そこで、この名古屋地裁と名古屋高裁を中心として、ペット供養訴訟について検討してみたいと思います。
1.この名古屋地裁と名古屋高裁ではどういった点が問題になったのでしょうか?
(1) 法人税法7条は、内国法人である公益法人等又は人格のない社団等の各事業年度の所得は、原則として法人税を課さず、例外として収益事業から生じた所得についてのみ法人税を課すことを規定しています。また、その収益事業の範囲については、法人税法施行令に委ねていて、その5条1項において33項目を限定列挙しています。
そこで、宗教法人が行うペットの葬祭事業が、施行令5条1項各号に規定する「収益事業」に該当し、法人税が課されるべきかどうかが争われたのです(忠岡博「判例研究:宗教法人が行うペットの葬祭の収益事業該当性」税法学554号(2005年)119頁)。
(2) このように税務当局と宗教法人との間で争いが生じている背景には、愛犬や愛猫といったペットが家族化して、ペットに対して出費を厭わなくなった飼い主が増え続け、このようなペットブームに便乗して、ペット用ホテル、エステ、保険さらには、冠婚葬祭といった分野にまで民間業者がビジネスとして乗り出してきたということにあります(2006年2月1日:読売新聞参照)。
現在では、ペット専用葬儀社は6000社から8000社ほどもあるようです。葬儀社には、仏教寺院だけでなく、倉庫業、運送業、不動産会社、石材店、動物病院といった民間業者が、果ては「ドン・キホーテ」までもペットの供養・葬儀を行っています。
例えば、「ドン・キホーテ:ペット霊園」では、棺セットなどを用意するなど利便性を追求している反面、「提携寺院(お寺さん)募集、FC募集」を行っています。このような宗教法人のFC化は「ドン・キホーテ」だけではありません( 「Yahoo!検索-ペットの葬儀」参照)。
こうなると、民間業者は、宗教法人を手下として多数取り込んで利益拡大を図り、他方で、宗教法人側もペット供養による利益を上げようとしているのですから、ペットの死という飼主の精神的ショックに付け込んで、商売をしているように思えます。これでは、ペット供養は完全なビジネスであって、葬儀という形式を装っただけで宗教性は皆無のように思えます。
このように民間業者とそれに協力する宗教法人は完全なビジネスとして、ペット供養を行っているのですから、民間業者と無関係の宗教法人が行うペット供養に対しても課税しないと不公平であるとも考えられます。そのような観点(「イコール・フッティング」:民間企業との競争条件の平等化)から、税務当局は、一般的に宗教法人のペット供養に対しても課税をしたわけです。
2.従来、どのような運用がなされていたのか? について、山本雅道「改訂新版 宗教法人の法律問題」(2001年、早稲田出版)110頁に、次のような記述があります。
「法人税の問題と関連して、東京F市にある宗教法人J院の『T犬猫霊園』の課税事件――犬猫霊埋葬供養は税金の対象かどうかで争った寺と国税庁の攻防の終結とその総括――は、動物の供養は収益事業か宗教活動かという宗教法人をめぐる税務攻勢の中で、約3年の歳月を経て双方若干の譲歩の上、昭和58年和解が成立した。断片的な情報をつなぎ合わせると、専用墓地とロッカー式の永代使用料は非課税、その管理料は課税。3年管理が原則の個別墓地、棚式の使用料は管理料として一部課税。合祀は供養の対象外という考えで課税。また線香、卒塔婆、お経、法要は非課税、花(寺で用意した生花)は課税とのこと。要するに、動物霊園はその“管理”いかんで、収益事業とみなされる。しかし、“供養”については非課税扱い……というのが当時の交渉(和解)の結論といえそうである。」
これは、現在では、宗教法人よりも株式会社の方が動物霊園を経営している方が多いことも影響して、同じ動物霊園であるのに、株式会社は課税、宗教法人なら非課税というのは不公平であると、税務当局が判断したものではないか(山本「改訂新版 宗教法人の法律問題」110頁)と理解されています。このような税務当局に対して、著者の山本氏は、「税務行政が宗教活動そのものの中にヒタヒタと侵入しつつある事実を宗教家は忘れてはならない」と指摘して、批判をしています。
山本氏が批判的なのは、
と理解しているからです。「仏教の世界観は、人間だけではなく、あらゆる動物を有情(心あるもの)と見て同列に置き、人間とか動物とかは、ある永続する個的存在の輪廻の諸相、諸段階に他ならないと考え、死んだ動物の追善供養は、その動物の霊を慰め、より良い世界へ輪廻転生せしめる力があると信じられている。このような動物への宗教的行為は、その動物の飼主である信者の信仰において成立するものであり、宗教的意義を有するものとみられる。このような仏教的世界観は日本文化の中に深く浸透している」(山本「改訂新版 宗教法人の法律問題」109頁)
要するに、仏教の世界観では、動物にも霊があり人間と同様に供養の対象であること、それのみならず、動物の供養は飼主である信者の信仰に基づくもの、言い換えれば、動物の供養は飼主の宗教行為であって、寺院側の読経などの供養は飼主に対する宗教行為であるというわけです。
ペットを失ったことによって最も精神的ショックを受けるのは、残された飼主ですから、寺院側の読経などの供養は、飼主の精神的ショックを回復させるものです。ペットロス対策が盛んに行われていますが、ペット供養は、ペットロス対策の1つです。そうすると、動物の供養が飼主に対する宗教行為であるという理解は、極めて妥当な理解と考えます。
このような宗教行為でさえも課税しようとしているのは、公益法人改革の一環として、政府の方針は、「公益法人設立を準則主義とし、公益法人は原則課税とし、公益性の高い特定の法人の事業のみを非課税という方向である。原則非課税から原則課税への180度の転換である」( 三木義一「宗教法人によるペット供養の非収益事業性」立命館法学298号(2004年)406頁(PDF版))ことも影響していると言われています。
3.なお、キリスト教の世界観ではペットの葬式は行えるのでしょうか?
「松原教会・クリスチャン神父のQ&A(1)」<ペットにも葬式ができるか>では、
「キリスト教では、人間だけが神の似姿として造られたということです(創1・26)。他の被造物に比べて、人間には特別な価値があります。もちろん人間は他の動物と同じような体を持っていますが、その魂には根本的、質的な違いがあります。人間だけに「知恵」と「自由意志」が与えられました。…
だからといって我々は、他の被造物、特に動物を勝手に自分の都合だけのために使っていいわけではありません。
同じく創世記第一章で、神様がすべてのものを造った後、良いものだと宣言されたのですから、私たちはすべてのもの、特に動物を尊重しなければなりません。……キリスト様の、支配は奉仕であるという言葉を忘れてはいけません。いつも弱いものを特に愛するようにおっしゃいましたが、その中に動物も入っていると思います。詩編104・29-30によると、神の霊はすべてのものにひそんでいるということです。これを「神の内在」といいます。
今まで述べたことの意味合いから考えますと、ペットの葬式もできると思います。その式のときに、神様にそのペットとの長い付き合いを感謝するとともに、宇宙万物の一部としての復活を願うことができるでしょう。
しかし、お願いします。その葬式は教会にお願いするのでなく、ご自分でするように。人間の世話だけで神父は手いっぱいです。」
要するに、仏教とは異なり、「知恵」と「自由意志」のある人間と動物は質的に違うから、教会ではペットの葬式は行わないとします。ただ、弱い立場にある動物も尊重すべきであるので、信者が自由にペットの葬式をすることは構わないとするようです。
仏教では、人間と動物を同列に扱い霊を慰め、ペットに対する供養は飼い主への宗教行為であるのに対して、キリスト教では、人間と動物とは質的に異なり教会は関与せず、ペットに対する供養は飼い主への宗教行為にならないということなのでしょう。
こうなると、キリスト教では、ペット供養は宗教行為とは言い難いように思えます。
もっとも、同じ仏教でも、「浄土真宗では、所謂ペットの葬儀は行わない。畜生は念仏を聞く耳を持たない、というのがその理由のようだ。」(「◆京都より・・・、気ままな遁世僧の今様つれづれ草◆」さんの「御所の猫。-ペット供養を思う-」 2005/10/1(土) 午前 5:02)そうですから、同じ仏教でも違いがあるように、キリスト教においても違いがあるのかもしれません。
(ぜひ、キリスト教信者の方の意見をお聞かせ下さい。)
ただ、「◆京都より・・・、気ままな遁世僧の今様つれづれ草◆」さんの「御所の猫。-ペット供養を思う-」 2005/10/1(土) 午前 5:02でも、
と述べて、「猫は気まぐれな動物ではあるが、
それよりも淡々と生きているような気がするのだ。
起きて、食べて、寝て、歩いて、
時には縄張り争いもするのだろう、人とも接する、
全て引き摺る事なく、そのまま受け入れて生きているような気がする。
そこには呪縛や束縛といった概念が入る余地はない。
単なる条件反射と言ってしまえば身もふたもない話しであるが、
人間はとかく感情を引き摺るのである。
彼らにはそれがない。
畜生道にもしっかり仏が存在するような気がするのは、
私の浄土真宗的な仏教観から外れた考え方なのだろうか・・・・・。
午睡を楽しむ野良猫を見て、あれこれ思う凡夫の一人が私なのだ。
果して、呪縛も束縛もない世界は、覚りの世界そのものではないか・・・・・。」
次は、名古屋高裁平成18年3月7日判決、名古屋地裁平成17年3月24日判決の検討の前に、ペット供養の現状について検討します。
「ペット供養訴訟~ペットの火葬や霊園の現状」に続きます。
また、大変興味深く読ませて頂きました。どうも有難うございます。
ペット供養が宗教行為とは見なされずに付帯事業と見なされるとは、王法も困ったものですね。もっとも、私自身は宗義上、ペットの葬儀や追善供養は致しませんが、飼い主の気持ちは十分に尊重すべきだと考えています。その思いが引用下さった拙稿です。また遊びに参ります。
ペット供養について色々調べているうちにRen'ohさんのブログに辿り着きました。大変参考になりました。ありがとうございます。
>私自身は宗義上、ペットの葬儀や追善供養は致しませんが、飼い主の
>気持ちは十分に尊重すべきだと考えています。
>その思いが引用下さった拙稿です。
「宗義上、ペットの葬儀…は致しませんが、飼い主の気持ちは十分に尊重すべきだ」とのお考えとのこと、誤解致しまして、大変申し訳ありません。エントリー内で訂正致しました。
>また遊びに参ります。
ペット供養については何回か取り上げる予定です。今後もぜひ起こし下さい。
もっとも、ペット供養に関しては、「大法輪」平成18年8月号で、「ペットの納骨ができるか」というQ&Aが出ているくらいですから、Ren'ohさんにとってはよくご存知のこととは思いますが。
事後報告で恐縮ですが、こちらでファン登録させて頂きました。
悪しからず・・・m(_ _)m。
「大法輪」にそんな特集がありましたか。
いやはや、私こと、実はあまりその手の雑誌は読まないもので・・・。
(長らく本山で専門誌の編集してたくせに・苦笑)
敢えて補足させて頂くと、春霞さんが、横棒を引いてしまわれた私への見解について、別に全くやぶさかではありませんよ。私の他の記事に色々書き付けておりますが、我が宗門は、ある種「タリバーン」化することによって、宗義の秩序を保とうとしています。
要するに「言葉」でのみ、教義を伝えようとする布教方法です。
私はそれには著しく違和感を感じています。
長くなって済みませんでした・・・。
URL | Ren'oh #-[ 編集 ]
>私としても非常に参考になっています。
ありがとうございます。多くのことを考慮してこそ法律論、できる限り論理を尽くすことこそ法律論であると思っています。
>事後報告で恐縮ですが、こちらでファン登録させて頂きました。
ありがとうございます。こちらもリンク登録させて頂きました。
>「大法輪」にそんな特集がありましたか。
>いやはや、私こと、実はあまりその手の雑誌は読まないもので・・・。
そうでしたか(汗)
「大法輪」の存在は前から知っていましたが、8月号でペット供養についての記事が出ていたので、初めて購入しました。「大法輪」は一般書店で売っているものですから、きっと「大法輪」は一般読者向けに仏教を伝えるものなんでしょうね。
>春霞さんが、横棒を引いてしまわれた私への見解について、別に全く
>やぶさかではありませんよ。
そうでしたか。深読みしすぎました。では、コメント欄でのやり取りを反映する形で、修正させて頂きます。
>私の他の記事に色々書き付けておりますが、
>要するに「言葉」でのみ、教義を伝えようとする布教方法です。
>私はそれには著しく違和感を感じています。
まだ少しだけですが、色々と実践なされていることを拝読しました。仏教の教えについては素人同然ですが、Ren'ohさんの「違和感」はおかしくないと思います。Ren'ohさんなりの布教、ブログの更新を楽しみにしています。
>長くなって済みませんでした・・・。
長文大歓迎です。コメント欄に文字数制限はありませんし。
| #[ 編集 ]
このエントリーでの引用はわずかですが、大変参考になりました。ありがとうございます。
「ペット供養訴訟」のエントリーは、結論を出さないままになってしまっていますし、また参考にさせて頂くこともあるかと思います。今後とも宜しくお願いします。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)