放送界の第三者機関「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の放送倫理検証委員会の「光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見書」(PDF版(HTMLバージョンもある))を一部引用して論じてみたいと思います。
1.報告書の内容に触れる前に2点ほど。
(1) まず、報告書の目次は、次のようになっています。
「目 次
機,呂犬瓩-事件・犯罪・裁判報道の重要性
供仝市母子殺害事件―差戻控訴審までの経緯と報道側の変化
掘33本、7時間半の番組-委員会検証の対象と方法
検―乎津過剰同調-本件放送の事例と傾向
后〃沙裁判-その前提的知識の不足
此“鏐霓擁麁-いわゆる「素材負け」について
察,わりに
【註1】 放送倫理基本綱領(NHK・民放連)
国内番組基準(NHK)
新放送ガイドライン(NHK)
放送基準(民放連)
報道指針(民放連)
裁判制度開始にあたっての取材・報道指針(日本新聞協会)
裁判員制度下における事件報道について(民放連)
【註2】 放送倫理検証委員会運営規則第4条
【註3】 裁判員制度のもとでの報道のあり方について
【別添資料】 各放送局への質問と回答例」
目次をざっとみると、「集団的過剰同調-本件放送の事例と傾向」「刑事裁判-その前提的知識の不足」「被告人報道-いわゆる「素材負け」について」という項目が並んでいます。番組内容としては、捏造番組の次に許されない事柄を行っていたことが一目瞭然ではないかと思います。
(2) この委員会および小委員会が視聴した番組は、以下の8放送局、20番組、33本の放送済み番組の録画であり、その総時間は約7時間30分でした。
[光市母子殺害事件 委員会が視聴した33本の番組一覧表]
(日付はいずれも2007年。分数は概算)
=第1回公判を機に放送されたもの=
1. 「報道ステーション」 (テレビ朝日 5月24日) 11分
2. 「たかじんのそこまで言って委員会」 (讀賣テレビ 5月27日) 8分
3. 「新報道プレミアA」 (フジテレビ 5月27日) 10分
=第1回集中審理を機に放送されたもの=
4. 「NHKニュース7」 (NHK 6月26日) 4分
5. 「ニュースウォッチ9」 (NHK 6月26日) 4分40秒
6. 「速ホゥ!」 (テレビ東京 6月26日) 4分55秒
7. 「ザ・ワイド」 (日本テレビ 6月27日) 21分
8. 「みのもんたの朝ズバッ!」 (TBS 6月28日) 7分
9. 「ザ・ワイド」 (日本テレビ 6月28日) 39分
10. 「速ホゥ!」 (テレビ東京 6月28日) 3分40秒
11. 「ワイド!スクランブル」 (テレビ朝日 6月29日) 18分
=第2回集中審理を機に放送されたもの=
12. 「ニュースJAPAN」 (フジテレビ 7月24日) 3分
13. 「スーパーJチャンネル」 (テレビ朝日 7月24日) 12分
14. 「イブニング・ニュース広島」 (中国放送 7月25日) 4分
15. 「ピンポン!」 (TBS 7月26日) 8分
16. 「NHKニュース7」 (NHK 7月26日) 55秒
17. 「ニュースウォッチ9」 (NHK 7月26日) 3分30秒
18. 「速ホゥ!」 (テレビ東京 7月26日) 3分10秒
19. 「ピンポン!」 (TBS 7月27日) 12分
20. 「ワイド!スクランブル」 (テレビ朝日 7月27日) 16分
21. 「The・サンデー」 (日本テレビ 7月29日) 18分
=第3回集中審理を機に放送されたもの=
22. 「スーパーJチャンネル」 (テレビ朝日 9月19日) 10分
23. 「FNNスーパーニュース」 (フジテレビ 9月20日) 28分
24. 「スーパーJチャンネル」 (テレビ朝日 9月20日) 27分
25. 「ズームイン!!SUPER」 (日本テレビ 9月21日) 11分
26. 「スッキリ!!」 (日本テレビ 9月21日) 15分
27. 「ザ・ワイド」 (日本テレビ 9月21日) 18分
28. 「みのもんたの朝ズバッ!」 (TBS 9月21日) 28分
29. 「とくダネ!」 (フジテレビ 9月21日) 18分
30. 「やじうまプラス」 (テレビ朝日 9月21日) 15分
31. 「ワイド!スクランブル」 (テレビ朝日 9月21日) 26分
32. 「The・サンデー」 (日本テレビ 9月23日) 25分
33. 「サンデー・ジャポン」 (TBS 9月23日) 3分
こうして挙げてみると、日本のテレビ番組中、およそすべての報道番組が検証対象になっていることが分かると思います。これだけ多いとなると、視聴者は影響を免れることができません。日本の報道番組すべてが、全国の視聴者に対して、光市事件について誤った認識を与え続けていたとさえ、いえるわけです。薄さ寒い思いがします。なお、ここに含まれていない著名な報道番組は「ニュース23」ですから、この番組だけは、裁判報道に関して許容できる範囲であったということになります。
番組数をまとめてみると、NHK:4本、日本テレビ:7本、TBS:5本、フジテレビ:4本、テレビ朝日:8本、テレビ東京:3本、読売テレビ:1本、中国放送:1本となっています。読売テレビは日本テレビ系列ですから、日本テレビ8本となります。こうして比較すると、日本テレビとテレビ朝日が飛びぬけて問題番組を放映していたことになります(もちろん、数本ぐらいは問題視しないで済むものもあったとは思いますが)。
特出して指摘しておくべきことは、娯楽番組が2つ、すなわち、司会:やしきたかじん氏、辛坊治郎氏の「たかじんのそこまで言って委員会」 (讀賣テレビ 5月27日)、司会:太田光(爆笑問題)氏、田中裕二(爆笑問題)氏の「サンデー・ジャポン」 (TBS 9月23日) が含まれていることです。娯楽番組だからといって、好き勝手なことを論じていいわけではないのです。これらは要注意番組であることを記憶にとどめておく必要があります。
(1) まずその前に、差戻審での検察側の主張について触れておきます。
「Q19 差戻審での検察側は、どのような主張をしているのでしょうか。
A 検察官は、事実関係についてはほとんど争っていません。弁護側の主張に対しても、真摯に反論をしていません。わずかに法医学鑑定について、弁護側の2つの鑑定に反論するために石津日出夫氏の鑑定書を提出し、その証人尋問をしました。
Q17でも触れましたが、卑劣な訴訟活動の最さいたるものが、旧2審の被告人が勾留中に知りあった友人に出した手紙です。拘置所での検閲で、被告人にとって不利な事実があることを知った検察官は、この友人に手紙を「任意」提出させて、証拠申請し、被告人に反省がないことを主張しました。信頼している友人に出した手紙が捜査に利用されたことを知った被告人は、深く傷ついていました。
差戻審でも、真面目に被害者のご遺族の意見陳述に耳を傾け、懸命にメモを採っていた被告人に向かって、公判検事は、「君は真面目に被害者の言葉を聞いていなかった。わたしは、メモ紙に線を引くのを見た」と言って、元少年を脅しました。後にこれが真っ赤な嘘であったことが明らかになるのですが、混乱した法廷で、被告人の口から出た言葉が、「検察官には、僕を『なめないでいただきたい』と言いたい」という発言だったのです。被告人は、いま、このとき興奮してしまったことを深く反省しています。」(現代人文社編集部編『光市事件裁判を考える』(現代人文社、2008年)158頁)
これを読むと、検察側は弁護側の事実関係を巡る主張に対して、真摯な反論をしていないのですから、「第1、2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい」などと騒ぎ立てていた世間は、一体なんだったのかと思わざる得ません。検察側が真摯に反論していないのに、訴訟当事者でない世間が騒いだところで、ただの馬鹿騒ぎだったと思えてきます。
(2) 「后シ沙裁判---その前提的知識の不足」は、刑事裁判における当事者の役割、特に、裁判所と弁護人役割について分かりやすく丁寧に論じており、実に秀逸な内容です。
「后シ沙裁判---その前提的知識の不足
【問題の所在】
裁判制度に照らして見るとき、本件放送の際立った特徴は次の2点だった。
1.被告・弁護団に対する反発・批判の激しさ
2.裁判所・検察官の存在の極端な軽視
前者は、「第1、2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい」「被害者遺族の無念の思いを踏みにじっている」「弁護団は死刑制度反対のために、この裁判を利用している」等々の反発・批判をさかんに浴びせたことを指す。多くの番組がそのことだけに終始した、という印象すらある。
その裏返しとして、ほとんどの番組は、裁判所がどのような訴訟指揮を行い、検察官が法廷で何を主張・立証したか、第1、2審の判決にもかかわらず死刑という量刑を追い求めた理由は何なのかについて、まったくといってよいほど伝えていない。その分、被告・弁護団が荒唐無稽、奇異なことを言い、次々に鑑定人などの証人尋問を行って、あたかも法廷を勝手に動かしているかのようなイメージが極度に強調された。これが、後者の問題である。
これらの背景には、番組制作者に刑事裁判の仕組みについての前提的知識が欠けていたか、あるいは知っていても軽視した、という事情があったのではないだろうか。
【意見1 本件放送は、裁判を主宰する裁判所の役割を忘れていなかったか】
言わずもがなであるが、裁判を主宰するのは裁判所である。裁判所は訴訟を指揮する強い権限を持ち、検察官と被告・弁護人の双方の主張を聞き、証拠の採否を決定して、真実を明らかにすべく審理を遂行する。
しかし、本件放送からは、こうした裁判所の存在がまったくうかがえない。中継レポートの背景に、差戻控訴審が行われている広島高裁の建物が映っていただけで、裁判所の役割が何であるのか、最高裁の判決を受けてどのような訴訟指揮を行ったのか、その理由や狙いは何なのか、等々について、いっさいの説明がない。
今回の差戻控訴審で被告・弁護人が提出したさまざまな事実や主張は、たとえそれらが第1、2審で提起されず、あるいは重要視されなかったものであり、また一見、奇妙に見えるものであっても、その全体が、裁判所が差戻審の審理において必要と認めた弁護活動の一環であった。裁判所が認めなければ、法廷では検察官も被告・弁護人も勝手に活動するわけにいかないことは、自明の理である。
その意味では、本件放送の多くが反発・批判の矛先を被告・弁護団にのみ向けたことは相当な的外れであり、もしそれを言うなら、そのような訴訟指揮を行った裁判所に対して、まず言わなければならなかったはずである。裁判は裁判所が主宰するという初歩的な知識を欠いた、あるいは忘却した放送は、それがセンセーショナルに、また感情的に行われれば行われるほど、視聴者に裁判制度に関するゆがんだ認識を与えかねないものだった。
【意見2 本件放送は、刑事裁判の「当事者主義」を理解していたか】
今日、日本を含む民主主義社会の刑事裁判を特徴づけているのは、「当事者主義」である。ここで言う当事者とは、検察官、被告・弁護人のことであり、事案の解明や証拠の提出の主導権が、これら当事者にゆだねられている、という意味である。
裁判所自体は、両当事者の主張・立証に基づき、審判の主体として、事実を認定し、法律に基づいた判断を下す役割を担う。
当事者主義は、裁判所みずからが積極的に真実を探索する「職権主義」としばしば比較されるが、被告人の人権の保障、証拠収集の確実性、判断の公平性等の観点から、真実発見のために歴史的に形成された最良の手段であるとの評価が定着している。
こうした刑事裁判にあっては、検察官は、被害者やその家族・遺族の代弁者ではなく、国家的利益をはかる立場に立って、被告の犯罪を特定し、裁判所に裁くべき内容(訴因)を提示し、これを証明する役割を担っている。対して弁護人の役割は、被告との信頼関係のもとに、被告の利益を守る立場から、訴因について反論し、合理的な疑いの存在について主張と立証を尽くすことにある。
このことは、今回の差戻控訴審であっても、基本的には変わらない。検察官の求めにもかかわらず犯行時の年齢と更生可能性を考慮して死刑を選択しなかった第1、2審とそれを破棄した最高裁の判決をふまえて、検察官は何を主張・立証しようとしたか、それに対して被告・弁護人はどう反論・反証したか。これらのポイントを整理し、事件と裁判の全体像を明らかにし、伝えることが、番組制作者の仕事だったはずである。しかし、本件放送において、検察官の主張や立証の内容を伝えたものは皆無と言ってよかった。第1、2審の判決にもかかわらず上告をして死刑判決を求めた検察官の意図は何であったのか、それは差戻控訴審でどう展開されたのか、検察官は弁護団の新たな主張と立証にどう対応したのかといった事実を知らせることは、弁護団の主張・立証の意味を正確に理解し、公正・公平に評価する上でも、不可欠だったはずである。
そのかわりにあったのは、被告・弁護団と被害者遺族を対立的に描く手法だった。法廷での被告の供述や弁護団の記者会見での発言映像のあいだに、被害者遺族の記者会見等における発言映像をはさみ、対比させる構成である。
こうした手法によって、差戻控訴審が、あたかも被告・弁護団と被害者遺族との攻防であるかのような誤解を視聴者に与えているばかりか、検察官も被害者遺族と同様の主張・立証を行ったかのような印象を濃厚に醸し出している。
被害者遺族が凜として入廷していく姿や、集中審理傍聴後の会見等で、愛する家族を失った無念さをにじませながらも冷静に語る様子には、誰しもが胸を打たれるものがあった。それだけにこの対比的手法には、刑事事件における当事者主義について、視聴者に誤解を与える致命的な欠陥があった。
【意見3 本件放送は、弁護人の役割の認識に欠けるところがなかったか】
当事者主義のもとでの弁護人には、被告に対して、被告のために最善の弁護をする、という「誠実義務」が課せられている。
被告は、強力な権限を行使して迫ってくる検察官に対して自己を防御しなければならない、という境遇にある。一般私人であれば、訴訟能力もさほど持ち合わせていないだろう。弁護人はそうした苦境にある被告とのあいだで信頼関係を築き、ときには被告に不利な事情にも踏み込んででも、可能なかぎりの事実と関係情報を集め、それを被告にもっとも有利な主張や立証として組み立てて法廷に提示することにより、全力を尽くして被告人を弁護しなければならない。それが、弁護人の誠実義務である。この義務に違反することがあれば弁護人は懲戒処分の対象になる。
弁護人が被告人に有利だと判断して法廷にあらたな事実を提示し、争うことは、場合によっては被害者やその家族・遺族を傷つけることにもなりうるが、だからといって弁護人が、被告の主張している事実を提出しなかったりすれば、この誠実義務に背馳することになるのである。
付言すれば、弁護人には、その公的、公益的な地位を勘案したとしても、被告に対する誠実義務や守秘義務に背いて、被告に不利な方向での「真実」発見に関する証拠や情報を進んで積極的に提出・開示するという義務(積極的真実義務)はない、とされるのが一般的な理解である。
弁護人にこのような義務を課し、もっぱら被告人のために立証・主張を尽くさせるのは、そのような役割をつとめる専門家がいなければ、真実を発見し、認定することはむずかしい、という司法の歴史的経験に由来している。三審という司法制度の背景をなすのも、真実発見は容易ではなく、審理は慎重に行わなければならない、という歴史的経験に培われた認識である。
今回の差戻控訴審では、あらたに弁護団が結成され、第1、2審が犯行の動機や態様などの解明や事実認定を十分に行わなかった、と主張し、第1回の公判で「更新意見」を陳述するとともに、被告・弁護人の主張や集中審理で立証しようとする詳細も明らかにしていた。
裁判所は、最高裁の破棄差戻判決をふまえた審理を行うのであるが、弁護団が求めるこれらの立証を行うことを認め、その訴訟指揮のもとで、弁護人らは弁護活動を行ったのである。そして、その結果として、本件放送でも繰り返し取り上げられることになる被告のさまざまな、一見荒唐無稽とも思われる供述が行われ、また精神鑑定の際の奇異な発言等が紹介されることになった。
被告は弁護人らの質問に答え、「被害者(の主婦)を通して、(自殺した)実母の姿を見ていた」「このお母さんに甘えたいと思った」「(幼児を床にたたきつけたことについて)事実無根です」「(被害者を殺害しようと思ったことは)まったくありません」「(屍姦は)生き返らせようとしてやった」「(幼児の遺体を押し入れ天井裏に放置したことについて)ドラえもんは押し入れが寝室なので、何とかしてくれると思った」等々を語った。
また、精神鑑定において、「被害者に来世で会う」「自分が(被害者の主婦の)夫になる可能性がある」などと語っていたことも明らかにされた。
*
委員会が行ったアンケートと聴き取りの調査によれば、今回の差戻控訴審の弁護団は通例では見られないほど多数回の記者会見や背景説明(記者レク)を行っている。3回の集中審理の際には1、2日目は記者レク、3日目には記者会見を開き、会見には相当の時間がさかれていた。
各放送局の番組制作現場にリアルタイムで伝送され、インターネットでも公開されているそれらの映像を見ると、被告の犯行時における事実を争っている点についても、弁護団は何度か、第1、2審の「捜査機関、弁護人、裁判所がそれぞれ事実を事実として見ていなかった」「司法の怠慢である」「弁護人が事件の大きさに圧倒されたことが、事実の究明を鈍らせた」等々と説明している。
そこではまた、荒唐無稽、奇異に思われる被告のあらたな供述や殺意の否認についても、じつは「家庭裁判所の鑑別記録、捜査段階における供述、第1審の被告人質問等にすでに現われている」旨を言い、具体的な内容を例示している。
しかし、これに対する記者・番組制作者からの質問は低調であり、各記録に記載された正確な文言、その文脈や意味するところについて問いただしてもいない。本件放送の内容からすれば、当然、記者らには疑問や異論や違和感があったと想像されるが、弁護団とのコミュニケーションは成立していない。番組によっては、番組制作者がこうした記者会見の場に立ち会うこともなく、地元系列局の記者から送られた簡単なメモ程度の材料しかないまま、放送に臨んでいた。
本件放送では、こうした弁護団の記者会見の映像はときどき映し出されたが、その「内容」は触れられず、弁護人の一人が「司法の怠慢である」と述べた箇所が、脈絡なく、放送されるだけであった。これでは視聴者は、弁護団が何を主張しているのか、どこを争点にしようとしているのかについて、理解するためのヒントすら得られない。公平で正確な情報提供という観点からは、これは大きく外れた内容だったと言わざるを得ない。
ここには、真実はすでに決まっている、と高をくくった傲慢さ、あるいは軽率さはなかっただろうか。被告や弁護団の主張・立証など、裁判所が認めるはずがない、という先入観はなかったか。あるいは、いちいちの事実の評価を被害者遺族の見方や言葉に任せてしまい、自分では考えない、判断しない、という怠惰やずるさはなかったと言えるだろうか。
カメラは「現在」しか写し取ることはできない。その意味ではテレビが目の前にたえず生起する新しい出来事に着目し、そこだけに光を当てた放送になることは無理からぬことかもしれない。しかし、カメラに写らないからといって、被告の過去の供述をなかったものとして扱い、今回は過去とはまったく異なる、新しい供述をしたかのように描くのは、その供述の唐突さを強調することにしかならない。それが尋常では理解できない内容であってみれば、荒唐無稽さや奇異さばかりを目立たせる結果となる。
目の前のことしか写せないカメラの限界を破っていくのが、番組制作者の力量というものである。現在の事実、現在の供述を取材し、伝えるだけでは不十分であり、その背後にあるものを探る意欲と努力なしには、放送の公正性・正確性・公平性は実現できるものではない。」
「第1、2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい」「被害者遺族の無念の思いを踏みにじっている」「弁護団は死刑制度反対のために、この裁判を利用している」等々の反発・批判は、典型的な反発・批判です。この典型的な反発・批判について、この報告書は丁寧に答えています。1つ1つ、追ってみたいと思います。
イ:
「第1、2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい」
この批判は、裁判は裁判所が主宰するという初歩的な知識を欠いたものです。これに尽きるのです。
「言わずもがなであるが、裁判を主宰するのは裁判所である。裁判所は訴訟を指揮する強い権限を持ち、検察官と被告・弁護人の双方の主張を聞き、証拠の採否を決定して、真実を明らかにすべく審理を遂行する。」
裁判所が、「第1、2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出す」といった、弁護活動を認めたのですから、「差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい」ことではないのです。
ですから、「本件放送の多くが反発・批判の矛先を被告・弁護団にのみ向けたことは相当な的外れ」であって、もし文句があるのであれば、「そのような訴訟指揮を行った裁判所に対して、まず言わなければならなかったはず」なのです。
「裁判は裁判所が主宰する」という初歩的な知識を欠いた批判は、「視聴者に裁判制度に関するゆがんだ認識を与えかねないもの」であり、明らかに妥当性を欠いたものだったのです。
ロ:
「被害者遺族の無念の思いを踏みにじっている」
この批判は、刑事裁判の「当事者主義」及び弁護人の役割の認識に欠けた批判です。端的に言えばこれに尽きるのです。
「今日、日本を含む民主主義社会の刑事裁判を特徴づけているのは、「当事者主義」である。ここで言う当事者とは、検察官、被告・弁護人のことであり、事案の解明や証拠の提出の主導権が、これら当事者にゆだねられている、という意味である。
裁判所自体は、両当事者の主張・立証に基づき、審判の主体として、事実を認定し、法律に基づいた判断を下す役割を担う。
当事者主義は、裁判所みずからが積極的に真実を探索する「職権主義」としばしば比較されるが、被告人の人権の保障、証拠収集の確実性、判断の公平性等の観点から、真実発見のために歴史的に形成された最良の手段であるとの評価が定着している。
こうした刑事裁判にあっては、検察官は、被害者やその家族・遺族の代弁者ではなく、国家的利益をはかる立場に立って、被告の犯罪を特定し、裁判所に裁くべき内容(訴因)を提示し、これを証明する役割を担っている。対して弁護人の役割は、被告との信頼関係のもとに、被告の利益を守る立場から、訴因について反論し、合理的な疑いの存在について主張と立証を尽くすことにある。」
「当事者主義のもとでの弁護人には、被告に対して、被告のために最善の弁護をする、という「誠実義務」が課せられている。
被告は、強力な権限を行使して迫ってくる検察官に対して自己を防御しなければならない、という境遇にある。一般私人であれば、訴訟能力もさほど持ち合わせていないだろう。弁護人はそうした苦境にある被告とのあいだで信頼関係を築き、ときには被告に不利な事情にも踏み込んででも、可能なかぎりの事実と関係情報を集め、それを被告にもっとも有利な主張や立証として組み立てて法廷に提示することにより、全力を尽くして被告人を弁護しなければならない。それが、弁護人の誠実義務である。この義務に違反することがあれば弁護人は懲戒処分の対象になる。」
「検察官は、被害者やその家族・遺族の代弁者ではなく、国家的利益をはかる立場に立って」被告人が犯罪を犯したことを立証するのですから、「被害者遺族の無念の思い」をすべて代弁するわけではないのです。要するに、検察官の役割は犯罪の立証が主であって、「被害者遺族の無念の思い」を裁判で立証するものではないのです。これに対して、「弁護人の役割は、被告との信頼関係のもとに、被告の利益を守る立場から、訴因について反論し、合理的な疑いの存在について主張と立証を尽くす」ことです。
日本を含む民主主義社会の刑事裁判を特徴づけているのは、「当事者主義」であり、ここで言う当事者とは、検察官、被告・弁護人のことであって、被害者は当事者ではないのです。刑事裁判では、犯罪の立証・防御を行うところなのですから、被害者が当事者になり得ないことは刑事裁判の性質上、当然といえるのです。
そして、当事者主義のもとでの弁護人には、被告に対して、被告のために最善の弁護をする、という「誠実義務」が課せられています。これは、「強力な権限を行使して迫ってくる検察官に対して自己を防御しなければならない」という自己防衛権(自己弁護権)に基づくものなのです。すなわち、誠実義務は、この被告人の自己防衛権(自己弁護権)を実効的なものにするために認められているということなのです。
「弁護士の役割に関する基本原則」では、その冒頭において、「すべての人は,自己の権利を保護,確立し,刑事手続のあらゆる段階で自己を弁護するために,自ら選任した弁護士の援助を受ける権利を有する」と定めて、このことを改めて明らかにしています。
だからこそ、「弁護人が被告人に有利だと判断して法廷にあらたな事実を提示し、争うことは、場合によっては被害者やその家族・遺族を傷つけることにもなりうるが、だからといって弁護人が、被告の主張している事実を提出しなかったりすれば、この誠実義務に背馳することになる」のです。
言い換えれば、弁護人は、その役割として、裁判において被害者やその家族・遺族の心情や名誉を傷つけることは、法律上、許されているということであり、むしろ、誠実義務を尽くすためには、被害者やその家族・遺族の心情や名誉を傷つけることを避けてはいけないということでもあるのです。
ハ:
「弁護団は死刑制度反対のために、この裁判を利用している」
この批判は、番組制作側が弁護団による説明をまるで無視し、公平で正確な情報提供を意図を欠いたものです。
「委員会が行ったアンケートと聴き取りの調査によれば、今回の差戻控訴審の弁護団は通例では見られないほど多数回の記者会見や背景説明(記者レク)を行っている。3回の集中審理の際には1、2日目は記者レク、3日目には記者会見を開き、会見には相当の時間がさかれていた。
各放送局の番組制作現場にリアルタイムで伝送され、インターネットでも公開されているそれらの映像を見ると、被告の犯行時における事実を争っている点についても、弁護団は何度か、第1、2審の「捜査機関、弁護人、裁判所がそれぞれ事実を事実として見ていなかった」「司法の怠慢である」「弁護人が事件の大きさに圧倒されたことが、事実の究明を鈍らせた」等々と説明している。
そこではまた、荒唐無稽、奇異に思われる被告のあらたな供述や殺意の否認についても、じつは「家庭裁判所の鑑別記録、捜査段階における供述、第1審の被告人質問等にすでに現われている」旨を言い、具体的な内容を例示している。
しかし、これに対する記者・番組制作者からの質問は低調であり、各記録に記載された正確な文言、その文脈や意味するところについて問いただしてもいない。本件放送の内容からすれば、当然、記者らには疑問や異論や違和感があったと想像されるが、弁護団とのコミュニケーションは成立していない。番組によっては、番組制作者がこうした記者会見の場に立ち会うこともなく、地元系列局の記者から送られた簡単なメモ程度の材料しかないまま、放送に臨んでいた。」
「今回の差戻控訴審の弁護団は通例では見られないほど多数回の記者会見や背景説明(記者レク)を行っている」のですから、弁護団は死刑制度反対のために、この裁判を利用していないことは明らかでした。それなのに、番組では無視したのです。
その記者会見では、「被告のあらたな供述や殺意の否認についても、じつは『家庭裁判所の鑑別記録、捜査段階における供述、第1審の被告人質問等にすでに現われている』旨を言い、具体的な内容を例示している」のに、番組では、まるで無視したのです。(新聞報道も、東京新聞などを除き、人々の誤解を解くような記事を掲載していませんが)
「ここには、真実はすでに決まっている、と高をくくった傲慢さ、あるいは軽率さはなかっただろうか。被告や弁護団の主張・立証など、裁判所が認めるはずがない、という先入観はなかったか。あるいは、いちいちの事実の評価を被害者遺族の見方や言葉に任せてしまい、自分では考えない、判断しない、という怠惰やずるさはなかったと言えるだろうか。」
報告書は、このように辛辣に批判しています。
3.「察イわりに」は、一層厳しい批判であふれています。
「察イわりに
「巨大なる凡庸」---とは、7時間半におよぶ本件放送を見終わったあとの委員会の席上で、ある委員が口にした感想である。
巨大とは、テレビそのもののことである。大事件をめぐって、何十人、何百人という取材陣と番組制作スタッフがどっと動き、いっせいに同じことを伝える。ごった返す取材現場と時間に追われる制作現場から送り出された映像と音と言葉は、たちまち家々のテレビ画面に、個々人の携帯端末にあふれかえる。テレビはまず、規模が巨大である。
だが、光市母子殺害事件の差戻控訴審を伝えた数々の番組は、そうであるだけではなかった。ほぼすべての番組が、「被告・弁護団」対「被害者遺族」という対立構図を描き、前者の荒唐無稽と異様さに反発し、後者に共感する内容だったことはすでに指摘したとおりだが、反発と共感のどちらを語るときも、感情的だった。
感情的ということのなかには、その口調や身振りが感情的だったということもあるが、もうひとつには、刑事裁判という法律の世界の出来事を、普通の人間の実感レベルだけで捉え、反応しているという意味もある。刑事裁判の仕組みなどそっちのけで弁護団に反発したり、文脈や証拠価値のちがいも区別しないまま、被告の法廷での供述と、精神鑑定の際の言葉をいっしょくたに非難したり、などというのは、その一例だった。
もちろん実感は、大切なものである。季節感、生活感、現実感をなくしたら、人生の意味は半減してしまうかもしれない。しかし、他方で私たちは、自分の好き嫌いを押し通したり、気に食わない、やられたらやり返せ、などと実感のおもむくままにやっていったら、わが身の暮らし、地域や世の中、そこらじゅうが大変なことになることも、少しは知っておいたほうがよい。
凡庸は、こうした大切でもあれば、危うくもある、実感の過剰を指している。被告の供述や精神鑑定の場で語ったとされることは、それだけを取り出せば、奇異で異様な言葉である。そのことは実感のレベル、常識のレベルで考えれば、誰でもわかる。
しかし、本件放送は大人数で、大がかりな番組制作をしながら、そこで止まっている。テレビはその規模の大きさゆえに、多くの視聴者の実感レベルでの反応を引き起こしただろうが、両方が巨大なる凡庸のままで終わっていて、その先がない。この状況を作り出したのは、まずテレビである。その番組の作り方だった。
公正性・正確性・公平性の原則を十分に満たさない番組は、視聴者の事実理解や認識、思考や行動にもストレートに影響する。一方的で感情的な放送は、広範な視聴者の知る権利に応えることはできず、視聴者の不利益になる、ということである。番組制作者は目の前の事象に反応するだけでなく、種
