「■助成の妥当性だけを問うた
表現・言論の自由が保障されたわが国において、たとえ政治的、宗教的な宣伝意図のある映画を製作しようと公開しようと自由である。今回、映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)の一部映画館での上映中止をめぐって私が批判の矢面に立たされている。私たちが問題にしたのは、この映画自体ではない。そこに文化庁所管の日本芸術文化振興会が750万円の公的助成をしたこと、その一点についてである。」
これがその弁明の書き出しです。
この“産経新聞での弁明”の妥当性について検討したいと思います。
1.「日本映画」ではないのか。
「 ≪「日本映画」ではない≫
結論からいって同振興会が助成金を出したのは妥当ではない。助成の要件である(1)日本映画であること(2)政治的、宗教的宣伝意図がないこと−を満たしていないからだ。
まず、この映画は日本映画とはいえない。振興会の助成要項によれば「日本映画とは、日本国民、日本に永住を許可された者又は日本の法令により設立された法人により製作された映画をいう。ただし、外国の製作者との共同製作の映画については振興会が著作権の帰属等について総合的に検討して、日本映画と認めたもの」としている。
映画「靖国」の製作会社は日本法により設立されてはいる。しかし取締役はすべて中国人である。平成5年、中国中央テレビの日本での総代理として設立されたというが、映画の共同製作者は2つの中国法人(団体)であり、製作総指揮者、監督、プロデューサーはすべて中国人である。」
稲田議員はこのように述べて、映画「靖国」は「外国映画」であるから、「日本映画」であるとして助成金を支出したことは妥当でないとしています。では、この説明は妥当なのでしょうか?
(1) 内国会社(日本会社)か外国会社かを区別する立法政策(内外法人の区別基準。「法人国籍論」とも言います)としては、主として次のような3つの考え方があります。
「1 外国会社の考え方
ある会社がどの国の法律に従って設立されたかにより、それが自国法であれば内国会社、外国法であれば外国会社とする決め方を設立準拠法主義という。客観的に決まる明確な基準であり、いったん決まれば会社の成立後に変わることはない。反面、便利そうな国の法をショッピングする可能性がある。
これに対し、会社の事業活動の本拠がどこにあるかによって本国法を決める方法を本拠地法主義という。実際に活動している場所と結びつく点では、こちらの方がより客観性のある基準だといえる。他方、どこが活動の中心なのか、とらえにくい場合もありうる。
このほか、企業を支配する者の国籍等を重視する決め方もある(管理主義)。」(龍田節『会社法大要』(有斐閣、2007年)526頁)
英米法系の国では設立準拠法主義を採用するものが多く、ヨーロッパ諸国では本拠地法主義を採用するものが多いのですが、文化庁所管の日本芸術文化振興会の助成要件としては、設立準拠法主義を採用したわけです。
平成17年に制定した会社法では、初めて外国会社の定義規定を設け、そこでは設立準拠法主義を採用しています(会社法2条2号)。会社に関して国際的な紛争が生じた場合、どの国が適用されるかという問題(国際私法の問題)においても、設立準拠法主義が一般的です。このように、日本法の立法・解釈としては、設立準拠法主義が一般的なのです。
そうすると、映画「靖国」の製作会社は日本法により設立されているのですから、その製作会社が日本芸術文化振興会の助成要件の「日本会社」であることは明白です。
(2) これに対して、稲田議員は、「取締役はすべて中国人」であり、「映画の共同製作者は2つの中国法人(団体)であり、製作総指揮者、監督、プロデューサーはすべて中国人」だとして、「日本会社」でないとしています。この考え方は、従来の法人国籍論を否定し、会社の経営権の帰属を基準とする「管理主義」という見解であり、稲田議員は「管理主義」説を主張しているわけです。
確かに、立法政策としては「管理主義」も存在します。しかし、文化庁所管の日本芸術文化振興会の助成要件としては、設立準拠法主義が基準として明示されている以上、別個の立法政策を主張したところで、まるで的外れの主張であって、明らかに妥当ではありません。稲田議員は、立法政策と解釈論の区別がついておらず、内国会社(日本会社)か外国会社かを区別する立法政策について、全く理解していないと言わざるを得ません。
もしかしたら、文化庁所管の日本芸術文化振興会の助成要件を「管理主義」説に改正したいという意図があるのかもしれません。しかし、日本法は、設立準拠法主義が一般的ですから、「管理主義」説に改正される見込みはありませんし、「管理主義」説は基準が不明確すぎるので、「管理主義」説は少数説であり、「管理主義」説を採用することは非常に考えにくいのです。
「管理主義」説は、第一次大戦中、フランスで法人の敵性決定の問題を巡って主張された見解です。すなわち、資本も経営権もドイツ人に帰属している会社で、フランス法に準拠して設立された会社は、設立準拠法主義によればフランス法ですが、果たしてドイツとフランスの戦争中これをフランス法人として、敵国人とみなさないでよいかという問題が生じて、主張された見解なのです(澤木敬郎『国際私法入門(第3版)』168頁)。このように、元々、過去の戦争中の見解であり、今や呆れるほど時代錯誤の、過去の見解にすぎません。
どう考えても、稲田議員の主張は妥当でないことは明白です。
「さらに靖国神社をテーマにしていること自体、政治性が強い。小泉元総理の靖国参拝をめぐっては国内外で議論があり、特に日中間で政治問題化した。しかも、この映画のメーンキャストは小泉元総理と靖国神社を訴えていた裁判の原告たちである。(中略)
私も弁護士の立場から靖国神社の応援団として裁判にかかわったが、原告らは一貫して「靖国神社は、死ねば神になると国民をだまして侵略戦争に赴かせ、天皇のために死ぬ国民をつくるための装置であった」と主張していた。映画からは同様のメッセージが強く感じられる。
映画の最後で、いわゆる南京大虐殺にまつわるとされる真偽不明の写真が多数映し出され、その合間に靖国神社に参拝される若かりし日の昭和天皇のお姿や当時の国民の様子などを織り交ぜ、巧みにそのメッセージを伝えている。
私は、大虐殺の象徴とされる百人斬り競争で戦犯として処刑された少尉の遺族が、百人斬りは創作であり虚偽であることを理由に提起した裁判の代理人もつとめた。遺族らに対する人格権侵害は認められなかったが、判決理由の中で「百人斬りの記事の内容を信用することができず…甚だ疑わしい」とされた。ところが映画では百人斬りの新聞記事を紹介し、「靖国刀」をクローズアップし、日本軍人が日本刀で残虐行為をしたとのメッセージを伝えている。」
稲田議員はこのように述べて、映画「靖国」には「政治的宣伝意図がある」とし、「政治的宣伝意図がない」として助成金を支出したことは妥当でないとしています。では、この説明は妥当なのでしょうか?
(1) まず、日本芸術文化振興会の助成要件である「政治的宣伝意図でない」こととはどういう意味でしょうか?
この問題について、寺脇 研・元文化庁文化部長(02年8月〜06年3月、文化庁文化部長。同年11月に退官し、映画評論家に。京都造形芸術大教授)は、朝日新聞平成20年4月10日付朝刊23面「文化」欄において、次のように述べています。
「映画「靖国」問題を考える 「中立」追究は本末転倒
寺脇 研 元文化庁文化部長
やんぬるかな……。映画「靖国」問題に対するわたしの感想は、この一語に尽きる。映画などの芸術文化に公費で助成を行うことの難しさが、はしなくも露呈したのである。
そもそも、芸術文化は多様であり独創性が不可欠だ。したがって、表現の自由が保障されない限り、豊かな内容の作品は生まれない。戦後GHQの検閲で禁じられていた時代劇映画が解禁になったとたん、溝口や黒澤の名作が誕生したという四方田犬彦氏の指摘や、キム・デジュン政権により、検閲が事実上廃止された後の韓国映画の隆盛も、それを裏付ける。
ところが公費助成を行うとなると、どうしても作品内容の評価を行わざるを得ない。限られた予算を分配するためには何らかの形が選別が必要であり、作品の優劣、斬新さ、将来性等々の要素が勘案されることになる。その要素に政治的な中立性が加えられれば、当然題材や描写が限定されるだろう。芸術文化を振興するための政策が表現の自由を制約してしまうとすれば、本末転倒である。
それゆえ芸術文化振興基金は、助成対象から「政治的、宗教的宣伝意図を有するもの」を除外するにとどめているのである。政党や政治的主張、宗教教義などを宣伝する意図のあるものを問題視するのであって、中立を求めているのではない。特定の宗教の教会や寺院を舞台にしただけで中立が損なわれると判定されてはたまるまい。まして政治的中立となると測りようがないではないか。
地域に根付いた特定郵便局の役割を話の核にする映画は少なくないが、郵政民営化が重要な政治的対立点になるときこれは中立でないというのか。道路工事に取り組む話だとどうなのか。厳正に中立を保ち、常に賛否両論に配慮するとしたら、そんな映画が人の心をうつだろうか。ましてやドキュメンタリーの場合、何のために作るのかさえわからくなってしまう。もし政治的に中立性が疑われる映画に対して公費助成を禁じるなら、それはそもそも、映画に限らず芸術文化作品に直接助成すること自体を不可能にする。(以下、省略)」(朝日新聞平成20年4月10日付朝刊23面「文化」欄)
寺脇氏は、幾つかの重要なポイントを指し示しています。
イ:<1>まず、1点目。
公費助成のための選別を行う場合、「作品の優劣、斬新さ、将来性等々の要素が勘案」されるが、その選別基準に政治的な中立性が加えられれば、当然題材や描写が限定されてしまい、それでは「芸術文化を振興するための政策が表現の自由を制約」することになってしまうのです。ですから、芸術文化を振興するための政策が表現の自由を制約しないよう、慎重さが求められるということです。いわゆる「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」「公的文化助成と表現の自由」といわれる問題として、憲法上議論されている問題についての配慮が求められるというわけです。
稲田議員を含めた、自民党若手議員の「伝統と創造の会」(「伝創会」)が、権限もないのに国政調査権との1つであると称して、文化庁に対して、映画公開前に「内容を確認したい」とする要請を行い、これを文化庁が配給会社側に伝え、異例の国会議員だけの試写会が開かれ、上映中止になってしまったのです(現在は、上映予定館がある)。
稲田議員は、映画に「小泉元総理と靖国神社を訴えていた裁判の原告たち」が出ていることで、「映画からは(原告の主張と)同様のメッセージが強く感じられる」と感じているようですが、それはあまりにも思い込みがすぎるといえます。
「映画の最後で、いわゆる南京大虐殺にまつわるとされる真偽不明の写真が多数映し出されていること」を問題視しています。しかし、一水会顧問の鈴木邦男氏によると、「ラストに、南京事件の『写真』が出る。数十秒か、数分か」とごくわずかな時間だけ映しているにすぎず、また、監督は「確信があります」と言っているのですから、「あとは公開した後に皆で話し合ったらいい」(鈴木邦男氏)問題です。
「映画では百人斬りの新聞記事を紹介」していることも問題視しています。しかし、日中戦争で中国兵らを「百人斬り」したとの報道や記述をめぐり、旧日本軍少尉の遺族が起こした訴訟は、東京地裁は2005年、「歴史的評価が定まっておらず、記述が明白に虚偽とは言えない」と請求を棄却し、遺族は最高裁まで争ったが敗訴が確定しているのです。「映画では百人斬りの新聞記事を紹介」していることを問題視することは、最高裁に照らせば、まるで根拠がありません。最高裁に批判的なのでしょうが、それは個人的な見解にすぎません。
このようなことからすると、稲田議員の主張は根拠が乏しいと考えます。映画公開前に映画の内容について事細かに問題視すること自体、助成金の妥当性を名目として過度に表現の自由の行使に介入するものであって、妥当でないのです。
問題ある行動を行っているのは、有村治子議員も同様です。
例えば、3月27日の参院内閣委員会では、自民党の有村治子議員が、映画公開前に、映画「靖国 YASUKUNI」の内容について、事細かに文化庁に糾しています。糾していることは、文化庁所管の日本芸術文化振興会の助成要件とはまるで無関係なことばかりですから、その質疑の正当性に疑義があります。
特に、有村治子議員は、映画公開前である3月25日に、映画「靖国 YASUKUNI」の出演者である刈谷さん夫妻に直接連絡を取ることまで行い、同月27日の参院内閣委員会で、「キャストとして名前が挙がっている刈谷さんは、自らの映像が使われることを承諾しておらず、削除されることを望んでいる」などと発言しているのです(李纓監督は、承諾を得ていて、有村氏の確認作業が刈谷氏の気持ちを変えさせたとの認識を示している)。もちろん、刈谷さんの承諾の有無は、文化庁所管の日本芸術文化振興会の助成要件とまったく無関係ですから、この行動及び質疑は、映画「靖国 YASUKUNI」のフィルムを一部削除する、すなわち「検閲」の効果を狙っていることは明らかです。
これらの介入は、映画「靖国 YASUKUNI」の表現内容自体を問題視するものであり、しかも映画公開前ですから、表現の自由に対する極めて過度な禁圧となっているというべきです。助成金の妥当性を名目として過度に表現の自由の行使に介入するものであって、妥当ではありません。
稲田議員及び有村議員の言動は、「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」「公的文化助成と表現の自由」といわれる問題からすると、公権力が介入できる裁量権を逸脱するものであり、妥当でないと考えます(詳しくは、「ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」上映中止に〜稲田朋美衆院議員の横槍が背景に」(2008/04/02 [Wed] 23:46:46)、「映画「靖国 YASUKUNI」上映中止問題〜最も問題視すべきなのは稲田朋美衆院議員らの言動である!」(2008/04/04 [Fri] 20:05:07)参照)。
ロ:<2>2点目。
芸術文化振興基金は、助成対象から「政治的、宗教的宣伝意図を有するもの」を除外するにとどめているのであり、「政党や政治的主張、宗教教義などを宣伝する意図のあるものを問題視するのであって、中立を求めているのではない」のです。「もし政治的に中立性が疑われる映画に対して公費助成を禁じるなら、それはそもそも、映画に限らず芸術文化作品に直接助成すること自体を不可能」にするのです。
ですから、いささかでも政治的中立性を疑う余地があるとして判断するのではなく、政治性があること自体は問題視するべきではなく、あくまで「明らかに宣伝する意図」の映画かどうかという観点で判断するべきなのです。
映画「靖国 YASUKUNI」は、「19年間日本に住む中国人の李監督が、終戦の日に靖国神社を訪れる参拝者や遺族、「靖国刀」を造る刀匠の姿などを10年間にわたって記録した日中合作のドキュメンタリー映画」(東京新聞平成20年4月2日付朝刊15面)であり、「映画を見た人によれば、ナレーションもなく、その場の生の音声を拾い、淡々と『特別な一日』を中心に記録したものだった」(東京新聞平成20年4月2日付「社説」)というものです。
朝日新聞によると、「試写を見た自民党の島村宜伸衆院議員は『一貫したストーリーを見せるというよりは、様々な場面をつなげた映画。自虐的な歴史観に観客を無理やり引っ張り込むものではなかった』とした。また、民主党の横光克彦衆院議員は『戦争の悲惨さを考えさせる映画だが、むしろ靖国賛美6割、批判4割という印象を受けた』と話した。」というのです。
また、鈴木邦男氏のHPによると、
「映画「靖国」のことだ。3月24日(月)、ロフトに行ったら、平野店長が言っていた。試写会を見たそうだ。「反日映画だと言って、あんなに騒いでいるから、どんなにひどい映画かと思ったら、マトモな映画じゃないか。どこが反日なの?」(「鈴木邦男をぶっとばせ!」の「靖国が危ない!」(2008/03/31)。
これらの評価からすると、映画「靖国 YASUKUNI」は「明らかに政治的な宣伝をする意図」の映画とはいえないようです。稲田議員、有村議員らが属する団体の国会議員は、「反日映画ではないか」などと問題視した者もいたことからすると、稲田議員らの評価は、偏見に満ちたものであって恣意的な判断にすぎないように思えます。
注意すべきことは、試写会などで見たごく少数の者による評価であって、あくまで映画公開前であり、一般市民は見ていないのです。表現の自由(知る権利)の保障という観点からすると、一般市民が見る前から、政治介入を避けるため、第一次的判断権限を日本芸術文化振興会としているのに、この判断を疑問視して、国会議員が委員会や国政調査権という議院の権限を行使して、明らかに「政治な宣伝をする意図」の映画であると評価を下すこと自体、問題があるのです。
3.検閲・事前抑制か否か。
稲田議員を含めた自民党若手議員の「伝統と創造の会」が、文化庁に対して、映画公開前に「内容を確認したい」とする要請を行い、これを文化庁が配給会社側に伝え、異例の試写会が開かれることになったことについて、稲田議員は次のような説明を行っています。
「発端は一部週刊誌が「反日映画『靖国』は日本の助成金750万円で作られた」と報じたことだった。試写会を見た複数の友人からは、この映画に弁護士時代の私が映っているとも伝えられた。もちろん私は、この映画で観客の目にさらされることを同意したことはなかった。
そこで2月に、私もメンバーである自民党若手議員の「伝統と創造の会」(「伝創会」)で助成金支出の妥当性を検討することになり、文化庁に上映を希望した。当初、文化庁から映画フィルムを借りて上映するとして、日時場所も決めたが、その後製作会社が貸し出しを拒否する。そして文化庁協力と書かれた国会議員向け試写会(主催者不明)の案内が配布され、伝創会の上映会は中止に追い込まれた。
朝日新聞が報じたような「(私が)事前の(公開前)試写を求めた」という事実は断じてない。助成金を問題にする前提として対象となる映画を見たいと思うのは当然であり、映画の「公開」について問題にする意思は全くなかったし、今もない。「事前の試写を求めた」という歪曲(わいきょく)について朝日に訂正を求めているが、いまだ訂正はない。」
稲田議員はこのように述べて、映画公開前に「内容を確認したい」と要請したことは、「事前試写を求めた」事実ではなく、検閲・事前抑制禁止の原則に反しないとしています。では、この説明は妥当なのでしょうか?
(1) 「映画「靖国 YASUKUNI」上映中止問題〜最も問題視すべきなのは稲田朋美衆院議員らの言動である!」(2008/04/04 [Fri] 20:05:07)で論じているので、繰り返しませんが、「検閲」概念次第では「検閲」に当たりうるのであり、少なくとも事前抑制禁止の原則に抵触するものとして妥当でないのです。
(2) 稲田議員は、4月1日、共同通信の取材に対して、「『映画を見せてほしい』と文化庁に求めたが、『公開前に』とか『試写を開いて』などとは言ってない」と釈明していますし、この弁明でも、「(私が)事前の(公開前)試写を求めた」という事実は断じてないと述べています。
しかし、映画公開前の「今」映画を見せろというのですから、「公開前」に見せろと求めていることと全く同じです。また、(文化庁を通じて)配給・宣伝会社が有する映画を、公開前に見るだけでなく、公開前に「フィルムの貸し出し」という物自体の引渡しを求めていたのですから、試写会の要求よりも一層、表現行為に対する圧力が強いものです。稲田議員の釈明は、かえって稲田議員の行為が悪質であったことを物語っているように思います。
このように、稲田議員の行動は、まぎれもなく「事前の試写を求めた」ものというべきです。映画公開前に「文化庁から映画フィルムを借り」ることを求めるという、「事前の試写を求めた」ことより悪質な行為をしただけというのは、あまりにも不当な主張であって、明らかな言いがかりです。稲田議員は、朝日新聞は「事前の試写を求めた」という歪曲報道したと非難していますが、朝日新聞の報道は歪曲どころかまだマシな報道をしたというべきです。
4.稲田議員は、次のような言葉で締めています。
「私は弁護士出身の政治家として、民主政治の根幹である表現の自由を誰よりも大切に考えている。だからこそ人権擁護法案にも反対の論陣を張っている。表現や言論の自由が最大限尊重されなければならないのは民主政治の過程に奉仕するからであり、表現の自由の名のもとに政治家の言論を封殺しようとすることは背理である。」
すでに述べたように、映画「靖国 YASUKUNI」や助成金の妥当性について、稲田議員はあまりにも妥当性に欠けた根拠や表現の自由(憲法21条)を脅かすような主張で批判を行っているのです。
ここでは触れませんでしたが、稲田議員らは、両議院の委員会を通すというルールによらずに、自分勝手に国政調査権と称して文化庁に対して試写会の要求を行ったのです。稲田議員らの行動は、権限がないのに権限があるかのように装って文化庁に試写会などを要求したのであって、国会議員として極めて不当な行動でした(「映画「靖国 YASUKUNI」上映中止問題〜最も問題視すべきなのは稲田朋美衆院議員らの言動である!」(2008/04/04 [Fri] 20:05:07)参照)。
稲田議員らは、これら憲法上問題のある行動を数々を行ったのですから、稲田議員らの言動は非難されて当然です。ところが、稲田議員は、「表現の自由の名のもとに政治家の言論を封殺しようとすることは背理」などと、誤った主張や憲法上問題のある行動を正当化してみせるのです。
一私人であれば、憲法上問題のある言動をすることもまた、表現の自由(憲法21条)として許容されてはいます。もちろん、その主張は激しい非難にさらされますが。しかし、憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定して、国会議員には憲法尊重擁護義務が課されているのです。
ですから、稲田氏らは国会議員であり、国会議員として憲法上問題のある行動をしたのですから、憲法尊重擁護義務上、その行動を正当化してみせること自体、極めて問題があるのです。稲田議員は、国会議員としてその適格性に欠けているのです。
「もし、どうしても政治的中立性を求めるなら、作品製作に対する直接助成は廃止する方がいい。そのぶんの財源を、映画界全体への一般的な支援に回すのである。(中略) 日本映画全体が製作費に窮していた時代には、直接助成の意味もあった。しかし年間数百本の作品が製作されている現在なら、間接助成へとシフトしていってもいいのではないか。表現の自由が侵されるより、よほどいい。」
なお、私は、この寺脇氏の意見に賛成です。したがって、
「いささかでも政治的中立性を疑う余地があるとして判断するのではなく、政治性があること自体は問題視するべきではなく、あくまで「明らかに宣伝する意図」の映画かどうかという観点で判断するべきなのです。」
というご意見には反対です。ご意見は、「芸術文化作品に直接助成すること自体」に公益性があることを暗黙の前提にしていますが、それは明らかとはいえないと思うからです。(私自身は公益性はないと思います。)
URL | Tantris #-[ 編集 ]
>寺脇氏のコラムには、以下のとおり続きがありますね。
そうですね。後半はなかなか面白いというか過激なことを書いています。折角ですので、全文紹介しておきます。
「もし、どうしても政治的中立性を求めるなら、作品制作に対する直接助成は廃止する方がいい。そのぶんの財源を、映画界全体への一般的な支援に回すのである。個別の作品を審査して制作費を援助するのでなく、人材育成事業をはじめ、海外映画祭に出品を認められたときの費用支援、若手監督の作品を取り上げる国内の映画祭の運営支援、地方ロケを支えるフィルムコミッションの活動支援、ロケ地のデータベース化、将来の観客である子どもへの日本映画の普及……と、間接的に映画振興を行うやり方はいくらでもある。
今回のような理由や興行面での採算不安から上映してくれる映画館が見つからない作品のために、公費で映画施設を用意してもいいだろう。
日本映画全体が製作費に窮していた時代には、直接助成の意味もあった。しかし年間数百本の作品が製作されている現在なら、間接助成へとシフトしていっていいのではないか。表現の自由が侵されるより、よほどいい。
□
てらわき・けん 75年、旧文部省入省。02年8月〜06年3月、文化庁文化部長。同年11月に退官し、映画評論家に。京都造形芸術大教授。」
>その前半だけを取り出しして、(寺脇氏がコラム全体で述べている意見とは異なる)別の主張がなされているかのごとく書くのは、私は不適切だと思います。
要するに、前半は現行規定の解釈論を展開し、それに対して後半は、直接助成をしている現行規定を改正して、間接助成にするのもいいのではないか、という立法論を主張しているわけです。このエントリーでは、現行規定の解釈論をしているので、立法論を主張している部分は、引用しませんでした。
エントリー中でも稲田議員批判として触れましたが、解釈論と立法論・立法政策はまったく別個の問題であり、必ず分けて考えなければいけません。ですから、後半を引用しないことは「適切」なのです。
>私は、この寺脇氏の意見に賛成です
ほほ〜。寺脇説は、政治的中立でないとして表現の自由が侵害されないように改正して、間接助成にしようとするものです。そうなると、政治的・宗教的宣伝意図がある映画であっても、間接助成できるわけですね。直接助成するから「政治的・宗教的宣伝意図」という助成要件が問題となる以上、この規定は削除されるのですから。
だからこそ、「今回のような理由や興行面での採算不安から上映してくれる映画館が見つからない作品のために、公費で映画施設を用意してもいい」ということになるわけです。何の問題もなく。
寺脇氏は、映画のみ言及していますが、芸術文化振興基金の助成対象は幅広いので、公平性を担保するためにはすべての助成対象を間接助成にする必要があります。
「Q:どのような活動が対象になりますか?
A:芸術家及び芸術・文化に関する団体自らが、日本国内において行う、公演や展示等を対象としております。なお、芸術文化振興基金では、応募にあたり、活動の内容にあわせて4種類の募集案内をご用意しております。その区分は次のとおりです。
芸術家や芸術に関する団体が行う、芸術の創造又は普及を図る活動
ex.)現代舞台芸術(音楽,舞踊,演劇),伝統芸能,美術,多分野共同等芸術創造活動
映画の製作活動
ex.)劇映画,記録映画,アニメーション映画
地域の文化振興に資する活動
ex.)地域の文化施設における公演・展示,アマチュア等の文化団体が行う公演・展示、文化財の保存・活用に係る活動
舞台芸術の水準向上に資する活動 (⇒舞台芸術振興事業)
ex.)音楽,舞踊,演劇」
http://www.ntj.jac.go.jp/kikin/qa/apply.html
これすべてが間接助成になるのですから、なかなか壮観ですね。実に面白い主張です。
仮に映画のみの改正に限るとしても、寺脇説によると、「今回のような理由や興行面での採算不安から上映してくれる映画館が見つからない作品のために、公費で映画施設を用意してもいい」とのこと。1館だけではその地域住民だけが利益享受できるため、それでは不公平ですので、すべての都道府県で上映できるようにするべきでしょう。
無償上映は、映画製作会社に何ら利益を生まないので、チケット販売も行えるようにすることになるはずです。独立行政法人日本芸術文化振興会が映画会場を取り仕切る以上、諸経費(不利益)は日本芸術文化振興会が負担してくることになるはずです。なかなか思い切ったというか、過激な主張ですよね、寺脇氏は。
Tantrisさんは、この寺脇氏の意見(立法論)に賛成だというのですら、思い切りがよいですね。寺脇説の立法論だと、多くの政治的宗教的宣伝意図の映画が、今後は何もとがめられることなく、国家の間接助成を受けられるのですから。
>あくまで「明らかに宣伝する意図」の映画かどうかという観点で判断するべきなのです。」
>というご意見には反対です
現行規定の解釈論には反対ということですね。しかし、私が提示した現行規定の解釈論は、おそらくは異論がないはずですし、寺脇氏も解釈論としては同一の見解です。現行規定の解釈論としては「明らかに宣伝する意図」とするしかないと思いますが。Tantrisさんは、現行規定の解釈論としては、どういう見解が妥当だというのでしょうか?
>ご意見は、「芸術文化作品に直接助成すること自体」に公益性があることを暗黙の前提にしていますが、それは明らかとはいえないと思うから
私が書いた意見は、公的助成を行う趣旨・芸術の特性と文言解釈の結果です。寺脇氏の解釈論と全く同じですよ。他のエントリーでも2度書いている通りです。ですので、ここでの解釈論に公益性は無関係です。
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