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その「砂川事件」につき、1959年3月に出された「米軍駐留は憲法違反」との東京地裁判決(伊達判決)に衝撃を受けたマッカーサー駐日米大使が、同判決の破棄を狙って藤山愛一郎外相に最高裁への「跳躍上告」を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官と密談するなど露骨な内政干渉を行っていたことが4月29日、機密指定を解除された米公文書から分かりました。
1.まずは「砂川事件」の事案と東京地裁・最高裁判決を簡単に紹介しておきます。
「【砂川事件と伊達判決】 1957年7月8日、東京調達局が東京都砂川町(現・立川市)にある米軍立川基地拡張のため測量を始めた際、拡張に反対するデモ隊の一部が立ち入り禁止の柵を壊して基地内に立ち入ったとして、刑事特別法違反の罪でデモ隊のうち7人が起訴された事件。東京地裁(伊達秋雄裁判長)は59年3月30日、駐留米軍を憲法9条違反の「戦力の保持」に当たるとして無罪判決を言い渡した。検察側は最高裁に跳躍上告。最高裁は同年12月16日、「憲法の平和主義は無防備、無抵抗を定めたものではなく、他国による安全保障も禁じていない。安保条約はわが国の存立にかかわる高度の政治性を有し、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り司法審査の対象外」と1審判決(伊達判決)を破棄し、差し戻した。後に有罪確定。(共同)」(東京新聞平成20年4月30日付朝刊26面)
新聞での紹介では少ないので、もう少し詳しく説明しておきます(全体を見れば「砂川闘争」といった方が正確でしょう)。
「1955年、国(特別調達庁)は米軍立川飛行場の拡張計画を内示したが、その収用対象地域を抱えた砂川町では町議会が全員一致で反対を決議するほどに住民の抵抗が生じ(基地を拡張すると、地域の農家の人はほとんど自宅も畑も失ってしまう)、全国の労組・学生・住民の支援を得た反対運動が発展した。しかし国は1957年7月8日、基地内民有地において、拡張のための測量を強行したため、1000名以上が飛行場周辺で集団抗議行動を展開した。そのさい、集団の一部が飛行場境界棚を引き抜き、その破壊箇所から約300名が境界内に数メートルの深さで約1時間にわたり立ち入った。当日は被逮捕者はいなかったが、2ヵ月後である9月22日になって23名が(旧)日米安保条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法2条違反で逮捕され、10月2日に内7名が起訴された。
立入禁止場所に正当な理由なく立ち入る行為は軽犯罪法1条32号で拘留又は科料に処せられるが、立入り先が米軍使用区域だと同じ行為が刑特法2条により1年以下の懲役等、より重く処罰されている。そこで、駐留米軍を特に厚く保護するというこの「差別的取扱」規定が違憲かどうかが問題となった。
1審判決(東京地裁昭和34・3・30下刑集1巻3号776頁。いわゆる「伊達判決」)は、この「差別的取扱」が「もし合衆国軍隊の駐留がわが憲法の規定上許すべからざるものであるならば……憲法31条及び右憲法の規定に違反する結果となる」として、旧安保条約とそれに基づく米軍駐留の憲法判断に踏み込んだ。その判旨は、<1>安保条約によって日本と直接関係のない武力紛争に巻き込まれるおそれがあることから、駐留米軍は憲法9条2項前段にによって禁止されている「戦力」にあたるとして、9条に違反する、<2>違憲の駐留米軍を保護法益として、国民に軽犯罪法1条32号より重い刑罰を科す刑事特別法は、憲法31条に違反して無効であるとして、無罪を言い渡した。
検察側の跳躍上告(刑事訴訟規則254条)を受けた最高裁(最大判昭和34・12・16刑集13巻13号3225頁)は、<1>憲法9条2項で保持を禁止されている「戦力」とは、わが国が主体となって指揮権・管理権を行使できる戦力をいい、駐留米軍はそれにあたらない、<2>日米安保条約が憲法の平和主義の原理に反しないかどうかについて、日米安保条約は高度の政治性を帯びた条約であるから、一見極めて明白に違憲無効と認められない限りは司法審査にはなじまず、安保条約が一見極めて明白に違憲とはいえない、と判示して、無罪とした原判決を破棄・差戻した。( <2>の論理は「一見明白」論つきの統治行為とみることもできるが、安保条約の合憲性という実体の問題とそれに対する司法審査の可否という訴訟上の問題とを混同しており、明確性を欠く。なお、この論理は、論理的には憲法優位説に立ち、かつ、条約に対する違憲審査を肯定しているものである。)
差戻し後、7名は罰金2000円の有罪が確定した。しかし、米側は基地拡張を断念し、米軍に接収された農地の返還を求め、1956年に住民が国を訴えた「土地返還訴訟」により、滑走路を畑に戻して無条件返還するという和解が1976年に成立した。1977(昭和52)年11月、立川基地は日本に全面返還された。」(「憲法判例百選2」参照)
これを読むと、国が、地域住民の多数の反対を押し切って立川基地拡張を強行し始めたために、事件が発生したことが分かります。事件の発端からして、国が米政府のために従属的に行動しているのではないか、と推測できます。また、1958年の台湾海峡危機の際、米軍が出撃していましたから(解禁文書で、日本の基地から米軍が出撃していたことが判明)、また戦争なのかという意識もあったはずです。こういう背景があるからこそ、1審判決が違憲判決を出すことに繋がったのでしょう。
(1) 東京新聞平成20年4月30日付朝刊26面
「「米軍違憲」破棄へ圧力 砂川事件、米大使が露骨な介入
2008年4月30日 朝刊
米軍の旧立川基地の拡張計画に絡む「砂川事件」をめぐり、1959年3月に出された「米軍駐留は憲法違反」との東京地裁判決(伊達判決)に衝撃を受けたマッカーサー駐日米大使(当時、以下同)が、同判決の破棄を狙って藤山愛一郎外相に最高裁への「跳躍上告」を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官と密談するなど露骨な介入を行っていたことが29日、機密指定を解除された米公文書から分かった。
「米軍駐留違憲判決」を受け、米政府が破棄へ向けた秘密工作を進めていた真相が初めて明らかになった。内政干渉の疑いが色濃く、当時のいびつな日米関係の内実を示している。最高裁はこの後、審理を行い、同年12月16日に1審判決を破棄、差し戻す判決を下した。
公文書は日米関係史を長年研究する専門家の新原昭治(にいはらしょうじ)氏が今月、米国立公文書館で発見した。
「伊達判決」が出た翌日に当たる59年3月31日付のマッカーサー大使の国務省あて公電によると、大使は藤山外相と同日会談し、「日本政府が判決を正すために迅速な行動を取る重要性」を強調。東京高裁に控訴するのではなく、地裁から即座に最高裁に上告する手続きである跳躍上告をすべきだと訴えた。
高裁を経由すれば判決破棄までに時間がかかると主張した大使に対し、外相は賛意を表明。同日の閣議で跳躍上告を提案する意向を示した。
同年4月24日付の大使の国務省あて公電は、上告審の裁判長を務めた田中耕太郎・最高裁長官が大使と接触した事実を明記。長官は「非公式なやりとり」の中で、本件を「優先的」に扱うとの見解を表明した。
上告審では、日本を拠点とする米艦船が58年の台湾海峡危機に出動した事実関係が争点となったが、59年9月14日付の国務省公電は、作戦参加をにらんだ第5空軍の部隊や海兵隊の航空団が日本の基地から台湾や本土復帰前の沖縄に移動していた事実を記している。
大使は連合国軍総司令部(GHQ)で最高司令官を務めたマッカーサー氏のおいに当たる。(共同)」
「最高検の主張も覆す/安全保障見直す機会
砂川事件の上告審で被告弁護団の事務局長を務めた内藤功弁護士の話 当時はサンフランシスコ講和条約の発効後で、日本は独立国家だった。米側の取った動きは<1>内政干渉の疑いがある<2>司法の独立に対する侵犯に当たる―という二重の意味での干渉行為だ。外務省のみならず、最高裁長官までが米側と早く手続きを進める話までしており、「まさか」という思いだ。米側は最高検が行う反論の資料も提供していた。最高検は当時「在日米軍は台湾海峡には行っていない」と主張していたが、国務省の公電からは(日本に駐留する)第五空軍の部隊などが台湾や沖縄に展開していたことが判明した。最高検はこうした点を法廷で正確に弁論していなかったことが分かった。 (共同)
水島朝穂・早大法学学術院教授(憲法)の話 伊達判決をめぐり最高裁への「跳躍上告」が実は、米側のアイデアに基づくものだったのではないかという疑惑が、半世紀を経て明らかになった。一国の安全保障をめぐる問題が外国からの「指示」に左右される異様さを強く感じる。駐留米軍を違憲と断じた伊達判決は、1960年の日米安保改定を翌年に控えたタイミングで出された。この判決で駐留米軍の正当性が揺らぎ、改定作業が円滑に進められない事態を恐れ、米側は最高裁判断を迅速化させるために跳躍上告を示唆したのだろう。日本の自主性が損なわれた歴史の闇が白日の下にさらされたことは、日米安保条約の不平等性だけでなく、「テロとの戦い」を含めた米指導の現代の安全保障の在り方を見直す絶好の機会にもなるだろう。 (共同)」
(2) 毎日新聞平成20年4月30日付朝刊1面
「砂川裁判:米大使、最高裁長官と密談 1959年、1審「日米安保違憲」破棄判決前に
米軍立川基地(当時)の拡張に反対する住民らが基地内に侵入した砂川事件で、基地の存在を違憲とし無罪とした1審判決を破棄し、合憲判断を出した1959年の最高裁大法廷判決前に、当時の駐日米大使と最高裁長官が事件をめぐり密談していたことを示す文書が、米国立公文書館で見つかった。当時は基地存在の根拠となる日米安保条約の改定を目前に控え、米側と司法当局との接触が初めて明らかになった。
◇米で公文書発見
国際問題研究者の新原昭治さん(76)が、別の事件に関する日本と米国の交渉記録などを公文書館で閲覧していて発見した。大使は、連合国軍総司令官のマッカーサー元帥のおいであるダグラス・マッカーサー2世。最高裁長官は、上告審担当裁判長の田中耕太郎氏だ。
文書は、59年4月24日に大使から国務長官にあてた電報。「内密の話し合いで担当裁判長の田中は大使に、本件には優先権が与えられているが、日本の手続きでは審議が始まったあと、決定に到達するまでに少なくとも数カ月かかると語った」と記載している。
電報は、米軍存在の根拠となる日米安保条約を違憲などとした59年3月30日の1審判決からほぼ1カ月後。跳躍上告による最高裁での審議の時期などについて、田中裁判長に非公式に問い合わせていたことが分かる内容。
これとは別に、判決翌日の3月31日に大使から国務長官にあてた電報では、大使が同日の閣議の1時間前に、藤山愛一郎外相を訪ね、日本政府に最高裁への跳躍上告を勧めたところ、外相が全面的に同意し、閣議での承認を勧めることを了解する趣旨の発言があったことを詳細に報告していた。
新原さんは「外国政府の公式代表者が、日本の司法のトップである、担当裁判長に接触したのは、内政干渉であり、三権分立を侵すものだ」と話している。【足立旬子】
◇批判されるべきだ--奥平康弘東大名誉教授(憲法学)の話
田中長官が裁判について詳しくしゃべることはなかったと思うが、利害関係が密接で、当事者に近い立場の米国大使に接触したことは内容が何であれ批判されるべきことだ。当時の日米の力関係を改めて感じる。
◇安保改定へ日米連携--我部(がべ)政明・琉球大教授(国際政治学)の話
安保条約改定の大枠は59年5月に固まっている。1審判決が出た3月は、日米交渉がヤマ場を迎えた時期だ。日米両政府が裁判の行方に敏感に反応し、連携して安保改定の障害を早めに処理しようとしていた様子がよく分かる。日本は、米国による内政干渉を利益と判断して積極的に受け入れていたことを文書は示している。
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■ことば
◇砂川事件
1957年7月8日、東京都砂川町(現・立川市)の米軍立川基地で、拡張に伴う測量に反対するデモ隊の一部が基地内に立ち入り、7人が日米安全保障条約の刑事特別法違反で起訴された。東京地裁は、安保条約に基づく米軍駐留が憲法9条に反するとして59年3月に全員を無罪としたが、最高裁大法廷は同12月に1審を破棄、差し戻しを命じた。判決は、国家統治の基本にかかわる政治的な問題は司法判断の対象から外すべきだとした(統治行為論)。7人は罰金2000円の有罪が確定した。
◇跳躍上告
刑事訴訟法に基づき、地裁や家裁、簡裁の1審判決に対して、高裁への控訴を抜きに、最高裁に上告する手続き。1審で、憲法違反や地方自治体の条例・規則が法律に違反したと判断された場合に限る。
毎日新聞 2008年4月30日 東京朝刊」
(3) 毎日新聞平成20年4月30日付朝刊27面
「砂川裁判:密談文書 「司法の独立、どこへ」 元被告、怒りあらわ
◇1審裁判官「面識あるの当然」
60年安保闘争へと続く米軍基地を舞台とした砂川闘争での基地侵入事件(砂川事件)の判決をめぐり、駐日米大使と、最高裁長官、外相が接触を重ねていたことが米国の外交文書で明らかになった。文面からは、安保体制への影響を最小限に抑えようとの米国側の狙いが浮かぶ。当時の被告は「司法の独立はどうなるのか」と怒り、元裁判官は「司法行政のトップが大使と話すことはありえる」と長官を擁護した。【井崎憲、武本光政】
7人いた事件の被告のうち当時学生としてデモに参加していた土屋源太郎さん(73)は「外国の大使に長官がなぜ審理見通しを語らなければならないのか。けしからん話だ」と批判した。
裁判では、大使からの「アドバイス」もあり、政府は最高裁に跳躍上告。60年の日米安保条約改定に間に合わせるように、59年12月に最高裁が判決を出し、無罪や米軍駐留の違憲判断はくつがえった。「3審を受ける権利を踏みにじられたと思うと悔しい」と話した。
上告審弁護団の一人で、元参院議員(共産)の内藤功弁護士(77)は「危惧(きぐ)はしていたが、実際にここまでやっているのかと驚いた」と述べ、「今後も安保条約や自衛隊の絡む訴訟は監視しないといけない」と話した。
1審判決で陪席裁判官だった松本一郎独協大名誉教授(77)は「大使がかなりショックを受けて、慌てふためいていた感じがする。初めて聞く話で、興味深い」と述べた。一方で田中耕太郎・最高裁長官と大使との接触については「最高裁長官は司法行政の長というポスト。米国大使とは当然面識があっただろうし、仮に大使が電話をしてきたとして、『話をしません』とは言えないだろう」と冷静に受け止めた。
米大使と密談したとされる田中長官は、内務官僚や文相を経て50年から10年間、第2代長官を務めた。55年にあった裁判所長らの会合では「ジャーナリズムその他一般社会の方面からくる各種の圧迫に毅然(きぜん)としなければならない」と訓示し、話題となった。74年に死去。
1審東京地裁の判決を出した伊達秋雄裁判長は退官後、「外務省機密漏えい事件」の弁護団長などを務め94年に死去している。
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■大使が最高裁長官と密談したことを示す文書の全文■
(日本語訳)最高裁は4月22日、最高検察庁による砂川事件の東京地裁判決上告趣意書の提出期限を6月15日に設定した。これに対し、弁護側はその立場を示す答弁書を提出することになる。
外務省当局者が我々に知らせてきたところによると、上訴についての大法廷での審議は、恐らく7月半ばに開始されるだろう。とはいえ、現段階では決定のタイミングを推測するのは無理である。内密の話し合いで担当裁判長の田中は大使に、本件には優先権が与えられているが、日本の手続きでは審議が始まったあと、決定に到達するまでに少なくとも数カ月かかると語った。 マッカーサー
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■砂川事件を巡る動き(<>内部分は今回文書で明らかになった)
51年 9月 8日 日米安保条約締結
57年 7月 8日 米軍立川基地の拡張反対派が基地内に立ち入る
9月22日 警視庁が反対派23人を刑事特別法違反容疑で逮捕(後に7人が起訴)
59年 3月30日 東京地裁が違憲判断し7人に無罪判決
31日 <マッカーサー大使が藤山外相に最高裁への跳躍上告を勧める>
4月 3日 検察側が跳躍上告
24日 <大使が、田中耕太郎・最高裁長官との密談を米国務長官に電報で報告>
12月16日 最高裁が合憲判断で差し戻し
60年 1月19日 新安保条約締結
7月 7日 東京地裁で差し戻し審開始
61年 3月27日 東京地裁が合憲判断で7人に有罪判決
63年12月25日 最高裁が上告棄却を決定。有罪確定
77年11月30日 米軍立川基地が横田に移転し、日本に全面返還
毎日新聞 2008年4月30日 東京朝刊」
この内容について詳しく触れたのは、毎日新聞と東京新聞であり(他には「赤旗」も)、読売新聞は同日夕刊で幾らか触れましたが、朝日新聞は全く触れていません。朝日新聞はあまり関心がないようです。
3.この辺の経緯をみると、違憲とした東京地裁判決を破棄するため、政府のみならず最高裁判所も、米国側に協力的だったことが分かります。
「「伊達判決」が出た翌日に当たる59年3月31日付のマッカーサー大使の国務省あて公電によると、大使は藤山外相と同日会談し、「日本政府が判決を正すために迅速な行動を取る重要性」を強調。東京高裁に控訴するのではなく、地裁から即座に最高裁に上告する手続きである跳躍上告をすべきだと訴えた。
高裁を経由すれば判決破棄までに時間がかかると主張した大使に対し、外相は賛意を表明。同日の閣議で跳躍上告を提案する意向を示した。
同年4月24日付の大使の国務省あて公電は、上告審の裁判長を務めた田中耕太郎・最高裁長官が大使と接触した事実を明記。長官は「非公式なやりとり」の中で、本件を「優先的」に扱うとの見解を表明した。」(東京新聞)
この経緯は、実際の文書を見るとかなり生々しさを感じます。
「砂川事件・伊達判決に関する
米政府の解禁文書(抜粋)
国際問題研究者の新原昭治氏が入手した砂川事件・伊達判決(一九五九年)に関する米政府解禁文書の主要部分を紹介します。電報は一通をのぞきマッカーサー米駐日大使から米国務省あてです。
◇
■「部外秘」
1959年3月30日午前6時52分受信
夜間作業必要緊急電
伊達秋雄を主任裁判官とする東京地方裁判所法廷は本日、…「…米軍の駐留は……憲法に違反している」と宣言した。
(中略)
当地の夕刊各紙はこれを大きく取り上げており、当大使館はマスメディアからさまざまの性格の異なる報道に関した数多くの問い合わせを受けている。外務省当局者と協議の後、これら問い合わせには、「日本の法廷の判決や決定に関して当大使館がコメントするのはきわめて不適切であろう…」むね答えている。在日米軍司令部もマスメディアの問い合わせに同様の回答をしている。
(後略)
■「極秘」
1959年3月31日午前1時17分受信
至急電
今朝八時に藤山(外相)と会い、米軍の駐留と基地を日本国憲法違反とした東京地裁判決について話し合った。私は、日本政府が迅速な行動をとり東京地裁判決を正すことの重要性を強調した。私はこの判決が、藤山が重視している安保条約についての協議に複雑さを生みだすだけでなく、四月二十三日の東京、大阪、北海道その他でのきわめて重要な知事選挙を前にしたこの重大な時期に大衆の気持ちに混乱を引きおこしかねないとの見解を表明した。
(中略)
私は、もし自分の理解が正しいなら、日本政府が直接、最高裁に上告することが非常に重要だと個人的には感じている、…上告法廷への訴えは最高裁が最終判断を示すまで論議の時間を長引かせるだけだからであると述べた。これは、左翼勢力や中立主義者らを益するだけであろう。
藤山は全面的に同意すると述べた。…藤山は、今朝九時に開催される閣議でこの行為を承認するように勧めたいと語った。
■「部外秘」
1959年4月1日午前7時06分受信
至急電
日本における米軍の駐留は憲法違反と断定した東京地裁の伊達判決は、政府内部でもまったく予想されておらず、日本国内に当初どきっとさせるような衝撃をひろげた。
(中略)
岸(首相)は、政府として自衛隊、安保条約、行政協定、刑事特別法は憲法違反ではないことに確信を持って米国との安保条約改定交渉を続けると声明した。
■「秘」
1959年4月1日午前7時26分受信
至急電
藤山(外相)が本日、内密に会いたいと言ってきた。藤山は、日本政府が憲法解釈に完全な確信をもっていること、それはこれまでの数多くの判決によって支持されていること、また砂川事件が上訴されるさいも維持されるであろうことを、アメリカ政府に知ってもらいたいと述べた。法務省は目下、高裁を飛び越して最高裁に跳躍上告する方法と措置について検討中である。最高裁には三千件を超える係争中の案件がかかっているが、最高裁は本事件に優先権を与えるであろうことを政府は信じている。とはいえ、藤山が述べたところによると、現在の推測では、最高裁が優先的考慮を払ったとしても、最終判決をくだすまでにはまだ三カ月ないし四カ月を要するであろうという。
(中略)
一方、藤山は、もし日本における米軍の法的地位をめぐって、米国または日本のいずれかの側からの疑問により(日米安保)条約(改定)交渉が立ち往生させられているような印象がつくられたら、きわめてまずいと語った。
そこで藤山は、私が明日、藤山との条約交渉関連の会談を、事前に公表のうえ開催することを提案した。(後略)
■「秘」
1959年4月24日午前2時35分受信
最高裁は四月二十二日、最高検察庁による砂川事件の東京地裁判決上告趣意書の提出期限を六月十五日に設定した。これにたいし、弁護側はその立場を示す答弁書を提出することになる。
外務省当局者がわれわれに知らせてきたところによると、上訴についての全法廷での審議は、恐らく七月半ばに開始されるだろう。とはいえ、現段階では決定のタイミングを推測するのは無理である。内密の話し合いで担当裁判長の田中(耕太郎。当時の最高裁長官)は大使に、本件には優先権が与えられているが、日本の手続きでは審議が始まったあと、決定に到達するまでに少なくとも数カ月かかると語った。
■「秘」
1959年5月22日受領
砂川事件は引き続きかなりの大衆的関心を惹きつけており、新聞は関連するすべてのニュースを目立つ形でとりあげている。(中略)
…弁護側は事件の七人の被告を弁護するために一千人の弁護士を集めると豪語している〔日本の裁判では、理論的には、どちらの側の弁護士にも人数の制約はない〕。全体法廷での審議の予備的打ち合わせをする(本件の)第一小法廷齋藤悠輔主任裁判官は、これを阻止する決定をくだし、弁護士を一人の被告につき三人以下とした。この弁護士制限決定は、多くの評論家や朝日新聞を含む新聞から非難されている。
弁護士の人数を制限するこの決定を擁護して、斎藤(判事)はこの決定により最高裁の上告審議が促進されると発表、きわめて重要な意味を持っているので最高度の優先度を与えたためにそうしたと説明した。新聞報道によれば、斎藤はこのほか、最高裁は米最高裁がジラード事件について迅速に決定したことを、砂川事件上告の処理を取り急ぎおこなう先例として重視していると述べるとともに、最高裁はこの事件の判決を八月におこなうだろうと予測したとのことである。」(2008年4月30日(水)「しんぶん赤旗」:「59年の砂川事件・伊達判決 米軍違憲判決後の米の圧力 最高裁にまで手をのばす」
伊達判決が出た3月30日に緊急電を行い、3月31日には、朝8時に藤山外相と会って、跳躍上告を進言し、藤山外相は朝9時の閣議で承認するように勧めるという、米大使のまま考えることなく承認しようとするほどの従属ぶりです。4月1日には岸首相が憲法違反ではないと声明するほどなのですから、日本政府は米国の顔色を窺っておろおろしているようです。
4月24日付けの大使の国務省あて公電からすると、外務省当局者が最高裁での審議が7月半ばに開始されるとの見通しを語り、最高裁判所長官が大使に、「優先的に」扱うことを述べています。わざわざ「優先的に」扱うことを述べることは、暗に合憲判断をすることを示唆しているのでしょう。その後、第一小法廷齋藤悠輔主任裁判官が、法的根拠がないのに弁護士の人数を制限しようとしていることも、結論は合憲判断と決めており、ともかく迅速に審理を進めることを意図していたと推測できそうです。
4.日本政府が伊達判決におろおろして、米国に対して一生懸命傅いているのは今でも変わらないので、さして珍しいことではないのでしょうが、問題なのは、最高裁判所の態度です。
(1)
「田中長官が裁判について詳しくしゃべることはなかったと思うが、利害関係が密接で、当事者に近い立場の米国大使に接触したことは内容が何であれ批判されるべきことだ。当時の日米の力関係を改めて感じる。」( 奥平康弘東大名誉教授(憲法学)の話)
詳しく喋ってはいないでしょうが、暗に合憲判断をすることを示唆しているのですから、喋っているのと同様です。これでは最高裁判所は、司法権の独立を主張する気概がまるでないといわざるを得ません。日本政府に対して合憲判断をする前提で、協力的である点でも問題です。
当事者に近い立場の米国大使と接触し、審理が始まる前から米国や日本政府に有利な方向での判決を示唆するなど予断を持っていたのです。こうなると、砂川事件最高裁判決はインチキ判決だったということさえできそうです。
(2) 思い起こすのは、大津事件です。
「1891年5月11日、滋賀県大津で巡査津田三蔵が訪日中のロシア皇太子(のちのニコライ2世)を襲撃し負傷させた(大津事件、または湖南事件ともいう)。ときの松方正義内閣は、外交政策的見地から津田を極刑に処すべきだとして大審院の担当裁判官に圧力をかけたが、大審院長児島惟謙は法の遵守を主張し、ついに大審院は内閣の干渉を排斥して、無期徒刑(現在の無期懲役)に処した。この事件は、司法権の他の2権からの独立の基礎を築いた例として有名であるが、他方、大審院長が担当裁判官を説得したことが、裁判官の職権の独立を侵したのではないかという問題も指摘されている。」(浦部憲穂編『憲法キーワード』204頁)
この事件では、ロシア側も津田の死刑を求めており、明治政府中枢は津田を死刑を求めており、司法権の他の2権からの圧力は相当なものがありました。明治天皇も、圧力をかけたとの推測もなされているほどでした(新井勉『大津事件の再構成』参照)。
明治憲法が成立してさほど経っていない時期において(1889(明治22)年2月11日に公布、1890(明治23)年11月29日に施行)、政府が裁判に干渉しようとしているときに、大審院長児島惟謙は厳しい圧力に負けることなく、憲法で定めている司法権の独立を守ったのです。(もちろん、司法行政権は司法大臣によって行使され、実際の裁判でも、治安維持法違反事件で自由を抑圧する判決など、権力に加担する傾向があり、明治憲法下で、司法権の独立は十分に確保されていたわけではありません。)
ところが、最高裁判所(田中耕太郎・最高裁長官)は、明治憲法下から認めている「司法権の独立」であるのに、現行憲法下においては司法権の独立を損なう行動をとったのです。田中耕太郎・最高裁長官は、大審院長児島惟謙に顔向けできないほど、実に恥ずべき行動をとったのです。
「米大使と密談したとされる田中長官は、内務官僚や文相を経て50年から10年間、第2代長官を務めた。55年にあった裁判所長らの会合では「ジャーナリズムその他一般社会の方面からくる各種の圧迫に毅然(きぜん)としなければならない」と訓示し、話題となった。」(毎日新聞)
米国や政府に対しては媚を売ったくせに、こう言ってのけるのです。司法権の独立というのは、裁判官自身がその独立を守る気がなければどこまでも崩れていくことを示唆しているように感じられます。
本日も大切な記事を書いて下さり、ありがとうございます。
残念ながら日本が主権国家であるという幻想は50年前から崩れていたということが明らかになりましたね。司法までがアメリカに従属していた証拠が出たわけです。
イラク戦争への自衛隊の参戦、沖縄基地からのイラクへの米軍の出撃、今でも、平気で憲法を踏みにじる政策を大手を振ってまかり通らせています。
日本国の誇りとはなんなのでしょう。
中国や隣国を攻撃することによって得られる偽りのプライドでなく、自国の憲法への敬意、誇りが、いま最も必要だと感じました。
世論調査では少し護憲支持が上昇してきたようですが、今後も貴方のような怜悧な思索による発信が、静かなれども確実な潮流となって、この国に満ることを祈りたい。誇りや気概のない一部の裁判官たちのあいだにも。
URL | みゃんこ #Bnxa9UrI[ 編集 ]
>司法までがアメリカに従属していた証拠が出たわけです
そこまで米国のために行動することはないだろうに思うんですよね。住民よりも米国の利益優先。これで日本の最高裁判所の長官なんだから、あきれます。日本国民に対して言えないことだから、黙って色々画策するんだから、どうしようもない。
田中耕太郎は商法学者ですから、元々、裁判官として司法権の独立を維持するという意識が乏しかったのでしょうね。名の通った学者というのは意外と裏表があり、表は立派なことを言ってみても、裏では正反対のことを言っていたりして、唖然としたことがあります。裏では米国の犬だったというのもうなづけます。
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