領タヒチ島在住。日本の動物愛護法では、猫などの愛護動物をみだりに殺したり、傷つけたりすると、1年以下の懲役か100万円以下の罰金となる。環境省の動物愛護管理室は「(坂東さんが)海外居住のため、日本の法律の適用外」としているが、フランスの刑法でも、悪質な動物虐待については拘禁刑や罰金刑を定めている。
坂東さんは日経新聞を通じ、「動物にとって生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。それは人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからです」とコメント。日経新聞では「個々の原稿の内容は、原則として筆者の自主性を尊重している」としている。
坂東さんは、「桜雨」「曼荼羅道(まんだらどう)」などで知られる人気作家。97年には「山妣(やまはは)」で直木賞を受賞している。
(2006年8月24日14時3分 読売新聞)」
(3) 産経新聞のHP(08/24 11:01)
■愛猫家として知られるジャーナリストの江川紹子さんの話
「子猫が生まれないように避妊手術をすることと子猫の命を奪うことを同列に論じている板東さんの論理はおかしい。何が猫にとっての幸せかは猫でなければ分からない。突然殺されることに子猫は悲しんでいるはずだ。猫は野生動物とは違う。人間とのかかわりの中で生きてきた猫と、どう幸せに寄り添っていくかをもっと考えるべきだ」
2.犬や猫は飼主を選べません。坂東氏は、事も無げに子猫を何匹も繰り返し崖から投げ捨て殺害しているのですから、坂東氏に飼われている猫は可哀想でなりません(子犬も殺害しているようです)。正直なところ、胸糞が悪くなるような実話ですが、坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題について、まず、坂東氏が「子猫殺し」を正当化する根拠の是非から触れていくことにします。
(1) 坂東氏がなぜ、「飼っている雌の猫3匹には避妊手術をせず、子猫が生まれると自宅隣のがけ下に放り投げて」殺害しているのか? というと、
という論理によっています。「「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」との論を展開。「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」」
(2) まず、「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない」という論理は妥当でしょうか?
動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛護管理法:改正法・平成18年6月1日から施行)によると、
「(犬及びねこの繁殖制限)
第三十七条 犬又はねこの所有者は、これらの動物がみだりに繁殖してこれに適正な飼養を受ける機会を与えることが困難となるようなおそれがあると認める場合には、その繁殖を防止するため、生殖を不能にする手術その他の措置をするように努めなければならない。
2 都道府県等は、第三十五条第一項の規定による犬又はねこの引取り等に際して、前項に規定する措置が適切になされるよう、必要な指導及び助言を行うように努めなければならない。」
このように、猫の飼主は所有者として、避妊手術を行う権利がありますが(民法206条:所有権の内容)、動愛法によればむしろ、生まれてきた子猫の貰い手が探せず、飼いきれないのであれば、避妊手術を行うことは飼主の義務であるわけです。
そうすると、日本法によれば、坂東氏は避妊手術を行う義務さえあったのです。もちろん、坂東氏は、タヒチ在住ゆえ、動愛法の適用外であってフランス法の適用があるわけですが、、アメリカでも避妊手術どころか、早期の手術さえ奨励されている状況(「早期不妊手術のすすめ」参照)ですから、フランス領であるタヒチでも避妊手術が奨励されていると予想できます。
何より、避妊手術をしていないペットから望まれない子供がたくさん生まれ、安楽死させるくらいなら、避妊手術をする方がよいという考えは、アメリカはもちろん、各国共通した考えのように思えます。
そうなると、「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない」という論理は妥当ではないと考えます。
(3) 次に、「「生まれた子を殺す権利もない」との論理、結局は子猫を崖から投げ殺すことは、妥当でしょうか?
再び、動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛護管理法)から。
「(目的)
第一条 この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。
(基本原則)
第二条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。
(動物を殺す場合の方法)
第四十条 動物を殺さなければならない場合には、できる限りその動物に苦痛を与えない方法によつてしなければならない。
2 環境大臣は、関係行政機関の長と協議して、前項の方法に関し必要な事項を定めることができる。
第四十四条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
2 愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行つた者は、五十万円以下の罰金に処する。
3 愛護動物を遺棄した者は、五十万円以下の罰金に処する。
4 前三項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
一 牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
二 前号に掲げるものを除くほか、人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの 」
飼主は飼っている動物の所有者ですので、飼い猫を殺害することは可能ですから、抽象的には、「生まれた子を殺す権利」はあるのです。ですが、動物愛護管理法によれば、動物との共生に配慮する必要があり、もし殺害せざるを得ない場合も苦痛を与えない方法によらなければなりません。もし、みだりに殺害すれば1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられるわけです。
「日本動物愛護協会によると、フランス刑法は犯罪を三つに分類、子猫を殺す行為は、中間の「軽罪」(最高2年の拘禁刑)か最も軽い「違警罪」(罰金刑)にあたる可能性がある」(毎日新聞)のですから、タヒチ在住の坂東氏は、フランス刑法により拘禁刑か罰金刑が科される可能性があるのです。この罰金は日本円では22万円相当のようです(日本テレビによるフランス大使館への問い合わせによる)。
もっとも、フランスでは
そうですから、坂東氏による「子猫投げ殺し」はフランス本土であれば実際上の処罰は微妙といえそうです。「夏のヴァカンスになると、高速道路の斜面に点々と犬猫の死骸が転がっているのを、筆者も目撃したことがある。一週間から時に一ヶ月にもなる長い夏休みの間、パリのアパルトマンに置きざりにできないし、さりとてペット・シッターに預けると高くつく。滞在先のホテルやペンションではむろんペット同伴お断りである。そこで、止むなく途中の車窓からあの世へ行ってもらう仕儀となる」(山内昶(やまうちひさし)「ヒトはなぜペットを食べないか」(文春新書、平成17年)181頁)
ただし、タヒチ観光局によると、
ということだそうですので、坂東氏による「子猫投げ殺し」はタヒチでは、処罰の可能性は十分にありといえそうです。「タヒチで動物虐待が日常的に行われているという事実はなく、また人の手によって意図的に殺された動物の死骸を目にしたという話も聞いた事はございません。」
そうすると、坂東氏が言う「生まれた子を殺す権利もない」との論理は間違っていますし、ましてや「子猫を崖から投げ殺すこと」は日本法でもフランス法でも犯罪行為ですから、いずれの論理も妥当ではないのです。
(4) さらに「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した」という論理は妥当でしょうか?
エッセーを読むと、「自分の育ててきた猫の『生』の充実」とは、「獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか」ということのようです。要するに、坂東氏は、猫の生涯にとって、交尾と出産自体が最も好ましいことであり、それゆえ避妊手術は好ましくないと理解しているのです。
また、「社会に対する責任」については、飼主の責任のとり方として避妊手術・里親探し・子猫殺しがあるが、タヒチでは里親探しは困難で、避妊手術は納得できないから、「子猫殺しを選択した」ということのようです。
十数年、猫を飼っている経験からすると、猫の生涯にとって、健康でいること、長生きすること、交尾、子猫を育てること、人や猫との交流、というようなことが好ましいことにように思えます。
(8月29日追記:雌猫にとって交尾は痛いだけです。念のため。)
子を繰り返し産むと明らかに猫の体は弱りますし、「避妊手術」で完璧に予防できる子宮蓄膿症のことや、早めに避妊手術をすることで乳癌の発生率は、ほぼゼロに近い数字になり、避妊手術をしていない猫よりも、手術をしている猫のほうが長生きするというデーターが獣医師会でも出ている(「動物愛護を考える東大阪市民の会」のHPより)のです。とすれば、(疾病予防目的で)避妊手術をすることの方が、猫の健康や、健康に長生きすることに繋がるのです。
親猫は、自分の子を見失うといつまでも探しますから、自分の子を育てる欲求は非常に強いのです。とすれば、生まれた子猫をすぐさま殺すことは、親猫の子を育てたいという強い欲求を奪っているのです。
以前飼っていた猫(ミッシャ)は、普段から他の猫との交流を嫌がっていましたし、発情期の時にも他の猫を避けていましたから、とても「交尾と出産自体が最も好ましい」とは思えませんでした。
もちろん、ミッシャのような猫ばかりではありません。飼主は、猫の負担になる出産をコントロールするため、室内飼いするか、飼主が責任を持って避妊手術する方が好ましいといえます。
何よりもこの世に生を受けた子猫の命を直ちに奪うことは、子猫の生涯の一切を奪うことになるのです。親猫の交尾と出産の自由の方を残す価値と、子猫の交尾と出産の自由を含めた命の価値を比べた場合、後者の命の方の価値の方が重いことは、日本の法体系の価値観を持ち出すまでもなく、明らかでしょう。
そうすると、「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した」という論理は妥当ではないのです。
坂東氏は「交尾」を最重視して子育てを無視していますが、このような“子供嫌いの交尾第一主義”は、坂東氏のいう通り「人間の生」のあり方でも見受けられる行動です。しかし、“子供嫌いの交尾第一主義”は人間社会でも非難される行動であり、坂東氏自体の性癖に基づいた歪んだ価値観にすぎないと思います。
3.坂東氏は、子猫殺しをすることの「殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」と、巧みに自己の行為を正当化したつもりになっています。また、「どんなに糾弾されるかわかっている」などと書いて、子猫の死と向き合っているつもりなのです。
しかし、坂東氏は、子猫を崖から投げ捨てて殺害していて、子猫の死を間近で目撃しておらず、子猫の殺害と向き合っていません。結局は、身勝手な理由で飼主の責任から逃げ、子猫の死から逃げ、自己の罪から逃げているのです。坂東氏はエッセーで書いたことで自分勝手に贖罪したつもりになり、「生きた動物の聖性と生命の尊厳を忘れ、単なる物として取り扱」っている(山内昶)、卑劣な愚か者と言わざるを得ません。
1.<日本経済新聞(平成18年8月18日付金曜夕刊)>
「プロムナード:子猫殺し 坂東眞砂子
こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒(ばとう)されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖(がけ)の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊(はいかい)して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭(いや)なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。 (作家)」
2.<鬼畜子猫殺し坂東眞砂子>より。
「タヒチ観光局相談メールへの回答
この度は、タヒチ観光局にお問い合わせ頂き、誠にありがとうございます。
日経新聞18日夕刊に出た記事に関しまして、その内容はあくまで著述者の主観であり、タヒチに暮らす一般の人々の考えや生活、環境について述べられたものとは全く異なるものと理解しています。
このような表現によって、記事を読まれた方々が不快な印象を受けたであろうこと、またタヒチという国、あるいはそこに住む人々が著述者と同様の考えを持っているかのように捉えられたかもしれない事は大変残念に思います。
タヒチで動物虐待が日常的に行われているという事実はなく、また人の手によって意図的に殺された動物の死骸を目にしたという話も聞いた事はございません。
美しい自然に囲まれた南太平洋の楽園・タヒチを是非とも訪れて頂ければと思います。
同紙上で表現されたような印象とは全く異なる、素晴らしいデスティネーションとして必ずやご満足頂けるものと確信しております。
タヒチ観光局」
私の若い友人がブログを開きました。http://hayka.blogzine.jp/hayka/
ロースクールの学生です。一度訪問してみてください。
ミュシャたちが、正当などを殺害しなかったよ。
>言葉のセンスも無く、おぞましいです。
多くの人が「おぞましい」という感覚を抱くのだと思います。日本の全世帯の36%がペットを飼っていて、そのペットとの心の交流があるからなのでしょう。
>食べなくては生きてゆけないけれど、その前に、もう一つ、心のパンが
>欲しくて、それがあるから生きてゆけるのでしよう
「心のパン」とは良い表現ですね。ここ数年は特に、ご飯を望まずに、心のパンを欲しがる猫が身近に増えました。私も「その背後にある人間の心は、猫ちゃんにはわかる」という感じを、実感しています。
>私の若い友人がブログを開きました。
>一度訪問してみてください
ブログの紹介、ありがとうございます。拝見すると、ちゃんとした法律論を論じているので、良いですね。今後も、訪問したいと思っています。
日本から離れているものでまったく知りませんでした。
確かに、この人は狂っています。
でも、少しだけ共感できる面もある気がします。それは、この人が自分から動物を飼う事を傲慢といっていることです。
僕は猫や犬は可愛いと思いますが、動物を飼うのは嫌いです。
動物の意思とは関係無く、人が動物を所有できてしまうということに抵抗を感じます。
そして、自分のエゴで動物を所有しているという認識が欠落している点にもっと強い抵抗を感じます。
>>愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
これはその通りだと思いますが、「だから、私はペットを飼わない」という風になるのが普通ですよね。。。。。。。
でも、僕はこの子猫殺しの話を聞いて感じるのと同じくらいの嫌悪感を、愛玩動物を所有するということに何の疑問も持たない人に感じます。
URL | popo #Ws76SoXo[ 編集 ]
>日本から離れているものでまったく知りませんでした
そうでしたか。今からでもネットをご覧下さい。この問題に関して多くの情報が出ています。
>僕は猫や犬は可愛いと思いますが、動物を飼うのは嫌いです。
>動物の意思とは関係無く、人が動物を所有できてしまうということに
>抵抗を感じます。
>そして、自分のエゴで動物を所有しているという認識が欠落している点に
>もっと強い抵抗を感じます。
popoさんは、動物たちを見て、「かわいい」と言って満足できるのですから「動物が好きな人」ですが、動物を飼うのは嫌いなので「動物を飼うことが好きな人」ではないわけですね。
だから、「動物を飼うことが好きな人」の心情を「自分のエゴで動物を所有しているという認識が欠落している」と感じてしまうのでしょう。可愛いと思う感受性はあるのですから、「エゴ」だと思っていてもいいとは思います。
「動物が好きな人」と「動物を飼うことが好きな人」は同じではないか? そう思われるかもしれませんが、違います。
愛玩動物飼養管理士の村田亜衣さんのメルマガから一部引用してみます。
http://allabout.co.jp/pet/smallanimal/nlbn/NL000056/vl_191.htm
「動物を好きな人が、動物を飼うことが好きだとは限りません。なぜならば、見ると飼うとでは大違いだからです。
【動物を飼うことが好きな人】
悲しいことに、私は動物を飼うことが好きな人です。見るだけでは満足でき ません。触るだけでは物足りません。共に暮らし、彼らを観察し、いろいろ 教えてもらい、学びながらいっしょに生きていかないと満足できません。
「楽しそうでいいじゃない、何が悲しいの?」と思われる人もいるでしょう (このメールマガジンを読んでる人にはいないかも。。。)。なぜ悲しいか というと、動物を飼うことには苦労や悲しみも伴うからです。
動物を飼うということは、飼っている子に対して、飼育環境を整え、健康を 維持し、ストレスを与えず、年齢や体調に合わせて適切な食事を用意し、睡眠時間を削ってでも共に過ごす時間を作り、、、などなど、さまざまな責任があります。
そして、彼らが体調を崩したときには心配で気が狂いそうになりながら看病することがありますし、彼らが亡くなったときには胸が張り裂けそうな思いで見送らなければならないことがあります。
動物を飼うということは、決して楽しいことばかりではありません。むしろ辛く悲しいことがあるからこそ、楽しい思いができるのではないかと思います。もし、自分が動物を見るだけで満足できるのであれば、辛く悲しい思いをしないで楽しむことができるのではないかと、思うとやはり、動物を飼うことが好きだというのは悲しいことではないかと思ってしまいます。
でも、動物が好きな人には想像できないであろう動物との結びつきを、動物を飼うことが好きな人は経験することができます。なんかのラブソングではないですが、人がうらやむぐらいの結びつきをペットと持つことができるのは、動物を飼うことが好きな人だけだと思います。」
動物を飼うことは、飼った動物の命や健康に全責任を持ち、喜びと共に苦労や苦痛・悲しみをも背負うわけです。動物を飼うことは、単なるエゴ(自分の利益だけ重んじる考え)では説明できないのです。
結果として、動物に対する共感・尊敬を学び、他人への共感・尊敬を自ずと理解することになります。一体感、共感、尊敬。これらの特徴は、「暴力の防止や緩和の本質である」と考えられています(フランク・R・アシオーン「子どもが動物をいじめるとき――動物虐待の心理学」147頁など)。
このような共感を得ていない坂東氏は、動物に餌を挙げているだけで、「動物を飼うことが好きな人」ではないことになります。
>「だから、私はペットを飼わない」という風になるのが普通ですよね。。。。。。。
そうですね。論理破綻していますね。ちなみに、坂東氏のエッセイだけでなく、その後に各雑誌に寄稿した反論も、ほとんど論理破綻しています。
それで最近出してきた「なぜ猫を飼うのか」についての言い訳は、「「私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している」(毎日新聞に寄稿した言い訳)そうです。
>でも、僕はこの子猫殺しの話を聞いて感じるのと同じくらいの嫌悪感を、
>愛玩動物を所有するということに何の疑問も持たない人に感じます。
「同じくらいの嫌悪感」ですか? 日本人が子猫殺しに嫌悪感を感じるのは、古来からの、不殺生を説き、人間だけでなく動物の殺生もとがめた仏教の影響が強く残っているからでしょう。日本には、「殺生禁断1200年の歴史がある」(佐藤衆介「アニマルウェルフェア」127頁)のです。動物の命を大事にするのは日本文化でもあるわけです。
また、子猫殺しは犯罪行為(違法)ですが、ペットを飼うことは合法です。違法と合法とは大きな差異があります。
日本文化に反し、違法である「坂東氏による子猫殺し」と、ペットを飼うこととは、「同じくらいの嫌悪感」は感じません。
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