1.すでに触れたことですが、3月31日、日本映画監督協会(崔洋一理事長)は3月31日、映画・演劇をはじめとするマスコミ業界の労組は4月1日、相次いで抗議声明を出しています。
(1) 3月31日、日本映画監督協会(崔洋一理事長)は、「表現の自由を侵害する恐れのあるあらゆる行為に対し、断固として反対する」との声明を発表し、「一部の国会議員が文化庁を通して特別に試写会を要求した行為及びその後の言動等に対し、強く抗議の意を表明する」と指摘しています。
また、新聞労連など9団体でつくる日本マスコミ文化情報労組会議は「日本映画史上かつてない、映画の表現の自由が侵された重大事態。政治的圧力、文化支援への政治介入、上映圧殺に強く抗議する」などと訴えていますし、映画館関係者らでつくる映画演劇労働組合連合会も声明で、「すべての映画各社、映画館、映画関係者は公開の場を提供するよう、映画人としての勇気と気概を発揮して欲しい」と呼びかけています(朝日新聞平成20年4月2日付朝刊29面)。
(2) これらに続いて、日本新聞協会と日本ペンクラブ、日本民間放送連盟は3日、それぞれ談話や緊急声明を出しています。
「「靖国」中止に「残念」 新聞協会談話 他団体も声明
映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止を受けて、日本新聞協会(会長、北村正任・毎日新聞社社長)と日本ペンクラブ(阿刀田高会長)、日本民間放送連盟(会長、広瀬道貞・テレビ朝日会長)は3日、それぞれ談話や緊急声明を出した。=2面に「時時刻刻」
新聞協会は「公開が決まっていたドキュメンタリー『靖国』の上映中止という事態が生じたことは残念でならない。映画の内容をどう評価するかは個々人の問題であるが、評価、判断の機会が奪われてしまうことは、表現・言論の自由を擁護する立場から看過できない。表現活動が萎縮(いしゅく)する社会にしてはならないと考える」とする斎藤勉・編集委員会代表幹事(産経新聞社取締役・東京本社編集局長)の談話を発表している。
ペンクラブは「他人の意見に耳を傾けることで、よりよき社会選択を実現するという社会の基本が壊れていく状況を憂慮する。面倒ごとを畏(おそ)れて自発的に場の提供を渋る雰囲気が蔓延(まんえん)してきている傾向を看過できない」との緊急声明を出した。
また、民放連の堀鉄蔵・報道委員長(名古屋テレビ放送社長)は次のようなコメントを発表した。「映画『靖国』の上映が相次いで中止に向かっていることは、極めて深刻で憂慮すべき事態。言論・表現にかかわる創作物を個々人が享受し、論評・判断する機会が奪われることがあってはならない」」(朝日新聞平成20年4月4日付朝刊29面(13版))
映画・演劇をはじめとするマスコミ業界の労組、単に各新聞社だけでなく、日本新聞協会や日本民間放送連盟までも抗議する声明を出しているのですから、この問題があまりにも深刻であること、表現の自由に対する危機感をあらわしていると思われます。
「新聞協会は「公開が決まっていたドキュメンタリー『靖国』の上映中止という事態が生じたことは残念でならない。映画の内容をどう評価するかは個々人の問題であるが、評価、判断の機会が奪われてしまうことは、表現・言論の自由を擁護する立場から看過できない。表現活動が萎縮(いしゅく)する社会にしてはならないと考える」とする斎藤勉・編集委員会代表幹事(産経新聞社取締役・東京本社編集局長)の談話を発表している。」
編集員会代表幹事という立場とはいえ、産経新聞取締役さえも、「表現・言論の自由を擁護する立場から看過できない。表現活動が萎縮(いしゅく)する社会にしてはならない」として、表現の自由の観点から問題があると表明しているのです。
(3) もっとも、映画「靖国 YASUKUNI」について、大阪市淀川区の映画館「第七芸術劇場」や京都市下京区の映画館「京都シネマ」などは映画を予定通り上映することを決めたとのことです。ですので、全面的な上映中止は避けられたようです。
「「靖国」上映中止:「見てもらい評価」 来月、大阪で上映−−京都も8月予定
靖国神社を描いたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題で、大阪市淀川区の映画館「第七芸術劇場」や京都市下京区の映画館「京都シネマ」などは映画を予定通り上映することを決めた。「見てもらわないと評価できない」と説明している。
映画は日本在住の中国人監督、李纓(リイン)さんが、10年かけて撮った映像を編集。週刊誌に「反日的内容」との記事が掲載され、一部の国会議員が助成金の妥当性を問題視。劇場には上映中止を求める抗議などもあったといい、東京と大阪の5館で上映が取りやめになった。
一方、第七芸術劇場は当初の日程通り5月10日から7日間上映する予定。また京都シネマも8月に上映を予定している。第七芸術劇場の松村厚支配人は「これで全国で中止なら、嫌がらせや抗議で取りやめにできることになる。批判する人がいていいし、その通りと思う人がいてもいい。上映しなければ議論にもならない」と話している。広島サロンシネマ(広島市中区)も6月に上映する方針という。
配給元のアルゴ・ピクチャーズによると、東京でも新たに上映を希望する映画館が出てきており、日程などを調整中という。【中村一成】
毎日新聞 2008年4月3日 東京夕刊」
(1) 朝日新聞平成20年4月4日付朝刊2面「時時刻刻」(13版)
「「靖国」上映すくむ空気
中国人監督が撮ったドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」を上映するかどうか、映画界に混乱が広がる。4月封切りのはずだった東京と大阪の5館が上映中止を決める一方、独立系の単館にはあえて上映すると決めたところも。監督は上映中止の広がりに落胆している。 (小堀龍之、宮本茂頼)
◆「圧力なかったが中止と判断」 議員向け試写会が影
映画館側はなぜ上映中止を決めたのか――。
3月15日、最初に決めた東京・新宿のバルト9。複合施設内にスクリーン9つを持つシネコン(複合型映画館)だ。運営会社、ティ・ジョイ(東京都中央区)は東映などが出資したシネコン大手。担当者は「抗議電話や圧力を受けたわけではなかったが、総合的に判断した」。
銀座シネパトスは、同20日から数度、実際に右翼団体の街宣車の抗議を受けた。3月中旬以降には嫌がらせ電話なども続いた。運営会社、ヒューマックスシネマ(新宿区)は社長を交えた同25日の会議で現場の声も聞き、翌朝決めた。中村秋雄執行役員は「だれかの意見ということでなく、総意として判断した」と話す。
東京・大阪の2館での公開を予定していたエスピーオー(港区)は今月1日、上映中止に至る経緯を説明する文書をホームページに載せた。上映中止を決めた主体は自社でなく、配給会社のアルゴ・ピクチャーズ(同)だという主張だ。エス社には、3月初めに上映を疑問視する電話が2本あっただけで、そもそも強圧的な中止要請や右翼団体による抗議は一切なかったという。一方のアルゴ社は、上映中止を決定したのはエス社側だったとし、意見は食い違う。
不測の事態に対する警備などを両社が検討し始めたきっかけについて、両社の意見は一致している。それは、3月12日に開かれた国会議員向けの試写会だった。エス社の寺田節管理部長は「大きな契機の1つは国会議員への試写会だ。よそには試写会の後、抗議が来ていると聞いた。それまで他館の上映中止もなかったし、公開に向けた障害は感じていなかった」という。
日本新聞協会や日本ペンクラブなどは3日、上映中止が相次ぐ事態を「見過ごせない」などとする談話や声明を発表した。こうした中、5月以降に上映すると明言する映画館も出てきている。
新宿市中央区の市民映画館シネ・ウインドは、予定通り6月から上映。斉藤正行代表は「開館以来22年間、中止した映画はない。何があってもやる」。北海道苫小牧市のミニシアター、シネマ・トーラスも7月中旬から上映予定だ。(中略)
◆李纓監督、とまどい語る 嫌がらせ、予想していたはず■本当の中止理由見えぬ
李纓(リイン)監督(44)……は3日夜までに数回、朝日新聞の取材に応じ、上映中止へのとまどいや憤りを語った。 (石川智也)
「映画は作り手と観客との共同作業。劇場という空間で見られて本当の意味で完成する。(上映中止には)納得できない。配給側は上映劇場を探す交渉の段階から、街宣車が来る可能性などは説明していた。12日からの上映が決まった5館との打ち合わせには2月末以降、私も出席し、警備や警察との連絡態勢も話し合っていた。一緒にチャレンジしましょうと言われ、感謝していた。嫌がらせなどはすべて予想していたはず。どうして今になってという思いだ」
「3月12日の国会議員向け試写会が、転機だったように思う。足並みをそろえたように、劇場側の説明が不明瞭(ふめいりょう)になった。本当に、周囲への迷惑という表向きの理由だけなのか。だれが中止を決めたのかよく見えない」
広東省出身。84年に国営中央テレビに入局しドキュメンタリー制作に携わったが、やはり政治・宗教などの題材では制約を感じた。89年に就学生として来日。皿洗いなどのアルバイトなどをしながら東京外大などでも学んだ。
「靖国を撮ろうとしたきっかけは97年。南京事件を否定する立場の人が多く参加する集会にたまたま出て、ショックを受けた。ただの桜の名所ではなく、ある人々にとって特別の空間だと知った。その理由を掘り下げようと、カメラを回し始めた」
10年間で撮りためたテープは二百数十本。膨大な資料も読み込んだが、作品にはナレーションを入れなかった。
「どういう集団の記憶・歴史を封じ込めた空間なのか。その空気と精神性をそのまま映像として差し出し、感じ考える材料にしてほしかった」
「『反日』と報道されたが、強い抵抗感がある。人をあおるだけの便利な言葉だ。靖国も冷凍ギョーザも、それぞれの国のほんの一面に過ぎないはずだ。なぜことさら国同士の対立に持って行くのか」
李監督は永住権も持ち、日本を「第二の故郷」と話す。
「でも『自粛』というのがやっぱりよく分からない。横のつながりを大切にする日本だからなのか。公開までが1つのチャレンジだと思っていた。上映できるか自体、日本社会への大きな問いかけだ」
この記事を見ると、上映中止の主たる原因が稲田議員らが(文化庁を通じて)要求した試写会にあることが明らかです。
「不測の事態に対する警備などを両社が検討し始めたきっかけについて、両社の意見は一致している。それは、3月12日に開かれた国会議員向けの試写会だった。エス社の寺田節管理部長は「大きな契機の1つは国会議員への試写会だ。よそには試写会の後、抗議が来ていると聞いた。それまで他館の上映中止もなかったし、公開に向けた障害は感じていなかった」という。
「3月12日の国会議員向け試写会が、転機だったように思う。足並みをそろえたように、劇場側の説明が不明瞭(ふめいりょう)になった。本当に、周囲への迷惑という表向きの理由だけなのか。だれが中止を決めたのかよく見えない」」
李監督が「3月12日の国会議員向け試写会が、転機だった」と語っているように、一般公開前の試写会開催要求こそが、上映中止をもたらしたものだったのです。政治家が執拗に絡んでいるのなら、単に抗議の電話や街宣車がくるだけでは済まないだろうと思い、面倒は避けるために上映中止としたのも理解できることだと思います。
3.では、稲田議員らの言動は、憲法上いかなる問題があるのでしょうか?(「ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」上映中止に〜稲田朋美衆院議員の横槍が背景に」(2008/04/02 [Wed] 23:46:46)で論じたことと幾らか重複します)
(1) まず、稲田議員らは、議員として公開前に映画を見るのは一つの国政調査権と主張して正当化していました。しかし、その主張さえも問題があったようです。海紀三朗文部科学相が4月4日の閣議後会見で問題視しています。
「「靖国」上映中止:自民議員の内容確認「国政調査権で依頼」 渡海文科相が疑問視
ドキュメンタリー映画「靖国」の上映を中止する映画館が相次いだ問題で、渡海紀三朗文部科学相は4日の閣議後会見で「一部の議員が国政調査権として(内容の確認を)依頼したようだ。国政調査権は本来(両議院の)委員会を通じて行使されるのがルールだ」と述べた。この問題では、自民党の稲田朋美衆院議員が映画の封切り2カ月前の2月12日、文化庁に内容の確認を申し入れたことが明らかになっている。
渡海文科相は「(稲田議員は)『あの映画に政治的メッセージがあるにもかかわらず、(文化庁所管の独立行政法人から)助成金が出ているのでは』という疑義があるから見せてほしいとのことだった。特定の依頼に対し、国の機関が何かをやるのは基本的によくないと思う」と述べた。
文化庁は申し入れを受けて配給会社に相談し、全国会議員を対象とした異例の試写会(3月12日)を開催することが決まった。
国政調査権は憲法に基づく国会の権利で、衆参両院のいずれかの議決で発動する。行政機関に記録の提出を要求したり、証人喚問をすることなどができる。【加藤隆寛】
毎日新聞 2008年4月4日 東京夕刊」
憲法62条は「両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる」と規定しているように、憲法は議院の権能として国政調査権を認めているのであって、国政調査権は議員個人の権限ではありません。ですから、「国政調査権は本来(両議院の)委員会を通じて行使されるのがルール」(国会法104条1項 各議院又は各議院の委員会から審査又は調査のため、内閣、官公署その他に対し、必要な報告又は記録の提出を求めたときは、その求めに応じなければならない)です。
しかし、稲田議員らは、両議院の委員会を通すというルールによらずに、自分勝手に国政調査権と称して文化庁に対して試写会の要求を行ったのです。稲田議員らの行動は、権限がないのに権限があるかのように装って文化庁に試写会などを要求したのであって、国会議員として極めて不当な行動でした。
(2) 次に、国会議員が議院の権能である国政調査権を盾にして、文化庁という行政機関を通じて、映画という芸術に対する公的助成金の妥当性を問題視することで、上映中止に追い込むこと、すなわち、公権力が財政援助を口実に芸術表現の自由に制約を加えようとする行動については、表現の自由との関係で憲法上の問題があります。
イ:今日、国家は音楽や絵画を代表として広範なジャンルの芸術活動を援助すべく財政支出を行っています。よかれあしかれ、現在の国家は財政的援助を行うスポンサーという形で芸術と関わっています。しかし、国家は単に芸術に対する物分りのよい援助者として立ち現れるわけではなく、同時に国家は自らが支援する言論に対して制約を課そうとするのです。そのため、その制約の妥当性・限界が問題となっています。これは、「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」「公的文化助成と表現の自由」といわれる問題として、憲法上議論されている問題です。
「国家が芸術も含めて広く言論に関わる活動に財政援助を行う場合には、多くの場合、国家は単に援助するだけではなく、選別的な形で援助を行い、口もはさんでくる。国家による財政援助を受けて表現行為(subsidized speech)を行う場合、当該表現行為に対する国家の干渉――ある論者の表現を借りれば国家が「言論を買い上げる」という問題を生み出す――に対していかなる憲法上の制約を及ぼしうるのかという問題は、1990年代以降アメリカ憲法学において「修正1条の新しいフロンティア」と呼ばれるほど重要な研究分野となっている。
こうした場合に生じる憲法問題を捕捉すべくアメリカ憲法学が用意している視座が、いわゆる「政府言論」(government speech)であり、芸術に対して政府が財政援助を行う場合に生じる憲法問題も基本的にはこの枠組みの中で考えることができる。
伝統的には表現自由理論は、私人によって構成される言論市場に対して、政府が外側から「検閲者(censor)」として介入する場面をもっぱら想定して構築されている。これに対して「政府言論」という理論装置は、政府が言論市場に対して何らかの形で内側から「話し手(speaker)」として介入する場面を想定し、そこにおいて生じる問題を憲法学の問題として把握しようとするものである。(中略)
芸術や文化活動への援助に関しては、国家はあらゆる援助申請を等しく許容するわけにはいかず、援助する対象を内容に基づいて選別する必要があるということである。……芸術活動への援助に関して国家が内容に基づく選別をなすべきなのは、たとえば当該芸術の主題や芸術作品の質などを基準にして選別することが資源の有効な配分方法として望ましいからである。(中略)
しかし、他方で、国家はいかなる内容に基づく選別をしても許されるというわけでもないはずである。たとえば、自民党を支持する芸術家には補助金を支出するが、自民党を批判する芸術家には補助金の支出を拒否するといった形での選別的援助は憲法上の問題を提起する。
したがって、そもそも国家が芸術活動に財政援助をなすかどうかは国家の正当な裁量の範囲内にあり、しかも国家は財政援助をなすにあたって、私人の表現行為を規制する場合とは異なって、一定の内容に基づく選別をなすことも考えられるが、だからといって国家の内容に基づく選別に憲法上の制約が全くないわけではない。」(坂口正二郎「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」法律時報2002年1月号(74巻1号)31頁)」
要するに、公権力が財政援助を口実に芸術表現の自由に制約を加えようとする行動については、「政府言論」の問題として従来から憲法上の問題となっているのです。そして、財政援助(援助の取り消しも含む)に当たり芸術表現に関しては、一定の内容に基づく選別も可能ですが、合理的理由があり恣意的でない裁量の範囲内に限られるということです。
ロ:稲田議員らは、芸術文化振興基金助成金交付の基本方針として、「政治的、宗教的宣伝意図を有するものは除く」としている点で、この映画が「政治的な宣伝意図」を有しているとして、助成金交付の妥当性を問題視しています。
しかし、文化庁の尾山文化部長は、「本件につきましては、政治的なテーマを取り上げていても、政治的な宣伝意図を有するものとまではいえないと専門委員会で判断されたと聞いているところでございます」と答えています(3月27日の参院内閣委員会での自民党の有村治子氏の質問への答え)。
どんな映画であっても表現行為なのですから、何らかの思想が含まれている以上、「政治的、宗教的な『意図』」を含みうるのです。特に、政治的なテーマであればなおさらです。ですから、「政治的、宗教的宣伝意図を有するものは除く」としているという意味は、専ら「政治的な意図」をもった映画なのか否か、専ら「宣伝意図」をもった映画なのか否か、が基準になっているというべきなのです。
稲田議員らの主張からすると、「政治的テーマ」を題材にする映画はすべて「政治的な宣伝意図」を有するものとなってしまい、およそ「政治的テーマ」を題材にする映画は公的助成金が出ないことになってしまい、妥当ではありません。(元々、映画製作前に助成金の交付を決定するのだから、交付金の妥当性判断は提出された資料に基づく事前判断であるのに、それを稲田議員らが事後的に映画の内容を見て助成金の妥当性を判断すること自体が問題です。)
しかも、朝日新聞によると、「試写を見た自民党の島村宜伸衆院議員は『一貫したストーリーを見せるというよりは、様々な場面をつなげた映画。自虐的な歴史観に観客を無理やり引っ張り込むものではなかった』とした。また、民主党の横光克彦衆院議員は『戦争の悲惨さを考えさせる映画だが、むしろ靖国賛美6割、批判4割という印象を受けた』と話した。」というのですから、稲田議員らの評価とまるで違うのです。それなのに、稲田議員らが属する団体の国会議員は、「反日映画ではないか」などと問題視した者もいたことからすると、稲田議員らの評価は、偏見に満ちたものであって恣意的な判断にすぎないように思えます。
ハ:このようなことからすると、文化庁の尾山文化部長の主張の方が妥当であり、稲田議員らの批判は根拠の乏しいものであったといえます。そうだとすると、稲田議員らが助成金の妥当性を問題としたことは合理的理由が乏しく、裁量の範囲を逸脱した行為であり、表現の自由(憲法21条)に対する侵害であると考えます。
(3) また、稲田議員らが、国政調査権を盾にして、文化庁を通じて一般公開前の試写会開催を要求し、その結果、上映中止となったことは、検閲(憲法21条2項)及び事前抑制禁止の原則(憲法21条1項)の観点からも問題があります。
イ:まず、表現の事前の抑制についての説明を引用しておきます。
「検閲と事前抑制
憲法21条2項は、「検閲は、これをしてはならない」と定める。検閲の禁止が1項の表現の自由とは別に規定されているのは、歴史的に検閲が表現の自由に対する最も一般的な制限であったことのほかに、検閲という規制方法が、表現が受け手に届くこと自体を抑制するという点で、言論活動に対する禁圧的で強力な規制であるために、それをとくに禁止したものである。検閲の意義に関連して、最近の学説・判例は、表現の事前の抑制のうちで、検閲と事前抑制とを区別し、そして、検閲は絶対に禁止されるのに対して、検閲に至らない事前抑制は、厳格な審査基準に服するものの、必ずしも絶対に禁止されるわけではないと解している。
検閲の定義として、学説の多数は、<1>行政権が、<2>表現内容を、<3>その受領前に審査し、場合によっては表現を禁止すること、と説いている。かつては、「公権力が思想内容を発表前に審査し、禁止すること」と説かれたが、検閲が絶対的に禁止される以上検閲の意味は厳格に定義されるべきであるという立場から、<1>検閲の主体は伝統的に行政権であり、裁判所は除かれるべきこと、<2>思想のみでなく事実の報道の規制も検閲たりうること、<3>発表の禁止ではなく、受領の禁止と解することが、情報の流通の阻止を意図する検閲の観念に適していること、という観点を加味して、検閲が再定義されたのである。しかし、判例では、検閲とは「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止すること」(税関検査最高裁判決)と定義されている。この定義では、細かな要件がいくつか付加され、それだけ検閲の範囲が狭められており、きわめて問題である。
検閲にあたらない事前の言論規制もまた言論に対する厳しい制限手段であるので、その合憲性は、一般の表現の自由の規制立法の場合よりも厳格に審査されなければならない。すなわち、一般の表現の自由の規制の場合よりも厳しい明確性が要求され、かつ、裁判所による迅速な権利救済の方途が開かれていることが必要となる。」(戸波江二『憲法(新版)』(ぎょうせい、平成10年)267頁)
要するに、表現の事前の規制は、表現が受け手に届かない点で、言論活動に対する強力な規制であるため、最も許されない規制方法です。その検閲の意義については、従来は、「公権力が思想内容を発表前に審査し、禁止すること」という見解(宮沢)もありましたが、学説の多数は、<1>行政権が、<2>表現内容を、<3>その受領前に審査し、場合によっては表現を禁止すること、としているのです。これに対して、判例は、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することとし、極めて限定しています。
他方で、検閲に当たらない(公権力による)事前抑制も厳しい制限手段であるから、原則として許されず、一般の表現の自由の規制の場合よりも厳しい明確性が要求され、かつ、裁判所による迅速な権利救済の方途が必要であるということです。
ロ:稲田議員らは、立法機関である議院の国政調査権の行使であると称して、また、国政調査権を盾にして行政機関である文化庁を動かしているのですから、立法機関という公権力、または文化庁という行政権が主体(=稲田議員らは、文化庁をわら人形として動かした)となっていることは明らかです。
また、映画の公開前に「公費助成にふさわしいかをみる」という目的で試写会を要求しつつ、「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」(稲田議員)として思想内容自体を審査しているのですから、「表現内容」の審査であるといえます。
稲田議員は、助成金の妥当性を問題にすることで、助成金の返還を求めるなど(実際には不可能)、映画「靖国」の映画監督の資金に圧力をかけ、同種の映画の資金源を断つことで、今後の同種の映画の発表を抑制しようとするという意図があったといえます。稲田議員は、上映中止は求めていないと言ってはいるものの、結果的には上映中止となったのであり、上映中止に追い込むのに十分な行動を行っているのです。
試写会後、自民党の保守派でつくる「伝統と創造の会」(会長・稲田氏)と「平和靖国議連」(会長・今津寛衆院議員)が、文化庁などを呼んて開いた合同勉強会では、約10人の出席者が「反靖国の内容だ。大きな問題になるから覚悟した方がいいよ」との怒声も飛んだとのことです(毎日新聞 2008年4月2日 東京朝刊)。「大きな問題になるから覚悟」せよとまで言っている以上、助成金の妥当性に止まらないこと、すなわち上映中止に追い込むことを自ら示唆しているのです。
ハ:このようなことからすると、稲田議員らが、国政調査権を盾にして、文化庁を通じて一般公開前の試写会開催を要求し、その結果、上映中止となったことは、立法機関(議院)という公権力が主体と捉えれば多数説及び判例の「検閲」には当たらないとしても(文化庁が主体であれば、多数説の「検閲」に当たり、そうでなくても宮沢説の「検閲」には当たりうる)、事前抑制禁止の原則に抵触するものとして妥当でないと考えます。
(4月6日追記:「助成金が国庫から支出されている以上正しく支出されているかどうか国会議員のチェックを受けなければならないことは当然」ということを理由に、公権力による表現に対する事前抑制も免責されると主張する方(某ブログの「表現の自由と上映の自由」(2008年04月06日))もいます。しかし、財政支出の妥当性は事前抑制が許される要件ではないのですから、間違っています。なぜ検閲・事前抑制が許されないのかについて理解が欠けていますし、「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」の問題があることに思い至らなかったようです。)
4.稲田議員らの言動については、各新聞社のコラムも非難しています。
(1) 北海道新聞平成20年4月2日付「卓上四季」
「 靖国(4月2日)
映画「無法松(むほうまつ)の一生」に、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)が演じる主人公が、陸軍大尉(故人)の妻に思いを打ち明ける場面があった。戦争中の検閲でカットされてしまった。死後に妻が言い寄られては、戦地の兵隊の士気をそぐ、ということらしい
▼映画や出版物などは、戦後は米軍の検閲を受けた。お蔵入りになった作品もある。それにしても、検閲まがいなど遠い過去だと思っていた。安心はできないようだ
▼国会議員が「反日映画ではないか」と問題視する。街宣車や電話で抗議が来る。映画館が後難を恐れる。映画「靖国 YASUKUNI」の上映が、そんな経過で中止になった
▼映画製作には文化庁所管の基金から助成金が出ている。自民党の保守系議員が、助成に疑問を持った。そこで要請したのは、一般公開前の試写会開催だ。これは製作側への強い圧力となる
▼かつてあった検閲とは違う。だが政治家の介入から、抗議が始まり公開中止になった。日教組が予約した会場をホテルがキャンセルした事件をも思わせる。試写を求めた議員は、上映をやめさせる意図はないと言った。だとすれば要求は不用意だった
▼日本政府への批判が「反日」なのか。「反日」だとどんな点が問題なのか。中身を問わずレッテルを張り排除する傾向も広がる。単に「騒動に巻き込まれては面倒だ」と判断停止する人が増えれば、表現の自由はいよいよ危うい。」
(2) 日経新聞平成20年4月3日付「春秋」
「赤飯で祝うべき出征なのに、前夜に夫婦でお茶漬けサラサラとは何ごとか。小津安二郎が撮ろうとした映画「お茶漬の味」の脚本を調べ、内務省や軍部はこう難癖をつけたという。1940年のことだ。結局、小津は映像化を断念した。
▼こういう理不尽な話は戦前戦中の映画界ではいくらでもあった。それがすっかり昔話というわけではないらしい。靖国神社を扱ったドキュメンタリー「靖国 YASUKUNI」の公開を、東京や大阪の映画館が一斉に取りやめた問題だ。上映すれば混乱が起き、まわりに迷惑をかける恐れがあると劇場側は言う。
▼作品は「反日的」で、しかも文化庁の助成金が出ていると報じた週刊誌の記事がきっかけだ。一部の国会議員が批判を強め、議員向けの試写会が開かれ、右翼団体も騒ぎ出した。客商売の映画館にしてみれば厄介な展開だ。政治家まで絡んでいるのなら面倒は避けるに限ると、あっさり封印した心情が読み取れる。
▼議員が問うているのは助成金のあり方。彼らも上映中止は不本意というが、こうなることに思いが及ばなかったのかどうか。それに、劇場側にも少しは矜持(きょうじ)がほしい。小津は「お茶漬の味」をあきらめきれず、戦後あらためて完成させた。名匠らしからぬ凡作とされるが、画面には映画人の執念が焼き付いている。」
稲田議員らを非難している部分だけを明確にしておきます。
「▼映画製作には文化庁所管の基金から助成金が出ている。自民党の保守系議員が、助成に疑問を持った。そこで要請したのは、一般公開前の試写会開催だ。これは製作側への強い圧力となる▼かつてあった検閲とは違う。だが政治家の介入から、抗議が始まり公開中止になった。日教組が予約した会場をホテルがキャンセルした事件をも思わせる。試写を求めた議員は、上映をやめさせる意図はないと言った。だとすれば要求は不用意だった」(北海道新聞平成20年4月2日付「卓上四季」)
「▼作品は「反日的」で、しかも文化庁の助成金が出ていると報じた週刊誌の記事がきっかけだ。一部の国会議員が批判を強め、議員向けの試写会が開かれ、右翼団体も騒ぎ出した。客商売の映画館にしてみれば厄介な展開だ。政治家まで絡んでいるのなら面倒は避けるに限ると、あっさり封印した心情が読み取れる。▼議員が問うているのは助成金のあり方。彼らも上映中止は不本意というが、こうなることに思いが及ばなかったのかどうか。」(日経新聞平成20年4月3日付「春秋」)
(3) 「単に『騒動に巻き込まれては面倒だ』と判断停止する人が増えれば、表現の自由はいよいよ危うい」(北海道新聞)とか、「劇場側にも少しは矜持(きょうじ)がほしい」(日経新聞)などとして、映画館側も気概を持ってほしいという意識もあるでしょう。
しかし、特に注意しておくべきことは、すでに述べたように稲田議員らの言動は憲法上の重大問題が幾つもあるのであって、映画館側の姿勢以上に問題があるのです。繰り返しになりますが、稲田議員らは、国政調査権と偽って文化庁に試写会などを要求してそれを開催させており極めて悪質です。映画を見る前から推測に基づいて長期間にわたり非難し続け、試写会後も「大きな問題になるから覚悟」せよなどと恫喝して街宣右翼による迷惑行動を助長した点でも問題です。
稲田議員らは、上映中止に追い込むだけの行動を執拗に行っておきながら、上映をやめさせる意図はないというのは偽善にすぎます。稲田議員らの言動は信用できないものであって、全く正当化できません。
憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定して、国会議員には憲法尊重擁護義務が課されています。稲田議員らが、国政調査権を盾にして公開前の試写会という表現の事前抑制を求めており、表現の自由に対する重大な制約であって憲法99条違反です。
今回の映画「靖国」上映中止問題において最も非難し問題視すべきことは、数々の憲法違反を行った国会議員である稲田朋美衆院議員らの言動なのです。
<追記>
rice_showerさんのコメントで紹介して下さった「鈴木邦男をぶっとばせ!」さんの「靖国が危ない!」(2008/03/31)から一部を引用しておきます。
「映画「靖国」の上映を新宿の映画館が中止した。「右翼の妨害が恐いから」という理由だ。「反日映画を潰した! 我々右翼の勝利だ」と言う人もいる。そんなことはない。日教組問題と同じで、右翼の敗北だ。「ほらみろ、右翼はだ騒いで妨害してるだけだ」と思われる。これでは誰も思想団体だとは思わない。(中略)
さて、映画「靖国」のことだ。3月24日(月)、ロフトに行ったら、平野店長が言っていた。試写会を見たそうだ。「反日映画だと言って、あんなに騒いでいるから、どんなにひどい映画かと思ったら、マトモな映画じゃないか。どこが反日なの?」。そうなんだ。「反日映画だ!」といわてるから、そう思って見ると、「期待」は裏切られる。「今、闘いのテーマがないからですよ」と言った。それと、「週刊新潮」などが「反日映画だ!」と書くと、右翼は過剰反応する。これは「天の声」だと思う。「週刊誌に大々的に出てるんだから、我々が行かざるをえない」と公言する人も多い。(中略)
李纓監督は中国人だ。「中国人だから反日だろう」と最初から偏見をもって抗議してる人もいるようだ。しかし、監督は、「知日」「親日」を越えて、日本が好きだし、愛している。「私は愛日です」と言っている。日本に来て、苦労して映画監督になる。日本語は流暢だ。私より上手い。でも学校で習ったのではない。独学だ。「三島由紀夫が好きで、三島の小説を読んで日本語を勉強しました」と言う。特に『音楽』『金閣寺』『奔馬』などが好きだという。私よりも勉強家だし、三島理解も深い。(中略)
又もや、映画「靖国」だ。実は、内容についての反対は余りない。8.15の左右の集会、靖国刀をつくる刀鍛冶の仕事が紹介されて、貴重なドキュメントだ。文句のつけようがない。ただ、ラストに、南京事件の「写真」が出る。数十秒か、数分か。「それがけしからん」と言う。それと日本芸術文化振興会から750万円が出てるという。「反日映画に金を出すとは何事か!」というのだ。
しかし、多くの映画に出している。こうした真面目なドキュメントに金を出すのはいいことだ。たとえ、日本に対し批判的だろうと、(そんなことはないのだが)、それに金を出すなんて、日本の寛容さを示すことだ。いいことだ。世界に誇るべきことだ。(以下省略)」
これを読むと、映画「靖国」のどこに問題があるのか訳が分かりません。むしろ、右翼にとって好ましい映画とさえ思えてきます。稲田議員らは、映画「靖国」をまるで理解できず、ただ週刊新潮に煽られて根拠なく騒ぎ立てているだけのように感じられます。
稲田議員らの行動は、表現の自由を保障している日本国において、根拠なく芸術表現の自由を事前規制するという反憲法的行動を行い、その結果、明治憲法下における人権侵害を復活させ、表現の自由をことごとく否定している某国と同じような行動を行っているのですから、日本の恥さらしであると思えてなりません。
私自身、稲田氏が議員になる前の弁護士活動については一定の評価をしていたのです。
ところが、少し前には加藤紘一氏の実家が似非右翼に放火されたのを嘲弄してみたり、大よそ“右翼”即ちは憂国の士を標榜する資格は無いな。
URL | rice_shower #UXr/yv2Y[ 編集 ]
>鈴木氏の発言を紹介下さり、有難う御座います
情報ありがとうございます。鈴木氏が述べることは実に真っ当です。エントリー内で引用させて頂きました。
>少し前には加藤紘一氏の実家が似非右翼に放火されたのを嘲弄してみたり、大よそ“右翼”即ちは憂国の士を標榜する資格は無いな
この問題が生じてから、稲田議員が、放火されたのを嘲弄したことを知りました。放火は放火された家を失うだけでなく、周囲の家々、多数の命をも奪いかねない重大犯罪です。それを笑うなんて。仰るとおり、稲田議員は「憂国の士」じゃないですね。
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