この裁判では、責任能力の有無が争点であり、弁護側は「社会から敵視されてきたとの妄想に支配され、心神喪失状態だった」と無罪を主張していたのですが、本判決は、完全責任能力を認定し、死刑を妥当としたのです。
(平成20年7月31日追記:被害者遺族の主張する刑法39条廃止論についての分析について追記しました。)
1.報道記事を幾つか。
(1) 朝日新聞平成20年7月12日付朝刊1面
「99年下関駅無差別殺傷、上部被告の死刑確定へ
2008年7月11日15時39分
山口県のJR下関駅で99年に5人が死亡、10人が重軽傷を負った無差別殺傷事件で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は11日、殺人などの罪に問われて一、二審とも死刑とされた元運送業・上部(うわべ)康明被告(44)の上告を棄却する判決を言い渡した。上部被告の死刑が確定する。
公判では、犯行時の被告に刑事責任能力があったかが争点だったが、第二小法廷は「心神喪失または心神耗弱の状態にはなかった」とする二審・広島高裁の判断は相当だと述べた。
判決によると、上部被告は99年9月29日夕、レンタカーで下関駅構内に突入。通行人らをはねたうえ、車から降りてホームに駆け上がり、包丁で乗降客らに切りつけた。
動機について第二小法廷は「将来に失望して自暴自棄となり、自分をそのような状況に陥れたのは社会や両親だとして、衝撃を与えるために無差別大量殺人を企てた」と指摘。確定的な殺意をもって5人の生命を奪ったという結果の重大性や、「通り魔的な大量殺人」として社会に与えた衝撃、遺族の処罰感情の強さなどを考慮すると、死刑もやむを得ないと結論づけた。
一審段階で2回実施された精神鑑定では、「妄想性障害の状態で心神耗弱にあたる」という意見と、「著しい障害があったとはいえない」という意見に分かれた。二審段階で改めてもう一度、精神鑑定がされ、「軽度の対人恐怖症で被害妄想もあったが、犯行に直接関係していない」と事実上、責任能力を認めた。
上告審で弁護側は、東京・秋葉原で6月に起きた無差別殺傷事件との類似性に言及。「秋葉原では容疑者にためらいや良心のとがめがあったようだが、上部被告にはなかった」と弁論で述べ、上部被告に責任能力はなく、無罪だとする主張を繰り返した。(岩田清隆)」
(2) 東京新聞平成20年7月12日付朝刊27面
「『命の重さと向き合って』
下関通り魔事件の最高裁判決後、遺族や被害者は東京・霞が関で会見。「事件から九年。何度も精神鑑定が続き、長い裁判の日々だった」と振り返った。
妻をひき殺された松尾明久さん(67)は遺影を持って法廷に入った。「裁判は終わった、思い通りの判決だったよ、と心の中で遺影に呼び掛けた」という。被告には「命の重さに向き合ってもらいたい」と話した。
起訴前の簡易鑑定を含め精神鑑定は計四回実施された。鑑定のたびに裁判が延期された。
松尾さんは「つらい時間が長かった。精神障害で心神喪失や心神耗弱と判断されると、刑が軽くなったり、起訴すらされないという法律はおかしいと思う」と訴えた。
切りつけられて重傷を負った永藤登さん(77)は「退院してからも両手が使えず、だまってはいられないと被害者の会を結成した。会に報告できる判決で良かった」と話した。」
(1) この裁判では、1、2審では精神鑑定が計3回実施され、うち1回は妄想性障害で責任能力は限定的と鑑定したのですが、1、2審判決は他の鑑定を採用して、完全責任能力があると判断していた、という経緯でした。 そして、最高裁は、「心神喪失または心神耗弱の状態にはなかった」とする二審・広島高裁の判断は相当だと述べたわけです。
最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は、平成20年4月25日、「専門家たる精神医学者の意見が鑑定等として証拠となっている場合には,鑑定人の公正さや能力に疑いが生じたり,鑑定の前提条件に問題があったりするなど,これを採用し得ない合理的な事情が認められるのでない限り,その意見を十分に尊重して認定すべき」との判断を示しました(<1>「責任能力の判断基準・方法について:最高裁平成20年4月25日判決は、「精神鑑定結果は、鑑定人の公正さや能力に問題があるなどの事情がない限り、十分に尊重すべき」との判断」(2008/04/28 [Mon] 17:10:23)、<2>「東京・夫殺害切断事件:東京地裁平成20年4月28日判決の検討<再論>~最高裁平成20年4月25日判決と明らかに矛盾する判断を開陳するなんて正気なのだろうか?」(2008/04/29 [Tue] 17:29:52)、<3>「渋谷・短大生殺害事件:東京地裁平成20年5月27日判決は、鑑定結果を尊重して兄に懲役7年の判決に~やっと平成20年最高裁判決に従った判決が出たようだ……。」(2008/05/30 [Fri] 05:40:26)参照)。
判決文が明らかになっていませんのではっきりしませんが、本判決もこの4月25日に明らかにした基準に沿って判断したのだと思います。最高裁自ら、ごく最近に示した「責任能力の判断基準・方法」を無視するはずはないでしょうから。
(2) しかし、責任能力を認めた判断は妥当だったのでしょうか。
イ:朝日新聞平成20年7月12日付朝刊34面
「殺意の矛先(4) 「病気だから」に危うさ
誰かがドアを閉めた音が聞こえれば「拒絶された」と思い、人が話していれば「悪口を言われている」と受け取り、人が笑っていれば「自分をあざけっている」と感じていた――。
11日に最高裁で死刑の判断を下された男は、精神鑑定医にこんなふうに語っていた。JR下関駅での無差別殺傷事件の上部(うわべ)康明被告(44)。
レンタカーで駅に乗り付けて人をはね、降りて刺す。凶行の経緯は、秋葉原事件に重なって見える。
誰でもよかったのはなぜか、鑑定医は聴き続けた。
「車ではねたり、殺したりした人というのはあなたが会ったことがない人ですよね」
「まあ、そうですね」
「あなたに嫌がらせをしたりした人とは違うのでは?」
「人類に対する恨みつらみが募っていたので」
「白い目で見られたりするのは人類の特定の誰かだと?」
「いや、不特定多数の、全員です」
「一見、理解できない発想ではあっても、ある精神科医によれば「周囲に希薄な人間関係しかなければ、気持ちが爆発した時、そのぶつけ先が『社会』や『不特定の相手』になるのはひとつの必然」となる。そして、周囲と関係が築けないケースには「何らかの障害」が絡む例が少なくないという。
実際、いくつかの鑑定で上部被告は「極端な考え方や行動で社会的に適応できない人格の障害」などと指摘された。(以下、省略)」
ロ:鑑定医に対する上部氏の発言を見ると、上部氏は、人が話していれば「悪口を言われている」と受け取り、人が笑っていれば「自分をあざけっている」と感じているなどから、普段から、被害妄想や幻覚に支配されていたといえるのです。
おそらくは、犯行時にも、こうした被害妄想や幻覚に支配されていたと思われますから、完全な責任能力を認めてよかったのか、疑問が残ります。
3.もう1点は、被害者遺族が、「刑法39条を廃止して加害者を処罰すべきである」という趣旨の発言を行っていたことです。
「刑法第39条(心神喪失及び心神耗弱)
1 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
(1) 被害者遺族は、記者会見において次のようなコメントを述べています。
「つらい時間が長かった。精神障害で心神喪失や心神耗弱と判断されると、刑が軽くなったり、起訴すらされないという法律はおかしいと思う」(東京新聞)
「妻を殺害された松尾明久さん(67)も「鑑定が不要とは言わないが、犯人に精神的な障害があっても罪には関係ない。刑法39条は、被害者のことを考えていない法律なのではないか」と話した。」(産経新聞(2008.7.11 17:26))
「幾度と精神鑑定に費やした時間がつらかった。被害者のことを考えない現在の刑法を変えるために今後も微力でも声を上げていきたい」(毎日新聞2008年7月12日地方版〔下関版〕)
これらの発言からすると、被害者側は事件後、被害感情は募るばかりで消えることがないのに、精神鑑定により裁判が長期間中断され、訴訟上、何も関与できない地位にいるという点に不満を抱いて、刑法39条を廃止し、通常人と同様に刑事処罰を行うべきだと主張していることがわかります。要するに、
「報復の感情を少しでも納得させたい。当事者として、しかるべき位置に立ちたい。このような2つの動機を、39条の削除を訴える主張の背後に見ることができる。つまり39条削除とは、犯罪者に対する報復と制裁の国家による独占、という、刑法のもっとも根幹の変更の訴えをはらんだものだということ。」(呉智英・佐藤幹夫編者『刑法39条は削除せよ! 是か非か』(洋泉社、2004年)202頁〔佐藤幹夫〕)
(被害者遺族が主張する)刑法39条廃止論は、こうした意味であることを確認をしておきます。
(2) では、この刑法39条について、政府はどのように説明しているのでしょうか。参議院での質疑応答(164回国会・参議院法務委員会:平成18年03月22日)を紹介しておきます。
「○荒井正吾君 ……基本的なことを一つ最初でございますのでお聞きしたいんですが、法務行政における犯罪に対する責任ということの考え方でございますが、最近の近代国家は罪刑法定主義でございますので、犯罪の責任の取り方を国家権力に委託したと、こういうふうに言われているわけでございます。そうしますと、犯罪人の処分は国民の意思の代行だということになります。その責任の取らせ方については、国民の意思とのコミュニケーションが必要な分野かと思います。ところが、その責任の取らせ方ということについて、だんだん、被害者が、立場も違いますし、国民のいろんな考え方が多様化している中で、責任の取らせ方で厳罰化か保護化か、いろんな意見が分かれてきているわけでございます。
一方、報道機関は、自分で行為責任を取るべきだということで責任を自己規定されるような傾向があるんじゃないかと思います。例えば、子供の犯罪、子供に対する犯罪、子供の自殺などに対しては、学校とか学校の校長先生に責任どう思いますかというふうに聞かれるわけでございます。これは、法務省は別に学校の先生を呼んで事情聴取されるということは余りないように思うんですけれども、報道機関は学校の校長先生の責任追及。それから、少年犯罪の親の責任。法務省は親を事情聴取されるということは余りないように思いますが、マスコミは、親はどういう責任感じていますかというふうに聞かれるわけでございます。それから、イラクの人質なんかは、あれは自己責任でやるべきじゃないかということを官僚が発言すると、自己責任とは何だ、国家の責任じゃないかというような議論があるということ。責任論についていろいろ意見があるわけでございますから、その中では報道が、報復代行という言葉があるようでございますが、被害者とか世論の気持ちを受けて追及するというような傾向が強まって、これは健全な傾向かどうかというようなことでございます。
我が国の責任感覚は、戦争責任については余り議論しない国でございますので責任論について何か余り追及してない国柄かなとも思うんですが、法務省の持っておられる分野の犯罪に対する法的責任の在り方というのは、政治責任、道徳責任、いろんな責任のある中で、国家の基本的な責任の体系じゃないかというふうに思います。
それから、そのような中で、刑法三十九条の心神喪失者、心神耗弱者の、罪に問わない、減軽するといったようなことはどのように考えていくのかという課題も最近あります。逆に、そういう心神喪失者、心神耗弱者に対する差別じゃないかという意見も一部にあります。かつていん唖者の罪を軽減するという義務的条項が差別助長条項として削除されたという例もあるようでございます。
大変広範な議論を呼ぶ分野でございますが、最初でございますので、法務省の責任に対する基本的な思想ということをお伺いできたらというふうに思う次第でございます。
○政府参考人(大林宏君) まず、形式的な規定から責任能力の問題について申し上げたいと思います。
今御指摘のとおり、刑法は第三十九条第一項において、心神喪失者の行為は罰しないと規定し、同条第二項において、心神耗弱者の行為はその刑を減軽すると規定をしております。つまり、責任能力がない者については心神喪失者としてその行為を罰しないこととし、責任能力が著しく減退した者については心神耗弱者としてその行為に対する刑を減軽することにしております。
このように、物事の是非善悪を弁別し、かつその弁別に従って行動する能力が欠ける場合には行為を処罰しないという、いわゆる責任主義に基づくものにつきましては刑法の基本原則とされておりまして、ドイツやフランスなど諸外国においても同様の規定が設けられている国が多いものと承知しております。
また、責任能力という観点からしますと、刑法の四十一条において、十四歳に満たない者の行為は罰しないと規定をしておりまして、十四歳未満の者についても刑事未成年者、つまり責任能力がない者としてその行為を罰しないということにしておるところでございます。
○荒井正吾君 いや、条文はそう書いてあるんですけれども、その裏にある考えをお伺いしたいということであったわけでございますが、お考えはないんでございましょうか。
○政府参考人(大林宏君) 先生の御指摘の点は、非常に広いといいますか深い観点から御指摘だと思います。
一つの考え方としては、その賠償責任の問題が一つあろうかと思います。心神喪失者、いわゆる精神障害者による犯行によって本人が処罰を受けない場合に、例えばその民事責任はどうなるかという問題、同時に少年の場合も同様のことが起こると思います。刑事責任がないということで処罰を受けないと、じゃ親の責任はどうなのかと。これは一つは、刑事責任無能力者に対する親の責任の問題も一つあろうと思いますし、それから、これまた非常に御指摘の点が広いんでどうお答えしていいか分からないんですが、例えば今おっしゃられている、そういう賠償の問題を除いて、例えば刑事責任を問わない本人についての責任がどうなのかという面につきまして、例えば心神喪失者等の問題あるいは耗弱者の問題については、先ほど御指摘もありましたように、この委員会でも御審議いただいたいわゆる医療観察法において医療の面から治療するという面で対応する部分もありますし、あるいは少年についても、当然今度は処遇という面において、例えば少年院等において処遇を行うと。そういう面で非常に広範な御指摘だと思いますけれども、ちょっと先生の、お答えになっているかどうか分からないんですが、そこをまた御指摘いただきたいと存じます。」(164回国会・参議院法務委員会:平成18年03月22日の会議録)
このうち、重要な指摘は次の点です。
「このように、物事の是非善悪を弁別し、かつその弁別に従って行動する能力が欠ける場合には行為を処罰しないという、いわゆる責任主義に基づくものにつきましては刑法の基本原則とされておりまして、ドイツやフランスなど諸外国においても同様の規定が設けられている国が多いものと承知しております。」
責任主義とは、「責任なければ刑罰なし」という近代刑法の基本原則であり、刑罰という法的効果が生じるためには、単なる構成要件に該当する違法な行為であるだけでなく、行為者をそのことについて非難することができる場合、すなわち、責任のある行為でなければならないことを言います。この責任主義の観念は、いうまでもなく、国家の刑罰権を限定し、国民の自由を確保するために強調されてきた理念であるのです(山中敬一「刑法総論(第2版)」(成文堂、2008年)579頁)。
行為者を非難するためには、最小限、行為者に故意又は過失があったことが必要であり、違法の意識の可能性、責任能力、期待可能性なども必要になります。そうすると、刑法39条を廃止することは、近代刑法の基本原則である「責任主義」に反するので、許されないということになるのです。
(3) この刑法39条のような規定は、「ドイツやフランスなど諸外国においても同様の規定が設けられている国が多い」わけですが、日本では、現行刑法だけでなく、「大宝律令」にも同様の規定があったと言われています。いわば、刑法39条は、日本法においては古来(平安時代)からの伝統的な考えに沿うものである、ともいえるわけです。
「5.その他の障害者関連法制
律令における障害者関連の規定は、この他随所に見られるが、現代法との対比で特に目をひくのは、障害者に対する刑事責任や留置ないし減刑等に関する規定である。律令では、重度の障害をもつ者に対しては、生活困窮者と把えるほか、慈恵的視点等から刑具の使用や刑の執行について特別な規定を設けたものと推察される。
現行法においても、刑の確定にあっては、構成要件該当性、違法性、有責性が重要なファクターとなっているが、律令における重度障害者に関する刑事法規定は、その精神的風土の存在状況において、現代法の源流に相応しい多くのものを示してくれているといえる。
名例律(みょうれいりつ)の「七十以上条」では、例えば70歳以上、16歳以下及び癈疾は、流罪以下に該当する罪を犯した場合でも、贖(しょく)(金で罪を贖う)をとることを許し、さらに80歳以上、10歳以下及び篤疾については、盗みや傷害罪に該当する場合も、贖を取(と)ることが認められていた。(別掲8)
また、収監にあっても死罪に相当する罪を犯した者については、身体の自由を制限する刑具を用いることを原則とするものの、療疾は散禁(さんきん)(刑具を使用せずに収容すること)としている(獄令(ごくりょう)「問囚条(もんしゅうじょう)」)(別掲9)。
わが国現行刑事法との対比で見ると、現行刑法における犯罪の不成立及び刑の減免に関する規定のうち、心身に障害をもつ者に関するものでは、心神喪失者に対する不処罰と心神耗弱者に対する刑の減刑(刑法第39条)に関する規定のみであり、情状酌量等個別的な配慮は、検察官の公訴提起に対する裁量を認める起訴便宜主義の採用(刑事訴訟法第248条)や裁判官による量刑上の裁量権に委ねられている。」(宇山 勝儀・仙台大学教授「●障害者福祉法制の史的展開・1 律令における障害者福祉法制と現代法と比較して」・)(*「廃疾」とは、律令制で規定された身体障害・疾病者のこと。)
律令の規定を見ると、70歳以上の高齢者、16歳以下という未成年者への減刑さえも行っているのですから、現行刑法体系と類似しており、この当時は幅広い「寛刑思想」が根付いていたといえそうです。
「刑法39条は削除すべきなのか?(中)~39条を削除し責任無能力でも処罰するとどうなるか?」(2008/08/01 [Fri] 23:59:12)へ続きます。
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