1.施餓鬼会(せがきえ)とは、生きとし生けるものすべてを対象にして行われる法会です。施餓鬼会は布施の実践であり、供養を受けることのできない無縁の精霊を供養する儀式でもあります。このような法会なのですから、回向院は7月5日、動物供養のために行ったわけです。
(1) 施餓鬼会の由来について説明しておきます。
釈尊の弟子の阿難(あなん)は、喉が針のように細く、やせ衰えて醜い姿をした餓鬼から、「お前の命はあと3ヶ月しかなく、死んだ後は餓鬼に生まれ変わる」と言われました。そこで、阿難は釈尊にどうしたらいいかと教えを乞うたのです。阿難は、釈尊に教えられた陀羅尼(だらに)を唱えながら餓鬼に食を施したところ、かえって長寿を得られたのです。施餓鬼会は、こうした、はからずも餓鬼道に堕ちた精霊に布施をしたという、仏説に由来しています(藤井正雄監修「わが家の仏教・浄土宗」147頁参照)。
(2) 今回、参詣した印象について幾つか書いておくことします。
参詣者をカウンターで計測しているわけではないのですが、年々、彼岸会や施餓鬼会のために参詣する方々は増えているように感じます。毎回、法要のための参詣者が本堂に入りきれず、整列している方々がいるのですが、年々、長くなっているからです。
何十年か昔は、ペットが亡くなった場合、役所に問い合わせをすると、「箱に入れずにビニールに入れてゴミとして出して欲しい」などということであったり、飼っていた側としても良くて庭に埋める程度が普通でした。ペットを寺院で供養するという意識は、一般的ではなかったのです。
法要のために参詣者が増え続けている様子を見ると、ペットを供養する意識は根付いていると感じられます。
もちろん、回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院ですが、回向院での動物供養の歴史は、回向院の開創間もない頃(回向院二世信誉上人の時代)まで遡るほど古いものです。動物供養は回向院と切り離せないものなのです。回向院で供養できるほどの距離に住んでいる方に限られるのでしょうが、回向院で供養する方は、ペットを供養する意識がとくに強いといえるのかもしれません。
今年、7月5日の法要は、11時と2時の会があったのですが、2時の会の頃は30度近い暑さでしたから、本堂の外に並んでいる方々にとっては、ことのほか体に堪えることになってしまいました。長年、事務を取り仕切っているお坊様は、参詣者に対して並んでいることを求めていましたが、参詣者の体のことを考えれば、良い対応だとは思えませんでした。現に、具合を悪くされてしまったご老人もいたのですから。
お葬式に無理をして出掛けて、その結果、体を悪くして亡くなってしまう……。こうした出来事は、よく聞く話ですが、今回の施餓鬼会の結果、そうしたことがないようと願うばかりです。
3月17日、諸宗山回向院(東京都墨田区)において行われた、春季彼岸会「家畜総回向」では、五つの色が順番に縫い付けられた幕である「五色幕(ごしきまく)」が吊るしてありました。本堂に吊り下げられている幕だけでなく、参道の入り口にもありました(旗の形でしたが、これも「五色幕」のようです)。
ところが、今回の施餓鬼会では、「五色幕(ごしきまく)」は、参道の入り口に旗の形であるだけであって、本堂には吊り下げていませんでした。なぜなのかは、お聞きしませんでしたが、彼岸会と施餓鬼会で異なるのかもしれないとも思いました。
しかし、五色幕を張ることは、仏教を広めるための道場であること示し、またお釈迦さま以来ご開山(無相大師)さまを経て今日まで伝えられてきた大切な心の教えを、未来永劫にも絶やすことなく伝えていくという強い意思表明でもあるのです(「平成20年春季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向」(2008/03/18 [Tue] 19:58:09)参照)。そうすると、彼岸会と施餓鬼会で異なる理由はないように思います。
今回の法要では、今までずっとお見かけしていた御住職でないお坊様が読経をなされていました。以前の御住職はかなりのご高齢のようでしたから、代替わりをしたのかもしれません。
2.今回も、「家畜お施餓鬼法要」の際に頂いた「散華」(道場にみ佛をお迎えし、佛を讃え供養する為に古来より広く行われてきたもの。元来は、樒の葉や菊の花、蓮弁等の生花を用いていたが、現在は通常蓮弁形に截った紙花を用いている)に書かれていた言葉を引用しておきます。今回の語句(仏教用語)は、親鸞聖人の説かれた教えの1つです(やさしい信仰Q&A 【10】“自然法爾”(じねんほうに)についておしえてください。−親鸞聖人晩年の法語−)。
「自然法爾(じねんほうに) あるがままに」
自然法爾(じねんほうに)とは、「自力をすて、如来の絶対他力にまかせきること」、「人為を捨て、ありのままにまかせること」を意味すると、説明されています。“自然”という言葉は仏教語では呉音で“ジネン”と発音し、「阿弥陀さまの救済に一切を委ねる」ということを意味していると説明したほうが分かりやすいかもしれません。
「仏教では、自然を〈じねん〉と訓じて「自ら然る」という意味に解する。人間の作為のない「そのまま」の在り方が自然である。法(真理)が「そのまま」に顕現していることを示す法爾(ほうに)と自然とは同義語で、その両者を合わせて「自然法爾(じねんほうに)」「法爾自然(ほうにじねん)」という四字熟語ができた。
浄土宗開祖の源空は、「法爾自然」を略して法然と号した。浄土真宗を開いた親鸞は、「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と称する一文を認め、その中で「自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり」(『末燈鈔(まっとうしょう)』)と説いている。明恵はの、漢語「自然法爾」の意味を「阿留辺幾夜宇和」という和語で表わした。〈あるべきようは〉とは、しかるべき状態のことである。また「自然法爾」を〈身の程を知れ〉と言い換えた古人もあった。これらは「自然法爾」を人間の生き方になぞらえて表現したものである。」(「大谷大学」の「生活の中の仏教用語(244):“自然”」(木村宣彰(きむら せんしょう)・仏教学教授)より引用)
物事や物の見方にしても、自分の都合を優先したり、ごく個人的な経験を一般的な物差しとして使ってしまい、誤った判断をしてしまうこともあると思います。誤解した思い込み・先入観を持って判断していまうこともまた、よくあることだと思います。自分では広い心で判断しているように思えても、他人から見れば、人を受け入れる心が狭いと思われているかもしれません。
こうして人々は、「あるがままに」受け入れることができないでいるのです。
別に運命に任せるとか、成り行きのままの人生を行い、現状維持を肯定しろというのではありません。「自然法爾」とは、先入観を捨てて、度量の狭さを反省し、仏様の眼を基準にして、広い心情・考え方で物事や人に接して生きていくことで、何物にも遮られることのない精神の自由を手にできるのです。それによって、より良い人生となり、ひいては何事でも人と融和できるより良い社会になっていくのではないか、ということなのだと思うのです。
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