1.徳洲新聞 2006年(平成18年)12月4日 月曜日 No.547 1面より
「 病気腎移植は容認できる 元米移植外科学会会長、元全米臓器配分ネットワーク代表ら
日本国内で大きな論争を引き起こしている病気腎移植について、リチャード・ハワード元米国移植学会会長、ウィリアム・W・パフ元全米臓器配分ネットワーク(UNOS)代表ら米国の移植医療のエキスパートが、貴重な生命を救う病気腎移植は容認できるとのコメントを寄せた。
リチャード・ハワード氏からのメッセージ
私は、最近日本社会で注目を集めている万波医師のために、この手紙を書いています。私は、フロリダ大学の日本人の同僚である藤田医師から病気にかかった腎臓の移植についての見解を求められました。
藤田医師によれば、万波医師は腎臓に病気がある患者さんから摘出した腎臓を使って、20例ほどの腎臓移植を行ったということでした。
米国では、一般的に感染の可能性のある病気を持つドナーからの臓器移植は、受け入れられておりません。しかし、ごく初期の皮膚がんや脳腫瘍のドナーに限っては、悪性腫瘍でも容認しています。ところで、腎臓がんにかかった腎臓を使った移植に関するいくつかの報告があります。
イスラエル・ペン・インターナショナル・トランスプラント・チューマー・レジストリィのデータベースには、ビュエル医師と彼の同僚が、小さながん細胞を事前に切除した腎臓による腎臓移植を14例報告したと記載されています。このケースでは、医学的なフォローアップを69カ月した結果、がんの再発は認められず、1年、3年、5年経過後の患者の生存率は、それぞれ100%、100%、93%でした。
オルスバーク医師と彼の同僚は、5人の多発性嚢胞腎のドナーから4人のレシピエントへの移植を報告しています。このうち3人は、初期段階では経過は良好でした。2人は生存しており、1人は26カ月、もう1人は58カ月にわたって、移植腎はよく機能しました。レシピエントの1人は、移植腎がしばらく機能しましたが、移植後18カ月後に心臓病で死亡しました。左右2つの腎臓を移植された患者は、当初から腎臓が機能せず、移植後8週間で移植された腎臓を摘出することになりました。
このほかにも、嚢胞腎を使った腎移植が8例以上報告されています。そのうちの1つは、私の大学のケースでした。
我々は腎臓動脈瘤のドナーからの腎臓を修復した後に移植を行ったことがあります。これと同様の報告を記した文献があります。
私の経験と文献を読んだ結果に基づけば、私の意見はドナーとレシピエントがそのリスクと利益を完全に理解しているならば、このような移植は容認できると思います。特に日本のように移植できる腎臓の数に限りがあるような地域においては、容認される行為であると思います。
ご質問があれば、問い合わせてください。
敬具
ウィリアム・W・パフ氏からのメッセージ
私の外科医の同僚である藤田医師から、万波医師による高血圧に起因する動脈瘤のある臓器、あるいは小さな悪性腫瘍を切除した臓器など、完全とは言えない臓器を使った移植についての話を聞きました。
私自身は、小さな悪性腫瘍に冒された腎臓を移植した経験はありません。しかし、最近、悪い部位を部分切除した移植が受け入れられていることは、これまでの見方が変化してきていると言えるでしょう。
私は高血圧で、生体移植のドナーになることを決めた父親の腎臓を移植したことがあります。我々は、父親の右腎臓動脈に強度の狭窄を見付け、それを切除し、修復を施して彼の娘に移植し成功しました。
私の考えでは、ドナーとレシピエントが、他の治療法の選択肢について完全に助言を受け、ドナーが、あるいは亡くなったドナーの遺族が喜んで臓器提供に応じ、その結果が人の生命を救ったならば、ドナーがたとえ生死にかかわる病気を持っていても、喜んで臓器を提供し人の生命を救うならば、これらの行為は賞賛されるべきでしょう。
私は40年前に最初の移植手術を行い、米国でのより大掛かりな多臓器移植計画の一つをつくりました。現在は、我々の活動を指導する専門的組織で活動を続けています。私は米国外科移植学会の顧問、米国南東部臓器調達基金および全米臓器配分ネットワークの総裁でした。
敬具
かつて京都大学の移植外科に所属し、ドミノ肝移植にも関わったフロリダ大学の移植外科の藤田士郎助教授は、万波誠・宇和島徳洲会病院副院長とも既知の間柄。日本国内で起きている移植医療をめぐる論争の経緯を米国内で紹介すると、米国の移植関係者からコメントが寄せられた。今回、そのメッセージの公開の了承を得て、掲載することとなった。
藤田 士郎(ふじた しろう)
プロフィール
1956年大阪府豊中市生まれ。
1982年、京都大学医学部卒業後、同大学第二外科でドミノ肝移植などに携わる。
山口県の都志見病院、愛媛県の市立宇和島病院を経て、
フロリダ大学移植外科アシスタント・プロフェッサーとして10年目を迎える。」
2.この記事を紹介したのは、元米移植外科学会会長、元全米臓器配分ネットワーク代表らは、病気腎移植は認められて良いと発言しているからです。日本移植学会の医師よりも多く移植をこなしていると思われる医師の発言ですから、実績に基づいた発言であり、重視すべきだと思うのです。
(1)
「米国では、一般的に感染の可能性のある病気を持つドナーからの臓器移植は、受け入れられておりません。しかし、ごく初期の皮膚がんや脳腫瘍のドナーに限っては、悪性腫瘍でも容認しています。ところで、腎臓がんにかかった腎臓を使った移植に関するいくつかの報告があります。」
米国でも、ドナー不足であるわけですが、(感染の可能性のある)病気腎移植は一般的ではないが、病気腎移植をしていないわけではないということです。
死体腎移植では、日本臓器移植ネットワークが一元的に担当しています。これに対して、病気腎移植は、(問題は生じていないとはいえ)、健康な腎臓であったわけではないので、未だリスクがあることは確かです。そして、病気腎に関してもレシピエントに十分に説明しなければならない点をも考慮すると、病気腎移植は、死体腎移植のように、日本臓器移植ネットワークで一元的に担当することは適していないと思います。(もちろん、一般人が病気腎移植に抵抗感がなくなり、病気腎移植に対応した移植ネットワークが確立するなら別ですが。)
万波医師に対する批判として、公平性が欠けているとの批判があります。
「選択基準
病気腎が確保されたとき、万波医師らがどのような基準で移植患者を選んでいたのかも焦点。公平性を担保するため、死体腎では日本臓器移植ネットワークが一元的に担当するルールが確立している。
しかし病気腎移植での選択基準は万波医師らの頭の中にしかなかった。移植を望む患者は多く、移植患者が臓器提供者を確保することに苦悩している状況下で、万波医師はどのようにして患者を選んできたのか。公平性を疑問視する声は強い。
第三者間の生体腎移植といえる病気腎移植で、院内倫理委員会は全く機能しておらず、医師が腎臓をあっせんしていたことの是非も問われる。」 (「特集宇和島 腎移植2006年12月02日(土)付 愛媛新聞 「病気腎」に疑問・論点山積 発覚から1ヵ月 妥当性・公平性検証へ」)
愛媛新聞は、12月27日付の「コラム 地軸」でも公平性を問題にしています(<追記>参照)。
病気腎移植は、日本臓器移植ネットワークで行うには適さないのですから、医師の裁量に委ねられる面があるのはやむを得ないと思います。また、万波医師は、最近2年間で80件以上、今まで650件ほどの腎臓移植を行い、並みの医師以上の患者を見ている状態ですし、金銭を受け取っていない医師のようですから、金銭などによる恣意的な選択はしてきていないといえます。
元々、病気腎移植は、死体腎移植ではないのですから、日本臓器移植ネットワークを通す理由がないのです。生体腎移植は、親族間で移植を行うのですから、そこには「公平性」はなく、日本臓器移植ネットワークを通していないのです。愛媛新聞社は、「移植はすべて日本臓器移植ネットワークを通すものだ」という間違った思い込みがあるようです。
日本では平均で移植に16年かかるのに、透析患者の16年の生存率は30%未満。この間、臓器移植の仲介をする「日本臓器移植ネットワーク」に登録料を払い続けるのは詐欺に近いのです(東京新聞11月30日付朝刊「核心」)。詐欺に近い「日本臓器移植ネットワーク」を通さないことで、公平性を害すると批判するなんておかしなことです。
そうなると、公平性を害しているという批判は妥当でないといえると考えます。
(2) もう1つ重要な点は次の点です。
「私の経験と文献を読んだ結果に基づけば、私の意見はドナーとレシピエントがそのリスクと利益を完全に理解しているならば、このような移植は容認できると思います。特に日本のように移植できる腎臓の数に限りがあるような地域においては、容認される行為であると思います。」
「私の経験と文献を読んだ結果に基づけば」ということ、すなわち、病気腎移植は医学的に妥当性があると理解していることです。
そして、「ドナーとレシピエントがそのリスクと利益を完全に理解しているならば、このような移植は容認できる」、すなわち、レシピエントに対して、病気腎移植を受けるリスクと腎臓移植によって受ける利益をよく説明して納得してもらうことが重要であるというわけです。(「ドナー……がそのリスクと利益を完全に理解」という点は、ちょっと分かりにくいですが。ドナーにとっては腎臓摘出は、移植が主でなく治療目的が主ですので。)
さすが現実感のある米国の医師というべきか、「特に日本のように移植できる腎臓の数に限りがあるような地域においては、容認される行為である」と述べています。
米国の医師には、こういった現実が分かっているから、病気腎移植を認める必要性があるだろうというわけです。万波医師らは、現実を理解しているから病気腎移植を行ってきたわけです。「米国では三年待てば移植できるが、日本では平均で十六年かかる。透析患者の十六年の生存率は30%未満。……透析から脱するには移植か、死しかないが、現実には移植はほとんど選択できない。だから、海外渡航移植を望む患者が増える。これは、どう考えてもおかしい。」(東京新聞11月30日付朝刊「核心」)
万波医師を批判する医師・マスコミ・一般人は、米国の医師のように日本では(生体腎移植ができなければ)移植はありえず、16年後の生存率は30%という切実な現実を理解して欲しいものです。
米国では病気腎移植は可能であって、米国の医師は病気腎移植を認めているのです。日本では必要性があるはずとまで言ってくれているのです。米国人の臓器は病気腎移植でも大丈夫だが、日本人の臓器は病気腎移植に適していないというのであれば別ですが、そんな妙な話は聞いたことがありません。
にもかかわらず、なぜ日本移植学会などは、病気腎移植を否定しようと画策するのか不思議でなりません。病気腎移植について、米国で医学的に妥当というのであるなら、日本でも医学的に妥当であるというべきです。
1.まず、生殖補助医療の在り方検討委員会の「設置の必要性及び審議事項」について、触れておきます(設置提案書(PDF))。
「(1) 委員会設置の必要性・期待される効果等
生殖補助医療の在り方、生殖補助医療により出生した子の法律上の取扱いについては、以前より多くの議論が提起されてきた。本年に入り、代理懐胎が大きな話題となり、その明確な方向付けを行うべきという国民の声が高まっていると指摘されている。
こうした状況の中、法務省及び厚生労働省から、代理懐胎を中心に生殖補助医療をめぐる諸問題について審議を依頼されており、これに答える必要がある。
(2) 審議事項
代理懐胎が生殖補助医療として容認されるべきか否かなど、代理懐胎を中心に生殖補助医療をめぐる諸問題について、従来の議論を整理し、今後のあり方等について調査審議を行う。」
2.「生殖補助医療の在り方検討委員会」の構成員も掲示されています(構成員(PDF))。
(1)
「職務:代理懐胎を中心に生殖補助医療をめぐる諸問題について、従来の議論を整理し、今後のあり方等について調査審議する。
設置期限:平成18 年12 月21 日〜平成20 年1 月31 日
氏 名 所 属 ・ 職 名 備 考
五十嵐 隆 東京大学大学院医学系研究科教授 第二部会員
加藤 尚武 鳥取環境大学客員教授 連携会員
鴨下 重彦 東京大学名誉教授 連携会員
久具 宏司 東京大学大学院医学系研究科講師 特任連携会員(予定)*
佐藤 やよひ 関西大学法学部教授 連携会員
水田 賃 九州大学病院病院長・教授 第二部会員
辻村 みよ子 東北大学大学院法学研究科教授 第一部会員
西 希代子 上智大学法学部講師 特任連携会員(予定)*
町野 朔 上智大学法学研究科教授 第一部会員
水野 紀子 東北大学大学院法学研究科教授 連携会員
室伏 きみ子 お茶の水女子大学理学部教授 連携会員
吉村 泰典 慶應義塾大学医学部産婦人科教授 連携会員
米本 昌平 蟆奮惶蚕冓弧生Φ羹蠶 連携会員」
(2) 一人一人検討を加えてみます。
●五十嵐 隆 東京大学大学院医学系研究科教授
「Yahoo!ヘルスケア - 家庭の医学:五十嵐隆 - プロフィール」より引用。
「名前: 五十嵐隆 (いがらし たかし)
肩書き: 東京大学大学院医学系研究科生殖・発達・加齢医学専攻小児科学教授/東京大学医学部附属病院
出生年: 1953年
卒業校名: 東京大学(1978年卒)
専門: 小児科学
得意分野: 小児腎臓病
症例数: 2005年症例数:120例 累積症例数:580例
外来日: 毎週木曜(午前・午後)。予約は必要。原則として紹介状が必要(ない場合もOK。ただし加算あり)。
メモ: 患者さんと親御さんにやさしく、ていねいに、説明はわかりやすくを心がけています。趣味は散歩、読書、B級グルメ。
長所: 親切、ていねい。
短所: 気が短いほう。」
医師という立場にあるのですから、代理出産問題を含め生殖補助医療について医学的な議論が可能です。ただ、小児科が専門ですし、著書も小児疾患といった分野に限定されていますので(「小児腎疾患の臨床」など。論文はもっと専門的。)、生殖補助医療、特に産科婦人科の分野に関わる代理出産についてどれほど十分に議論できるかどうか不安があります。代理出産の是非の医学的検討は、基本的には依頼者や代理母という成人の身体・精神に関わることであって、小児疾患は関係が薄いのですから。
プロフィールを読むと、気が短いそうです。日本国民の一大関心事ですし、不妊患者が真剣に注目しているのですから、激高することなく、落ち着いて議論して欲しいものです。
●加藤 尚武 鳥取環境大学客員教授
「加藤尚武−Wikipedia」を読むと、加藤氏は哲学者ですし、生殖自体は、1980年代にバイオエシックス(生命倫理学)を日本に輸入した立役者そうです。代理出産の是非については、法律や医学的観点だけでなく、倫理的な観点からの検証が必要ですが、単なる倫理観では漠然としてしまうので、哲学の観点からの検証は必要です。
「文藝春秋編 日本の論点PLUS」の「論点 代理母は許されるか 2004年版」をみると、「代理母禁止が「隠れ出産」を招く恐れあり」と判断しているようですから、代理出産肯定派の論者のようです。
●鴨下 重彦 東京大学名誉教授
「日本学術会議生命科学の全体像と生命倫理特別委員会 報告」(PDF)を読むと、生命倫理特別委員会の委員長代理に就任していたようですから、生命倫理の観点から議論を行うと思います。
この「報告書」を一部引用しておきます。
「( 7 ) 体外受精
人工授精は受精を目的として精子を人工的に子宮腔内に注入することである。注入する精子が夫のものである場合と夫の無精子症などのために夫以外の第三者のものである場合があり、それぞれ「配偶者間人工授精(AIH=Artificialinsemination with husband's semen)」と「非配偶者間人工授精(AID=Artificial insemination with donor's semen)」と呼ばれている。疾患によっては、精子を濃縮や選別したり、卵管内に直接入れるなどの方法も取られる。AID は外来で可能な不妊治療法として適応患者に古くより広く行われている。米国では1980 年代前半で既に30 数万人を超えていると言われる。日本では1948 年に慶応大学病院で初めて行われて以来、人工授精児は現時点で既に1万人を超えると言われている。
一方、体外受精(IVF-ET=In vitro fertilization and embryo transfer)は精子と卵の両方を採取し、体外で受精させ、その受精卵(胚)を子宮腔内に移植することである。1978 年に英国医師R.エドワード(R.Edwards)とP.ステップトゥ(P.Steptoe)によって行われた最初の例がメディアで‘試験管ベービー第1号の誕生’とセンセーショナルに取り上げられて以来、この体外受精―胚移植技術は不妊に悩む夫婦のために次第に広く行われるようになっている。我が国では、1983 年に東北大学でその最初の試みがなされ子供が誕生している。最近では、卵の採取の際の排卵誘発剤(78 )服用や卵の体外操作などによる母体や胚への障害の可能性や多胎妊娠発生率の上昇はあるものの、排卵誘発剤により得た卵子を、体外の試験管内で精子と受精させ、その2−5 日後に胚が分割した頃に、3 個以内の胚を経膣超音波下で子宮に戻して(胚移植)、あとは通常の妊娠過程に委ねるという方法が主に用いられるようになっている。
しかし、本法による周期当たりの出生率が約15.6%と低率にとどまっている上、多胎妊娠(79 )発生は完全には避けられず、また、十分な数の卵を確保するために多量の排卵誘発剤を用いることから、慎重な運用が必要である。このために、日本産科婦人科学会では1983 年に会告を出して、安易な施行の防止を呼びかけている。しかし、不妊治療受診者には朗報であり、体外受精―胚移植が年間59,100 件行われているのが現状である(日本産科婦人科学会、1999年度)。ただ、これらの不妊治療は全国に約285,000 人もいると推計される中には、夫婦間の治療には限界があり、生殖行為において配偶者以外の第三者が関わってくる可能性が出てきている。我が国でも精子についてはともかく、1998 年に妻の実妹の卵を使い、妻が出産した例も初めて報告されている。このような場合、生まれてくる子供には出自を知る権利という基本的人権が保障されなくてはならない一方で、実際にその子供が出自を知った場合に不自然な親子関係がその子供に心理的動揺を与えたり、それが契機で社会的な問題までに至ることがありえるという、対立する問題が存在する。とくに、卵や精子の提供者が近親者である場合はそれが契機で家族関係が混乱してしまうことが容易に想像されるところである。第三者の精子を用いることは非配偶者間人工授精18(AID)で既に広く行われており、生まれてくる子供が親を知る権利に関する問題は現実に浮上しているのはよく知られていることである。過去に認められたことが現在も正しいとは言えないことは誰もが知っていることである。この問題については下り坂現象に陥らないようにすべての人が真剣に考え続ける必要があろう。
子宮に関しては、配偶者である女性の子宮や卵巣に障害があり妊娠不可能な場合には第三者の子宮を借りること(代理母)により発生する問題がある(人工授精では卵子も代理母のものを用いるので遺伝上の母でもある。そのために、体外受精の場合の代理母と区別して、サロゲートマザー−人工授精型代理母−と呼ばれている)。この場合、代理母となる第3 者の女性に妊娠、出産という負荷が及ぶことになり、出生児との離別の精神的負担は余りにも大きい。とくに、親子関係の乱れ、人間関係の錯綜と混乱、出生児のアイデンティティの阻害、夫婦関係の乱れ、などの複雑な問題を巻き起こすことになる。我が国でも、姉妹の子宮を借りた例が2001 年に発表され物議を醸している。
これらの技術を安易に許せば、優秀な子供を残したいがためにこれら第三者の精子や卵を用いる生殖補助技術を利用しょうとする人たちや、精子や卵子、受精卵を売買する人たちが現れることも危惧されている。それだけではなく、高齢女性の体外受精、代理母出産、着床前診断による胚選別など、とても考えられなかったことも行われ始めていると言われる。ちなみに、米国では代理母によって70 年代と80 年代に4,000 人が誕生したとされているが、その米国では誰が親かが法廷で争われたベビ− M 事件(1988 年)(80)が起こっている。これを契機に米国では代理母の賛否をめぐって激しい論争が沸き起こっただけでなく、それが国際的にも波紋を起こし代理母を禁止する法律が制定された国も少なくない。
我が国では学術団体である日本産科婦人科学会は、生殖医療技術が安易に利用されることがないように、早くから度々、見解、会告、指針を出してきた。すなわち、比重遠心法による男女の産み分けに関する見解(1986 年)、AID 人工授精の承認(1996 年)、AID 体外受精禁止の指針、多胎妊娠に関する見解(1996 年)、代理母の禁止(1998 年)、体外受精実施施設の認定(1999 年)である。現在、学会としては、第三者による受精卵の提供については親子関係が複雑になるとして禁止の姿勢は崩していないが、第三者の卵子の提供は厚労省の見解に合わせるように調整している。また、男女の産み分けに関しては、日本医師会生命倫理懇談会では、それを医学的適応があるものに制限されるべきという見解を出している(1986 年)。」
これを読むと、特に目新しいことを書いているわけではないので、このままでは、代理出産禁止の立場を主張することになりそうです。
●久具 宏司 東京大学大学院医学系研究科講師
経歴を探すと、「外来の不妊相談 最新不妊治療ビデオシリーズ」 で、「5.不妊と子宮内膜症」の原案・指導を行っています。不妊治療を理解している立場で議論を行うことになりそうです。
●佐藤 やよひ 関西大学法学部教授
国際私法の教授です。「外国で「代理母」を利用して出生した 子をめぐる母子関係の決定について」(PDF)という論文もあるくらいなので、代理出産についておおよその理解はできているはずです。
国際私法の学者が構成員に入った理由はただ1つです。外国で代理出産を行った日本人夫婦についての裁判例が2つあることから、その裁判例を詳しく説明し、今後の最高裁の結論の行方を説明するためです。
ただし、上で引用した論文を見ると、設問が米国での代理出産の事例にしていますが、米国で代理出産を行う場合は、裁判所の関与がある以上、殆どの場合において外国判決の承認の問題となるはずです。しかし、この論文では、外国判決の承認の問題に全く気付くことなく論じているのです。こういう状態では、代理出産が問題となった裁判例について、どれほど十分な説明ができのだろうかと疑問視しています。
代理出産を認めている国については、日本医師会が発行している「盛岡恭彦・畔柳達雄監修『医の倫理−ミニ事典』(平成18年)の「不妊症の治療―代理懐胎」(担当:雨森良彦(あめのもり よしひこ)元日赤医療センター副院長)の項目117頁によると、
「代理母(代理懐胎)が合法的に認められている国は、オーストラリアの一部、カナダ、ブラジル、ベルギー、フィンランド、ハンガリー、イスラエル、オランダ、英国、米国などで、非合法とされている国は、フランス、ドイツ、イタリア、スイスなどである。また、同じ米国内でも州により事情は異なり、アリゾナ、ミシガンなど違法とされている州もある。しかし、アリゾナ州最高裁では1994年に合法と結論されるに至っていて、事態は流動的である。」
とされています。
この書籍は、日本医師会雑誌第134巻第12号・平成18年3月号付録として刊行されたものをそのまま単行本化したものですから、この内容は多くの医師が知っている事実なわけです。ところが、国際私法の論文では、代理母を認める国はこれほどは出ていません。このように、代理母に関する世界の法制度の状況については、国際私法の学者よりも、医師たちの方が知っているのです。こういう状況では、国際私法学者の頑張りに期待したいところです。
●水田 賃 九州大学病院病院長・教授
「九州大学病院 小児外科 生殖発達医学講座 小児外科学分野」で論文が出ていますが、ほとんどが小児外科ばかりです。医学的観点からの議論はできるでしょうが、五十嵐隆氏と同様に、代理出産の是非については、どれほど十分な議論が出来るかは不安が残ります。
●辻村 みよ子 東北大学大学院法学研究科教授
この構成員の中で唯一の憲法学者であり、ジェンダー法学について関心の高い学者でもあります(2003年学術大会/統一テーマ報告要旨参照)。
今まで、代理出産問題が、生殖に関する自己決定権(憲法13条)や選択の自由に関わる問題なのですから、憲法の専門家として十分に説明するが求められているということだと思います。そうなると、自己決定権に関する日本の憲法学の立場は、自己決定権を重視するのが多数説ですから、代理出産肯定という流れになるはずです。
ジェンダーやフェミニズムの観点から論じる場合、学者により結論は一致していません。ジェンダー学者である江原由美子氏(東京都立大学人文学部教授)は「代理母は、女性を出産の道具として扱う技術」であるとして認められないと説くものもいるのです(最先端技術に翻弄されないための12のヒント 第4回<代理母>)。
しかし、「フェミニズムや法(法哲学)は、本来、マイノリティが自由を獲得し、不当に権利侵害されている状況に疑義を呈するための有力な根拠を提示する」(2003年学術大会/統一テーマ報告要旨のうち「性と生殖に介入する医療における『正義』―フェミニズムと法は、誰の権利を守るのか―」齋藤有紀子(北里大学)」)のですから、ジェンダーやフェミニズムの観点からは、いまだ少数者である不妊患者・代理出産希望者を尊重するのが本筋であると考えます。
辻村氏がこういった、自己決定権の尊重、ジェンダーやフェミニズムの本筋からの意見を言えるかどうかがこの会議の行方を左右するものと感じています。
●西 希代子 上智大学法学部講師
上智大学の教員の主な研究テーマには次のようなことが書かれています。
「少子高齢化社会における民法
●講師 西 希代子
扶養・介護と相続をめぐる問題が凝縮された形であらわれる遺留分制度が現在の主たる研究対象である。人工生殖子の法的地位等を念頭に置き、民法上の各種親子関係の成立要件・効果を組み直して親子制度全体の再構築を目指す研究も続けている。」
生殖補助医療に関して関心が高い、民法学者です。もし、本当に、 「人工生殖子の法的地位等を念頭に置き、民法上の各種親子関係の成立要件・効果を組み直して親子制度全体の再構築を目指す」のであれば、夫婦間の自然出産のみを念頭においた現行法維持には無理があるということですから、現状維持的な「代理出産否定論」ではなく、意識が代理出産肯定という意識であると思われます。
●町野 朔 上智大学法学研究科教授
厚生科学審議会生殖補助医療部会委員でしたから、その代弁者として存在すると思われます。町野氏は、医事法関係についての審議会の委員となっていることから、罰則の妥当性などの意見を述べることになるのでしょう。
もっとも、刑法学者としては異端の存在であり、異端としてある程度の存在感があるのですが、かなり無理のある解釈論・判例評釈を行うため、あまり高く評価されている学者とは言いがたいと思います。代弁者ですから、代理出産の是非についてきちんと議論できるかどうか、あまり期待していません。
●水野 紀子 東北大学大学院法学研究科教授
水野氏は、家族法の第一人者です。代理出産については「代理母の契約は、日本では公序良俗違反で法的には無効なものと評価されるだろう」(「不妊症治療に関連した親子関係の法律」)としているので、代理出産否定派といえます。
代理出産の是非にあたり否定派でもいいのですが、問題は自己決定権に対する理解です。
「自己決定という概念を絶対視することには限界がある。人間は自分を取り巻く社会に考えさせられるように考えるのだから、厳密な意味での自己決定とははなはだ危ういものであり、自己決定をどこまでも追い求めていくことは、ときとしてタマネギの皮むきのような虚しい努力になりはしまいか。また、自由の伝統をもつアメリカ社会と異なり、女性の地位が低く共同体の抑圧も大きい日本社会においては、自由と自己決定の尊重は、もちろん今後とも強調されるべき価値ではあるが、その反面、自己決定が万能の口実となることの危険性も大きいように思われる*5。たとえば経済的にも肉体的にも負担の大きい不妊治療を受け続け、ドナーとの生殖医療によっても子を持つことを求める日本人女性の自己決定は、はたして産まない自由を真に保障された上での自己決定だろうか。」(「人工生殖における民法と子どもの権利」)
このように、自己決定権に対して否定的ともいうべき持論を持っているのです。日本は自己決定権を行使できるほど成熟した社会でもないし、女性の地位は低くく周囲に意思決定を左右されやすいので、自己決定権を抑制した方が女性の利益になるというわけです。
しかし、未成熟とはいえ、代理出産依頼夫婦と代理母希望者の3者が、代理出産を希望しているのですから、そういった「希望」(権利)をなぜ最初から全面否定してしまうのが疑問なのです。権利は最初から十分に保障されているのではなく、少数者が苦労して主張して初めて獲得されるものだからです。憲法97条は、
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
と規定しています。基本的人権でさえ、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果によって保障されるに至ったのです。未成熟な社会だからとか、日本女性は自由を十分に行使できないからなどといって否定していたら、基本的人権は認められることはなかったのですし、新しい人権なんて全く認められなくなるという不当な結論になるのです。民法学者だから仕方がないとはいえ、水野氏は、権利とは何かという法学知識や憲法知識が乏しいのではないか、との疑問を感じます。水野氏に対して、辻村氏が「権利とは何かという法学知識や憲法知識」を十分に説明することを期待します。
●室伏 きみ子 お茶の水女子大学理学部教授
「お茶の水学会事業会」では、
と記載してありました。「室伏 きみ子 むろふし きみこ
お茶の水女子大学教授 理学部長
細胞増殖・分化のメカニズムなど、生命の基本的なしくみから最先端の生命科学の話題まで、わかりやすくお話します。 →詳細
◇専門分野 細胞生物学、生化学
◇講演テーマ
生命科学の未来
細胞のメカニズムの不思議
ライフワールド・ウォッチセンターの目指すもの」
生命倫理の問題について色々と発言をなさっているようです。ただ、代理出産の是非についての発言を探してみましたが、見つからなかったので、どのように考えているか分かりませんでした。もし、発言していないとすると、決まった結論に従うだけの存在かもしれません。
●吉村 泰典 慶應義塾大学医学部産婦人科教授
厚生科学審議会生殖補助医療部会委員でしたから、その代弁者として存在すると思われます。産婦人科の専門としての知識は生かすことになるとは思いますが、代弁者ですから、代理出産の是非についての議論につき、あまり期待できません。
●米本 昌平 蟆奮惶蚕冓弧生Φ羹蠶
米本氏は、生殖補助医療に関して論説を発表しており、毎日新聞と産経新聞でよく論説を見かけます。
「【正論】米本昌平 代理母は例外ケース以外禁止に」では、次のように書いています。
「先回りして私の考えを言えば、代理母に関係する金銭授受や無秩序な拡大を防ぐために原則禁止とし、たとえば家庭裁判所の審判を経た例外的なケースだけを認める程度にとどめるべきだと思う。」
原則禁止という考えのようです。しかし、代理出産に関してもっとも盛んに行われている英米では、代理出産に関して裁判所が関与する手続を採用しています。また、日本では普通養子縁組は裁判所が関与しませんが、比較法的に見れば、子の福祉や人身売買を防止するため、養子縁組では裁判所が関与するのが普通なのです。
そうすると、「家庭裁判所の審判を経た例外的なケースだけを認める程度にとどめるべき」という法制度を採用するのが、普通の代理出産制度といえるのです。とすれば、米本氏は、例外的に家裁の審判を経る場合だけ認めるとするのですが、比較法的にみれば、米本氏の考えは原則代理出産否定派ではなく、代理出産原則肯定派に属すると考えられます。
3.
強調したいことは、1つです。どんな結論であろうとも、「権利とは何かという法学知識や憲法知識」を十分に理解した上で、憲法学上恥ずかしくない論理と結論を出して欲しいと思います。辻村氏
<12月29日追記>
加藤氏も厚生科学審議会生殖補助医療部会委員でしたから(コメント欄参照)、代理出産肯定の理論的根拠を説明してくれそうな人物は辻村氏一人のようです……。一人でどれだけ頑張れるか、なかなか難しそうです。
1.asahi.com(2006年12月26日07時51分)
12月26日付朝刊26面よりもasahi.comの方が長いので、そちらを引用します。
「病気腎移植、学会が統一見解策定へ 関係5学会
2006年12月26日07時51分
宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)の万波誠・泌尿器科部長(66)らによる病気腎移植の医学的妥当性を検証している日本移植学会と日本泌尿器科学会は、新たに日本腎臓学会など三つの学会に呼びかけ、がんの腎臓を使うなどした「万波移植」について統一見解をまとめることを決めた。一部の例外的なケースを除き、基本的には容認できないとの内容になる見通しで、早ければ来年1月にも公表する方針だ。
田中紘一・日本移植学会理事長の呼びかけで先週末、大阪市内で関係学会の理事と厚生労働省の担当者がこれまでの調査結果を踏まえて今後の方針を協議。個々の症例に即した具体的な調査が進む年明け以降、まとまって見解を示すことが必要との認識で一致した。
この会議に出席した日本移植学会の幹部の一人は「現時点でも医学的常識から逸脱している例がいくつか見つかっている」と指摘する。がんで腎臓の摘出が必要な場合は通常、転移を防ぐために腎臓につながっている血管を縛り血流を止めてから摘出するが、万波医師らはそうした方法は取らず、移植を前提とした術式で摘出していたという。この幹部は「腎がんの治療目的での摘出ではないことは明らかで、標準的な治療とはかけ離れていると言わざるをえない」と話す。
病気腎移植に関してはこれまで、外科医らでつくる日本移植学会と日本泌尿器科学会が対応してきたが、万波医師らが、薬物療法など内科的治療が一般的なネフローゼ症候群などの病気の腎臓を摘出して移植に使っていたことも明らかになっている。このため、両学会は内科医も加入している日本腎臓学会のほか、日本透析医学会、日本臨床腎移植学会にも参加を呼びかけることにした。」
2.「田中紘一・日本移植学会理事長の呼びかけで先週末、大阪市内で関係学会の理事と厚生労働省の担当者がこれまでの調査結果を踏まえて今後の方針」を決定したようです。
それだけならまだしも、
という、結論がすでに決まっているのですから、関係学会と厚労省の「談合」が行われたと言っていいでしょう。すでに結論が決定しているのですから、今行っている調査なんて無意味です。最初から、学会会員が関与した病気腎移植は許されて、生体腎移植の際における病気腎移植は許されるが、非学会会員である万波医師が行った病気腎移植は許されないと、決まっていたわけです。「一部の例外的なケースを除き、基本的には容認できない、との内容になる見通し」
そうなると、公平な厳密な調査というのはしないという決定をしたわけです。病気腎移植に関わる患者(ドナーとレシピエント)の健康状態、病気腎移植が移植医療の第3の道となるのかどうか、医学的な検証は大変重要だったはずですが、どうでもいいようです。
病気腎移植でも問題なく機能している、多くの移植患者の存在は一体なんなのでしょうか? 病気腎移植であっても問題が生じていないという結果に目をつぶるなんてどうかしているとしか思えません。
元々、生体腎移植の際において病気腎移植が珍しくなかったのですから、病気腎移植自体は、前からさほど問題視されていなかったはずです。生体腎移植の際の病気腎移植は問題視せずに、治療目的で腎臓摘出後の病気腎移植は問題視するなんて、整合性が欠けていると思うのです。病気腎移植という点では全く同じなのですから。
病気腎移植すべてを否定する必要がないのに、関係学会と厚労省が露骨に病気腎移植を否定する「談合」をするとなると、誰でも裏があると推測できそうです。
かねてからの移植医の希望は、臓器移植法の改正です。死の淵にある患者の家族にとっては、「ドナー不足の連呼は、『早く死んでくれ』と言われているようだ」との不安感があります。だから、腎臓、すい臓、眼球は心臓死のドナーが提供でき、全移植手術の8割以上は腎臓なのですから(東京新聞平成18年12月22日「こちら特報部:SOS臓器移植 臓器移植法改正案なぜ『店ざらし』?」<デスクメモ>)、まずは、腎臓と角膜移植に関して、臓器移植法と切り離す改正が望ましいのです。
しかし、移植学会の医師らは、病気腎移植という道をわざわざ切断して、現状打開の道を採用しないのですから、面倒な脳死判定基準はできるだけ緩和して、死体を増やしたいと望んでいるとしか思えません。これでは、日本の移植学会の医師らの方が、ただの「移植マニア集団」に成り下がっているように感じられます。
3.医学的妥当性について1つ検証しておきます。
とありますが、これは本当でしょうか?「万波医師らが、薬物療法など内科的治療が一般的なネフローゼ症候群などの病気の腎臓を摘出して移植に使っていたことも明らかになっている。」
(1) 徳洲新聞 2006年(平成18年)12月4日 月曜日 No.547 1,3面の「シリーズ・検証 腎不全と移植医療1 病気腎移植は医学的に議論されるべきだ」より、一部引用。
「データ収集が必要なネフローゼ腎
最後にネフローゼ症候群である。ネフローゼ症候群は尿を作る過程で、尿中に体に必要な蛋白(特にアルブミン)が漏れ出ていく病態と考えられる。コントロールのできない蛋白尿のあるネフローゼ症候群の患者さんなどは、片側あるいは両側の腎臓を摘出することがある。もちろん、このような処置が最善ではなく、代替手段があれば当然そちらを行う。また、移植に用いる腎臓を得るための摘出であれば倫理上許されることではない。透析療法が発達した現在では、症例数は少ないものの、最後の手段として行われてきている治療法なのである。
ネフローゼの原因は多岐にわたるが、中には「体液性因子」といって血液中の何らかの因子が発症に関与していると考えられているものがある。そして、そのような患者さんがネフローゼから腎不全に至り、腎移植を受けても移植後に原病が再発し、ネフローゼ症候群になってしまうケースが存在する。したがって、このような患者さんについては腎臓に本当の原因があるわけではなく、血液や骨髄のほうに原因があるためにこうしたことが起きているのではないかとも言われている。たとえば、血液もしくは骨髄に原因が隠れているネフローゼの患者さんが、蛋白尿のコントロールが無理で、浮腫がひどく体液管理ができずに腎摘を受けたとして、その摘出された腎臓を腎臓自体に問題があって腎不全に至ってしまった他の患者さんに移植するとどうなるか? この問題は今後多くのデータを集め検証されるべきだが、ネフローゼの腎臓は、ドナーにとって蛋白尿を引き起こす大敵だったが、レシピエントではまったくの正常腎となる可能性がある。」
(2) この記述のうち、「コントロールのできない蛋白尿のあるネフローゼ症候群の患者さんなどは、片側あるいは両側の腎臓を摘出することがある」ということだそうですから、ネフローゼ症候群において腎臓を摘出しないわけではないとの反論もあるわけです。
そうすると、「万波医師らが、薬物療法など内科的治療が一般的なネフローゼ症候群などの病気の腎臓を摘出して移植に使っていた」という記事は、ネフローゼ症候群に対しては一般論としては内科的治療によるといっているだけで、万波医師たちが、例外的な場合としての腎摘出を行って適切な医療行為をであったかどうかしたかどうかをといっている万波医師たちに対する批判となりえない可能性があるのです。
最後の段落部分は、紙面では掲載せずネット上のみで掲載しているのですが、きちんと検証した上で掲載して欲しいと思います。
「クリスマス・キャロル」とは、どういう作品かというと、
「並外れた守銭奴で知られるスクルージは、クリスマス・イヴにかつての盟友で亡きマーリーの亡霊と対面する。マーリーの予言通りに3人の精霊に導かれて、自らの辛い過去と対面し、クリスマスを祝う、貧しく心清らかな人々の姿を見せられる。そして最後に自分の未来を知ることに。」( 「光文社 古典新訳文庫」の「クリスマス・キャロル」より)
その内容については、光文社古典新訳文庫や新潮文庫でも読めますし、「青空文庫」の「クリスマス・カロル」でも読むことができます。その中でも、光文社古典新訳文庫での訳者・池央耿氏による訳筆が、もっとも現代に即して明快である感じがします。
(12月25日追記:ただし、「さんむし」さんは、「新訳?クリスマス・キャロル」(2006年12月23日)で、「古典新訳文庫の『クリスマス・キャロル』の訳がひどい。今までに何種類も翻訳が出てる本の新訳なのに、日本語が古めかしくて硬い。」と厳しく批判しています。確かに、「『クリスマス・キャロル』の新訳を斬る」(2006年12月25日)で触れているように、原文の意味を取り違えている部分はまずいと思います)
1.この作品中で、スクルージが言い交わした娘と別れる場面では、こんな会話を交わしています。
娘 「今のあなたは拝金主義」
スクルージ 「商売は誰にも恥じることもない、正々堂々の行為だ! 世の中に、貧乏ほど始末の悪いものはない。それなのに、金儲けというと、世間では蛇蝎(だかつ)のように忌み嫌う!」
この会話を読むと、「お金儲けは悪いことですか?」と言っていた御仁(村上世彰氏)を思い出します。
このようにスクルージは自他認める拝金主義者ですが、悪人ではありませんでした。
「ここに、見過ごしてはならないことがある。人が何と言おうと誹(そし)ろうと、スクルージは断じて悪人ではない。もとより悪心のかけらもなく、不正は働かず、廉潔一途がスクルージの身上である。子供の頃の貧苦と孤独が世の現実に対する恐怖を焼き付けて、石橋をたたいて渡る慎重居士になったのは同情に値するが、それは一種の防衛機制であって、吝嗇のなせる業ではない。甥のフレッドが言うとおり、私利私欲は頭にない証拠に、金にあかして贅沢をするでもない。金を稼ぐのは、ひたすら、まっとうに、真面目に働くことを天職と心得ているからである。自身、四角四面なスクルージは他人に対しても厳格だったに違いない。悪辣な儲け話を持ちかけられれば、それこそ『おととい来い』だろう。」(「光文社 古典新訳文庫」の「クリスマス・キャロル」の「訳者あとがき」190頁))
村上世彰氏の罪責がどうなるかは分かりませんが、「不正は働かず、廉潔一途がスクルージの身上」でしたから、スクルージは逮捕されるような行動にさえ、出ていないだろうと想像できるのです。
かといって村上氏が悪人かというと、果たしてどうでしょうか?
オリックスは、村上ファンドの中核2社に社外取締役を派遣し、30億円の資金提供をし、初期の村上ファンドの投資事業組合への出資募集は、オリックスの投資部門が代行するなど、村上ファンドは「オリックスの別働隊」でした。オリックスの宮内義彦氏は、政府の審議会のトップとして規制を撤廃し既得権者を打ちのめした後、それにより新しい利権を獲得するという「改革利権」を手にしていたのです(有森隆+グループK著「『小泉規制改革』を利権にした男 宮内義彦」(2006年12月、講談社)参照)。悪人と非難するに相応しい人物は、村上氏よりも宮内義彦氏であるのです。
2.「光文社 古典新訳文庫」の「クリスマス・キャロル」の解説(池 央耿氏)には次のようなことが書かれています。
「世の中が大きく変われば、一方に必ず守旧派がいて、古き佳き時代を懐かしむのはいずこも同じ人間社会の常である。クリスマスの祝祭についても、イギリスでは19世紀のはじめ頃から、昔の牧歌的な習慣がすたれていくのを嘆く声が次第に高まっていた。加えてイギリスはハングリー・フォーティズ――飢餓の40年代を迎えることになる。大飢饉が続発して、多数の市民が困窮した10年間である。今で言う格差が広がって、都市人口の3分の1が赤貧に喘いだ、と物の本に伝えられているから、人心が荒(すさ)んだであろうことも想像に難くない。以前のように、人々が上下の隔てなくクリスマスの喜びを分かち合うのはむずかしい情況だった。
そうした世相を映して、新聞雑誌の論説や、教会の説教で弱者に対する思いやりを訴えることが一種の流行になり、特にクリスマスの時期には論者が競って慈善を説いた。ディケンズが『クリスマス・キャロル』を書いたのがまさにこの時代である。自身、少年時代に貧苦の悲しさをいやというほど味わい、作家として不動の名声を築いてからは慈善運動にも熱心だったディケンズの「クリスマス精神」が、普段は新聞雑誌を読まない層や、牧師の説教に縁のない市民たちから熱狂的な支持を得て、同書は発売1週間で5000部という、当時としては異例の売れ行きを記録した。書籍が決して廉価ではなかった時代にこれだけ売れたのは、活字文化が一般に浸透して読書人口が増えたことを語る事実でもあろう。
ディケンズはこれ以前にも、『ボズのスケッチ集』や『ピクウィック・クラブ』、雑誌「ハンフリー親方の時計」などでクリスマスを書いている。いずれも読者の懐古趣味に訴えるかのようでありながら、その実、祝祭の華やぎと、人がそれぞれに抱いている負の記憶を同じ視野の中に統一する狙いで貫かれていると言っていい。喪失の体験や、貧窮の辛苦、孤独の悲哀、遺恨、痛憤……、と現実は甘くない。世に生きるということはそういうことであって、実人生の暗部から目をそむけ、いやなことは忘れて、束の間のクリスマスを祝ったところで、喜びも善意も取ってつけたようなものだろう。闇があっての光である。負の記憶を包含してはじめて祝祭は喜びを増し、人の善意は生きる。これが、幼時の悲惨な境遇から出発してジャーナリストの目で社会を見つづけたディケンズの、宗旨にこだわらないクリスマス哲学だった。」
今の日本は、「大飢饉が続発して」ということはないですが、都市と地方の格差は修復不可能なまでに拡大し、今年の経済成長は名目2%に届かず、企業の好景気は労働人口の3分の1を非正規雇用者が占めることで支えられているにすぎません。非正規雇用者や自営業者の国民年金は破綻の危機にさらされたままで、国民健康保険制度も同様の状況です。このように、経済の落日と人心の荒廃が見え隠れするという事態になっていますから(高村薫「社会時評」東京新聞12月18日付夕刊7面)、ディケンズが『クリスマス・キャロル』を書いた時代と、今の日本の時代と似通ったところがあるのです。
「クリスマス・キャロル」にはスクルージの過去を含めて貧しい人々の様子が克明に描かれています。
「実人生の暗部から目をそむけ、いやなことは忘れて、束の間のクリスマスを祝ったところで、喜びも善意も取ってつけたようなものだろう。闇があっての光である。負の記憶を包含してはじめて祝祭は喜びを増し、人の善意は生きる。これが、幼時の悲惨な境遇から出発してジャーナリストの目で社会を見つづけたディケンズの、宗旨にこだわらないクリスマス哲学だった。」
実人生の暗部に目を背けることなく、「忍耐、寛容、献身、和合……、すべてを超えて行き着くところに善意を謳うクリスマス精神」(「クリスマス・キャロル」(光文社古典新訳文庫「解説」175頁)。ディケンズ終生のテーマと言われているこの「クリスマス精神」「クリスマス哲学」について、考えて欲しいと思います。
なお、昨年もクリスマスにちなんだテーマでエントリーを書いています。「サンタクロースの法律問題」です。こちらもご覧下さい。
1.「野田聖子議員に聞く:代理出産は認めるべき」
「野田聖子議員に聞く:代理出産は認めるべき
2006年12月1日
(聞き手:長田 美穂=フリーライター)
「代理出産」に対する関心が高まっている。不妊のカップルに代わって、第三者である女性が子供を出産する方法だ。タレントの向井亜紀さんとプロレスラーの高田延彦さん夫妻が、米国人女性に代理出産を依頼。生まれた双生児の出生届の受理をめぐって、向井さん側と東京都品川区が裁判を継続している(関連記事)。50代後半の女性が実の娘に代わって代理出産するケースも明らかになり、注目を集めた。
日本の民法は、分娩した女性を、生まれた子供の『母』としている。このため、向井さんも50代後半の女性の娘も、法的には、生まれた子供の『母』となれない。東京都品川区が、向井さんが提出した出生届の受理について争うのもこのためである。実母に代理出産を依頼した女性は、生まれた子供を養子として向かえた。
「代理出産」をはじめとする高度生殖補助医療の技術が進歩するにつれ、現行の法体系と現実とのずれが目立つようになってきた。この点について、野田聖子・衆院議員に話を聞いた。野田氏は、自らも不妊治療を体験。政治家としては、高度生殖補助医療への理解と法整備を訴えている。
■向井亜紀さんが米国人女性に代理出産を依頼し双生児が生まれました。子供たちの出生届けの取り扱いについて、議論が起きています。子供たちを実子と認めるかどうか、裁判は最高裁に舞台を移しました。代理出産について野田さんはどう考えていますか。
野田 向井さんが悪いことをしたとは全く思っていません。誰にも迷惑をかけていないのだから。
この問題について語る前に、私自身の個人的な経験を先にお話しします。
私は自然には妊娠できない体です。でも体外受精、顕微受精なら子供を授かる可能性があると医師に診断され、人工授精の不妊治療を5年間受けてきました。
通常の人は、妊娠とは、セックスして受精・着床するものだという前提で考えます。しかし私のように生殖補助医療を受けている人間であれば、それ以外にも妊娠の手段がいくらでもある事実を知っています。体外受精や顕微受精もあれば、代理母による出産もある。死後凍結精子を使った受精、出産だって選択肢の1つです。
日本には世界に冠たる高度生殖補助医療の技術が既にある。患者が主体的に、自己責任で自己決定して選んだ道です。なぜ第三者が目くじらを立てて批判するのでしょうか。
理由は、誰が『母』か、法律に明記されていないからなんです。民法の不備です。民法は100年前、明治時代の判断基準でつくられました。100年前にはDNA鑑定も高度生殖補助医療もなかった。目で見て、子供を産み落とした人を『母』とする解釈が正しいとされた。でも今は飛躍的に科学が進歩した。これに法律が追いついていない。速やかに今の時代にあった法律をつくるべきです。
■すべての高度生殖補助医療を容認すべきというお考えですか。あるいは何らかの線引きをする?
野田 夫婦またはカップルが、2人で話し合い、どこまでなら自分たちの子供と認めることができるのか、当事者が決めればいい。法律で区切ったとしても、技術的に可能なことならアングラで行われるでしょう。今の技術で安全・確実にできる手段なら原則自由にするべきです。
■しかし原則自由にすれば、「クローンベビーも可能」といった極論にたどり着きかねません。
野田 クローンは法律で禁止しています。こうしたルールをつくれば規制はできるでしょう。どのような高度生殖補助医療も原則自由、患者の自己責任にする。その代わり、ルールに違反した場合には厳しい罰則を適用する。それも、計り知れない打撃を被るような罰を決めておくべきです。
食品の偽造表示問題がなぜ多発したのか? かつては罰則が弱く(罰金30万円以下)、罰金を払ってももうかれば「やり得」だったからです。でも法改正で罰則を強化(法人は1億円以下)した結果、偽造表示は減りました。
野田聖子議員へのインタビューは2回の連載です。後編はこちら」
2.「野田聖子議員に聞く:産める社会を「子育て保険」で支援」
「野田聖子議員に聞く:産める社会を「子育て保険」で支援
2006年12月1日
(聞き手:長田 美穂=フリーライター)
(前回記事はこちら)
■向井さんのケースでは、代理出産を受諾した女性が経済的困難を抱えていたということが背後にあったと報道されました。不妊治療も出産も経済力次第、という状態になりませんか。
野田 それを言い出すと、みなが一律でなければいけない、という議論になります。日本は、それなりにがんばって収入を得ている人が、高度な医療を求めてはいけない国なんでしょうか。例えば健康診断。健康保険で賄う自治体の健康診断を受ける人もあれば、何十万円も払って人間ドッグを受ける高所得者の人がいます。この高所得者は、非難されたりしていませんよね。
代理出産について、「一部の人の特権じゃないか」という批判的な意見が今は突出しています。しかし、あえて今、挑む人が出ることによって、突破口が開け、将来に普及することもあるでしょう。
■代理出産には様々なリスクが考えられます。妊娠した女性が、産んだ子供を依頼者に渡すのを拒んだらどうするか。妊娠中に代理母が死亡したらどうするのか。障害児が生まれたときに、受け取りを拒否する依頼者が出るかもしれない。
野田 当事者間の契約で、きっちり細則をつくっておくべきでしょう。基本的には、親の責任として、代理出産を依頼することで生じる責務は引き受ける必要があるでしょう。
ただし、いま大切なのは「代理母を認めるか認めないか」、つまり遺伝上の母を法的にも『母』として認めるかどうか、といった大なたの議論です。
厚生労働省が3年前、審議会(厚生科学審議会生殖補助医療部会)の答申に基づいて、生殖補助医療に関する法案をつくろうと企てたんです。私はこれに、体を張って反対しました。
■なぜ反対だったのですか。
野田 近親間の卵子提供はダメ。代理出産はダメ。「原則反対」の法案で、これでは誰のための法律になるのか分からなかったからです。反対の理屈が通っていないと私は感じました。
「近親間の卵子提供は家族関係が複雑になるからよくない」とよく言われます。しかし、現実に普及している非配偶者の精子提供はどうなんでしょうか。むしろそちらの方が怖いと思います。精子提供は匿名に限る、出自を明らかにしてはならない、となっている。とすると、偶然出会った人が実は兄弟である可能性だって生じるわけです。
こんな危険をはらむ非配偶者の精子提供は許されて、出自の明らかな近親間の卵子提供はダメ、というのは理屈が通っていません。
また代理出産を依頼した遺伝上の母は、子供を「実子」とできないのに、匿名で提供された精子を使った場合は「実子」と認めることには、疑問を持ちます。
■生殖補助医療の実態に沿った法整備に向けて、野田さんはどんな活動をしていますか?
野田 民主党の小宮山洋子さん、自民党の山際大志郎さんらと超党派で勉強会をつくりました。来年の通常国会に、議員立法での法案提出を目指しています。生殖補助医療は原則自由、患者主体で行えるとする特例法です。生まれた子供は、法的に実子とできる。「本人が納得して責任を取るなら、国はそれを止めません」という原則に基づいて、今、素案をつくっている段階です。社会が(実態を)許容しないのは法がないから。法があれば社会は許容します。
長田 美穂
1967年奈良県生まれ、東京外国語大学中国語学科卒、全国紙記者を経て99年2月よりフリーに。
著書に、時代を代表する商品を素材に消費社会論を展開した「ヒット力」(日経BP社)とその新装改訂文庫版「売れる理由」(小学館文庫)、現代の少女の心の病をテーマにした「問題少女」(PHP研究所)がある。月刊誌、週刊誌に寄稿多数。趣味は阪神タイガース(とそのOB)の応援と秘湯巡り。」
3.幾つかの点を取り上げてコメントしてみます。
(1)
「日本には世界に冠たる高度生殖補助医療の技術が既にある。患者が主体的に、自己責任で自己決定して選んだ道です。なぜ第三者が目くじらを立てて批判するのでしょうか。……
どのような高度生殖補助医療も原則自由、患者の自己責任にする。その代わり、ルールに違反した場合には厳しい罰則を適用する。」
野田議員は、高度生殖補助医療は原則自由であるべきと述べています。これは、自己の身体・今後の生き方に関わる問題については、自己決定の観点から考えるべきであるとして、その自己決定権を重視すべきであると表明しているわけです。自己決定権が憲法13条で保障されていると解される以上、極めて妥当な考え方であると考えます。
代理出産の是非についても、自己決定権(憲法13条)を重視して決定すべきであると述べています。ここでいう「自己」決定を行う者としては誰がいるのかというと、依頼者夫婦2人と代理母の合計3人がいることになります。依頼する女性1人の意思で代理出産を決定し、代理母に押し付けるのではなく、この三者の自己決定と合意によって代理出産が行われることに注意すべきです。
この三者、特に依頼者夫婦が代理出産という形の家族を選択し、こういった家族のあり方を決定するのですから、なぜ第三者が他人の家族のあり方について口出しできるのだろうか?と、問い掛けているのです。家族のあり方をどう決定するのかは、その夫婦(家族)のみの問題であって、他の第三者は何も関与できないはずだからです。
第三者が、本来関わることのできない他人の家族のあり方について口出しをして、代理出産という形の家族を否定して、何を言うかといえば、「子どもはあきらめろ」とか、「養子をとればいい」というばかりです。
しかし、社会構造が複雑化し、家庭と仕事の両立を強いられるストレスが女性の健康を蝕み、子宮内膜症や子宮筋腫などの婦人病が増加し、男性側も、明らかにストレス起因と思われる男性不妊が増加しているため、子どもができない夫婦が増えている現状がある(鮫島浩二著「その子を、ください。」31頁)のです。こういった不妊の現状を分かっていて「あきらめろ」と言っているのでしょうか? また、「養子をとればいい」といっても、養子を出す側、養子を受け入れる側双方とも多くの葛藤があるのです(鮫島浩二著「その子を、ください。」参照)。こういった多くの葛藤を分かっていながら「養子をとればいい」と言っているのでしょうか? どうもこういった事情を知らずに、無責任に代理出産を否定しているように感じられるのです。
(2)
「■向井さんのケースでは、代理出産を受諾した女性が経済的困難を抱えていたということが背後にあったと報道されました。不妊治療も出産も経済力次第、という状態になりませんか。
野田 それを言い出すと、みなが一律でなければいけない、という議論になります。日本は、それなりにがんばって収入を得ている人が、高度な医療を求めてはいけない国なんでしょうか。例えば健康診断。健康保険で賄う自治体の健康診断を受ける人もあれば、何十万円も払って人間ドッグを受ける高所得者の人がいます。この高所得者は、非難されたりしていませんよね。
代理出産について、「一部の人の特権じゃないか」という批判的な意見が今は突出しています。しかし、あえて今、挑む人が出ることによって、突破口が開け、将来に普及することもあるでしょう。」
この「代理出産は金持ちだけができるから不平等・不公平である」という質問は良くある質問ですが、それに対しても野田議員はきちんと答えています。
(理想的な)社会主義国家なら、どんな医療であってもすべて平等の扱いとなるべきなのでしょう。時折感じるのですが、日本の市民は、何かあると法律の不備だと叫び些細な点でも国家による規制を求め、高額な代理出産を認めるのは特権であって、不平等だというのであり、他方で、政府の側も社会主義国でしか行っていない国旗国歌の強制を求めるのですから、日本国民・政府は、日本は「市民全員が一律平等の保障が受けられる」という(理想的な)社会主義国と考えているかのようです。
しかし、日本は資本主義国家です。ですから、高度な医療になればなるほどそれ相応の医療費がかかります。高額になれば資力がないとそういった高度な医療を受けられないことが生じるのは、残念ながら仕方ないことです。
もちろん、社会政策上、生存権(憲法25条)の理念からしても、市民は医療費すべて自己負担するのではなく、国による補助があり、誰でも医療が受けられるようにしていますし、高度な医療も普及していけば費用も自ずと下がりますから、高度な医療を受けられないといったことは減っていくのだと思います。
代理出産にかかる費用が高額なのは、殆ど海外で行うしかなく、普及していない点が原因です。日本で(法的規制はありませんが学会が肯定し)正式に実行できるようになり、普及していけば、通常の不妊治療なみの費用近くになるはずです。代理出産は代理母に不妊治療を施すことに近いのですから。
そうなれば、「代理出産は金持ちだけができるから不平等・不公平である」といった不満は生じなくなるはずなのです。言い換えれば、代理出産を否定するからこそ、高額なのであって、肯定した方がむしろ不平等にならない方向になるのです。例えて言えば、新技術を搭載した新製品は最初は高額ですが、普及すれば低額になるのと同じ原理です。
(3)
「■代理出産には様々なリスクが考えられます。妊娠した女性が、産んだ子供を依頼者に渡すのを拒んだらどうするか。妊娠中に代理母が死亡したらどうするのか。障害児が生まれたときに、受け取りを拒否する依頼者が出るかもしれない。
野田 当事者間の契約で、きっちり細則をつくっておくべきでしょう。基本的には、親の責任として、代理出産を依頼することで生じる責務は引き受ける必要があるでしょう。
ただし、いま大切なのは「代理母を認めるか認めないか」、つまり遺伝上の母を法的にも『母』として認めるかどうか、といった大なたの議論です。」
代理出産は、依頼者夫婦と代理母3者の自己決定(合意)で行うのですから、代理出産によるリスク管理も自己決定によるのが筋の通った考え方です。ですから、野田議員が、代理出産で生じる問題点は「当事者間の契約」という合意による、と述べることは筋の通った考え方といえます。
「代理出産には様々なリスクが考えられます」と問い掛けていますが、これに対する答えは、契約で定めればはっきりしますが、そうでなくても、代理出産契約の意味を考えれば自ずと答えははっきりしていることです。
・1つ目の「妊娠した女性が、産んだ子供を依頼者に渡すのを拒んだらどうするか。」については、代理出産契約は、依頼者に代わって懐胎・出産し、産んだ子供を渡す内容なのですから、依頼者に渡すのを拒むことは認められません。
・2つ目の「妊娠中に代理母が死亡したらどうするのか。」については、医療費などは依頼者側が負担するはずですから、妊娠中の死亡も医療から派生するものといえますから、妊娠と死亡の因果関係があれば補償が生じることになります。もっとも、保険でカバーすることになるでしょうが。
・3つ目の「代理出産障害児が生まれたときに、受け取りを拒否する依頼者が出るかもしれない」という点については、代理出産契約は、依頼者に代わって懐胎・出産し、どんな子であっても産んだ子供を渡す内容なのですから、障害児は拒否する正当理由にならず、受け取り拒否をすることは認められません。もし受け取りを拒否するなら、それは「保護の拒否」ですから「児童虐待」に該当し(「児童虐待の防止等に関する法律」参照)、虐待した親の処罰があり(刑法)、子どもの保護が行われ(児童福祉法)、親権の剥奪(民法)などが行われることになります(二宮周平著「家族法」229頁)。
このように、様々なリスクといった問題は自ずと解決できる細かい問題であって、そんな細かい問題に捉われるべきではないのです。野田議員が述べるように、「代理母を認めるか認めないか」、つまり遺伝上の母を法的にも『母』として認めるかどうか、といった大なたの議論こそが必要なのです。
(4)
「野田 近親間の卵子提供はダメ。代理出産はダメ。「原則反対」の法案で、これでは誰のための法律になるのか分からなかったからです。反対の理屈が通っていないと私は感じました。
「近親間の卵子提供は家族関係が複雑になるからよくない」とよく言われます。しかし、現実に普及している非配偶者の精子提供はどうなんでしょうか。むしろそちらの方が怖いと思います。精子提供は匿名に限る、出自を明らかにしてはならない、となっている。とすると、偶然出会った人が実は兄弟である可能性だって生じるわけです。
こんな危険をはらむ非配偶者の精子提供は許されて、出自の明らかな近親間の卵子提供はダメ、というのは理屈が通っていません。
また代理出産を依頼した遺伝上の母は、子供を「実子」とできないのに、匿名で提供された精子を使った場合は「実子」と認めることには、疑問を持ちます。」
現実に普及している非配偶者の精子提供によると、「偶然出会った人が実は兄弟である可能性だって生じる」のです。それは、優生学上の理由から近親婚を禁止している民法734条に実質的に違反しますし、何よりも医学的に問題があるのです。こんな危険をはらむ非配偶者の精子提供に比べたら、出自の明らかな近親間の卵子提供の方が断然危険はないのです。
また、代理出産を依頼した遺伝上の母は、法律上の「母」でないとすると、匿名で提供された精子を同意を得て使った場合(AID)は、遺伝上の父でないのに、夫が法律上の「父」となり、父子関係が不存在であるという主張は認められないこと(東京高裁平成10年9月16日決定)とどう整合的に説明するのでしょうか? 母子関係は遺伝上の母であっても「法律上の母」となれず、父子関係は遺伝上の父でなくても「法律上の父」となるのですから、整合性を欠くと思うのです。
野田議員の疑問はもっともであり、理屈が通っていると考えます。
4.民主党が代理出産を容認していると報道について、読売新聞も12月22日になって、その日の夕刊17面でとりあえず触れていました。
そこでは、「作業チームの西村智奈美座長は「国内で代理出産を禁止しても、希望者は海外で代理出産を行うため、限定的に容認することにした」と話している。」と書いてありますが、限定的どころか代理出産を事実上禁止する内容であって、理屈が通っていません。また、代理出産を認めるというのであれば、その理念は何か、野田議員のように明確にすべきですが、民主党は「希望者は海外で行うから」というだけであって、そこには何の理念もありません。
「限定的に容認」する考えもそれも結構でしょう。それならば、容認する理念は何かきちんと論じたうえで、その理念からすれば、その限定は理念からして整合性があるものを提示して欲しいのです。
おそらく民主党の作業チームは、代理出産禁止の厚労省や法務省の官僚から意見を聞いて、全面禁止の代替案として提示された「事実上禁止する案」を鵜呑みにしたのだと推測しています。
対案路線はいいことなのかもしれませんが、法案作成にあたり、その理念を示し、一貫した理屈を指し示すことこそ大事なのだと思います。一貫した理念を述べる野田議員の見解と、理念のない民主党作業チームの見解を比較すると、民主党作業チーム数名は、野田議員一人に遠く及ばないように感じられました。
1.週刊文春12月28日号(12月20日発売)30頁の「腎臓移植大ブーイング万波医師『泣く泣く病気腎を捨てました」より一部引用。
「治療のため患者から摘出した病気腎に処理を施し、別の患者に移植する『病気腎移植』の実態が明らかになった直後は、猛烈な“万波バッシング”が展開された。大島伸一・日本移植学会副理事長は、『移植医療の常識では考えられない』と一刀両断。各メディアは『悪魔の医師』『移植マニア』『猟奇的犯行』といった刺激的な言葉でこの件を報じ、実際に移植を受け万波医師への感謝を伝える患者の声は掻き消されるほどだった。(中略)
ある新聞記者は、記者会見場を立ち去る万波医師をつかまえて耳元で『先生、いい加減に吐いたらどうですか。ラクになりますよ』と言い放ったという。連日の取材攻勢に万波医師の顔には疲労の色が見え、体重も3キロほど落ちた。
ところが11月半ばに、愛知県の藤田保健衛生大学病院で91年に病気腎移植が行われていたばかりか、当時愛知腎臓団体理事として手術にゴーサインを出していたのが、万波批判の急先鋒である大島・移植学会副理事長だった事実が明らかになった頃から、バッシングの波は急速に引いていった。一方で、徳洲会病院には、万波医師を支持する医師や患者の声がひっきりなしに寄せられた。
『全国の腎臓病の患者からの問い合わせも相当増えました』(病院関係者)……」
2.「11月半ばに、愛知県の藤田保健衛生大学病院で91年に病気腎移植が行われていたばかりか、当時愛知腎臓団体理事として手術にゴーサインを出していたのが、万波批判の急先鋒である大島・移植学会副理事長だった事実が明らかになった」という報道は、新聞報道では次のような内容です。
「愛知でも病気腎移植… 藤田保健衛生大病院
愛知県豊明市の藤田保健衛生大学病院で1991年、病気腎移植が1件行われていたことが10日、明らかになった。
宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)の万波誠医師らのグループがかかわった以外で、病気腎移植が判明したのは初めて。藤田保健衛生大学病院側は「臓器提供者や患者の同意もあり、医学的にも倫理的にも問題はなかった」としている。
病院によると、執刀したのは同病院の星長清隆教授。腎血管性高血圧症で治療を受けていた30歳(当時)の男性に動脈瘤(りゅう)が見つかったことから腎臓を摘出。動脈瘤の手術後、戻そうとしたが、男性は再発を恐れて拒否した。他人への移植に同意を得たため、愛知県の腎臓バンクに連絡したうえで、登録されていた23歳(同)の男性患者に移植した。この患者は今も通院しているが、経過は良好という。この経緯は93年の学会で発表された。
当時、日本臓器移植ネットワークがなく、厚生労働省臓器移植対策室は、「臓器移植法が出来る以前の話で、宇和島徳洲会病院のケースとは性質が異なる」と話している。
(2006年11月11日 読売新聞)」( ニュース:医療と介護:YOMIURI ONLINE」(2006年11月11日))
この報道では、「11月半ばに、愛知県の藤田保健衛生大学病院で91年に病気腎移植が行われていた」ことは分かりますが、手術にゴーサインを出していたのが、万波批判の急先鋒である大島・移植学会副理事長だったことはまったく分かりません。しかし、この報道のうちの「愛知県の腎臓バンクに連絡した」の部分で、関与したのが大島・移植学会副理事長だったわけですね。
朝日新聞にも「asahi.com:病気腎移植、91年に愛知でも 瀬戸内グループとは別(2006年11月10日08時02分)」という同様の記事がありますが、大島・移植学会副理事長の名前は出てきません。
3.「臓器提供者や患者の同意もあり、医学的にも倫理的にも問題はなかった」とか、当時、日本臓器移植ネットワークがなく、厚生労働省臓器移植対策室は、「臓器移植法が出来る以前の話で、宇和島徳洲会病院のケースとは性質が異なる」などと、書かれています。しかし、どう理屈をこねようと、愛知県の腎臓バンク(大島・移植学会副理事長)が、病気腎移植を認めた事実があったことは確かです。
大島氏は、以前自ら病気腎移植を認めていた事実があったのに、万波医師が病気腎移植を行ったことに対しては、病気腎移植は「移植医療の常識では考えられない」と厳しく批判を行ってきたのです。
法原則の1つとして、
があります。この禁反言の原則は、民法1条2項「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない」という、いわゆる「信義則」の一種であり、法律行為解釈の基準となり、社会的接触関係にある者同士の規範関係を具体化する機能があり、条理の一形態として、制定法の規定のない部分を補充し、制定法の形式的な適用の不都合を克服する機能があります。「自己の行動に矛盾した態度をとることは許されない」という「禁反言」(エストッペル)の原則
このように、禁反言の原則は、民事法の分野に適用される原則として説明されることが多いのですが、今や、文明諸国の国内法で共通に認められる「法の一般原則」の1つとして扱われています(法学教育指導研究会著「現代法学入門」74頁参照)。
そうすると、大島氏の言動は、以前自ら病気腎移植を認めたのに、万波医師が病気腎移植を行ったことに対しては、病気腎移植は認められないと批判するのですから、明らかに禁反言の原則に抵触します。ですから、大島氏の言動は厳しく非難されるべきものであって、大島氏は、万波医師を批判する資格がなく、万波医師批判を止めるべきなのです。(もっとも、最近の言動は、「がんを患った臓器移植(だけ?)は禁忌である」とか、「プロセスが大事」とか巧みに修正しているようですが。)
4.厚生労働省と日本移植学会は、万波医師らによる病気腎の摘出が妥当だったかを調査することになっています。ですが、大島氏どころか、日本移植学会自体も、万波医師の病気腎移植を審査し、批判する資格があるのでしょうか?
その点について、精神科医・和田秀樹氏がメールマガジンで疑問を投げかけていています。そのメールマガジンから引用したいと思います。
(1) ■ 和田秀樹公式 HIDEKIWADA.COMマガジン ■ 発行部数:11470 2006年11月17日号から一部引用
「■メルマガエッセイ*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
【 万波誠医師と深尾立医師 / 和田秀樹 】
病気腎を摘出して、患者に移植した万波誠という医師が話題になっている。
マスコミは彼のやった医療に対しておおむね批判的で、厚生労働省も日本移植学会と病気腎の摘出が妥当だったかを調査するために調査班を今月中に設置することを明らかにした。
私にいわせれば、厚生労働省の相変わらずの権威主義と、日本移植学会に倫理を語ったり、真相究明をする資格があるのかということを問題にしたい。
日本移植学会の前の理事長は、深尾立という筑波大学の病院長を経て、千葉労災病院の院長になっている「偉い」医師である。
そして、彼の名を全国的に有名にしたのは、脳死法案が成立する以前の昭和59年9月に日本初の脳死移植とされる膵腎同時移植を行なった医師として、である。
ただ、この移植は法が決まる前から法に触れるのを承知で脳死移植をやったという点において、医者が正しいと思えば法を無視できると考えた点で倫理上問題があるだけでなく、本邦初の脳死移植のドナーをあえて精神障害者を選んだという点でも、家族が善意でドナーにしたというより、家族に厄介だった精神障害者だからドナーになったと考えられる点でも、あるいはヘルシンキ条約の精神からも、非常に後味の悪いものだった(このため、日本精神神経学会は脳死反対の立場を明らかにする日本医学会の中での唯一の学会になった)。
それ以上に問題にしたいのは、助かる命のためなら、法を犯すのも仕方がない、相手が精神障害者でも仕方がないとしても、相手を助けるどころか、人体実験としか思えない手術をしたということである。
移植を受けたレシピエントの患者は、糖尿病のために腎不全になった糖尿病性腎症の患者さんで、人工透析導入後3年が経過していた。
この患者に対し、脳死の患者が出て、移植ができるようになったからといって移植を勧め、患者に説明をしたのが、この深尾立医師(当時筑波大学医学部助教授)である。
裁判の記録をみると深尾医師はかなり強引というか、うそに近い説明をしている。
糖尿病性腎症の患者さんが透析を受けて4年生きられる可能性は2割もないというような説明をしているようだが、3年間透析を受けた患者さんが4年生きる確率は当時の技術でも89%、5年生きる確率は83%だった。
さて、透析をしなくて済むとはいえ、1年間生きられる可能性が89%もあった患者さんが、その後どうなったかであるが、この患者さんは腎移植だけでなく、もともと腎不全になったのは糖尿病によるものなのだから、ついでに膵臓も変えて糖尿病を治せばどうかという提案が行われ、結果的にそれを受けることになる。この手術が難しいという説明は確かにあったのだが、どのくらいの生命予後が期待されるかなどについての具体的な説明はなく、また説明の翌日に手術を行なったように、これを十分に検討するだけの時間は与えられなかった。
結果は悲惨なものだった。
術後、一ヶ月くらいから、拒絶反応が生じ(腎移植だけならそうは起こらない)、また免疫抑制剤の副作用にも苦しみ、腎臓も膵臓も機能しなくなって、再摘出を余儀なくされた。糖尿病は余計に悪くなり、(一説によるとちゃんとつながっているかどうかを確かめるためにわざとインスリンの注射を行わなかったためとされるが)患者さんは失明状態になってしまう。腎臓もとったので、また透析に逆戻りとなる。
それまでは人工透析を受け、インスリンの注射をしながらまともな社会生活が送れていたのに、ずっと入院生活になり、1年も経たないうちにその患者さんは死亡した。
死因は、その膵臓の縫合不全とそれにまつわる炎症だった。ついでにいうと、実質的な執刀医だった深尾立助教授は、コロラド大学移植外科に肝臓の移植を勉強するために留学したのだが、膵臓の移植は行なったことがなかった。以前慈恵医大でやったことのない腹腔鏡手術を失敗した医者たちが業務上過失致死で訴えられたが、このケースだってそれと大して変わらない。
いずれにせよ、法に触れてまで脳死移植を敢行したのに、患者さんのメリットになるどころか、その患者の社会生活を奪い、1年後90%も生きられる可能性があった命まで1年で奪ってしまったのだ。
しかし、移植学会は、この移植について「ひどい移植だ」とか、「フライングでこんな移植をされるから脳死法案が遅れるのだ」という批判を一切せずに、身内をかばい続け、あげくのはてに、この深尾医師を日本移植学会の編集委員長の重職につけ、最終的に日本移植学会の理事長にまでのぼりつめたのだ。ついでにいうと深尾医師は、千葉大学時代には、心臓死の肝移植を行なって(常識的に脳死でない肝移植は絶対につながらないと考えられている)子どもを死なせている経験ももっている。
万波医師に関しては病気腎をとったことについては、多少の問題があるかもしれないが移植の腕は確かで、ほとんどの患者さんが、移植前よりはるかに幸せに、しかも長生きして暮らしているのだ。つまり移植を受ける側のメリットが万波医師と深尾医師では月とすっぽんということは確実にいえる。
そして、現在の移植学会の理事長は、田中紘一先端医療振興財団先端医療センター長だが、この人は京都大学教授時代に生体肝移植のパイオニアとして活躍した人ではあるし、その点は評価するが、それがドミノ移植と呼ばれる移植を始めた人でもある。
これは家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)と呼ばれる肝臓の難病の患者さんに生体肝移植を行ない、そこで取り出した肝臓を別の人に移植するというものだ。
なぜこれが可能かというと、これが肝臓でトランスサイレチンという物質が作られてしまうために、この物質が変化したアミロイドが臓器や神経に沈着して発症するという病気だからだ。というのは、このアミロイドは約20年かかって他の臓器や神経に沈着して、手足の感覚がなくなったり、身体が衰弱したりする。しかし、FAPの肝臓は、それ以外の機能については正常で、見た目も健康な肝臓と変わらない。だから、残りの寿命が約20年以下である場合には(理論的には)問題は生じないし、そうでなくとも、もう一度移植を受けるまでのつなぎ(ブリッジ)として利用できるわけだ。20年後にかなりひどい病気になるのがわかっているような肝臓でも、それまでの間助かるのならということで、移植に使われるのである。20年の猶予があるとはいえ、今回の病気腎移植と比べると、確実にその移植を受けることで病気になるという点では、こちらのほうが、より「病気」移植といえるかもしれない。
いずれにせよ、これらの移植について、移植学会は倫理面でなんら問題にしたことはなく、そういう問題がある(可能性がある)移植をした人を代々理事長にしている学会なのである。
このように身内の偉い先生はかばい続け、むしろ持ち上げながら、町の名医といわれている医者(少なくとも万波医師はやったことのない無茶な実験的手術はしないし、患者からの評価も高い。自分の移植をマスコミで堂々と発表して威張ることもないし、その上、生活は質素で築30年の中古住宅に住み、8年落ちのクラウンに乗っている。深尾氏がどんな家に住んでいるかはジャーナリストが取材に行けばいい)については、倫理面でこきおろすということが、果たして許されるのか?
少なくとも倫理面での調査というのなら、もう少しまともな団体に依頼してほしいものだ。」
(2) 万波医師に対して、「移植マニア」とか「猟奇的犯行」と言った批判があったわけですが、このメルマガを読むと、移植学会の「偉い先生」の方こそ、「移植マニア」で「猟奇的犯行」と批判するに相応しい行動であったと思うのです。
しかも、「実質的な執刀医だった深尾立助教授は、コロラド大学移植外科に肝臓の移植を勉強するために留学したのだが、膵臓の移植は行なったことがなかった」のであって、これは、「慈恵医大でやったことのない腹腔鏡手術を失敗した医者たち」と同じであって、移植学会の「偉い先生」であった深尾医師こそ、人体実験を行った「悪魔の医師」と呼ぶに相応しい行動であったのです。
「移植マニア」「猟奇的犯行」「悪魔の医師」を行ってきた医師を擁する日本移植学会が、万波医師を調査するのですから、まさに喜劇としか言いようがありません。日本移植学会もまた、万波医師を批判する資格に欠けているように思えてしまうのです。
1.毎日新聞平成18年12月19日付夕刊4面
「批判の言葉研ぎ澄まして 笙野頼子さん「竜の箪笥を、」発表
作家の笙野頼子さん……が小説「竜の箪笥を、詩になさ・いなくに」(『新潮』12月号)を発表した。「家を絶やした」などと責められる「私」の悪夢を切り口に、「竜」「猫間引き」などが出る奔放な笙野ワールドを展開。子猫殺しをエッセーで告白した女性作家の行動に作品で異をとなえた形だ。
「竜の箪笥を、――」では、「愚劣なエッセーの事」として女性作家の主張に言及。
<子猫虐待を非難する人間が肉食し害虫を駆除するその矛盾、偽善でしたっけか、つまり牛と猫と害虫を差別しないという事ですよね、でもだったら本人が牛飼えばいいじゃないですか(中略)どうして猫を選んでわざわざ飼う、殺すのか、なぜそこで猫なのかという話なのですよ>
ナマの批判の言葉を直接相手に投げるのではなく作品に取り込む。批判の言葉は小説の一要素として相対化され、結果的に客観性を帯びた形に研ぎ澄まされる。
笙野さんは11月6日の日本文芸家協会の理事会・評議員会でも「人間社会の柔らかい部分を踏みにじって得意になる風潮が心配だ」などと発言。『ちくま』の連載小説や、すばる新人賞の授賞式講評などでも子猫殺しに言及し、一貫したスタンスを崩さない。
「避妊手術のない時代の猫間引きは、神仏に祈ったり謝罪したりしていた。その心を忘れ(子猫殺しを告白した作家のように)合理主義のふりをして虐待を正当化し生き物に哀れをかける心情までも攻撃する態度は荒れ果てた世相そのままです。私なりにささやかな抵抗をしたい」 【米本浩二】」
笙野さんは、坂東氏のエッセーを「愚劣なエッセーの事」と評価したわけですが、そのまま「愚劣」と批判するのでなく、小説の一要素として取り込んだ形で表現したようです。小説家らしい方法です。
笙野さんはは、11月6日の日本文芸家協会の理事会・評議員会、『ちくま』の連載小説、すばる新人賞の授賞式講評、といったようにずっと、ことある毎に言及し続けています。多くの人が坂東氏の子猫殺しに対して言及することがなくなってきている状態において、ずっと言い続けているのです。
このコラムの中で、この部分は忘れることなく心にとどめておきたいと思っています。
「避妊手術のない時代の猫間引きは、神仏に祈ったり謝罪したりしていた。その心を忘れ(子猫殺しを告白した作家のように)合理主義のふりをして虐待を正当化し生き物に哀れをかける心情までも攻撃する態度は荒れ果てた世相そのままです。私なりにささやかな抵抗をしたい」
古来から日本の動物観は、どんな動物でも命あるものとして尊重し、供養を行ってきていました。例えば、動物供養で有名な回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院ですが、その理念は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」であり、その理念は現在までも守られてきているのです。
坂東氏が言うような「目が見える前なら殺してもいい」のではなく、神仏に祈ったり謝罪したという心こそ重要だったのです。坂東氏の言い分は、自分に都合よく解釈しただけの「虐待の正当化」であって、日本古来の動物観と合致しないのです。
坂東氏は、日本古来の意識を知らず、タヒチに逃げて自分勝手な言い分を吐き出しているだけであって、「生き物に哀れをかける心情までも攻撃する態度は荒れ果てた世相そのまま」です。坂東氏は、日本にいられずにタヒチに逃げても、心情はすさんだままであって、すさんだ日本の世相から離れておらず、結局は心情はタヒチに存在しないのであって、日本社会に害悪を撒き散らしているだけなのです。
2.東京新聞平成18年12月19日付夕刊8面「大波小波」欄
「動物愛護作家
文芸家協会ニュース663号が11月理事・評議員合同会の議事録を記載しているが、そこに評議員である笙野頼子の発言の記録がある。坂東眞砂子が日本経済新聞に書いた例の猫殺しのエッセーについてである。
あのエッセーについては「ひどい」というバッシングがマスコミで起こったが、その反動からか、ネット上では擁護や絶賛の意見が出はじめた。真面目(まじめ)な意見もあるが、揶揄(やゆ)やかからかい交じりの論調も少なくない。たとえば戦争で多くの人間が死んでいる時代に、「たかが猫のことで泣いていて、それでいいのか」といった論調だ。そのことを憂える笙野の発言である。
死や不幸をからかいのネタにするホームページとして、最近も被害者児童の死を冒涜(ぼうとく)した小学校教諭の報道があったばかりだ。ネットという匿名世界では、人間の最も醜悪な表現が野放しになる危険が常にある。しかもネットの言説は人心に深く静かに浸透していく。そういう人間社会の闇の部分を直視して描き出すのが、じつは文学の重要な仕事でもある。心を痛めた笙野は「小説を2つ書いた」という。
猫や小動物が殺害されるのは人が狙われる前兆だという。たかが猫とは言えまい。存在感のある発言だった。 (野良猫)」
坂東氏の行動は、「死や不幸をからかいのネタにするホームページとして、最近も被害者児童の死を冒涜(ぼうとく)した小学校教諭」とさほど変わりません。坂東氏は、文藝春秋12月号でのエッセーにおいて、子猫殺しは「シートベルト無着用と同程度の罰金」だとうそぶいて、あたかも騒ぐほうがおかしいといわんばかりに、命を軽視する発言をしているのですから。
子猫殺しを「罰金程度」と平気で正当化し、醜悪な表現が野放しになり、その果ては被害者の死を冒涜することも平気になっていくのです。笙野さんは、そんな状態はおかしいと批判し続けているのです。
「猫や小動物が殺害されるのは人が狙われる前兆」と指摘していますが、これは動物虐待研究の成果としてよく言われている点です(「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題〜犯罪抑止力としての動物虐待研究(東京新聞9月12日付)」参照)。動物虐待研究の成果からは、<1>子どもの発達との関係、<2>犯罪との関係、 <3>小児虐待やDV(家庭内暴力)との関係、<4>精神疾患との関係があることが分かって来ているのです。
動物虐待をを正当化したり、大して悪いことではないと喧伝すると、動物虐待を行う者が増加する可能性が高くなります。動物虐待は、対人暴力、特に凶悪犯罪を行う前兆ですから、「動物虐待を根っ子から絶つためには教育の関与が重要」となります。
それなのに、動物虐待を正当化したり、大して悪いことではないと喧伝すると、動物虐待を助長するような教育効果を持つことになり、凶悪犯罪を抑止できず、凶悪犯罪を増加する結果を生じかねないのです。
3.坂東眞砂子氏の子猫殺しは、(日本で行えば)「みだりに殺し」にあたり、動物虐待罪(44条1項)に当たる犯罪行為です「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(下)〜「物」から「者」への狭間で」参照)。 何匹もの犬猫を殺害して、犯罪を繰り返し行っているのに、そのような虐待を正当化し、生き物に哀れをかける心情までも攻撃する態度でいるのですから、坂東氏の行動は極めて悪質です。
笙野さんが
と述べているのに習って、私も「坂東氏の子猫殺しは悪質な犯罪行為である」とブログで指摘し続け、ささやかな抵抗をしていきたいと思います。「私なりにささやかな抵抗をしたい」
<12月25日追記>
笙野頼子非公式ファンサイト「笙野頼子ゐき」さんの「Stastement/笙野頼子発言 笙野頼子/坂東眞砂子「子猫殺し」事件についての発言」では、11月6日の日本文芸家協会の理事会・評議員会での発言が全文掲載されています。ぜひご覧下さい。
東京新聞12月24日付「読書欄」10・11面には、評論家、法律・文学・経済学・精神医学・美術史・宗教思想などの教授、作家合計25名が、「2006 私の3冊」について書いています。その中で、笙野頼子さんがここでも言及しています。一部引用します。
だそうです。「さあ年末回顧です。愚劣なエッセー書いて動物虐待行為だけを問題にされた、猫投げ作家っていたっけかっ、ふん!」
確かに、坂東氏の話題は「動物虐待行為だけ」でしたら、坂東氏といえば、今後は「直木賞作家の坂東」ではなく「猫殺しの坂東」という名称が定着するかと思います。もっとも、ネット上だと、坂東氏のセックスに対する激しい執着心も話題になりましたが(苦笑)。
1.ウィニー(Winny)事件判決について、少しおさらいをしておきます。なお、手続上の瑕疵(刑事訴訟法上の問題)もあるとは思いますが、刑法上の問題に限って、おさらいをします。
(1) 「ウィニー著作権法違反裁判〜京都地裁平成18年12月13日判決へのコメント」で触れたように、この事案では、特に次の2点が問題となりました。
この事案において、刑法上最も重要な点は、次の2点であると考えます。まず、1点目は、ファイル交換ソフト「Winny(ウィニー)」は、「著作権法違反行為を助長するために制作・配布されたプログラム」、「著作権侵害のために作られたソフト」であり、Winny(ウィニー)を開発・公表したこと自体で、従犯の成立要件を満たすのではないか、という点です。
この1点目について、京都地裁は、ウィニーは、「著作権侵害のために作られたソフト」でなく、価値中立的なものであると評価して、ウィニーを開発・公表したこと自体で、従犯の成立要件を満たすものではないと判断しました。そこで、
「Winny(ウィニー)」の性格は価値中立的なものであるとすると、そのような中立的なソフトを利用者が悪用し違法行為を行った場合、そのような中立的な性格を有するソフトの開発者には従犯が成立するのかどうかが問題となります。すなわち、中立的行為(日常的行為)をすべて従犯としてよいのか否か、いわゆる「中立的行為による幇助」とか、「日常的行為と幇助」と言われている論点が問題となっているのです。これが2点目です。 (「日常取引と共犯」という言い方もあります)
要するに、金物屋Aが包丁をBに売った場合に、その包丁を使ってBが人に傷害を負わせたら、包丁は傷害を容易にしたといえます。そうなると、包丁を売ったAには常に傷害罪の幇助犯が成立することになりますが、それではあまりに処罰範囲が拡大しすぎです。日常的取引では常に他者の犯罪に役立ちうるのですから、常に処罰されるようだと日常的取引が不可能になってしまうからです。
他方で、店の前でBがCらと喧嘩をしており、その途中で、Bが包丁を買いに飛び込んできたときに販売した場合には従犯を認めるべきでしょう。あまりにもはっきりとした形で具体的に正犯者を手助けしているのですから、処罰の必要性が高いからです。
そこで、日常的取引・中立的行為について処罰が拡大しないように、いかに従犯の成立を限定するのか、この2つの事例の結論の差異をどういう基準で区別するのかが問題となってくるのです。これが、「中立的行為による幇助」とか、「日常的行為と幇助」と言われている問題点です。」
朝日新聞12月14日付は、「ウィニー有罪 開発者が萎縮する」との表題での社説の中で、
と触れていますが、これは 「中立的行為による幇助」の議論に端的に言及したものであって、正しい理解です。速度制限以上に速度が出せる自動車を製造することは、日常的取引行為・中立的行為ですが、自動車を使って速度違反(犯罪)を行うことができるのだから、速度違反者(正犯)がいたら開発者は幇助犯として処罰されてしまうのではないか、ということですから。「運転手が速度違反をしたら、速く走れる車をつくった開発者も罰しなければならない。そんな理屈が通らないのは常識だと思っていたが、ソフトウエアの開発をめぐってはそうではなかった。ファイル交換ソフトのウィニーをつくって公開した元東大助手が、著作権法違反幇助(ほうじょ)の罪で京都地裁から有罪判決を受けた。」
そのほかにも、「概括的な故意」や「片面的従犯」の問題もあるのですが、言及すること自体は意味あることですが、その点については処罰することで殆ど一致していますので、特に問題視すべきではありません。(他にも、弁論要旨を読むと色々と問題点を指摘していますから、それは弁論要旨をご覧下さい。最後にサイトを紹介しておきます)
重要な2点のうち、1点目の評価はほとんど技術的な問題に関わるので、この判例の刑法の部分に関する解説としては、2点目が最も重要です。この視点でもって紹介・論評していくことにします。
2.2点目、すなわち「中立的行為による幇助」(「日常的行為と幇助」・「日常取引と共犯」)について触れている解説で、もっとも優れたものは、「寄稿:小倉秀夫弁護士:Winny裁判を考える なぜ「幇助」が認められたか(2006年12月19日 09時12分 更新)」です。一部引用します。
「――ネット上では、「では、殺人犯に包丁を売った店主は、殺人罪の幇助犯になるのか」みたいな議論が行われていて、納得してしまう人も多いようなのですが、その点についてはどう思いますか?
それは、「中立的行為による幇助の可罰性」問題ですね。
――それはどういうことですか?
ここでいう「中立的行為」というのは、相手が特定の犯罪を犯す意思があろうとなかろうと同じように物や役務を提供する行為のことをいいます。「包丁を売る」という行為もそうですし、例えば「タクシーが客の指示する場所まで客を乗せて走る」という行為もそうです。そういう中立的な行為によって正犯による犯罪に実行が容易になった場合に、未必の故意があれば(例えば、このお客さんはこの包丁を用いて人を刺し殺すかもしれないけれども、それでも構わないと考えていたとすれば)幇助犯として刑事責任を負うというのはいかにも酷ではないかということで、幇助犯としての処罰範囲を限定する方向で様々な学説が提案されている状況です。
――Winnyは、他人の著作物をアップロードすることにも使えるけれども、自作のポエムを配布するのにも使えるから、Winnyを公衆に提供する行為は「中立的行為」ということになるのですね。
そうです。京都地裁もさすがにそのことは理解していて、「判決の骨子」では、「被告人がいかなる目的の下に開発したかにかかわらず、技術それ自体は価値中立的であること、さらに、価値中立的な技術を提供すること一般が犯罪行為になりかねないような、無限定な幇助犯の成立範囲の拡大も妥当ではないことは弁護人らの主張するとおりである」と判示しています。
――そういう場合、普通は幇助犯の成立範囲をどうやって限定するのですか。
この論点についてはいまだ通説がないので、「普通」といわれると難しいです。当該行為がなかったとしても、正犯者または第三者の行為により代替されていたであろうという場合には、当該行為は具体的結果発生の危険を高めていないとして、「幇助の因果性」を欠くとするアプローチが1つあります。包丁の例でいうと、その刃物店がその正犯者に刃物を販売しなかったとしても別の刃物店が販売していたであろうという場合には、その正犯者に刃物を販売することによってその正犯者が人を刺し殺すという具体的結果発生の危険が高まっていないとして幇助の成立を否定する考え方です。ただし、この考え方を基本的に支持する論者は、正犯者または第三者の代替的行為を考慮対象から外すためのサブルールを様々に提唱して具体的妥当性を確保しようとするので、なかなか分かりにくかったりします。
――Winnyの場合はどうなるのですか?
金子さんがWinnyを開発する前からWinMXなどのピュア型P2Pファイル共有ソフトは広く入手可能だったので、金子さんがWinnyをAさん(正犯)にダウンロードさせたからといって、Aさんによる「スーパーマリオアドバンス」の送信可能化という具体的結果の発生の危険を、その手段の提供により高めたとはいえないとすることは可能かもしれません。サブルール次第では結論が逆になる場合もあり得ますが。
他方、WinMXなど既存のピュア型P2Pファイル共有ソフトの利用者がIPアドレスなどから氏名などを特定されて検挙され始めたという状況下で、IPアドレスなどからでは容易に氏名などの特定をされることなくファイル共有を行うソフトがWinny以外には事実上入手困難だったという場合は、匿名性の提供による犯行意思の強化により、Aさんによる「スーパーマリオアドバンス」の送信可能化という具体的結果の発生の危険を高めたということも可能でしょう。
もっとも、今回の裁判で審理の対象となっているのは、Winny2をダウンロードさせたことについてなので、そうなると、Winny2をダウンロードさせなかったとしてもWinny1が代替原因となっていたはずであり、幇助の因果性がないのではないかという議論もあり得なくはありません(ただWinny1とWinny2は提供元が一緒なので、幇助の因果性を排除しない可能性はありますが)。
――何だか難しい議論ですね。今回京都地裁はそういうアプローチを採用したのですか?
いいえ。「判決の骨子」によれば、「結局、そのような技術を実際に外部に提供する場合、外部への提供行為自体が幇助行為として違法性を有するかどうかは、その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識、さらに提供する際の主観的態様如何によると解するべきである」とされています。
――そういうアプローチって、有力なんですか?
ぜんぜん。「その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識」の部分については、犯罪結果を発生させる蓋然性(がいぜんせい)が相当程度高い場合にしか幇助の因果性の「相当性」を認めないのだとする意図なんだと善解できなくはないですが。」
このように明快に「中立的行為による幇助」に関する議論について触れています。もちろん、「中立的行為による幇助」の議論としても、この事案で幇助犯を認めていいのか疑問がありますし、他の点でも結論の部分に異論はあるとは思います。ですが、「中立的行為による幇助」に限らず、他の問題点も十分に正しく言及していますので、読む価値のある解説だと思います。ぜひご覧下さい。
もっとも、すべて正しいというわけではなく、間違っている部分があると指摘するブログ(「壇弁護士の事務室」さんの「事件の論評」)もあります。こちらもご覧下さい。
3.これに対して、「元検弁護士のつぶやき」さんの「「●高性能車とウィニー」は、「中立的行為による幇助」というキーワードが一切出てきていません。朝日新聞の社説を批判した部分を一部引用します。
「つまり
速度違反が容易になったらいいな (積極的認容)
または
速度違反が容易になっても仕方がないな (消極的認容)
というのが、速度超過幇助における認容ということになります。
そして速度違反幇助における幇助行為とは、個々の速度違反の場面において、運転者による車の加速行為を運転者以外の者が容易にすることです。
しかし、その車が如何に高性能であったとしても、提供するだけでは個々の速度違反の場面における加速行為自体を容易にするとは言えません。
アクセルを踏むか踏まないかは、その場における運転者の判断にかかっているからです。
車の開発行為や販売行為は、その場における運転者の判断に影響するものとは言えません。
じゃあウィニーも同じじゃないのか、という意見もあると思いますが、違うというのが私見です。
ウィニーは、客観的にみて個々の著作権侵害行為を容易にしていると認められます。
その最も大きな要素は、ron さんが説明してくださった匿名性だろうと思っています。」
朝日新聞の社説について批判することは自由ですし、幇助の故意や幇助行為について丁寧に説明するのもいい事だと思います。
しかし、この記述では、「中立的行為による幇助」の議論を知らずに批判しているとしか、読めません。「中立的行為による幇助」の議論は、日常的取引・中立的行為による幇助は、
であっても、幇助犯の成立を限定すべきではないかという議論なのですから。いくら、「幇助行為」があるとか「認容」を詳しく説明しようと、議論を深めることができないのです。「何らかの意味で犯行を容易にし、しかもそれを関与者が未必的にも認識しているような場合」(松宮孝明著「刑法総論講義」269頁)
4.法律論に限ったことではないのですが、裁判など争いが生じた場合に、問題点はどこにあるのか、どういう対立する見解があるのか、しっかり把握した上で議論をするべきなのです。この2つの弁護士の解説を見比べて、どちらが「しっかり把握した上で議論」をしているのか、よく検討してみると良いと思います。
なお、弁論要旨が公開されていますので、ぜひ読んでみることをお勧めします。どういう弁護をしたのかが分かりますから(「壇弁護士の事務室」さんの「弁論要旨公開版」)。
1.エキサイトニュース([ 12月18日 17時59分 ] 共同通信)
「代理出産、限定的に容認 民主党作業班が中間報告 [ 12月18日 17時59分 ]
共同通信
体外受精など生殖補助医療の在り方を検討している民主党の作業チームは18日までに、妻が病気で子宮を失った夫婦など、条件を限定して代理出産を容認する内容の中間報告をまとめた。
国内には既に代理出産で生まれた子どももいることから「全面的な禁止は現実的な問題解決にならない」(中心メンバーの林久美子参院議員)と判断した。チームは来年末ごろまで検討を続け、生殖補助医療を規制する法案の国会提出を目指している。
中間報告によると、代理出産を認めるのは医学的理由で不妊になった例のみとし、高齢が原因の場合は認めない。実施する医療機関を限定し、第三者機関が実施の可否を審査する。また親族による代理出産は認めず、第三者が無償で行うなど、厳しい制限を設ける。」
共同通信がこのニュースを報道する前に、毎日新聞が12月17日付(日曜日)で、しかも1面で報道していました。その記事も取り挙げておきます。
2.毎日新聞平成18年12月17日付朝刊1面
「代理出産:民主、限定容認 親族、報酬は禁止−−作業チーム、中間報告
代理出産など生殖補助医療のあり方について検討している民主党の作業チームは、代理出産を一定条件下で容認する中間報告をまとめた。ただし、容認するのは妻が医学的理由で子を産めない場合に限り、法律で「代理母」に親族がなることや報酬の支払いを禁じるなど極めて高いハードルを設けた。日本では代理出産に法規制がなく、政府も先月、日本学術会議に代理出産の是非を審議するよう要請している。
代理出産は厚生労働省の審議会が03年に禁止の報告書をまとめ、日本産科婦人科学会は自主規制している。一方、海外で第三者に依頼したり、国内で妻の母親や姉妹が出産するなどの実施例が相次いでいるのが実態だ。
中間報告は「全面的に禁止することで問題を解決できるとは考えにくい」と指摘。代理出産を認める条件を、病気で子宮を失ったなど医学的・肉体的な理由に限定し、高齢などを理由にした代理出産は否定した。代理母については第三者が無償で引き受ける場合だけ認めるとした。
さらに、専門的な倫理審査機関を新設し、具体的なガイドラインに基づき個別に審査する「許可制」とすることを提案。代理出産を実施できる医療機関も審査機関が指定し、子が生まれた後で依頼者の夫婦が引き取りを拒否しないよう義務付けることも盛り込んだ。
中間報告では、生まれた子と代理母との法的関係は今後の課題とした。同党はさらに検討を進め、来年中に結論を出す考えだ。【須藤孝】
毎日新聞 2006年12月17日 東京朝刊」
3.この2つの記事から読み取れる「中間報告」の意味は、次の点でしょう。
(1) 民主党が一定条件で代理出産を肯定する立場を明確し、生殖補助医療に関する問題についても政府案への対案を出す予定であること。
(2) 親族による代理出産は認めず、第三者が無償で行うなど、厳しい制限であるので、今の日本では代理母を募る組織がなく、無償では第三者は多大な出費が生じてしまうことから、代理出産を事実上禁止することに等しいこと。
(3) 親族以外の第三者のみが代理母となるということは、代理母を募る組織として業者が参入することが不可避であり、将来、業者主導で代理出産を行うことになること。(業者が関与する以上、何らかの形で金銭のやり取りが生じるはず)
(4) 基本的に、厳しい条件を必要とするとしている、荒木勤・日本産科婦人科学会元会長の意見をそのまま取り入れたものであり独自性がないこと
4.しかし、この中間報告には色々な問題があります。
(1) 事実上代理出産を禁止するに等しい法案ですから、現在においてほとんど実施していない状況において、わざわざ禁止するような法案を出すなんてなんのための法案なのでしょうか?
事実上の全面禁止の「中間報告」なのに、「全面的な禁止は現実的な問題解決にならない」なんて、論理矛盾です。代理出産を認めたといっても事実上の全面禁止なのですから、現実的な問題解決にならないことと殆ど変わりません。民主党の議員は論理というものが分からないようです。
(2) 専門的な倫理審査機関を新設し、具体的なガイドラインに基づき個別に審査する「許可制」とすることを提案するようです。これを含めて、民主党の中間報告を読むと、事実上代理出産を禁止することを求めている、荒木勤・日本産科婦人科学会元会長の意見のままのようです(「どうみる代理出産:三者の見解〜朝日新聞平成18年10月21日付朝刊「私の視点−ウイークエンド」より」参照)。
しかし、荒木勤・日本産科婦人科学会元会長の意見のままを取り入れるなんて、民主党議員は独自に考えるという見識がないのでしょうか? それに、高度なプライバシー情報であり、本来的に自己決定に委ねられている個人の生殖問題について、実際に代理母を診察する産婦人科医でない組織が、個別に審査し、事前の許可を行うという関与を認めるのですから、プライバシーや自己決定権への配慮ができるのか、疑問に感じます。
(3) 生殖補助医療に関しては、
の2つに分かれると思います。<1>原則自由とし、国が最低限の関与をし、裁判所が後見的に関与するという考え
<2>(原則)禁止し、国が厳しく規制を加え、行政機関により個別に審査するなどコントロールを行い、裁判所が禁止の実効性を担保するという考え
民主党の中間報告は、<2>の考えを採用するようです。しかし、政府に生殖に関するプライバシー情報に深く関与させ、情報を集める切っ掛けを与えるような<2>の考えは、どうも個人の尊厳を保障するという憲法の基本的態度とそぐわないように思うのです。この点だけで即断することはできませんが、どうも民主党議員の人権意識に問題を感じてしまうのです。
(4) 中間報告では、生まれた子と代理母との法的関係は今後の課題としていますが、この問題こそ議員が解決すべき問題です。
中間報告は、代理出産を実施する際の規制ばかりですが、代理出産を実施する際の規制は医学的な問題ですから、基本的に医師の意見が尊重されるべきであって、議員がまず考えるべき問題ではないでしょう。法的問題を後回しにすべきではないのです。
5.このように取り上げてみたものの、政府は11月30日、代理出産など生殖補助医療の在り方について、日本学術会議に審議を要請しているのですから、政府案を提出するはずです。そうなると、民主党案を出したところで、意味があるのでしょうか? 対案を出すという姿勢は立派という評価を受けるのかもしれませんが。
それに、自民党の野田聖子議員は、民主党の小宮山洋子議員や、自民党の山際大志郎議員らと超党派で勉強会を作っていて、来年の通常国会に、議員立法での法案提出を目指しているそうです「野田聖子議員に聞く:産める社会を「子育て保険」で支援」(2006年12月1日)参照)。その内容は、生殖補助医療は原則自由、患者主体で行えるとする特例法ですから、事実上禁止する民主党案とは対立する法案です。
民主党の小宮山洋子議員が原則自由の案に賛同しているのですから、民主党の中間報告を法案にしたところで、民主党議員すべてが、民主党案に賛成していないことになります。こんな状態では、民主党が法案を出しても、無視されるだけのように感じます。
元々、最近特に、法案の成否に影響力を与える力が乏しい民主党ですから、その法案の中身、しかもまだ中間報告の段階ですから、ニュースとして取り上げる意味がないと思います。
毎日新聞や共同通信が報道しているので、一応、エントリーとして取り上げましたが、毎日新聞のように1面で取り上げるほどの価値はないでしょう。
厚生労働省が3年前、審議会(厚生科学審議会生殖補助医療部会)の答申に基づいて、生殖補助医療に関する法案をつくろうと企てたときに、阻止したのは自民党の野田聖子議員です。野田聖子議員は自民党に復帰したので、野田聖子議員の方が政府案に関して影響力を与えることが可能です。
なので、民主党の中間報告よりも、野田聖子議員の意見の方がよほど情報として重要です。ということで、野田聖子議員へのインタビュー記事である、 「野田聖子議員に聞く:代理出産は認めるべき」(2006年12月1日)、「野田聖子議員に聞く:産める社会を「子育て保険」で支援」(2006年12月1日)をご覧下さい。
なお、このインタビュー記事については、別エントリーで取り上げる予定です。
この京都地裁判決についてコメントしたいと思います。
1.京都地裁に関する新聞報道から。
(1) 朝日新聞平成18年12月13日付夕刊1面
「ウィニー開発者に罰金150万円の有罪判決 京都地裁
2006年12月13日
ファイル交換ソフト「ウィニー」を開発・公開し、利用者が許可を受けずに映画やゲームなどをインターネット上で送信するのを助けたとして、著作権法違反幇助(ほうじょ)の罪に問われた元東大大学院助手金子勇被告(36)=東京都文京区=に対する判決公判が13日、京都地裁であった。氷室真裁判長は「著作権者の利益が侵害されることを認識しながらウィニーの提供を続けており非難は免れないが、著作権侵害の状態をことさら生じさせることは企図しておらず、経済的利益も得ていない」と述べ、罰金150万円(求刑懲役1年)の有罪判決を言い渡した。金子被告は控訴する方針。
ソフトウエアが不正に利用されたことを理由に、開発者を有罪とした司法判断は初めてで、今後の技術開発にも影響を与えそうだ。
判決によると、金子被告は自ら開発したウィニーが著作権の侵害に使われていると知りながら、03年9月に自分のホームページに最新版を公開。群馬県高崎市の男性(44)と松山市の男性(22)=いずれも同法違反罪で懲役1年執行猶予3年の有罪確定=が同月、ゲームソフト「スーパーマリオアドバンス」や映画「ビューティフル・マインド」など計28本を無許可で不特定多数のネット利用者に送信できるようにし、著作権侵害の手助けをした。
判決はまず、ウィニーの性格について「さまざまな分野に応用可能で有意義なものであり、技術自体は価値中立的なもの」としたうえで、技術の外部への提供行為が違法になるかどうかについては「その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識、提供する際の主観的態様による」とする一般的な判断基準を示した。
そのうえで、金子被告が捜査段階の供述やホームページに掲載した内容などをもとに、ウィニーが一般の人に広がることを重視し、ファイル共有ソフトがインターネット上で著作権を侵害する態様で広く利用されている現状を認識しながら認容していた▽金子被告が著作権侵害がネット上に蔓延(まんえん)すること自体を積極的に企図したとまでは認められない――と認定した。
さらに、やり取りされているファイルのかなりの部分が著作権の対象となるものだったことを認識しながら、ホームページ上でウィニーを公開し、不特定多数の利用者が入手できるようにした、と指摘。これにより実行犯による著作権侵害行為が行われたとして、金子被告の行為は幇助犯を構成すると結論づけた。
閉廷後、金子被告は「ウィニーは将来的に有用な技術であって、将来、その技術は評価していただけるものと信じています。それだけに今回の判決は残念でなりません。日本のソフトウエア技術者があいまいな幇助の可能性に萎縮(いしゅく)して、有用な技術開発を止めてしまう結果になることが何よりも残念です」などとするコメントを出した。
◇
〈キーワード:ウィニー〉 インターネット上のネットワークを通じ、個人のパソコン同士をつないで音楽や映像などのファイルを交換できるソフト。情報を管理するサーバーを必要としない。金子勇被告が02年4月にネット上の掲示板「2ちゃんねる」で開発宣言をし、同5月から自身のホームページ上で公開、無料で配布した。
国内の使用者は現在も数十万人に上ると推定されている。ウィニー使用者をねらった「暴露ウイルス」に感染し、個人情報のほか、官庁や企業の機密情報などがネット上に流出する問題も後を絶たない。」
この記事で京都地裁の判決内容が大体分かると思います。判決要旨自体は<追記>で読むことができますが、判決要旨は分かりやすいといえるか疑問ですので、この記事で足りるのではないでしょうか?
(2) 朝日新聞平成18年12月13日付夕刊1面「解説」
「技術開発に節度求める
ソフトウエアが利用者によって悪用された場合、その開発者の責任はどこまで問われるのか。13日の京都地裁判決は、開発者が著作権者の利益が侵害されることを認識しながら公開した行為が犯罪となるという初めての判断を示した。
ソフトウエアは本来、利用の仕方によってさまざまな使い方が可能になるという中立的な性格をもつ。ユーザーによって違法な使われ方をされたからといって、即座に開発者が違法行為の手助けをしたと断定することは難しい。
このため検察側は、被告がインターネットの掲示板や自身のホームページに書き込んだ内容から、「現在の著作権保護システムを根本的に破壊しようとする動機」があったと指摘。使用者が判明しにくい匿名性や、著作物ファイルを無限に複製して拡散させる機能をもつことなどを挙げ、「著作権侵害のために作られたソフト」であることを立証しようとした。
判決は著作権侵害を蔓延(まんえん)させる目的があったとは認めなかったが、検察側の主張に沿ってソフトウエアを提供した行為が著作権侵害を手助けしたと認定した。
今回の判決は、コンピューター技術の開発や公開行為に、一定の歯止めをかける形になった。弁護側は「技術者に取り返しのつかない萎縮(いしゅく)効果をもたらす」と批判している。一方で、いくら優れたアイデアや技術が盛り込まれていたとしても、法秩序の混乱をもたらしかねない技術開発が、無限定に許されてもよいはずもないだろう。
コンピューターやインターネットは社会に欠かせない基盤となっている。著作権法に限らず、技術者には自ら開発する技術の内容と影響に責任を持つ節度と自覚が求められる。 (岡本玄)」
この記事は、この問題に関して偏りのない解説記事になっていると思います。もちろん、これで法律論が理解できるわけではないですが。
2.識者のコメントも幾つか。
(1) 読売新聞平成18年12月13日付夕刊19面
「高木浩光・産業技術総合研究所情報セキュリティ研究センター主任研究員の話 『ウィニーは、本人の意思に関係なく、個人のファイルやデータが流出してしまい、利用者が責任を持って使えるソフトではない。今回の判決にかかわらず、ウィニーの使用を法的に規制していかないと、情報セキュリティーの観点から極めて危険だ』
ネットワークセキュリティー会社『ネットエージェント』(東京)の杉浦隆幸社長の話 『判決はソフト開発をしているプログラマーに危機感を与え、今後、プログラム開発の萎縮につながる心配がある。本当に悪いのは、ウィニーを介して情報をネット上に流出させるウイルスを作った人たち。これらの人たちを取り締まる法律がないことは深刻な社会問題だ』
土本武司・白鷗大学法科大学院教授(刑法)の話 『有罪判決は妥当だが、量刑に問題がある。正犯は懲役刑。ほう助罪は通常、正犯より軽いが、今回の場合、ウィニーがなければ犯罪は起きなかった。被告自身は経済的利益を得ようとはしていないが、日本は知的財産権の重要性を認識しないといけない。今回の判決は科学技術の発達は大事だが、違法なことをしてはいけないというメッセージのように思える』」
杉浦氏は、ウイルス作成者を処罰すべきとしていますが、それはいいとしても、まずはウィニーでのウイルス対策が急務のはずです。もっとも、京都地裁が下した有罪判決により、金子氏はウイルス対策を公表しないままであり、それはかえって今後も被害が拡大しかねずマズイ状況です。ウイルス対策をしないことの方が「深刻な社会問題」をずっと招くのではないでしょうか?
土本氏は、金子氏は利益を得ていなくても「今回の場合、ウィニーがなければ犯罪は起きなかった」として量刑が軽すぎるとしていますが、こういう理解はウィニー自体が悪質であると評価していることになります。しかし、ウィニーはもちろん、ソフトウエア一般的に価値中立的なものであるという理解と反することになりますが、妥当ではないでしょう。
<12月21日付追記>
「高木浩光@自宅の日記」さんの「新聞の意味不明な識者コメントはデスクの解釈で捏造される」によると、改竄された文章がそのまま新聞に掲載されてしまったそうです。本当は、「ウィニーは、流出した個人のファイルやデータを、利用者が意図しなくてもいつまでも流通させてしまう。責任を持って使えるソフトではない」というような内容だったそうです。読売新聞はどうしようもないですね。こちらでも、訂正という形にします。
(2) 毎日新聞平成18年12月13日付夕刊9面
「◇萎縮効果の懸念−−ネット社会に詳しい岡村久道弁護士(大阪弁護士会)の話
ウィニーが客観的に見て、料理にも殺人にも使える包丁なのか、もっぱら違法行為に使われるピストルなのかが問われていたのに、判決は踏み込んでいない。少子高齢化の中でハイテク技術大国を目指す日本の司法が、ハイテク先端部門にきちんとした判断をできなかった。萎縮(いしゅく)効果を生む懸念がある。
◇技術的価値認めた−−藤原洋・インターネット総合研究所長の話
裁判所は弁護側の意見も取り入れた上で、ウィニーの技術的価値を認めた。少子化や理系離れなどが進む中、技術立国を目指す日本のIT研究開発の流れを、せき止めるような判決にならなかったことを評価したい。判決は、被告一個人の責任追及ではなく、科学技術に携わる者全体の意識としてとらえ、警鐘としていかねばならない。
◇罰するのは疑問−−竹内郁雄・東京大情報理工学学系研究科教授(計算機科学)の話
技術自体の価値は中立的という、弁護側の主張が通ったことは評価できる。技術開発の権利は守らなくてはならない。ソフトを公開した当時の金子被告のモラルに多少問題はあっただろうが、それを罰することができるのか疑問。利用する側の認識も裁く法律も、技術開発の進歩に追いついていないのが現状だ。」
藤原氏は「日本のIT研究開発の流れを、せき止めるような判決にならなかった」としていますが、基準が明確でないため、安易すぎる見方のように思えます。
岡村氏と竹内氏は、モラルに問題があるとしても罰するほどのものか疑問視しているものです。一審判決の基準では、技術者に萎縮効果を生む可能性があることは確かです。
(3) 東京新聞平成18年12月13日付夕刊
「■違法行為中止を
<コンピュータソフトウェア著作権協会の話> 著作権侵害を防ぐ具体的な措置を講じないままにウィニーを開発し頒布すれば、ネットワークを通じて侵害行為が必然的にまん延することを認識していたにもかかわらず、被告があえてウィニーを開発・頒布したという点について、判決はその責任を認定した。今後もウィニーのユーザーに対し、違法行為を直ちに中止するよう求めていく。
■ほう助概念拡大
<園田寿・甲南大法科大学院教授(刑法、情報法)の話> 通常、ほう助罪の成立には、正犯として誰が、いつ、どこで何をするかなどの認識が必要だが、金子被告の場合、正確な認識はない。判決はほう助の概念を主観的な面で広げて適用しており、現在本屋で売られているウィニーの解説本などにも刑法的規制が及ぶ可能性が出てきた。出版・表現の自由という憲法論にまで発展する非常に重要な判断だ。罰金刑という選択は軽いが、通常のほう助ではなく、扇動に近いため犯罪性が軽いと考えたのではないか。
■量刑上不服も
<京都地検の新倉明次席検事の話> 起訴事実についての主張は認められたが、量刑上承服しがたい面がある。上級庁と協議して適切に対応したい。」
コンピュータソフトウェア著作権協会は、著作権を保護する立場なので、中止を求めるのは当然でしょう。
園田氏は、「ほう助罪の成立には、正犯として誰が、いつ、どこで何をするかなどの認識が必要」としていますが、通説・判例の立場と異なっています(後述する3.(2)を参照して下さい)。それはともかく、広く規制することの危険性を説いています。刑法学者としては謙抑的であるべきということは学者らしい主張です。
(4) 日本経済新聞平成18年12月13日付夕刊23面
「「ほう助」の概念 広く認めすぎる――園田寿・甲南大法科大学院教授(刑法、情報法)の話
著作権法違反についての漠然とした認識だけで有罪としたのは、「ほう助」の概念を広く認めすぎだ。ウィニーの解説本や、コピープロテクトの外し方を紹介する雑誌など、出版物が規制される恐れがあり、表現の自由が制約を受けかねない。憲法問題に発展する。
「ひょっとしたら犯罪に使われるかも」というだけで刑事責任を問われては、今後のソフト開発に大きな萎縮効果を生んでしまう。判決は踏み込みすぎている。」
これも同じく園田氏の見解です。園田氏は刑法学者のうちで、インターネットなどいわゆるIT関係に最も詳しいので、幾つかの新聞社からコメントを求められたようです。
3.この事案は、ファイル交換ソフト「Winny」を開発した金子勇氏に対して、著作権法違反幇助の罪で起訴されたのですから、金子氏の行為が、従犯(幇助犯:刑法62条1項)の成立要件を満たすのかどうかが問われています。
(1) ここで、刑法62条と従犯の成立要件について触れておきます。
刑法第62条1項 正犯を幇助した者は、従犯とする。
この従犯が成立するには、
とされています。<1>幇助者が、正犯者の実行行為を幇助する意思(=幇助の故意:正犯者の実行行為を表象し、かつ、幇助者自身の行為がそれを容易にするものであることを表象・認容すること)で、
<2>これを幇助する行為を行うこと(=幇助行為:構成要件に該当する実行行為以外の行為であって、正犯者の実行行為を容易にするもの)を要する
従犯が成立するためには、幇助の故意(主観面)と幇助行為(客観面)を満たす必要があるわけです。
(2) この事案の場合、金子氏は、このソフトを使って誰か不特定多数の人が著作権侵害に利用するかもしれないと意識していたが、特定の誰が著作権侵害をするのかは分からず、また、その特定の誰かと意思を通じて著作権侵害を手助けしたわけではなかったようです。
前者は、「概括的な故意」(正犯の場合の例ですが、歩行者天国の真中に爆弾を投げ込むような場合、誰かは分からないが誰かが死ぬだろうと認識していた場合)の問題であり、後者は、「片面的従犯」と言われる問題です。
この2点も問題となることは確かですが、概括的な故意でも幇助の故意はあるとされていますし、片面的従犯も処罰できると理解するのが一般的なので、この事案で特に問題視する必要はありません。
なお、正犯者が誰であるか(大審院昭和10年2月13日判決)や、正犯者の行為の日時・場所等具体的内容にわたっての詳細や、被害者が誰であるかなどを認識することは必要でないと解されています(大塚仁著「刑法概説(総論)」303頁)。なので、金子氏が正犯者が誰だか知らなくても不可罰になるわけではありません。
(3) そこで、この事案において、刑法上最も重要な点は、次の2点であると考えます。まず、1点目は、ファイル交換ソフト「Winny(ウィニー)」は、「著作権法違反行為を助長するために制作・配布されたプログラム」、「著作権侵害のために作られたソフト」であり、Winny(ウィニー)を開発・公表したこと自体で、従犯の成立要件を満たすのではないか、という点です。
この点ついては、京都地裁は、ウィニーの性格について「ウィニー2は、それ自体はセンターサーバーを必要としない技術の一つとしてさまざまな分野に応用可能で有意義なものだ。技術自体は価値中立的」なものであると評価し、金子氏には著作権侵害を蔓延させる目的があったとは認めなかったのです。
要するに、京都地裁は、「Winny(ウィニー)」は、「著作権法違反行為を助長するために制作・配布されたプログラム」でなく、「著作権侵害のために作られたソフト」でなく、価値中立的なものであると評価して、Winny(ウィニー)を開発・公表したこと自体で、従犯の成立要件を満たすものではないと判断したわけです。
これはウィニーの性格をどう見るかという認定の問題ですが、技術的な評価はもちろんですが、京都地裁が「応用可能で有意義なもの」としているように、ソフトとしての価値の高さに着目して、価値的中立性を認めたものと考えられます。
(4) 「Winny(ウィニー)」の性格は価値中立的なものであるとすると、そのような中立的なソフトを利用者が悪用し違法行為を行った場合、そのような中立的な性格を有するソフトの開発者には従犯が成立するのかどうかが問題となります。すなわち、中立的行為(日常的行為)をすべて従犯としてよいのか否か、いわゆる「中立的行為による幇助」とか、「日常的行為と幇助」と言われている論点が問題となっているのです。これが2点目です。
イ:この「中立的行為による幇助」「日常的行為と幇助」について、西田典之著「刑法総論」322頁は、次のような説明をしています。
「日常的行為と幇助
金物屋AがBに包丁を売却したが、もしかすると、Bが殺人や強盗を行うかもしれないという漠然とした認識があった場合にも幇助犯が成立するとはいえないであろう。しかし、店の前でBがCらと喧嘩をしており、その途中で、Bが包丁を買いに飛び込んできたような場合には幇助犯を認めるべきであろう。この場合には、自己の因果的寄与の認識・認容の有無すなわち(片面的)幇助の故意が犯罪の成否を決定するといってもよい。
判例も、ピンクチラシを印刷した業者に売春周旋罪の幇助を肯定している(東京高判平成2・12・10判例タイムズ752号246頁)。同様に、著作権法違反行為を可能とするソフトを誰でもコンピュータによってダウンロードできるようにした行為につき、これを利用した者については著作権侵害罪の成立が認められているが(京都地判平成16・11・30判例時報1879号153頁=ウィニー事件)、ソフトをダウンロードできるようにした者について概括的幇助犯が成立するかについては、現在、刑事事件が継続中である。この場合も当然に、幇助犯の成立を認めるべきだと思われる。
これに対して、軽油取引税の不納付罪に寄与することを認識しながら軽油を購入する行為につき、「売買の当事者たる地位を超えるものではな」いとして、幇助犯の成立を否定した例もあるが(熊本地判平成6・3・15判例時報1879号153頁=ウィニー事件)、この場合には、この程度の因果的寄与は「幇助」に当たらないと解すべきであろう。」
要するに、金物屋Aが包丁をBに売った場合に、その包丁を使ってBが人に傷害を負わせたら、包丁は傷害を容易にしたといえます。そうなると、包丁を売ったAには常に傷害罪の幇助犯が成立することになりますが、それではあまりに処罰範囲が拡大しすぎです。日常的取引では常に他者の犯罪に役立ちうるのですから、常に処罰されるようだと日常的取引が不可能になってしまうからです。
他方で、店の前でBがCらと喧嘩をしており、その途中で、Bが包丁を買いに飛び込んできたときに販売した場合には従犯を認めるべきでしょう。あまりにもはっきりとした形で具体的に正犯者を手助けしているのですから、処罰の必要性が高いからです。
そこで、日常的取引・中立的行為について処罰が拡大しないように、いかに従犯の成立を限定するのか、この2つの事例の結論の差異をどういう基準で区別するのかが問題となってくるのです。これが、「中立的行為による幇助」とか、「日常的行為と幇助」と言われている問題点です。
ロ:この論点については、ドイツ刑法学では様々な学説があるのですが(中立的行為による幇助(1) / 松生 光正 姫路法学27・28号(1999年)203-227頁、中立的行為による幇助(2)(完) / 松生 光正 姫路法学31・32号 [2001年]、「刑法授業補充ブログ」さんの「中立的行為による幇助」 参照)、日本では、次の2説が代表的なものでしょう。
・A説(多数説?):自己の因果的寄与の認識・認容の有無、すなわち、(片面的)幇助の故意で従犯の成否を決定する。因果的寄与が乏しければ、「幇助」にあたらない。
・B説:日常的取引行為・中立的行為は、それが外見上平穏な取引である限りは、犯行に利用される未必的な認識がある場合であっても従犯は成立しない。
要するに、A説はここで引用した東京大学・西田典之教授の見解で、これはおそらく多数説でしょう。このA説は主観面で限定しようとしているのであり、他方で、B説は立命館大学・松宮孝明教授の説(松宮孝明著「刑法総論講義」269頁)で客観面で限定しようとしているのです。
ハ:京都地裁は、
といった基準を示しました。「価値中立的な技術を提供することが犯罪行為となりかねないような、無限定な幇助(ほうじょ)犯の成立範囲の拡大も妥当でない。 結局、外部への提供行為自体が幇助行為として違法性を有するかどうかは、その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識、提供する際の主観的態様によると解するべきである。」
「無限定な幇助(ほうじょ)犯の成立範囲の拡大も妥当でない」という価値判断を示して、「主観的態様による」と述べたのですから、これは多数説(A説)と同様の見解を採用したと評価できます。
多数説と同様の見解を採用したのですから、この京都地裁の結論に対して刑法学上は問題視する見解は少ないと思われます。西田教授はこの京都地裁が出る前から、「この場合も当然に、幇助犯の成立を認めるべきだと思われる」と書いているのですから。
ニ:もっとも、主観面によって限定した見解といっても、幇助の故意の有無の判断とほとんど変わらないのですから、どれほど限定できるのか疑問があります。また、幇助行為は、正犯を容易にすればよく、正犯の実行にとって不可欠であることを要しないので、従犯の処罰範囲は広いのですから、不可罰にする方が無理といえるかもしれません。
そうすると、今回の判決によると、コンピューター技術の開発や公開行為に、一定の歯止めをかける形になりますし、技術者に取り返しのつかない萎縮効果をもたらしかねません。
そこで、もっと明確に限定できる基準によるべきであると考えます。この事案は、ソフトウエアの開発・公表が幇助行為とされたのですから、ソフトウエアの特殊性に鑑みた限定を行うべきであると考えます。
「ソフトウエアは本来、利用の仕方によってさまざまな使い方が可能になるという中立的な性格をもつ」(朝日新聞12月13日付)のですから、ユーザーが違法な使い方をすることも十分に予想され、違法な使い方すべてを禁止することは困難なのです。
また、ソフトウエアは元々、未完成のまま公表されるのであって、いわばそのソフトウエアを使う者に被害を与えながら、バージョンアップすることで完成に近づくのです。バージョンアップ自体はソフトとして当然のことなのです。
そうすると、ソフトウエアの性格上、ある程度、違法な使い方や被害が生じることは織り込み済みのことですから、ソフトウエアを使って悪用する者が出てきた場合にも、原則としてソフトウエア開発者には従犯は成立しないというべきです。
ただ、いつまでも悪用する者が生じたままは利益侵害が放置されたままになってしまい妥当ではないので、例えば、コンピュータソフトウェア著作権協会が、ソフトウエア開発者に悪用への歯止めを欠けるよう、何度か警告したにもかかわらず歯止めをかけない場合など、一定の権限ある機関が警告したにもかかわらずあえて歯止めをかけず、又は積極的に悪用を促進した場合(=因果的に具体的な促進がある場合)に、従犯が成立するという判断をすることが妥当であると考えます。
4.京都地裁判決は、おそらく現在の多数説に従った見解ですから、日本の刑法学者の多くは妥当な判決と評価すると思います。
京都地裁判決は「技術提供一般が犯罪となるようなほう助の適用拡大は適当でない」と述べて、捜査機関へ警告を発していますし、また、その提供が違法かどうかは、社会での利用状況や技術への認識、提供する際の主観的態様によるとの基準も示してはいます。
しかし、「ほう助の適用拡大は適当ではない」といったところで、単なる警告にすぎず、適用拡大を抑制することになりませんし、また、主観的限定では、捜査機関の価値判断に左右されてしまい恣意的判断を招く危険性があるのです。
そうなると、結局は、日本のソフトウエア開発が滞りかねず、日本の将来にわたる経済発展を阻害する結果になりかねません。処罰による波及効果が大きいことを苦慮すると、この場合に刑罰という法的制裁を行うことは、なるべく謙抑的でなければならないという刑法の基本的な姿勢に反するものといえるのです。
初めから完成されたソフトウエアなんかないのです。京都地裁は、技術そのものの負の部分に、もう一歩踏み込んだ判断を示す必要がありました。やはり、主観で限定するのではなく、客観的・具体的な判断基準を示すべきであったと思うのです。
京都地裁判決を受け、弁護側はただちに大阪高裁に控訴しています。二審では、ほう助罪適用の基準があらためて明確に示されることを望んでいます(神戸新聞(平成18年12月14日付)社説「ウィニー判決/「違法」の線引きはどこに」参照)。
京都地裁(1審判決)のままでは、法的リスクを恐れてソフトウェア開発者が萎縮しかねない点について、「「Winny裁判」で有罪判決、自由なソフト開発はもうできない?(2006/12/13)」も参照して下さい。
この改正教育基本法について、日経新聞平成18年12月16日付朝刊の解説を引用してコメントしたいと思います。
1.日経新聞の解説に触れる前に、改正内容について簡単に触れておきます。改正点として特に特徴的な点は次の部分です。
「前文には、現行法が個人の権利尊重に偏っているとの指摘を受け、「個人の尊厳」と並び、新たに「公共の精神の尊重」や「伝統の継承」を明記し、公共性の重視が色濃く打ち出された。
「教育の目標」(二条)には「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との表現で、「愛国心」の理念が盛り込まれた。
「教育行政」(一六条)は、前段部分で「教育は、不当な支配に服することなく」と現行法を踏襲しながらも、後段部分は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきである」と改正された。
この改正について、伊吹文部科学相や文科省側は国会答弁で、学習指導要領は法律の一部であり、同要領によって行われる教育や、教育委員会の命令、指導は「不当な支配」には該当しないとしているが、文科省や教育委員会の統制が強まるとの懸念が出ている。」(東京新聞平成18年12月16日付朝刊1面)
2.日本経済新聞平成18年12月16日付朝刊3面
「不安払拭へ明確な施策を
教育基本法の改正問題はここ数年の政府・与党の教育政策論議で常に最大の懸念事項だった。
2000年12月に教育改革国民会議が基本法見直しを提言してから既に6年、03年3月の中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」から数えても3年半以上が経過した。国会での審議時間も衆参両院で180時間を超えた。
これだけの時間を費やしても、一般国民や学校現場で基本法改正への関心が盛り上がったとはいえない。中堅都市の教育委員会に勤務する指導主事は「学校現場は非常に冷めている。ほとんど無反応だ」と話す。
いじめ、学力低下、教員の不祥事など、日本の教育は未曾有の危機に直面し、社会も保護者も学校もどうしたらいいか、途方に暮れている。
こうしたときこそ、教育改革に明確なメッセージを発信するのが政治の責任のはずだ。だが最重要法案だと位置づけた安倍政権の意気込みとは裏腹に、「基本法を改正することで、本当に教育は良くなるのか」という素朴な問いに答えは最後まではっきりと見えなかった。「法律が変わったからといって学校が変わるわけではないと、みんな思っている」(東京都内の高校教諭)。これが大方の共通する思いではないか。
中教審の議論や国会論戦の中で、基本法改正に対する様々な懸念や不安が指摘された。法改正が実現した今、政府・与党はこうした懸念や不安を払拭(ふっしょく)する努力を積み重ね、教育の閉塞(へいそく)状況を打開する明確な施策を早急に示す責任がある。
そうでないと基本法を改正しても結局は現場をいたずらに混乱させるだけか、従来の基本法と同様に「誰もが立派だと言うが、誰も読んでいない法律」(中教審委員)に終わりかねない。 (編集委員 横山晋一郎)」
3.正直なところ、なぜ教育基本法を改正する必要があったのかと思います。
(1)
「最重要法案だと位置づけた安倍政権の意気込みとは裏腹に、「基本法を改正することで、本当に教育は良くなるのか」という素朴な問いに答えは最後まではっきりと見えなかった。「法律が変わったからといって学校が変わるわけではないと、みんな思っている」(東京都内の高校教諭)。これが大方の共通する思いではないか。」
要するに、安倍内閣は最重要視していると叫んでも、教員はもちろん、教育問題について具体的に調べ関心を寄せている者に限らず、大方の国民は、教育基本法を改正しても教育が良くなると思っていないし、学校は変わらず、今解決すべき問題点(いじめ、学力低下、教員の不祥事など)は解決しないと思っているのです。
与党だけがずっと無駄に騒いでいるだけで、一般国民は基本法改正への関心が盛り上がったとはいえないし、何より「学校現場は非常に冷めている」のです。教育問題に最も切実感のある、小中高の子供を持つ親や教員は、冷ややかな思いでいるのです。
(2) 近代的意味の憲法(立憲的意味の憲法)である、日本国憲法においては、個人の人権を守るために国家権力の行使に歯止めをかけるのが憲法の大切な任務であり、個人の尊重・個人主義を憲法13条は宣言し、全体主義(個人よりも全体=国家の方が大切であるとするもの)を否定しています(内野正幸著「憲法解釈の論点」25頁)。
そうなると、改正教育基本法では、公共の精神を強調するような規定が盛り込まれ、個人の尊重を制限する意欲を示していますが、現行憲法下において、公共の精神を強調してもそれを強要・強制すると、個人の尊重原理に抵触していまい、憲法違反になってしまうのです。
要するに、改正教育基本法で強調した「公共の精神」を具体的に実行することはかなりの困難が伴うのですから、政府与党の行動は滑稽であったように思えるのです。憲法知識が欠落している政府与党らしい行動といえるでしょう。
もちろん、現実問題として「公共の精神」を押し付けようと色々と強要するでしょうが、強要に快く思わない者との間で反発を生じ、ますます混乱が生じることになるだけでしょう。裁判沙汰もますます増えるでしょうから、違憲判決や合憲判決が入り乱れ、教育現場のより一層の荒廃が進むように思えてなりません。
(3) 横山晋一郎編集委員は、
と述べています。「中教審の議論や国会論戦の中で、基本法改正に対する様々な懸念や不安が指摘された。法改正が実現した今、政府・与党はこうした懸念や不安を払拭(ふっしょく)する努力を積み重ね、教育の閉塞(へいそく)状況を打開する明確な施策を早急に示す責任がある。」
しかし、戦後殆ど与党として存在した自民党政権下において、「教育の閉塞状況」が生じたのであって、ずっと「教育の閉塞状況を打開する明確な施策」を示していなかったのですから、今後も「教育の閉塞状況を打開する明確な施策」を期待するのは無理というものでしょう。
「基本法を改正しても結局は現場をいたずらに混乱させるだけか、従来の基本法と同様に「誰もが立派だと言うが、誰も読んでいない法律」(中教審委員)に終わる。」
このどちらかでしょう。すでに答えが出ているようです。横山晋一郎編集委員は、慧眼の士です。
しかし、このまま教育基本法改正案を成立させてしまうと、禍根を残す教育基本法改正案の成立という結果を生じてしまうのではないでしょうか? 西日本新聞は12月15日付の社説で、この教育基本法改正案に付いて触れているので、紹介したいと思います。
1.西日本新聞平成18年12月15日付社説
「「禍根を残す」は杞憂だろうか 教育基本法の改正
「戦後」という時代の1つの転換点となるのだろうか。
「教育の憲法」と呼ばれ、戦後教育を理念的に支えてきた教育基本法の改正案が、14日の参院特別委員会で可決された。参院本会議で採決され、成立する運びだ。
1955年に保守合同で誕生した自民党は、この法律の改正を結党以来の悲願としてきた。歴代の首相が改正を志し、模索しては挫折してきた経緯を考えると、大願成就といえるだろう。
「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱え、「戦後生まれの初の総理」を自任する安倍晋三首相の政権下で改正が実現することに、政治的な潮目の変化を読み取ることも、あるいは可能なのかもしれない。
しかし、戦後のわが国にとって「歴史的な」という形容すら過言ではない法律の改正であるはずなのに、国民が沸き立つような期待感や高揚感を一向に共有できないのは、なぜだろう。
「今なぜ、基本法を改正する必要があるのか」「改正すれば、わが国の教育はどう変わるのか」。こうした国民の切実な疑問が、残念ながら最後まで解消されなかったからではないか。
政府や与党は、過去の重要法案に要した審議時間に照らして「審議は尽くした」と主張する。だが、ことは憲法に準じる教育基本法の改正である。
幅広い国民的な合意の形成こそ、不可欠な前提だったはずだ。私たちは、そのことを何度も繰り返し主張してきた。国民の間で改正の賛否はなお分かれている。政府・与党が説明責任を十分に果たしたとも言い難い。
教育は「国家100年の大計」である。その基本法を改めるのに「拙速ではなかったか」という疑義が国民にわだかまるようでは、将来に禍根を残さないか。改正が現実となる今、それが何よりも心配でならない。
現行法は終戦間もない1947年3月に施行された。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し」という書き出しの前文で始まり、憲法で定める理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」と宣言した。
教育勅語に基づく戦前の軍国主義教育に対する痛切な反省と断固たる決別の意識があったことは明らかだ。
だが、「個人の尊厳」や「個人の価値」を重視するあまり、社会規範として身に付けるべき道徳の観念や公共心が軽視され、結果的に自己中心的な考えが広まり、ひいては教育や社会の荒廃を招いたのではないか。そんな改正論者の批判にもさらされてきた。
改正教育基本法は、現行法にない「愛国心」を盛り込み、「公共の精神」に力点を置く。「個」から「公」へ軸足を移す全面改正ともいわれる。
愛国心が大切だという考えは否定しない。公共の精神も大事にしたい。しかし、それらが教育基本法に条文として書き込まれると、国による教育の管理や統制が過度に強まることはないのか。時の政府に都合がいいように拡大解釈される恐れは本当にないのか。
「それは杞憂(きゆう)だ」というのであれば、政府は、もっと丁寧に分かりやすく国民に語りかけ、国会も審議を尽くしてもらいたかった。
折しも改正案の国会審議中に、いじめを苦にした子どもの自殺が相次ぎ、高校必修科目の未履修や政府主催の教育改革タウンミーティングで改正論を誘導する「やらせ質問」も発覚した。
一体、何のための教育改革であり、教育基本法の改正なのか。論議の手掛かりには事欠かなかったはずだ。
にもかかわらず、「100年の大計」を見直す国民的な論議は広がらず、深まりもしなかった。
むしろ、教育基本法よりも改めるのに急を要するのは、文部科学省や教育委員会の隠ぺい体質や事なかれ主義であり、目的のためには手段を選ばないような政府の姑息(こそく)な世論誘導の欺まんだった‐といえるのではないか。
現行法は国を愛する心や態度には触れていないが、第1条「教育の目的」で「真理と正義」を愛する国民の育成を掲げている。政府や文科省、教育委員会は、そもそも基本法のこうした普遍的な理念を理解し、率先して体現する不断の努力をしてきたのか、とさえ疑いたくなる。
教育基本法の改正は、安倍首相が公言する憲法改正の一里塚とも、布石ともいわれる。
「連合国軍総司令部の占領統治下で制定された」「制定から約60年も経過し、時代の変化に応じて見直す時期にきた」といった論拠でも共通点が少なくない。
しかし、法律の本体よりむしろ、占領下の制定という過程や背景を問題視するのであれば、最終的に反対論や慎重論を多数決で押し切ろうとする今回の改正もまた、「不幸な生い立ち」を背負うことにはならないのか。
永い歳月が経過して環境も変わったから‐という論法にしても、「100年の大計」という教育の根本法に込められた魂に照らせば、「まだ約60年にすぎない」という別の見方もまた、成り立つのではないか。
教育基本法の改正が性急な憲法改正論議の新たな突破口となることには、強い危惧(きぐ)の念を抱かざるを得ない。
「教育の憲法」の改正は、本当に脱却すべき戦後とは何か‐という重い問いを私たち国民に突きつけてもいる。
=2006/12/15付 西日本新聞朝刊=
2006年12月15日00時12分 」
2.秀逸な社説ですので、このまま読めば足りるかと思いますが、幾つかの点に触れてみます。
(1)
「戦後のわが国にとって「歴史的な」という形容すら過言ではない法律の改正であるはずなのに、国民が沸き立つような期待感や高揚感を一向に共有できないのは、なぜだろう。
「今なぜ、基本法を改正する必要があるのか」「改正すれば、わが国の教育はどう変わるのか」。こうした国民の切実な疑問が、残念ながら最後まで解消されなかったからではないか。
政府や与党は、過去の重要法案に要した審議時間に照らして「審議は尽くした」と主張する。だが、ことは憲法に準じる教育基本法の改正である。
幅広い国民的な合意の形成こそ、不可欠な前提だったはずだ。私たちは、そのことを何度も繰り返し主張してきた。国民の間で改正の賛否はなお分かれている。政府・与党が説明責任を十分に果たしたとも言い難い。」
憲法と非常に共通した理念に基づいて成立した教育基本法を、その理念を稀釈化する形で改正しようというのですから、「歴史的な」改正といえるものです。
ですが、結局、政府与党は、「今なぜ、基本法を改正する必要があるのか、改正すれば、わが国の教育は具体的にどう変わるのか、具体的にどう変えるのか」といったような、切実な疑問を最後まで解消しませんでした。これでは、政府与党は、教育基本法改正案につき国民に対して、十分な説明責任を果たしたとはいえません。
繰り返すならば、「今なぜ、基本法を改正する必要があるのか」について、十分に納得できるほどの説明することなく、改正案を成立させてしまうのですから、基本法を改めるのに「拙速ではなかったか」という疑義が国民にわだかまることになり、将来に禍根を残すものといえます。将来に禍根を残す、教育基本法が成立してしまうのです。
(2)
「改正教育基本法は、現行法にない「愛国心」を盛り込み、「公共の精神」に力点を置く。「個」から「公」へ軸足を移す全面改正ともいわれる。
愛国心が大切だという考えは否定しない。公共の精神も大事にしたい。しかし、それらが教育基本法に条文として書き込まれると、国による教育の管理や統制が過度に強まることはないのか。時の政府に都合がいいように拡大解釈される恐れは本当にないのか。」
教育基本法改正案は、「個」から「公」へ軸足を移す全面改正ですから、そのような改正案を成立させると、「国による教育の管理や統制が過度に強まる」ことになるおそれが高いのです。
そして、公共の精神を強調し、「個」から「公」へ軸足を移す法律案は、個人の尊重を基本とし、人権制約は必要最小限度とする現行憲法とそぐわないものです。ですから、教育基本法改正案自体、憲法と抵触しかねないのです。根本的な疑問を感じています。
(3)
「「100年の大計」を見直す国民的な論議は広がらず、深まりもしなかった。
むしろ、教育基本法よりも改めるのに急を要するのは、文部科学省や教育委員会の隠ぺい体質や事なかれ主義であり、目的のためには手段を選ばないような政府の姑息(こそく)な世論誘導の欺まんだった‐といえるのではないか。
現行法は国を愛する心や態度には触れていないが、第1条「教育の目的」で「真理と正義」を愛する国民の育成を掲げている。政府や文科省、教育委員会は、そもそも基本法のこうした普遍的な理念を理解し、率先して体現する不断の努力をしてきたのか、とさえ疑いたくなる。」
教育基本法改正案は、逐条的に問題点が多いですが、国会では十分に検討されませんでした。それは、国民の関心事は別のところにあったことも一因でした。すなわち、国民の関心事は、いじめを苦にした子どもの自殺へどのような対応策を行うのか、高校必修科目の未履修に対して、必修科目の増減も含め、今後学習指導要領をどのように変更していくのか、政府主催の教育改革タウンミーティングで改正論を誘導する「やらせ質問」を行って、誤った世論を捏造したことへの真摯なお詫びと対応策でした。
現行法1条は、人格の形成、真理と正義を愛する国民の育成を定めています。しかし、 文部科学省及び教育委員会の隠ぺい体質・事なかれ主義や、世論誘導の「やらせ質問」を行った文部科学省は、人格の形成、真理と正義を愛する国民から程遠い存在であり、現行法1条の理念を実現する努力なんてまるでないのです。
自らは現行法さえまるで遵守できないのに、今後国民に改正案を遵守させることができるのでしょうか? おそらく、政治家や官僚は、自らは「公共の精神」を遵守せず、国民に対してだけ「公共の精神」を強いることになりかねないのです。
(4)
「「連合国軍総司令部の占領統治下で制定された」「制定から約60年も経過し、時代の変化に応じて見直す時期にきた」といった論拠でも共通点が少なくない。
しかし、法律の本体よりむしろ、占領下の制定という過程や背景を問題視するのであれば、最終的に反対論や慎重論を多数決で押し切ろうとする今回の改正もまた、「不幸な生い立ち」を背負うことにはならないのか。」
安倍首相が述べる改正理由は、占領下で教育基本法が制定された点です。しかし、法律案を改正する場合は、すべて法律内容に妥当でない点からあるから改正するのですから、今回の教育基本法は、法律内容よりも制定過程に問題があるから改定するという、非常に奇天烈な改正なのです。
そればかりか、「最終的に反対論や慎重論を多数決で押し切ろうとする今回の改正」は、「民主主義においては少数意見(とくに政治的少数派の意見)の尊重が大切である」(内野正幸「憲法解釈の論点」17頁)ことに反した改正なのです。こんなことは、占領下での教育基本法制定でもなかったことですから、占領下に制定された現行法以上に、改正案は「不幸な生い立ち」を負ってしまっているのです。
教育というものは国民の将来・国益を左右するものですから、より劣悪化した教育基本法改正案が成立することは、国民の将来・国益に不利益に及ぼすことが予想され、より荒廃した子供・大人たちが溢れる社会が到来することになります。
自民党や安倍首相にとっては、教育基本法改正は大願成就といえるのでしょうが、教育基本法改正後、具体的にどう教育改革を行うのか、国会においてほとんど議論していません。自民党や安倍首相にとっては、一番困難で議論が分かれる、具体的な教育改革は二の次なのです。市民にとっては、具体的な教育改革こそ大事であるのに。
小島裕史裁判官は、3人と法人「(同罪成立の前提となる)国土交通相の報告要求がなかった」と理由を述べましたが、一方で、三菱自の報告の一部に隠ぺいや改ざんがあった事実を認定しました。この報道について紹介したいと思います。
1.新聞報道から幾つか。
(1) 朝日新聞平成18年12月14日付朝刊1面
「三菱ふそう元会長ら無罪 虚偽報告踏み込まず 横浜簡裁
2006年12月13日13時23分
三菱自動車製大型車の欠陥をめぐる道路運送車両法違反事件の13日の横浜簡裁判決で、小島裕史裁判官は、元三菱ふそうトラック・バス会長(当時、三菱自副社長)宇佐美隆被告(66)ら3人と法人としての三菱自をいずれも無罪とした理由について、同法に基づく国土交通相の報告要求が存在せず、犯罪は成立しないと説明した。検察側は控訴する方針。
三菱自側の報告が虚偽の内容だったかどうかが焦点だったが、小島裁判官はこの部分の認定には踏み込まなかった。
この件をめぐる民事訴訟では今年4月、横浜地裁が同社の欠陥隠しや虚偽報告を認定し、被害者側への慰謝料支払いを命令(原告側が控訴)。一連の欠陥車問題に絡む刑事裁判は3件あり、判決は今回が初めて。
ほかに起訴されていたのは三菱自の元常務花輪亮男被告(65)と元執行役員越川忠被告(64)。
母子死傷事故は02年1月10日に起きた。横浜市瀬谷区で、走行中の三菱自製大型車の「ハブ」が破損、外れた左前輪の直撃を受けた岡本紫穂さん(当時29)が死亡、子ども2人がけがを負った。
検察側は、ハブ自体の欠陥が疑われたのに、三菱自側が02年2月1日、「破損は整備不良による摩耗が原因で0・8ミリ以上すり減ったハブを交換すれば安全だ」と国交省側に虚偽の説明をした、と主張。それぞれに罰金20万円を求刑していた。
判決は、同年1月16日に三菱自の品質管理部門が不具合40件の一覧表を国交省に提出する際、0・8ミリ未満の摩耗で車輪が脱落した事例9件を削除したり摩耗量を多く書き換えたりして提出した、と認定した。
ただ、うその説明だったかどうかについては「国交省に隠蔽(いん・ぺい)した9件については02年2月1日当時、三菱自が指摘する整備不良や過酷使用などを疑わせるデータはなかった」と客観的な事実を認定するにとどめ、判断を示さなかった。
一方で、判決は道路運送車両法違反にあたるかどうかを検討。事実関係について「国交相が同法に基づいて三菱自に報告要求をすると意思決定したり、同省リコール対策室が国交相の名による報告を求めたりしたと認めるべき証拠はまったくない」と述べ、「報告要求が存在したとは証拠上認めがたい」と結論づけた。」
(2) 東京新聞平成18年12月14日付朝刊28面
「重大に受け止めよ
企業倫理に詳しい高巖(たかいわお)麗澤大教授
無罪判決ではあるが、データの隠ぺいがあったことを認めている。このことは三菱自動車全体として重大に受け止めるべきだ。問題になった大型車は一般の消費者から遠い存在だが、だからといって欠陥を放置すれば結局は消費者の安全をおびやかすことになる。無罪だからとあぐらをかくのではなく、三菱自はまったく新しい会社をつくるつもりで努力しなければ、社会的支持も得られないし、遺族も納得しないだろう。
がっかりする判決
製造物責任(PL)法に詳しい中村雅人弁護士
国民の立場から見れば、とてもがっかりさせられる判決だ。道路運送車両法はリコール勧告の要件として報告を求めているのであり、うその報告でリコールにならなかった場合、結果として国民の安全が守られないことになる。ただ判決では三菱自が2000年のクレーム隠し事件以降、信用回復を図るべき時期にうその報告をしていることは認定した。無罪とはいえ、倫理観にかけた企業だったということは明らかになった。」
2.無罪判決となったのですから、遺族にとって憤りを感じる結果となりました。それに、国民の立場から見ても、とてもがっかりさせられる判決でした(中村雅人弁護士談)。道路運送車両法はリコール勧告の要件として報告を求めていて、うその報告でリコールにならなかった場合、結果として国民の安全が守られないことになるからです。
結論はもちろんですが、この判決の問題点は現実無視の判断をした点です。
「「報告要求存在せず」 国交省は困惑
国にうその報告をしたとして道路運送車両法違反罪に問われた三菱自動車と元幹部3人に、無罪を言い渡した横浜簡裁判決。「国土交通相から正式な報告要求がなかった」との理由に、ある国交省幹部は13日、「霞が関の仕事の実態を理解していないんじゃないか」と困惑を隠さなかった。
国交省がユーザーから入手する車両の不具合情報は、年に約5千件。高速道路会社や警察からも路上落下物や事故の情報を入手し、メーカーに確認してリコールの要否を判断する。
三菱自元幹部らが逮捕された2004年以降、リコール対策室の職員は14人に倍増されたが、メーカーとのやりとりは電話やメールで行うのが実情だ。
「1つ1つ大臣の決裁を取っていたら仕事にならない。実務担当者が大臣権限を行使できないとすれば、すべての役所で仕事の進め方を根本的に変えなければならない」と幹部。メーカーの担当社員も「余計な文書が増えれば、迅速なリコール業務の阻害要因になりかねない」と危惧(きぐ)する。
三菱自の事件後、国交省は、自主的な報告に依存していた“メーカー性善説”を改め、事故につながる不具合情報の3ヶ月ごとの報告を義務化。販売店への抜き打ち監査を実施したり、メーカーの技術系OBを外郭団体で採用し、技術検証部門も発足させたりした。
ただ、リコール制度に詳しい杉浦直樹弁護士は「メーカーは不都合な情報を隠す時は隠す。メーカーOBに依存した不具合の検証では公正さを担保できず、改革は不十分」と指摘している。」(東京新聞平成18年12月14日付朝刊29面)
要するに、リコール業務は、メーカーとのやりとりは電話やメールで行うのが実情なのに、その1つ1つに大臣の決裁を取るなんて非常に難しいのです。現状のままで運用するしかないのですから、今後も、同様のことがあっても、ほとんど無罪となってしまう結果となり、規制した意味がなくなってしまい、不合理です。
判決は、国交省の手続きを厳しく要求したわけですが、そうなると、
ように、かえって会社の業務にも支障を来たす可能性があり、その結果、死傷者を生じるような欠陥が放置され、国民の生命身体の安全が脅かされるのです。不合理な論理に基づく判断だと考えます。メーカーの担当社員も「余計な文書が増えれば、迅速なリコール業務の阻害要因になりかねない」と危惧(きぐ)する
3.この判決以上に問題と感じたのは、弁護団が次のように反応した点です。
「被告ら安堵の色 三菱側弁護団「当たり前」余裕
三菱ふそう元会長、宇佐美隆被告(66)ら3人は、判決言い渡しの「無罪」の言葉に表情は崩さなかったものの、席に戻る際、弁護団に軽くいなずいて見せた。
判決理由が読み上げられる中、宇佐美被告はじっと目を閉じたまま。隣の三菱自元上級執行役員、花輪亮男被告(65)はやや顔を上気させ、同元執行役員、越川忠被告(64)は裁判官をじっと見つめていた。閉廷すると弁護団からに歩み寄り、一様に微笑に笑みも浮かべた。
政木道夫弁護士ら3被告の弁護団は判決後、横浜市中区で記者会見し、「法を的確に運用した裁判所に敬意を表する。犯罪の要件を検討しないまま不当な逮捕に及び、2年以上の裁判を通じてわれわれを苦しめた警察、検察に猛省を求める」とする3被告のコメントを読み上げた。
弁護士らは「初公判から報告要求は存在せず、無罪と主張してきており、当たり前の判決だ」と余裕の表情。検察の捜査手法について「結論ありきで、容疑者や被告の話を素直に聞く姿勢に欠けていた」と厳しく批判、マスコミにも「最初から悪人扱いの報道は反省してほしい」と語った。
一方、破損事例9件について国土交通省への隠ぺいが認められたことについて、「強度不足を疑って隠したとは判決は認めてない。3人は隠ぺいしていないし、当時リコールが必要だとも思いはしていない」と反論したが、詳細については「よく分からない」と歯切れが悪い場面もあった。」
被告人が無罪判決を喜ぶのは当然のことで、弁護士も無罪を求めている以上、無罪を喜び、警察・検察批判をするのもよくあることです。マスコミ批判をすることもまた、よくあることと思います。
しかし、起訴された切っ掛けは、2002年1月10日、横浜市瀬谷区の県道で、走行中の三菱自動車製のトレーラーの車軸と車輪をつなぐ金属部品のハブが折れ、脱落した左前輪(直径1メートル、約140キロ)が坂道を約50メートル転がり、歩道を歩いていた岡本紫穂さん(29)の背中を直撃して、岡本さんが死亡、手を引いていた長男(4)とベビーカーの2男(1)が頭や手に軽い怪我をしたためです。
被告人や弁護士が無罪を喜んだとしても、三菱自動車の欠陥によって死んだ者がいるのです。三菱自動車の元幹部として、警察・検察・マスコミ批判は遺族を余計に悲しませるとは思わないのでしょうか? 三菱自動車の欠陥があり、それによって死傷者が生じた結果は揺るがないのですから、人の安全を確保すべき自動車メーカーの幹部としては、手放しで喜んだり、他者を批判すべき立場にないのです。
横浜母子3人死傷事故の遺族が起こした民事訴訟で、三菱自は、虚偽報告を認定、損害賠償を命じた横浜地裁判決を受け入れているのですが、一転して、刑事事件では、幹部は責任を否定するのですから、会社の意向は表向きのものにすぎず、欠陥を会社ぐるみで隠していた三菱の幹部の意識は変わらず、今後も幹部は欠陥を隠し続けるのだろうと思わざるを得ないのです。
無罪判決に喜び、警察・検察・マスコミ批判を行うことは、それを見ている遺族、たまたま遺族にならずに済んだ多くの市民に対して、「企業の社会的責任は感じないのだろうか? 命を奪う結果に対する反省は皆無なのだ」と意識させてしまうのです。
弁護士は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命」(弁護士法1条1項)としています。政木弁護士らは、「当時リコールが必要だとも思いはしていない」と述べていたようですが、死傷者が生じるような欠陥であったのですし、一連のリコール隠しもあったのですから、リコールが必要なものであったことは事実なのです。リコールせずに、どんどん死傷者が生じるような欠陥を放置することは、社会正義を実現することにはならないのです。
このように、三菱自動車は会社としては、社として独自の陳述ができない以上、死傷を生じたことへの反省はあることは確かです。「三菱自動車は1日、「道路運送車両法の両罰規定では、社として独自の陳述は行えない」などとする多賀谷秀保社長名のコメントを出した。しかし、否認はあくまで「社の法的立場」とした上で、「亡くなった方へのおわびの気持ちはいささかも変わらない」とした。」((2004年9月1日 読売新聞:YOMIURI ONLINE)
しかし、3被告人の弁護団の記者会見内容からすると、3被告人は自動車会社としての社会的責任をより自覚すべき立場であったのに、最後の最後ではまるで責任なんかなかったかのように振る舞い、弁護人もまた、企業の社会的責任を自覚せずに、非難する側(警察・検察・マスコミ)が悪いと言い立て、それを怒りの感情で見ていた遺族やたまたま遺族にならなかった消費者の感情を逆なでするような視野狭窄な態度を示したのです。
こうなると、三菱自動車の幹部は、本音のところでは安全を軽視し、企業の社会的責任は無視してしまうのでしょうから、今後も三菱自動車の「安全を軽視する企業体質」は変わらないのだと思います。今後二度と三菱自動車を購入することはないと、心に深く誓いました。
病気腎移植については、報道では日本移植学会の見解を引用することが多く、また、万波医師に対するインタビュー記事も、記者の批判的な思い込みもあり、つまみ食い的にコメントを取り上げるため、一方的な理解になりがちです。そこで、主として、徳洲会グループの「腎臓移植医療について」から引用していくことにします。
1.徳洲新聞 2006年(平成18年)11月20日 月曜日 No.545 3面より
「●疾患腎移植について万波副院長が見解を公表
11月2日、愛媛県の宇和島徳洲会病院の倫理委員会は、2004年4月の開院から今年9月までの腎移植78件について調査した結果、そのうち11例が病気のために摘出された腎臓が使用されていたと発表。それに関連して7日、同院では疾患腎移植について説明する記者会見が開かれ、万波誠・副院長(泌尿器科部長)が疾患腎を移植に用いる理由や意義についてまとめた以下の文書を公表した。同副院長は約1時間半にわたり、症例ごとの説明を行った。
「破棄される腎臓の再利用について」 万波 誠
今、利用できる腎臓なら元に戻すべきであるという議論がなされています。私達、泌尿器科医の仕事の一つはできる限り腎臓摘出をさけることです。患者の腎臓の状態が悪くても、それを治療し患者の体内に残すこと、すなわち腎臓摘出をしないことが大切です。これは私達の基本的な姿勢であります。
しかし、どう考えても腎臓摘出が必要な場合に遭遇することがあります。例えば、腎臓癌は画像上の診断で、4cm以上あるときは根治的腎摘をするのが一般的になっています。4cm以下の場合は腎部分切除をして、腎臓を残すことになっています。
特に2〜3cmの小さいものになると腎部分切除術の対象になるわけです。私も今までにそういった症例を20例以上は経験しましたが、いまだかつてその腎臓に癌が再発した症例に遭遇したことはありません。
それでも患者によっては癌のある腎臓はどうしても切除して欲しいと強く要望されることが稀にあります。腎癌が小さく、再発のリスクが低いことを詳しく説明しても、癌の再発の可能性を危惧し、患者自身が腎摘を強く希望されることがあります。そういう偶発的な腎摘があれば、その腎臓を透析患者に再利用する可能性がでてきます。勿論、その腎臓を再利用する許可を受けなければなりません。その後、体外に摘出し、特殊腎保存液で4度前後で保存し、腎癌部分切除をします。この腎臓の移植を受けるレシピエントの透析患者には、この腎臓は癌を持っていた腎臓で、癌周辺の部分は完全に切除しているが、将来癌が再発する可能性が数パーセントある事を説明します。
このように患者との相互理解のうえでその腎臓を移植することになります。
次に、腎動脈瘤のことについて述べます。
腎動脈瘤が主腎動脈上にある場合は、比較的容易に瘤を切除することができます。腎動脈にパッチ等をあてることで修復できます。しかし、腎動脈瘤が腎門部に近い場合、又は腎門内に入り込んだり腎内にある場合は、切除する事が容易ではありません。その上、腎動脈瘤より小さい2〜3本の腎動脈枝がでていることが稀ではありません。その場合、手術は一層困難なものになります。
瘤をまず剥離し、そこからでている動脈枝を一本一本確認し、瘤を切除するわけです。その後、それらの血管を全て狭窄をおこさないように吻合しなければなりません。そういった困難な手術の場合、私は体外に腎をとりだし、顕微鏡下でそれらの血管吻合をすることにしています。それでもうまくいくとは限らず、吻合部狭窄、閉塞等の恐れはあります。そうやって、修復された腎臓は、多くは血管吻合、尿管尿管吻合、尿管膀胱吻合等をして、盲腸の近くに自家腎移植をします。手術時間は5〜8時間近くかかります。
若い人であれば耐えられますが、高齢者や状態の悪い人にとって、そういった長時間に及ぶリスクの高い手術は、相当な負担になります。そういった場合、主治医は簡単に腎摘を行うか、長時間に及ぶ複雑かつ困難な手術を行うかの選択に迷います。
対側の腎臓が健全なら、その瘤のある腎臓を摘出した方が患者にとってプラスになります。なぜなら腎摘出は1〜2時間で比較的容易になされるからです。
基本的には修復できる腎臓は修復し、その患者に戻すことが大原則であることは間違いありません。
ただ、ひと言で修復といっても、簡単なものから、困難なものまで非常に大きな幅があり、また、その修復を行う医師の技量や経験も大いに関係します。
一つ方針を間違えば、患者を大変な苦境におとしいれることにもなります。
また、腎癌に対する患者の反応も一様ではありません。
修復し、残せる腎臓はその患者に残すべきであるということはその通りだと思います。しかしその過程において、患者は必ずしも一様の反応を示すわけではありません。
こういった難しい選択の問題は、今始まったことではなく、何十年、何百年前より医師につきつけられた事だと思います。
最近では医療技術の著しい向上や、すぐれた腎保存液により長時間(72時間)臓器が保存できるようになったこと、また、腎移植で使用する免疫抑制剤が、飛躍的に改善されたこと等により、今まで全て破棄されていた腎臓が少数ではあるが有効に再利用されるチャンスがでてきました。医療行為が続く限り、一般手術の上で腎摘はさけられません。その中でも再利用され透析患者に移植される腎職は非常に少なく、数パーセントしかありません。
しかし、この腎臓を使用することにより、透析患者が1人でも、2人でも、透析から解放されるのであれば、生体腎移植、死体腎移植に続く第3の道(大変細い道ではあるが)として、このような医療行為も残っていてもいいのではないかと考えます。」
2.この公表した見解は、万波誠医師によるものです。まずはご本人の見解を聞くのが常道です。ここでは、利用できる腎臓なら元に戻すべきであるという批判に対して、なぜ元に戻していないのかを詳しく説明しています。
(1) ここで重要な指摘は、
という点です。「基本的には修復できる腎臓は修復し、その患者に戻すことが大原則であることは間違いありません。ただ、ひと言で修復といっても、簡単なものから、困難なものまで非常に大きな幅があり、また、その修復を行う医師の技量や経験も大いに関係します。一つ方針を間違えば、患者を大変な苦境におとしいれることにもなります。」
修復して患者に戻す場合、技量や経験のある医師であっても、手術時間は5〜8時間近くになることもあり、そうなると、若い人ならともかく、高齢者や状態の悪い人にとっては、長時間に及ぶリスクの高い手術となってしまい、修復した腎臓を戻すための手術自体で、患者の死亡につながってしまうのです。だから、そういうリスクの高い手術になりそうな場合は、元に戻さないという選択を採用したのです。
「利用できる腎臓なら元に戻すべきである」ことは確かですが、元に戻す手術をして患者を死亡させてしまったら無意味なのです。「手術は成功したが、患者は死亡した」では、ある種の外科医にとっては満足であっても、患者やその家族にとっては死亡を招く手術は無意味なのです。
人体についても、電気製品のように部品を修理すれば元に戻せる、元に戻すべきであると思ったら大間違いです。すべて「利用できる腎臓なら元に戻すべきである」などと思うようでは、それは人体をあたかも電気製品のように考えているものであって、移植医療の知識が著しく不足しているのではないか、ということなのです。
(2) 万波誠医師は、
と述べていますが、万波誠医師自体は非常に優れた技量を持っているのです。「修復を行う医師の技量や経験も大いに関係します」
「手術が始まると細々した所で、万波流のやり方が見られます。
とにかく丁寧。
でも無駄に丁寧なのではなく、ロスがない。
従って、手術が早く進む。
そして、視野が広い。
前立腺の手術は、骨盤の一番奥にある所で操作するので、なかなか視野がとれないのです。
それが、一番難しい尿道と膀胱の吻合なんか、まるですぐそこにあるかのように、
はっきり見えるのです。
また普通は尿道の全周を糸針をかけ終わってから、糸を絞めるのですが、
万波先生は普通の縫合のように、1回ずつ縫っては締めていくのです。
「な、この方がやり易いじゃろ。」
と言われても、私たちにはまねできません。
当時の部長が、一度それをまねようとしましたが、当然できませんでした。
私は一度も試みてません。
どうせできませんから。
結局手術は2時間ほどで終わりました。
私たちの半分しか、かかりませんでした。」(「ちんぽこ先生の診療日誌」さんの「12月11日(月):万波誠先生 2」から一部引用)
こういった記述を読むと、元患者が万波誠医師に対して、「ブラックジャックの腕を持つ現代の赤ひげ」と評していたりしますが、少しも誇張ではないようです。万波誠医師が「な、この方がやり易いじゃろ」と言うように、万波医師にとっては簡単にできることであっても、他の医師はまねできないなんて、すごいことだと思うのです。
これほどの優れた技量を持つ医師が、病気腎移植を行っているということに注意しておく必要があります。というのは、万波医師が行っていた病気腎移植は、万波医師だからこそできた場合がかなりあると思われますから、並みの医師では一つもできない可能性があり、優れた医師であっても万波医師ほどにはできない可能性が高いと思えるからです。
病気腎移植は、第3の道として可能であるとしても、実行できる医師は非常に限られてくるかもしれません。万波医師自身が、病気腎移植は
と述べているように、「ブラックジャック万波」氏でさえ大変細い道であると自覚しているのですから。「生体腎移植、死体腎移植に続く第3の道(大変細い道ではあるが)として、このような医療行為も残っていてもいいのではないか」
しかし、本当に成立させてよいのでしょうか? 東京新聞12月10日付朝刊「本音のコラム」で、評論家の藤本由香里氏が教育基本法改正についてコメントしているので紹介したいと思います。
1.東京新聞平成18年12月10日付朝刊27面「本音のコラム」
「男女平等の終わり? 藤本由香里(ふじもとゆかり)
憲法から「男女平等条項」を削ろうという動きがあるらしいよ、と聞いて、「いったいどこの野蛮な国の話? 仮にも国際国家でそんなこと!」と思ったのは数年前。
6日、千葉県市川市の市議会で、2002年に全会一致で可決された「男女平等基本条例」が廃止され、新たに保守系4会派のみで作った「男女共同参画社会基本条例」が40人中22人の賛成で可決された。
新しい条例は、旧条例の<1>ジェンダー<2>積極的格差是正措置<3>相談窓口・苦情処理体制―などの条文を削除し、新たに「男女の特性の尊重」「父性・母性の役割重視」などを定めたことが特徴だという。そして今まさにこれも数の力で押し切ろうとされている新しい教育基本法からは、現行の第5条「男女共学」=「男女は、お互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認めなければならない」が削除された。
これはすでに日本女性学会が緊急声明を出して指摘している通り、男女は違うのだから別の教育を受けて当たり前、と男女をことさらに区別した教育を展開させる誘引になりかねないと思う。新教育基本法の理想は「男女がお互いの特性を生かしあい、国を愛し、公のために個人を抑える国民」―しかしいったい、本当に皆そんな社会を望んでいるだろうか。
このままだとホント、とんでもないことになりかねないよ。 (評論家)」
2.このコラムで引用している、日本女性学会の緊急声明とは、つぎのようなものです。
「日本女性学会 教育基本法「改正」に関する緊急声明
11月16日、教育基本法改正案は、野党欠席という異常事態の下、自民・公明の連立与党による単独採決によって衆議院を通過し、現在、参議院での審議に入っている。教育に関わる憲法とも言われる重要な法律の改正が、十分な審議を尽くさないままに遂行されようとしていることに対して、日本女性学会はここに声明を発するものである。
今般の教育基本法「改正」の与党案については、実に多くの個人および団体から疑問や反対意見・声明が提出されており、議論すべき点は多方面にわたっている。改正案には、日本女性学会が結成の柱とする「あらゆる形態の性差別をなくす」という観点からも、看過できない種々の問題点がふくまれている。
まず、現行第5条「男女共学」(「男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない」)の削除は、教育分野における男女平等の根幹をゆるがすものである。この条項は、戦前の学校教育システムが男女別学・別学校体系により女性差別を制度化していたことへの反省に基づき、男女共学の基本を謳ったものである。現在もなお、高等教育進学率における男女間格差や、後期中等教育および高等教育での専攻分野における男女比率のアンバランスなど、就学経路上の男女平等を確立する課題は山積している。女性学研究は、そうした就学経路上の男女格差が社会的・文化的に生み出されるプロセスや、教育における男女間格差が雇用などの性差別の問題とつながっていることなどを明らかにしてきた。第5条の削除は、それらの課題解決の進展を阻むのみならず、男女特性論に基づいた公立の別学校を新たに誕生させるなど、男女をことさらに区別した教育を展開させる誘因になるのではないかと強く危惧する。
その危惧は、現行法には存在しない「家庭教育」と「幼児期の教育」という二つの新設条項についてもあてはまる。「父母その他の保護者」の「子の教育」に関する「第一義的責任」をさだめた第10条「家庭教育」と、「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものである」と謳った第11条「幼児期の教育」は、教育や福祉の分野を、国家の責務から「家庭」の責務に転換していく方向性をもつものであり、さらには「母性」や固定的な性別役割分担の強調につながる危険性がある。
一方、改正案は、第2条「教育の目標」第3号(「正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」)の中に、現行法には含まれていない「男女の平等」という理念を掲げている。しかし、そもそもこの第2条そのものが、国民に求められる「徳目」をさだめる性格をもち、私たちの精神的自由を侵す危険性をはらんだものである。男女平等は国民にとっての権利であり、名宛人を国家とする教育基本法においては、「教育上男女の平等は保障されなければならない」といった国家の責務をさだめる条項として位置づけられるべきである。にもかかわらず、改正案における「男女の平等」は、国民にもとめられる「徳目」として掲げられており、その位置づけには大きな疑問が残る。
同じく第2条第5号(「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」)は、愛国心を強制するものとして幅広い抗議を巻き起こしているが、この条項については性差別の撤廃という観点からも、重大な問題がある。この条項に含まれる「伝統と文化の尊重」という文言は、近年のジェンダー・フリー・バッシングのなかでさかんに使われているフレーズであり、「伝統や文化」といった多義的でしかあり得ない概念によって定義された「教育の目標」条項が、今後政治的に利用されていく可能性は極めて高い。
その可能性は第2条全体に対して言えることであり、この条項と、現行法第10条「教育行政」を「改正」した第16条第1項(「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」)とが連動することにより、「教育の目標」に沿わないと解釈された教育実践や教育運動は、「不当な支配」に相当するものとして排斥されていくだろう。現行の教育基本法第10条が、戦前の反省を踏まえて目指した、国家権力の中枢に近いところに位置する「官僚とか一部の政党」(昭和22年3月14日衆議院・教育基本法案委員会・政府委員答弁より)による「不当な支配」の排除とは、まったく逆の方向への「改正」と言わざるを得ない。
多くの課題を残したまま、広範な抗議の声を無視して、政府与党は、近々12月8日にも教育基本法改正案の成立を目指している。日本女性学会は、性差別の撤廃という設立の趣旨を貫く立場から、今般の教育基本法「改正」の動きに強く抗議するものである。
日本女性学会 第14期 幹事会
2006年12月 1日」
3.教育基本法改正案は、現行の教育基本法5条(男女共学)を削除して、「男女の平等」という徳目として法案2条3号に組み入れることになりました。削除したのは、中教審答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」(2003年3月20日)によると、「男女共学の趣旨が広く浸透」し、「性別による制度的な教育機会の差異もなくなっている」ことが理由です。
しかし、国際的には女性差別撤廃条約10条で男女共学は男女平等を促進し、「すべての段階及びあらゆる形態の教育における男女の役割についての定型化された概念の撤廃」のために最も有効な手段として位置付けられています。
にもかかわらず、5条を削除するのですから、「男女平等という理念を具体的に実現する教育制度上の原則を欠くもの」(日本教育法学会編「法律時報 教育基本法改正批判」96頁[女子栄養大学・橋本紀子]となってしまいます。
日本女性学会は、
と指摘しています。要するに、雇用、賃金、年金、家事育児時間、政策決定への参加などは、特に男女格差が大きいものです。男女共学規定の削除は、両性の対等平等な社会を遠ざけるものではないかと危惧されるのです。「現在もなお、高等教育進学率における男女間格差や、後期中等教育および高等教育での専攻分野における男女比率のアンバランスなど、就学経路上の男女平等を確立する課題は山積している。女性学研究は、そうした就学経路上の男女格差が社会的・文化的に生み出されるプロセスや、教育における男女間格差が雇用などの性差別の問題とつながっていることなどを明らかにしてきた。第5条の削除は、それらの課題解決の進展を阻むのみならず、男女特性論に基づいた公立の別学校を新たに誕生させるなど、男女をことさらに区別した教育を展開させる誘因になるのではないかと強く危惧する。」
女性男女問わずどのように人生を設計するかは各人の自由ですし、男女問わず各人の個性・自律を尊重してこそ、憲法13条が自己決定権を保障した趣旨にかなうものです。そして、女性差別撤廃条約10条があるように、国際的にも両性の対等平等性を認める意識があるのです。
そうなると、男女共学規定を削除し、男女の性別役割を強調する方向へ進むことは憲法上も国際的にも不合理であり、そういう意識を持った日本人が増加すると対外的に不必要な衝突を招く可能性が増大してしまいます。今後の国際社会における日本のあり方として、男女共学規定の削除は妥当でないのです。
男女共学規定の削除はジェンダーフリー教育批判が背景にあるのでしょうが、ジェンダーフリー教育の具体例自体について議論し妥当性を検討すればよいのです。それを男女共学規定削除にまで結びつけることは、有害無益であると考えます。
だいたい、「男女をことさらに区別した教育を展開」させてどうしようというのでしょうか? 賛同する市民もいるとは思いますが、今の日本社会において、実際上、そんな価値観で教育を行ったとしても、かなりの市民から反発を受けるだけでしょう。愛国心の強制と同様に、価値観を押し付けても、余計に反発を受け、政府に対する不信感を抱く国民が増大する結果になってしまうはずです。
価値観の押し付けに対しては、国内的には反発を受ける国民を増加させるでしょう。価値観の押し付けがうまく行けば、国内的には従順な国民が増えて、さらなる文化的・経済的な発展に寄与する可能性が減ってしまいますし、他方で、国際的には、国際社会において男女の性別役割の強調を押し付けるような、問題を起こす国民が増えることになりかねません。どうも今の政府(自民党・公明党)が実行することは、日本国の衰退に寄与するもののように思えてなりません。
1.朝日新聞12月8日付夕刊6面「時評圏外」(井上トシユキ)
「変わらぬ「堀江節」に錯覚
12月になると街の空気が一変する。クリスマスソングが鳴り響く中、歳末セールなどという文字を見ると、やはりせわしない気持ちになってくる。今年も1年を消費してしまったのだな、と感慨もひとしおだ。
そんな師走の最初の日曜日、「サンデープロジェクト」(テレビ朝日系)に堀江貴文被告が生出演した。堀江被告の公判を傍聴しているから、顔や声それ自体は慣れているはずなのだが、テレビ画面に映る彼を見て、なぜか懐かしいという気持ちになってしまった。
田原総一朗氏が敷くレールにうまく相乗りし、選挙戦で鍛えられた演説芸を存分に発揮しながら、言いたい放題に検察批判を続ける堀江被告。そんな彼をお客さん扱いのまま、鋭く切り込むことも特にない田原氏。宮内亮治被告に「愛人がいた」とリップサービスまで加えつつ、自らの保身にきゅうきゅうとする堀江被告を狂言回しに、安っぽい権力批判ショーが繰り広げられる。
いまどき珍しい、予定調和の進行にも懐かしさがこみ上げる。新自由主義のヒーローと持ち上げ、一転たたいた後、今度は反権力の象徴に駆り立てるということか。
ライブドアに強制捜査が入ったのは1月16日、堀江被告の逮捕が1月23日。以後、彼の生の姿は目に触れなくなった。
そして4月27日、保釈時の様子が放映され、動くホリエモンを久々に見た。だが、それっきり。その間、大きな事件が立て続けに起きた。大型談合事件、北朝鮮の核実験、子殺し、若者の自殺。
そんなことは、まるで関係ないかのように、言いたいことだけを変わらない早口でまくしたてる堀江被告。テレビに向き合いながら、時空がゆがんだ錯覚にとらわれてしまう。
浦島太郎なのは、テレビの前のわれわれなのか、テレビのなかの堀江被告なのか。 (ジャーナリスト)」
2.このサンデープロジェクトを直接見ていないので、公平性を期すためもう1人の感想も挙げておきます。
「『サンデープロジェクト』(3日・朝日)
この時期、ライブドアの前社長である被告に自由に語らせる意図に疑問を持った。案の定、自分の立場を擁護する発言や空元気じみた強弁に終始した。途中で進行役がうまく話のかじを取ろうとしたものの不発に終わった。何かきわものめいた取り上げ方はすっきりしなかった。」(東京新聞12月9日付朝刊14面投書欄から)
どうやら井上トシユキ氏と同じ感想のようで、こういった印象が多数のようです。
(1) 田原総一朗氏が電波芸者で、ずっと前から堀江氏の太鼓持ちであることは公知の事実でしょう。朝日新聞系は、テレビ朝日だけでなく、『週刊朝日2006年12月15日号』(表紙まで堀江氏。)、『AERA06年12月11日号』でインタビュー記事を載せて、持ち上げるというように念の入った持ち上げ方です。
田原氏に羞恥心というものはないとしても、朝日新聞系でここまで太鼓持ちするなんて、社内において誰もおかしいと思わなかったのでしょうか? 朝日新聞が建前としてでも反権力を打ち出すのは立派だと思いますが、「安っぽい権力批判ショー」をしている堀江氏を持ち出すなんて、反権力で有名人なら誰でも良いような無節操な印象を受けてしまうのです。
おかしいのは、同日発売(12月4日発売・駅では共に月曜発売)の『週刊朝日』と『AERA』の両方で「独占インタビュー」と銘打っている点です。同じ系列で2つの雑誌で掲載していて「独占インタビュー」になるのでしょうか? 堀江氏に騙されたのでしょうか?
(2) 田原氏と『AERA』の大鹿靖明記者は、雑誌の対談で「ホリエモンは『無罪』だ!」と擁護論をブチ上げた二人であり、堀江氏もずっと無罪を主張しています。このように今でも無罪とする主張もあるようです。
しかし、週刊文春12月14日号「ホリエモン『被害者ヅラ』を許すな!」30頁の記事によると、
「元最高検検事の土本武司・帝京大学客員教授の解説。
彼が「非がない」と主張しても犯罪の客観的事実はある。あとは故意の証明が必要だが、本人の供述がなくても、宮内ら共犯者の供述で堀江被告の故意は認定できるのです」
「粉飾決算を行うために投資事業組合を通じて自社株を売却して利益を付け替えた手法についても、「知らなかった」と堀江被告は主張する。
堀江被告にインタビューしたこともあるジャーナリストの井上トシユキ氏はこう語る。
「取材のとき、彼は経済や金融の原理原則を分かって経営していると言っていましたが、それを今になって基本的には宮内さんがやっていたとか、自分は広告塔でしたとか、あのときの話は何だったんだと思いますよ」
この点はついてはLD元幹部も呆れる。
「彼は商法上の代表取締役であり、最終的な責任者ですから『知らなかった』と言っても通用しない」
だが、鉄面皮のホリエモンはこう言ってのける。
「何でもかんでも社長が責任を取らなければいけないのなら、社長はやる人なんていなくなりますよ」(『NEWS23』)
このように、堀江被告人が「粉飾決算の事実を知らなかった」といっても、共犯者が「知っていた」と供述している以上、故意を肯定できますし、そもそも商法上(会社法上)「知らない」といっても通用しないのです。なぜ弁護団がこんな言い訳にならないような言い分の垂れ流しを認めたのか、不思議に思います。
(3) 裁判官はどう思っているのでしょうか? 週刊文春12月14日号33頁には、小坂裁判長が被告人質問を行った様子を詳しく引用していますが、結局は、こう言うのです。
「裁判長は苦笑しながら言うのだった。「そうすると、どこまであなたの記憶が正確か、わかない」と。
このように、裁判長は、堀江被告人が肝心な部分は「知らなかった、記憶を再生できない」という発言は信用できないと評価しているのです。
こうなると、堀江氏に対して有罪判決が下される可能性が高いというべきでしょう。
3.ほぼ有罪と分かっているのに、田原氏は、堀江氏を「お客さん扱いのまま」「反権力の象徴に駆り立て」て、「自らの保身にきゅうきゅうとする」堀江氏の言い分を垂れ流し、「安っぽい権力批判ショー」を行ってみせるのです。
堀江氏の言い分だけを垂れ流すテレビ番組だったとはいえ、「大型談合事件、北朝鮮の核実験、子殺し、若者の自殺」などの重大な社会問題には無関心のように、堀江氏は言いたいことだけを昔と同じように早口でまくし立てるのを聞くのです。
テレビで喋り捲る堀江氏を見た井上トシユキ氏は、
と述べています。「テレビに向き合いながら、時空がゆがんだ錯覚にとらわれてしまう。浦島太郎なのは、テレビの前のわれわれなのか、テレビのなかの堀江被告なのか。」
要するに、少し前と異なり、今は誰しもいじめ自殺や教育基本法改正問題、やらせ質問など、社会問題について関心を向けているので、自分の言い分だけをまくし立てるような社会性の欠けた発言は、遠い過去の出来事のような気持ちになってしまうのです。
当の昔に輝きを喪失してしまって過去の人になっている田原氏と、今でも自分だけの堀江氏。こんな二人のテレビ出演だっただけに、「いまどき珍しい、予定調和の進行」であれば余計に、過去の人のような意識や時空が歪んでいるような意識が生じてしまうのでしょう。
堀江氏をみて過去の人と思えるでしょうか? 堀江氏を反権力の象徴扱いするのは愚かなことだと感じたでしょうか? 堀江氏の発言を安っぽい権力批判と思えるでしょうか? 堀江氏や堀江氏の言動を見てどう感じるかによって、どれだけ社会問題に関心があるのか、どれだけ物事を冷静に判断できるのか、のリトマス試験紙になっているように感じます。
1.「東京新聞平成18年12月7日付24・25面「こちら特報部」」
「SOS臓器移植 ルールと課題提言
宇和島徳洲会病院の臓器売買事件が新たに波紋を広げている。5日の初公判で、患者と仲介役の両被告が「(執刀医の万波誠医師に)臓器提供者(ドナー)が他人であることや対価についても話した」と証言、全面否定の万波医師と真っ向から対立しているためだ。求められる生体移植のルールづくりと課題は何か。自ら透析患者で精神科医の春木繁一・青葉クリニック院長(松江市)らに聞いた。 (片山夏子)
「移植したいと思う患者は必死だ。なかには、ドナーが夫婦や兄弟だとなりすますケースもある」。春木院長は三十四年間、東京女子医大で移植希望者や家族などのカウンセリングをしてきた経験をもとに、臓器提供者の見極めの難しさを指摘する。
移植を希望する夫婦の相談中に「移植のための夫婦関係」という情報が寄せられ、偽装夫婦を見破ったケースや、暴力団関係者が急きょ養子縁組をして、「親子だ」と移植を希望してきたこともあった。
「カウンセリングで偽装関係を見抜くには、病歴や家族構成や親せき関係、小さい時の愛称など、とにかく細かいことも語らせることが重要だ」という。
臓器売買事件が起きた背景の一つには、日本では臓器売買は行われないという前提があり、「親族間でも、お礼の意味で贈り物があったりするので、金品の授受を見抜くのは医療現場では不可能。カウンセリングなどでドナーと患者の関係を見抜くしかない」と力説する。
また、自らの臓器を提供する生体腎移植では、家族や夫婦間の移植でも複雑な感情が生まれたり、さまざまな人間関係があぶり出される。中には、離婚の原因になったり家族がぎくしゃくしたりすることもあるという。
「母親だから提供しなくてはならないと周囲の無言の圧力を感じて、嫌だと思いつつ、ドナーになる場合もある。大切なのは、ドナーが自発的かどうか、だ」と言い切る。
子どもへの移植手術の直前に、不安になって取りやめた母親も少なくない。「日本には、親は子どものために何でもするのが当たり前という神話が生きている」と春木院長はいう。
子どもが腎臓病になったのは親のせいだという、しょく罪感が母親本人に働くほか、家族や親類などの周りから責められる場合もある。十代の息子から「こんな体になったのは、おまえのせいだ。責任をとって腎臓くれ」と毎日のように暴力をふるわれ、「こんな思いをするなら」とドナーとなった母親もいた。「おれは仕事があるから母親のおまえが提供するのは当然」と夫から暗に言われたケースも。逆に離婚の慰謝料がわりに娘への臓器提供を夫に求めた母親もいたという。
夫婦間の移植では、手術前に夫婦別々に面接したところ、六十一組のうち十七組のドナー候補者が「提供したくないが、相手に言い出せない。ほかの理由で提供できないことにしてほしい」と告白したという。
結婚している兄弟や姉妹から提供を受ける場合、さらに複雑だ。妹への移植を申し出た男性が、妻の家族から強く反対され、移植はいったん中止となった。ところが、後日、透析に疲れた妹が自殺未遂したのをみた移植医が移植を再度勧め、結局、移植手術が行われた。だが、一カ月でうまくいかなくなり臓器を摘出した。「妹の家族も男性の家族関係もしっくりいかなくなった。こういうケースは無理に移植せず、透析をしながら時間をかけて家族間で調整していくしかない」
移植医は患者に肩入れすることが多いため、春木院長は「熱心な医者ほどそうなりやすい。だからこそ家族の心理などに詳しい専門家が、ドナーと患者双方の精神面をみることが必要不可欠」と指摘する。
家族間の移植は、臓器の提供を受ける患者側にも重い負担を強いる。
愛媛県で姉から腎臓をもらって移植手術を受けた四十代の女性は「離婚を考えた」と明かす。夫が提供を申し出たが夫の家族に反対されたためだ。「体がつらいだけではなく、何かにつけ、いろいろ言われて本当に苦しかった。嫁は他人だということを思い知らされた。知らない人の方が楽かもしれない」と振り返る。
同県八幡浜市に住む片山剛夫さん(60)は肉親に移植を言い出せず、十年前、万波医師の執刀で病気腎移植を受けた。妻にも、妻の家族のことを考えると移植を言い出せなかった。「ましてや親が子どもからなんて考えられなかった」
十四年前に父親、六年前に母親から移植二回を受けた主婦(40)は、父親からもらった腎臓が拒絶反応でだめになった時、「申し訳ない気持ちでいっぱいになり毎日泣いて暮らした」という。母親が提供を申し出てくれた時も、いったんは「透析はつらいが、もういいと思った」。今も母親の腎臓がだめになったらと考えると不安は強いが、「次に妹がくれるといってももらわない」と話す。家族間だからこそ患者が負い目を感じたり不安になったりして、移植後の生着に影響することもあるという。
「移植への理解を求める会」の向田陽二会長は「家族や遠い親せきよりも親しい友達が申し出てくれることもある。第三者間の移植もルールを作り、選択肢の一つとして可能性が広がれば」と話す。ただ、「次はおれが提供するよと言ってくれた親友が、『何であんたがあげなくちゃいけないの』と奥さんと大げんかになった」という事例を引用しつつ「本人が提供を申し出ても本当に難しい。お金でけりがつくなら楽だと思うこともある」という。
日本移植学会の倫理指針によると、生体臓器移植のドナーは六親等以内の血族と、結婚した相手の三親等以内の親族に限定されており、これに該当しない場合は各医療機関の倫理委員会で個別に承認を得るように規定する。
生体移植でドナーの範囲について、シンクタンク「科学技術文明研究所」は、臓器売買につながる恐れや近親者に提供が迫られるリスクなどを挙げ、学会よりさらに限定した「二親等内の血縁者または五年以上生活をともにした配偶者ないしそれに準じるもの」と提言している。
ドナーの身元確認は「家族以外の第三者による」ことが要件。ドナーが同じ家に一緒に住んでいる親族なら健康保険証でいいが、別所帯では「顔写真つきの公的証明書」での確認が原則。ただ運用は医療機関に任されており、共同通信の調査では、昨年十件以上の生体腎移植をした二十二病院のうち五病院が自己申告と保険証だけで身元確認を済ませている実態も明らかになっている。
移植患者や家族らの全国組織「日本移植者協議会」の大久保通方理事長は、「本来はドナー登録者を増やして死体腎の移植を増やすことが一番。医師や医療機関も、もっと移植医療の必要性を社会に訴えてほしい」と指摘。その上で、今回の売買事件についても「いいことではないが、移植を受けた被告は糖尿病で予後も悪く、死体腎がほとんど出ない現状の中で、仲介者の内縁の妻もかなり焦る気持ちもあったと思う」と推測する。
「(日本移植学会のルールのように)倫理委員会での認証を条件にするなどきちんとしたルールは必要だが、さまざまな形態の夫婦間も含めて、非血縁者の移植は閉ざしてはいけないと思う」と大久保さん。
ただし、売買ではないことが担保されるためにも、「精神科などの専門家がドナーや患者の相談を受ける体制が必要」と指摘しながら、こう説く。
「血液型や白血球の型などでも家族関係などの偽装は分かるが、ドナーが自発的に移植を希望しているかどうかも含めて、複数の専門家がドナーと患者双方から話を聞くことが必要だと思う」
<デスクメモ>生体移植でドナーの範囲を親族に限定しているのは、家族ならば、というのが根拠だ。裏返せば、親族以外の第三者なら、臓器売買につながるという考えだ。だが、売買事件は起こるべくして起きたし、親族間でも半ば提供が当然視されるデリケートな問題もある。事件は、身近な家族の在り方も問うている。(吉)」
2.まずは、生体臓器移植についての「日本移植学会倫理指針」、「生体腎移植に関する補遺」(PDF)を挙げておきます。
「〔二〕生体臓器移植
(1) 健常であるドナーに侵襲を及ぼすような医療行為は本来望ましくないと考える。とくに、臓器の摘出によって、生体の機能に著しい影響を与える危険性が高い場合には、これを避けるべきである。
1.例外としてやむを得ず行う場合には、国際社会の通念となっているWHO勧告(1991年)、国際移植学会倫理指針。(1994年)、厚生省公衆衛生審議会による「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針(ガイドライン)(1997年)などを参考にして、ドナーに関しては以下のことを遵守する。
(1) 親族に限定する。親族とは6親等以内の血族と3親等以内の姻族を指すものとする。
(2) 親族に該当しない場合においては、当該医療機関の倫理委員会において、症例毎に個別に承認を受けるものとする。その際に留意すべき点としては、有償提供の回避策、任意性の担保などがあげられる。また、実施を計画する場合には日本移植学会に意見を求めるものとする。日本移植学会は倫理委員会において当該の親族以外のドナーからの移植の妥当性について審議して、その是非についての見解を当該施設に伝えるものとするが、最終的な実施の決定と責任は当該施設にあるものとする。
(3) 提供は本人の自発的な意思によって行われるべきものであり、報酬を目的とするものであってはならない。
(4) 提供意思が他からの強制ではないことを家族以外の第三者が確認をする。「第三者」とは移植医療に関与していない者で、提供者本人の権利保護の立場にある者を指す。
(5) ドナーへのインフォームド・コンセントに際しては、ドナーにおける危険性と同時に、レシピエント患者の手術において推定される成功の可能性について説明を行わなければならない。
(6) 未成年者ならびに精神障害者は対象としない。ただし、以下の条件が満たされていれば、特例として提供下限年齢未満の未成年者(16歳以上20歳未満の者)からの臓器提供が認められる場合が ある。 ・ ドナーが成人に匹敵する判断能力を有していることが精神科医等によって認められていること。
・ ドナーが充分な説明を受けた上で書面に同意していること。
・ 当該医療機関の倫理委員会が個別の事例としてドナーとなることを承認していること。
(7) いわゆるドミノ移植の一次レシピエントは、「生体移植のドナー」として扱うが、当該医療機関の倫理委員会が個別の移植およびドナーとして承認を受けるものとする。
(2)患者の移植適応の決定とインフォームド・コンセント
(1) 患者の移植適応については、死体臓器移植に準じて行わなければならない。
(2) レシピエントからインフォームド・コンセントを得る場合には、ドナーにおける危険性および、レシピエントにおける移植治療による効果と危険性について説明し、書面にて移植の同意を得なければならない。意識のない患者においては、代諾者の同意を得るものとする。
(3) レシピエントが未成年者の場合には、親権者からインフォームド・コンセントを得る。ただし、可能なかぎり未成年者のレシピエント本人にも分かりやすい説明を行い、可能であれば本人の署名を同意書に残すことが望ましい。」
「日本移植学会 倫理指針
(生体腎移植の提供に関する 補遺)
提供者の「自発的意思」の確認:日本移植学会・倫理指針(平成15 年10 月改訂)に定める「家族以外の第三者による確認」を必要とする。第三者とは、「倫理委員会が指名する精神科医などの者」とする。
提供者の「本人確認」:同一世帯であれば基本的に保険証で確認可能であるが、別世帯の家族や親族、姻族となった場合、「顔写真つきの公的証明書」で確認する。主治医は確認したことを診療録に記載する。 「顔写真つきの公的証明書」を所持していない場合は、倫理委員会に本人確認のための資料を提出し、倫理委員会が本人確認を決定する。
提供者と移植希望者との間に金銭授受などの利益供与が疑われる場合は、即座に提供に至るプロセスを中止する。
生体腎移植実施までの手順
○ 提供者は親族に限定する。親族とは6 親等以内の血族と3親等以内の姻族とする。
○ 親族に該当しない場合においては、当該医療機関の倫理委員会において、症例毎に個別に承認を受けるものとする。
その際に留意すべき点としては、有償提供の回避策、任意性の担保などがあげられる。また、実施を計画する場合には日本移植学会に意見を求めるものとする。日本移植学会は倫理委員会において当該の親族以外のドナーからの移植の妥当性について審議して、その是非についての見解を当該施設に伝えるものとするが、最終的な実施の決定と責任は当該施設にあるものとする。
○ 主治医(外来担当の移植医)が提供候補者に腎移植提供手術について文書を用いて説明する。この文書には、術前・術後の危険性についての詳細な内容が記載されている必要がある。
○ 提供候補者は腎提供に関する十分な知識を得た後で「腎提供の承諾書」に署名する。そのために、1)提供候補者が十分な時間をかけて意思決定出来るよう、一旦説明文書を持ち帰り考慮期間を設けること、2)提供候補者が質疑応答によって腎提供に関する十分な知識を得ることができる医療相談体制を整えること。それには主治医だけではなく、レシピエント移植コーディネーターや看護師、臨床心理士、MSW(メディカルソーシャルワーカー)などによる提供候補者の意思決定を支援できる医療体制を整備する。
○ 提供候補者は自発的意思で提供するという同意の上で、「生体腎移植提供承諾書」に署名する。その際、提供候補者の家族も、提供することを理解していること。
○ 最終的な提供候補者の自発的意思の確認は第三者による面接によって行う。その上で、第三者による「提供候補者の自発的意思の確認」を得る。
提供候補者が複数の場合も同様の手順とする。
○ 組織適合性検査および提供候補者の全身状態、腎機能を検査する。この時点で提供者として不適格であることが判明した場合は主治医(外来担当医あるいは病棟担当医)が提供候補予定者にその内容を説明し、提供者から除外する。
○ 最終のインフォームド・コンセントは術前に主治医(外来担当医あるいは病棟担当医)が行う。
○ 提供候補者は提供手術が実施されるまで、提供の意思をいつでも撤回できることを、医療者は保障する。
○ ドナー候補者への心理的圧力が存在することが疑われる場合や、候補者の意思が何らかの理由で揺らいでいることが疑われる場合も同様に対応する。」
3.この記事から生体臓器移植の問題点をまとめてみます。
(1) まずは、日本移植学会指針で「健常であるドナーに侵襲を及ぼすような医療行為は本来望ましくない」と書かれているように、生体腎移植は、健常である人体を傷つけるのですから、妥当な医療行為でないという根本的な問題点があります。ですから、死体腎移植よりも生体腎移植が多いという日本の腎移植事情は、異常なものであるという意識が必要です。
(2) もう1つは、生体臓器移植を親族に限定したことから生じる問題点です。東京新聞の記事はこの点に関する問題点に触れています。なお、記事中にも出ているように、厳密には、日本移植学会の倫理指針では、「親族に限定」しておらず、親族以外の者でも、各医療機関の倫理委員会で個別に承認を得れば可能ですが、現実には殆どないようです。
イ 臓器提供者の見極めの難しさ
生体臓器移植を親族に限定したので、ドナーが夫婦や兄弟だとなりすますケースや、暴力団関係者が急きょ養子縁組をして、「親子だ」と移植を希望してきたケースがあることなど、なんとかして、親族を偽装しようとする人が出てくるのです。そのため、親族か非親族かを見極めることになるのですが、その見極めが難しいのです。
ロ 家族間・親族間の人間関係を破壊するおそれ
「母親だから提供しなくてはならないと周囲の無言の圧力を感じて、嫌だと思いつつ、ドナーになる場合もある」ので、自発的でない場合がありうるのです。死体移植が難しく、生体移植では親族に限定されている状況では、親族間同士で移植を依頼することになるため、強制の契機が生じてしまうのです。
そうなると、移植を断ると離婚の原因になったり家族がぎくしゃくしたり、また、移植依頼に応じたとしても、納得できずに移植に応じて短期間で機能しなくなった場合には、やはり関わった家族すべての人間関係がうまくいかなくなったりするのです。
ハ 提供を受ける患者側にも重い負担
負担としては、妻のために夫が提供を申し出たが、夫の家族に色々言われて提供に反対されたため、「妻は他人」と思い知らされたことがあります。また、家族から提供された臓器が短期間で機能不全となった場合、提供者が家族であるだけに「申し訳ない」と思ってしまうわけです。
(3) 日本移植学会の倫理指針は、親族なら頼みやすく、臓器売買のおそれもないと思って、親族に限定したのかもしれません。しかし、こういった多くの現実に生じている問題点からすると、他人から臓器提供を受ける方が気が楽ではないか、家族にも他人にも負担が生じない病気腎移植の方が気が楽ではないか、いっそのこと金銭で解決できればもっと気が楽ではないか、ということにもなるのです。
では、この2点は妥当な主張でしょうか? 順次検討したいと思います。
1.「毎日新聞12月5日付「記者の目」」
「記者の目:病気腎移植の万波誠医師=大場あい(科学環境部)
◇必要手順、踏むべきだった−−「練達の頼れる人」ゆえ
宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)の万波誠医師らが病気で摘出した腎臓を第三者に移植したことが論議を呼んでいる。1日の本欄では松山支局の津久井達記者が万波氏の行為に大筋で理解を示した。だが、私は臓器提供の自発性という移植医療の原則やインフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)を軽視したことについては、納得できないでいる。
「一緒に働いていた時は(死後腎臓を提供する)献腎の話しかしなかった。初めから病気腎のことを考えていたわけではなく、患者を救いたい一心だったと思う」。万波氏が市立宇和島病院に勤務していた当時、万波氏の下で移植コーディネーターをしていた30代の女性はこう語った。女性は、万波氏の執刀で生体腎移植を受けた経験を持つ。
東京で伝え聞く「想像しがたい医療を続ける独善的な医師」という万波氏の印象と、宇和島市内などで万波氏を直接知る人に聞いた姿はかなり違っていた。口下手で身なりを気にしない。仕事の虫。一風変わった性格だが憎めない人柄で、患者からも慕われている。80年代には献腎移植を推進しようと、中国四国地方の友人医師らとともに、ある病院で腎臓の提供があったら同じ地域の他の病院で移植手術ができるネットワーク作りに向け、熱心に活動していた話も聞いた。
ここまでは他の移植医となんら変わりない。むしろ移植医療に深い理解があり、亡くなった方から臓器提供を受ける移植医療を普及させようと率先して努力していた様子さえうかがえる。だからこそ、病気腎移植に関する万波氏の説明には納得できない部分が多い。
病気腎移植は提供の自発性に問題があるのではないかと尋ねた時、万波氏は「(提供の自発性を確保しなければならない)死体、生体移植とは全く違う」と強調した。「捨てる腎臓ですよ。医師が最初からドナー(臓器提供者)に提供を勧めることは全くないし、患者も摘出した腎臓が使えるとは夢にも思っていない。ただ私が『がんでも使える場合があるんですよ』と言ったら、『どうぞ使ってください』という。それだけのことです」と。
一方、移植機会を増やしたいのなら心停止後に全員から提供してもらえる制度にすればいいとは考えないか、と尋ねると、万波氏は「人の意思は千差万別ですわ。そんなこと決められない。死んでも(身体に)触らせもしない人もいるからなあ」と語った。
長年移植に携わってきた万波氏は、人の身体観や移植に対する考え方がそれぞれ違うことを十分に知っている。それなのに、なぜ病気腎だけ自発性が二の次でいいというのか。単に廃棄することと他人に移植することの間にはやはり大きな隔たりがあると思う。
それに、治療のために腎臓を摘出される患者は、自分の治療を滞りなく進めてもらいたいから、あえて医師に反論しようとはしないはずだ。医師の一言が患者にとってどれだけ大きな意味を持ち、ちょっと間違えば相当の強制力になるということが、万波氏に分からないはずがない。
万波氏の元上司は「今回の問題は、医師のパターナリズム(父権主義)だ」と話す。医師と患者の間にはどうしても知識や情報の格差があり、患者がどんなに説明を受けても100%理解して医療を選択することは難しい。重大な病気と分かり、患者、家族が精神的なショックから抜け出ていない状態で、治療法を決めなければならない場合もある。患者、家族にとっては大きな負担だ。
万波氏はそういう患者、家族の目には頼れる医師に映るだろう。同意を得る文書を残さず、実際に何か問題が起こった時にどう責任を取ってくれるのかも分からないが、「わしが全責任を取る」と言ってくれる。
病気腎移植を厳しく批判する移植医も「実は万波氏に共感も覚える」と明かす。目の前の患者を第一に考える姿勢は当然だし、それが医療の原点だ。一方現実は、患者とのコミュニケーションを重視したくても、他病院への紹介状などさまざまな文書の作成などに膨大なエネルギーを費やさねばならないこともある。
だが、この移植医は断言する。「インフォームド・コンセントの必要性やその手続きは長い時間をかけて医療者と医療を受ける側が考えてきたこと。それを『患者のため』と無視するのは常識からズレている」
提供の自発性もインフォームド・コンセントも、元々「患者のため」に考えられてきたことだ。万波氏のように経験も移植医療への理解もある医師にこそ、「患者のため」に必要なプロセスを踏んだ上で、国内での移植機会が増えるような提案をしてほしかったと思えてならない。
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「記者の目」へのご意見は〒100−8051 毎日新聞「記者の目」係へ。メールアドレスkishanome@mbx.mainichi.co.jp
毎日新聞 2006年12月5日 東京朝刊」
2.医療行為は、患者の身体に影響を与えるのですから、インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)が大切です。そこで、まず、「万波誠医師(及び万波廉介医師)は、インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)を軽視を軽視したのか?」について検討します。
(1) この点を論じるには、東京新聞12月5日付朝刊24・25面「こちら特報部」:曖昧情報 不安を増幅 SOS臓器移植の記事を読む必要があります。一部引用します。
「曖昧情報 不安を増幅 SOS臓器移植
宇和島徳洲会病院を中心とする病気腎移植問題が表面化してほぼ一カ月。執刀した万波誠医師(66)と仲間の「瀬戸内グループ」と呼ばれる医師らが苦境に立たされている状況は今も変わらない。この問題では患者にきちんとした説明がされたか否かが大きいが、あらためて取材をすると曖昧(あいまい)な情報の交錯が騒動の端緒になっていることが分かる。ボタンの掛け違いはどこで生まれたのかを検証した。 (片山夏子)」
「……香川労災病院の西光雄医師も「瀬戸内グループ」のひとりとされるが、同病院では、腎がんなど四件の病気腎摘出はすべて同意書があった。」
「病気腎移植が表面化してから、「手術前に移植に提供するとの説明がなかった」「移植できるなら、なぜ元に戻してくれなかったのか」などドナー(臓器提供者)の不満の声が報道された。また、複数のレシピエント(臓器被提供者)も「病気腎の病名は聞かなかった」と証言。対して万波医師らは「ドナーにもレシピエントにも説明は十分にした」と反論してきた。どこですれ違ったのか。
ケース(1) 親への説明あったか
四度目の移植手術を受け、三カ月後に急性すい臓炎で亡くなった愛媛県の男性=当時(29)=の両親の不満が、週刊誌や新聞で、大きく報道された。
男性は中学三年から透析生活に。高校一年になる直前に母親の腎臓を移植。五年後に父親の腎臓を移植した。調理師免許取得、結婚と順調に歩んでいたが、再び調子が悪くなり、二〇〇〇年十二月に病気腎を移植。「2%しか動かない病気腎の移植を受けたと息子から聞いた時は驚いた」と母親。一週間で調子が悪くなって摘出、翌年三月にがんの病気腎移植を受けた。
手術後に病名を聞き驚いて心配する両親に、息子は「がんは取り除いたから大丈夫」と話した。入院仲間も「移植後、バイクを買って乗ると楽しみにしていた」と思い出す。
母親は「透析していても逆流したり、手が震えたり、透析も末期だった。でもがんの腎であるとは知らなかった」と涙をこらえる。
父親も「医師を信頼してなければ移植はしない。息子にとって万波先生は絶対的な存在だった。だが親にも説明してほしかった」。
母親は「病気腎でもと思う患者の気持ちは分かる。捨てなくてはいけない腎臓で提供者が同意して移植が可能なら病気腎移植も進めてほしい。十五年間生かしてくれたことは感謝している。週刊誌で報道された後、万波先生を訴えるかと聞かれて驚いた。そんなことは考えてない」と話した。
万波医師は「十分説明しているが、患者によって理解度も違う。本人が理解していないと感じた場合は家族にも説明してきた。特に病気腎移植については、十分説明しないと(医師としても)危ない。だまし討ちのようなことはできない」と話している。
ケース(2) 『無断』は誤報と判明
岡山県で廉介医師から腎臓摘出手術を受けた女性が、「無断で移植に使われたと話した」と報道された。だが、その後、女性の腎臓は移植に使われておらず、廃棄されていたことが判明した。廉介医師は「この女性の尿管がんの場合、腎臓まで摘出するのが通常だった」と説明。「誤報」といって良いケースだった。
ケース(3) 提供者は理解したか
同県で腎臓がんの疑いで廉介医師の手術を受けた別の七十代女性が「手術前に提供の十分な説明がなかった」などと話したと報道された。しかし廉介医師によると、カルテには、手術前には「取った腎を使用させてもらうこともあることを許可していただいた」と記載。手術当日には、「100%腎癌(がん)かどうか不明、とった腎をつぶさに検討し、癌でない場合は移植させていただくむね、ご主人及び(および)本人より許可をいただいた」と記載されていた。摘出された腎臓は、検査でがんではないとわかり、移植された。
女性は体調を崩して現在入院中。夫は「手術前に説明があったかは妻に聞かないと分からない。がんと言われて頭が真っ白になって、言われたような言われてないような」と話した。
廉介医師は「何度も説明したが、もし患者が理解するまでに至らなかったのだとすれば、説明が足らなかった。患者にはすまなかったと言いたい」と話した。」
(2) 病気腎移植問題について、多くの記事を読んで感じていたことでもあるのですが、この東京新聞の記事を読むと、万波誠医師及び万波廉介医師がインフォームド・コンセントを軽視したのか疑問に感じるのです。
ケース1では、成人し、結婚して親と離れて別家庭を持っている男性の腎臓移植ですから、医療契約はその男性との間で行う以上、その男性及びその配偶者の同意があれば足りるはずです。ですから、ケース1でのその男性の親に対してはインフォームド・コンセントは不要だったと考えます。なので、親に対して、説明をしていない、又は説明をしても腎臓がんの臓器だったことを説明していない場合も、インフォームド・コンセントがなかったと非難するのは無理だったのです。
ケース2は、摘出した腎臓が廃棄されたのに、「勝手に移植に使われた」との証言を鵜呑みにして、移植されたと報道したのですから、誤報です。事実確認を怠った報道機関のミスであり、万波廉介医師は根拠なき批判にさらされたというべきです。
ケース3は、「手術前に提供の十分な説明がなかった」などと話したと報道があっても、カルテには、手術前には「取った腎を使用させてもらうこともあることを許可していただいた」と記載があり、手術当日のカルテにも、「とった腎をつぶさに検討し、癌でない場合は移植させていただくむね、ご主人及び(および)本人より許可をいただいた」と記載されていたのですから、 インフォームド・コンセントがあったと評価できる事例でした。
しかも、夫は「がんと言われて頭が真っ白になって、言われたような言われてないような」と話したのですから、「手術前に提供の十分な説明がなかった」と断定することは困難です。 (このケース3では、カルテによると、摘出だけでなく提供についても同意を求め、同意があったようです)
こうなると、すべてのケースについて断言することはできませんが、同意書が存在するケースもあることを踏まえると、万波誠医師・万波廉介医師はインフォームド・コンセントを行ってきており、少なくとも現時点においてインフォームド・コンセントを軽視しているという評価は非常に困難であると考えます。
(3) 「同意を得る文書を残さ」なかったことで、手続を欠いたとして万波誠医師を非難しているようですが、これは妙なことです。同意書の主たる目的は、何か患者に不利益が生じたときに争いを封じておくための証拠であって、存在すれば医師側に有利な書面であって、患者の利益のための書面・患者の治療に役立つ書面ではないからです。
同意書は、患者の治療に役立つ書面でないのに、同意書がなかったことで、なぜ万波誠医師を批判できるのでしょうか? 同意書を得ていないことは、論理的には、「万波誠医師が同意書得ていれば臓器提供者と移植患者から文句を言わせずに済んだのに、惜しいことをした」と、万波誠医師を心配することにつながるのであって、万波誠医師を非難することにならないのです。
ですから、大場あい記者は、「同意書がない=インフォームド・コンセントが不十分」という意識をもっているようですが、その意識は誤解があると考えます。
なお、移植手続のプロセスとして、倫理委員会がありますが、もし倫理委員会に病気腎移植の検討を求めたら、危険性を避けるため、移植は不可能になっていたはずです(テレビ報道での万波廉介医師の発言より)。それでは患者が救われないままなのです。
3.もう1つの批判は、「臓器提供の自発性」です。すなわち、臓器移植法2条(基本的理念)2項は、「移植術に使用されるための臓器の提供は、任意にされたものでなければならない。」としていますので、病気の腎臓をもつ患者であっても、臓器を任意に提供する意思が必要なのではないか? という批判なわけです。
(1) 病気の腎臓をもつ患者は、治療目的で腎臓を摘出することについて同意しているのであり、元々、病気腎臓が移植されることへの意思を有しているわけではありません。そして、摘出後の臓器は、患者にとって無価値ですから臓器の所有権を放棄したものと評価できます。そうすると、「移植術に使用されるための臓器の提供」といえず、放棄後の臓器は、医師の自由な処分に委ねられることになります。
今回のように、病気腎移植がなされる場合であり、摘出前から移植がありうることが分かっている場合であっても、医療契約上、治療目的での摘出への同意が主目的ですから、移植目的は従たる意思にすぎないのであり、本来、病気ゆえ移植の可能性は低いのです。そうなると、もっぱら治療目的での臓器摘出は、「移植術に使用されるための臓器の提供」といえないと考えます。
ですから、これは健康腎の摘出による「生体腎移植」ではなく、「臓器移植法」などの現行法規に触れる点はないため、臓器移植法2条2項の「臓器提供の自発性」は不要であり、「臓器提供の自発性」がなくても適法といえると考えます。
なので、万波誠医師が、
答えていますが、その感覚は法律上、妥当であると思います。「「(提供の自発性を確保しなければならない)死体、生体移植とは全く違う」と強調した。「捨てる腎臓ですよ。医師が最初からドナー(臓器提供者)に提供を勧めることは全くないし、患者も摘出した腎臓が使えるとは夢にも思っていない。ただ私が『がんでも使える場合があるんですよ』と言ったら、『どうぞ使ってください』という。それだけのことです」と」
(2) これに対して、大場あい記者は、
と批判しています。確かに、大場あい記者のように、移植する臓器はすべて「提供の自発性」が必要であると考えることも可能でしょう。死体腎移植・生体腎移植は提供者の同意が必要なら、病気腎移植も提供者の同意が必要であると。「長年移植に携わってきた万波氏は、人の身体観や移植に対する考え方がそれぞれ違うことを十分に知っている。それなのに、なぜ病気腎だけ自発性が二の次でいいというのか。単に廃棄することと他人に移植することの間にはやはり大きな隔たりがあると思う。」
しかし、臓器移植法2条2項が、提供の任意性を必要としているように、なぜ死体腎移植や生体腎移植において、提供者の同意を必要としたのかというと、本人の自己決定権を尊重した点、すなわち、理由なく勝手に本人の人体から臓器を取り出すことを認めないからです。
そうすると、病気移植の場合は、本人の治療目的で、本人の同意があって取り出すのであって、本人の自己決定権は尊重されており、理由なく勝手に本人の人体から臓器を取り出してはいないのです。なので、病気腎移植の場合、提供につき本人の同意がなくても、臓器移植法2条2項が提供の任意性を要求する趣旨に反しないのです。
また、死体腎移植の場合、提供目的での摘出につき同意があることで違法性を阻却し、死体損壊罪に当たらないことになり、生体腎移植の場合、提供目的での摘出につき同意があることで違法性を阻却し、傷害罪に当たらないことになりますが、病気腎移植の場合、治療目的で同意している点で違法性を阻却し、傷害罪に当たらないことになるのです。
要するに、死体腎移植や生体腎移植では、提供目的での同意がないと犯罪が成立するのに対して、病気腎移植では、提供目的での同意がなくても犯罪は成立しないという違いがあるのです。
大場あい記者は、「なぜ病気腎だけ自発性が二の次でいいというのか」といい、万波誠医師が、病気腎移植の患者の意思を軽視していると言いたいようですが、万波誠医師は、死体腎移植や生体腎移植と、病気腎移植の違いを明確に意識しており、病気の腎臓を持つ患者に対しては治療目的での説明の方に専念したのだと思うのです。
もちろん、治療目的での摘出であっても、誰かに移植される可能性もあることまで同意を求める法制度にすることも可能です。それは、より本人の自己決定権を保障する範囲を広げたものといえますが、治療目的で精一杯の患者を混乱させることになり危険性がありそうです。
(3) この記事中の大場あい記者の主張として非常に問題であると感じたのは、
という点です。「一方、移植機会を増やしたいのなら心停止後に全員から提供してもらえる制度にすればいいとは考えないか、と尋ねると、万波氏は「人の意思は千差万別ですわ。そんなこと決められない。死んでも(身体に)触らせもしない人もいるからなあ」と語った。」
うえで述べたように、なぜ死体腎移植や生体腎移植において、提供者の同意を必要としたのかというと、本人の自己決定権を尊重した点、すなわち、理由なく勝手に本人の人体から臓器を取り出すことを認めないからです。
大場あい記者は、憲法13条で保障されている自己決定権を無視して、人体損傷を行う制度を認めようというのでしょうか? 諸外国では、本人の意思が不明なときは遺族の意思に従う法制度もありますが、本人の自己決定権を無視したものはないようです。
にもかかわらず、日本では、臓器提供という公共の利益のために、諸外国ではもちろん日本国憲法でも尊重している自己決定権を踏みにじってよいなんて、憲法上、許されない制度です。大場あい記者の人権意識は著しく欠けています。
(4) 大場あい記者は、「独特の道徳観を優先した」(「「異端」の2医師の「独自の道徳観」は許されないのか?〜毎日新聞11月20日付の記事批判」参照)とか、散々万波誠医師を批判しておいて、
などとお為ごかしな言い方をするのです。「万波氏のように経験も移植医療への理解もある医師にこそ、「患者のため」に必要なプロセスを踏んだ上で、国内での移植機会が増えるような提案をしてほしかったと思えてならない。」
死体腎移植が増えない現状で、病気腎移植自体を否定しておきながら、「国内での移植機会が増えるような提案」を求めるのは、無責任な主張です。だいたい、日々の病気治療に忙しい万波誠医師に対して、「提案」を求めるなんて、治療行為を後回しすることを強制することであって患者を死なせるに等しい言動です。大場あい記者のお気楽な発言には、腹立たしい思いがします。
4.こうして検討すると、曖昧な情報で万波誠医師批判がなされていることが分かったと思います。情報の速報性も考えると、報道機関が不確かな情報を報道することは仕方がない面があります。
しかし、誤った情報は正される必要があり、「記者の目:病気腎移植の万波誠医師=津久井達(松山支局)」(毎日新聞 2006年12月1日 東京朝刊)や東京新聞12月5日付朝刊24・25面「こちら特報部」:曖昧情報 不安を増幅 SOS臓器移植という記事はその1つです。今後もこうした価値ある報道を行って欲しいです。
正すような価値ある記事があり、正すような記者がいる一方で、大場あい記者のように、誤りを流すままの記者がいます。大場あい記者はいつまでたっても「東京で伝え聞く『想像しがたい医療を続ける独善的な医師』という万波氏の印象」を抱いたままなのです。しかし、伝え聞く印象を抱いたままでは、到底公平な記事は書けないはずなのです。
もちろん、大場あい記者以前に、同じ内容をことを言う医師がいるのですから、一方的に誤りと断言するわけにはいきません。しかし、ここでは臓器移植法上の同意の意味、自己決定権の意味を理解していないと、「臓器提供の自発性という移植医療の原則やインフォームド・コンセント」を理解していることにならないのです。
移植学会側の医師の意見を鵜呑みにして、その意見を垂れ流しするのも1つの見識ではあります。しかし、それでは、決して深刻な臓器提供者不足は解消しないのです。元々、臓器移植自体、患者が100%満足できる夢の治療法ではないのですから、健康な腎移植であっても、将来は不確定なのであって、最初から病気腎移植を拒否する現状自体おかしなことなのです。
伝え聞く印象を抱いたまま報道することの危うさに反省することなく、現実を把握する能力・事実を理解する能力が欠けている記者による報道は、害悪でしかないと考えます。
1.朝日新聞平成18年11月27日付夕刊6面
「夕陽妄語:2006年11月 加藤周一
2006年11月に太平洋の両岸でおそらく歴史に残るだろう2つの事件が起こった。米国ではいわゆる「中間選挙」での共和党の大敗、日本国では衆議院での与党による「教育基本法」(以下教基法と略記)改訂案の強行採決。前者は米国の有権者のイラク戦争政策批判を、後者は政府与党の改憲へ向けての重要な第一歩を意味する。
ブッシュ政権の政策は――大統領の任期はまだ2年ある――少なくともかなりの程度まで変わらざるをえないだろう。日本の安倍政権がどういう政策をとるかはまだよくわからないが、教基法を改め、さらに憲法を改めようとする路線は変わらないだろう。
ブッシュ大統領は神の声を聞いて決定を下したという。「民の声は神の声」が民主主義の原則だとすれば、決定の内容の当否は別として、少なくともその原則には反する。しかし米国の世界における影響力が大きかったのは、武器とドルによるばかりでなく、また民主主義の理想によったのである。
――――――――――
9・11以来戦争目的は半ダースほどあったが、どれも達成されたとはいえない。アフガニスタンでビンラディンは見つからなかったし、アル・カイダの組織網は発見されなかった。イラクでも同じ。大量破壊兵器は見つからず、侵入した米軍を歓呼して迎える住民もいなかった。民主主義? しかし現地の住民にとっては、それより生きていることの方が大事だろう。ブッシュ大統領の支持層はまず国外で減り、次第に国内でも失われ、遂(つい)に中間選挙に及んだ。
米国はこの機会に悪夢から抜け出すかもしれない。まだ政権交代の能力を持ち、「自由」の伝説を回復し、一度振り切った振り子を反対方向へ振り戻すかもしれない。中間選挙の結果は、21世紀の世界の問題の大部分が武力によっては解決できないという現実を理解させるかもしれない。
――――――――――
日本の教基法は憲法と密接である。その前文に「この(憲法の)理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」といい、「日本国憲法の精神に則(のっと)り、教育の目的を明示」するという。憲法の根本的に改めれば教基法を改めるのが当然で、教基法を改めるには「憲法の精神」を改めることが含意される。改憲について何らかの正当な合意がない今日、教基法改訂案を強行採決するのは暴挙である。
要するに、なし崩し、解釈改憲、軍備増強と自衛隊の活動範囲拡大路線の延長であり、加速である。日本は9・11以後の米国に鼓舞されて右寄りの政策をつづけてきた。アジアの諸国、殊に中国と韓国との摩擦はそこから生ずる。教科書問題、歴史認識、首相の靖国神社参拝、領土問題など。
まことに米国も日本国も、殊に9・11以後、右寄りの政策をとってきたが、米国で次第に軍国主義批判の声が強まり(たとえば元大統領カーターら)、日本では過去のアジア侵略戦争の弁護を含めて右寄り傾向が強まりつつあった。その状況は、米国先導型の軍国化へ転じるのは、時間の問題であるという印象を与えた。
2006年11月はそのことを確認するための1つの判断になったと思われる。右に傾いた米国の舟は左側に戻る。米国に追随して右に傾いた日本の政治には、そのような復元力がない。右へ傾いたままどこまでも行くか、あるいはさらなる米国追随に徹底して方向を修正するか、ということになろう。
米国ではすでに議会の変化が起こった。議会外の大衆のブッシュ政権支持は、周知のように激減した。知識層には初めから批判的意見が多かった。小泉首相が無条件にイラク戦争を支持したのは、「米国の支持」ではなく、「時の米国政府の政策の支持」にすぎない。
しかるに米国では、政府が変わることもあり、政府が変われば政策が変わることもある。今後イラク戦争批判の言論は活発になるだろう。そういう言論がイラク戦争を無条件に支持した外国の政府に手厳しくなっても不思議ではない。いわんや民間の言論においてをや。
東京裁判をとりしきったのは米国である。東京裁判の全面否定に近い「大東亜戦争」肯定論の盛んな国と米国が「価値観を共有」し、「一心同体である」と主張しても、それを受けいれる米国人は少ないだろう。米国人だけでなく、一般に日本国の外でそれを受けいれる人は、おそらく稀(まれ)である。国際的孤立は深まる。
どうすればよいか。「愛国心」は政治的に利用せず、おのずから起こるに任せればよい。
1831年にフランスに亡命したハイネは、「昔ぼくには美しい祖国があった」とうたったことがある。そこには何があったか。高い樫(かし)の樹(き)と、やさしいスミレの花があり、信じがたいほど美しいドイツ語があったという詩である。
――――――――――
われわれも安倍首相と共に「美しい国」をつくろう。信州のカラ松の林と、京都の古い町並みを保存し、人麻呂や芭蕉が残した日本語を美しく磨こう。そのとき愛はおのずから起こるだろう。そして尊大な、誇大妄想的な、殺伐で同時に卑屈なナショナリズムを捨てればよい。そうすれば憲法を改める必要もなくなるだろう。 (評論家)」
2.2006年(平成18年)11月での米国と日本とは歴史に残る、そして対照的な出来事があったのです。
(1) 米国の有権者は、イラク戦争政策批判の意味を込めて、「中間選挙」での共和党の大敗という結論を選びました。ブッシュ大統領の政策を改めるため、民主主義が機能したわけです。その結果、イラク戦争とその後の対テロ戦争を進めてきたラムズフェルド国防長官が責任をとる形で辞任し、中間選挙の結果、上院で民主党が多数をとり、再任人事が承認されるのは絶望的になっていたボルトン国連大使も辞任しました(朝日新聞12月5日)。有権者の意識は、確実に現実の政治に変化を生じさせています。
これに対して日本の政治では、改めるという動きはありません。
日本では、復元力を働かせようとする有権者が多数になっていないのです。「右に傾いた米国の舟は左側に戻る。米国に追随して右に傾いた日本の政治には、そのような復元力がない。右へ傾いたままどこまでも行くか、あるいはさらなる米国追随に徹底して方向を修正するか、ということになろう。」
(2) 教育基本法は、「個人の尊厳」、「人格の完成」、「個人の価値」、「自主的精神」を標榜し、憲法の理念を実現しようとしている準憲法的性格を有する法律です。教育基本法改正案は、この現行教育基本法の理念・精神を残してはいるのですが、改正案は前文に「公共の精神を尊び」、「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」との文言を盛り込むなどして、現行教育基本法の理念・精神を稀釈化し、個人の尊重をできるだけ制約しようとしている感があります(三重大学助教授・寺川史朗「有事法制と愛国心」法学セミナー2005年1月号35頁参照)。
改正案で公共の精神を強調することにより、社会科や道徳などの指導において、公共の精神を強調するような変更が加えられることになるのでしょう。しかし、憲法は個人の尊厳を理念としているのですから、公共の精神を強調するような教育は、憲法の理念に一致しないのです。
(3) 教育基本法改正案では、今後5年間の教育政策の基本方針「教育振興基本計画」の策定を義務付けています。中教審の答申からすると、5年計画で、「いじめ、校内暴力を5年で半減」など、実現可能な具体的な政策目標を盛り込むようです。
しかし、この基本計画の狙いはそういったところではなく、教育予算が削減傾向にあるので、文科省は基本計画の作成により、長期にわたる教育関係予算の獲得できるようにする(読売新聞12月2日付11面)ためが主目的であるだと思います。結局は、基本計画は文科省の官僚のためにある制度であり、国民の教育に貢献しない制度のように感じられるのです。
(4) 教育基本法改正案ですが、12月7日に参院教育基本法特別委員会で、8日には参院本会議で採決し、週内成立を目指す予定であると報道されています。おそらく、成立してしまうのでしょう。
これにより、現行教育基本法1条[教育の目的]が「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」という文言が削除され、「必要な資質」という文言に置き換わります。要するに自主的精神に充ちた国民の育成でなく、(国家及び社会の形成ため)必要な資質を備えた国民の育成が、教育の目的となるのです。
「日本は9・11以後の米国に鼓舞されて右寄りの政策」を続け、盲目的に米国に追随して右に傾いているのですから、とても自主的精神に充ちた政治家が多数でないわけです。今でも、自主的精神がほとんどないのですから、改正案での「自主的精神」の削除は、今の日本の現実に合わせたものとはいえるのでしょう。
しかし、自主的精神が欠けたままで、どうして「愛国心」を育てることができるのでしょうか?
「本当に自国を愛しているなら、それは、自国を批判する精神を持ち、自由に意見表明をする(真の友達なら悪いことは悪いと言う)ことから始める必要があるように思われる。憲法19条と21条はそのことを謳っているのであり、その意味で真に「国を愛する」ことを保障しているのである。それを否定する安直な愛国心思考は両条に真っ向から対立する。批判的精神を培った個人による自由な意思形成と、それにもとづく自由な表現を前提とした、厄介な、しかし、ホンモノの愛国心思考がいま求められている。」(三重大学助教授・寺川史朗「有事法制と愛国心」法学セミナー2005年1月号36頁)
3.現場が悪いとマスコミから叩かれ、評価で締め付けられ、教員は委縮する一方なのに、いじめ対策ばかりか、教育基本法改正により、学校側(現場)に更なる負荷がかかっていくのであり、これでは、今後は、「生徒と苦しみ悩む自由すら失われていく」(東京新聞11月3日付朝刊「こちら特報部」)ことになります。その結果、生徒の人間的な成長の手助けをするという教育本来の目的ができなってしまうのです。
本来は、善意に解釈すれば、教育基本法改正案において公共の精神を強調することで、より教育を良くしようとしているでしょう。しかし、それは今でも過剰な負担がかかっている学校側に、更なる負荷をかけるものであり、現実無視の改正です。教育基本法改正により、日本の教育はより悪化していくような気がしています。
1.週刊朝日2006年12月8日号「アタシジャーナル」(中森明夫)51頁
「イジメ自殺しようとする子供への手紙
「命は1つしかない。君が生まれた時、お父さん、お母さんが君の命を抱き取ってくれた……」。今時、三文脚本家も書かないようなこんなクサいセリフをよく吐くよ、このオヤジ、超キモい! と思ったかい? 見ず知らずの子供に「君」なんて話しかける大人は変質者かもしれないって。
でもね、これは君たちの国の文科大臣の言葉なんだよ。例のイジメ自殺予告の手紙が届いてさ、夜中に大慌てで記者会見を開いた。本当か嘘かわからない手紙なのにね。これでわかったろう。大人は命をカタに取った脅しには何でも言うことを聞くんだ。
たとえば「ボクが自殺してほしくなかったら、テレビに出てすっ裸になって、裸踊りをやってください、伊吹文科大臣!」と書いたら、本当にやってくれるかもよ(何もデスノートに「伊吹文明、裸踊り死」なんて書かなくても)。
でも、どうしてテレビはイジメ自殺についてあんなに騒いでるんだろう。朝、早くから(昨夜(ゆうべ)の残り物をあっため直したような油っぽい顔の)みのもんたが出てきて「8時またぎ」とか言って8時1分までイジメを怒った後、ズバッ! と話題を変えてしまう。
お昼になれば「ピンポン!」とボタンを押すと涙がこぼれる福澤朗が泣きに泣きまくる。
朝から晩までテレビはイジメ、教育問題で大騒ぎ。なんだか発情しているみたい。それはねテレビが学校と同類だからだ。司会者は先生で、コメンテーターは模範生さ(模範的解答をしなかったり、女子のスカートの奥を手鏡で覗いたりしたら、即退学になる)。
テレビは視聴者を教育する。しかも無自覚に。だからイジメ自殺を話題にすると、イジメ自殺が増えるんだ。教育を「洗脳」と言い換えたっていい。テレビと学校と宗教は、三大「洗脳」装置なのさ。
教育を「洗脳」だと言えば、怒り出す人がいるかもね。でも、その人はそれほど深く「洗脳」されているんだよ。
ヤンキー先生っているだろ。元不良が先生になって、テレビで有名になると先生をやめ、今じゃ安倍晋三の手先さ(日の丸・君が代バンザイだって!?)。「学校は子供のためにある」とヤンキー先生は言った。違うね。学校は社会のためにあるんだ。子供を社会化させる装置さ。学校が子供のためにあるなら、子供は学校から逃れられない(そして最後は自殺する)。イジメられている子供に「一緒に闘おう」とヤンキー先生は励ました。そういう励ましが、闘えない子供をさらに死に追い込む。ヤンキー先生って、ニブいね〜(鎌田實先生の『がんばらない』を読めばいいのに)。
いろんな人がいろんなことを言う。でも、なぜ誰もイジメ自殺した子供の親を責めないのか? 子供が学校で生きられないなら、逃れる場所は家族しかない。そんな家族が子供を守れず、その死を学校や先生のせいにするなら、それこそ家族の無力さを自ら認めるようなもの。イジメ自殺した子供の親の責任を問わないのは、もはや誰も家族の力なんて信じてない証拠だろう。
イジメ自殺した子供は、学校をやめたら生きられない、そう思って死んだ。学校に殉じたんだ。学校を信仰する人たちは、そういう子供を英霊として祀(まつ)って神社でも作り、毎日、参拝するといい。
どう? そんな超キモい連中に参拝されたら……たまんないよね。それを避けるためにも、君は自殺を思いとどまる価値がある。だって、まだ伊吹文科大臣の裸踊りだって見ちゃいないじゃないか!
―――――――――――――
なかもり・あきお 十代半ばで不登校、家出、引きこもり、万引き補導、家裁送りを経て、高校中退。文筆業に。近況は「こんなダメな落ちこぼれでも、なんとか生き残って皮肉な文章を書く立派な大人に成長(?)できるのだと子供たちにメッセージしていきたい」。」
2.真面目なメッセージは多く出ていますが、これくらい皮肉に充ちたメッセージはあまりないと思います。
伊吹文科大臣が「命は1つしかない。君が生まれた時、お父さん、お母さんが君の命を抱き取ってくれた……」などと、クサいセリフを言うのも、おそらく文科省の役人が書いた文章を読み上げただけです。伊吹文科相は、文科省の役人の筋書き通りに「心配している芸」を披露したわけです。
みのもんたが出てきて「8時またぎ」とか言って8時1分までイジメを怒った後、ズバッ! と話題を変えてしまうのも、みのもんた氏特有の「怒り芸」を披露したのです。
お昼になれば「ピンポン!」とボタンを押すと涙がこぼれる福澤朗が泣きに泣きまくるのも、福澤朗氏特有の「泣き芸」というものでしょう。このお二人が真面目に対応しているなんて思ったりしてはいけません。演出なのです。
ヤンキー先生は、もう先生を辞めていたんですね。テレビで有名になると先生をやめ、安倍晋三の手先になり、イジメられている子供に「一緒に闘おう」と言って、闘えない子供をさらに死に追い込むのです。もう先生という意識はなくなっても、ヤンキー先生は「先生のように振舞うという芸」をしているわけです。
いじめ裁判を分析した結果、いじめについて学校の負うべき法的責任として、次のようなことが明らかになっています(内海俊行「21世紀型授業づくり79 『いじめ撲滅』の授業」(2003年、明治図書)116頁)。
1 一般的注意の義務
学校には児童・生徒安全保持の義務があります。つまり、学校はいじめから児童・生徒を守る義務があるのです。ただし、学校が負う注意義務は、児童・生徒の発達段階により異なります。
2 いじめを理解する義務
教師が注意義務を適切に行うために、日頃から、いじめの本質や特徴について理解し、それを教育実践に生かすことが求められます。
3 いじめを把握する義務
いじめは教師に隠れて行われるのが殆どであるから、いじめを防止するために、教師は児童・生徒の生活実態をきめ細かく観察し、常にその動静を把握して、いじめの発見に努める義務があります。
4 いじめの全容を解明する義務
いじめ行為があると認められる場合には、学校は迅速にしかも慎重に、当事者はもちろん、周囲の児童・生徒など広い範囲を対象として聞き取りをするなど、周到な調査をして事態の全容を正確に把握する義務を負っています。
5 いじめ防止の措置義務
調査の結果、いじめの実態が明らかになった場合は、学校はいじめを防止するために、事態の危険性や切迫性の度合いに応じて、児童・生徒全体に対する一般的な指導、保護者との連携による対応、出席停止または校内謹慎措置、学校指定の変更の具申、警察などへの援助の要請、児童相談所又は家庭裁判所への通知など、各種の措置をとる必要があります。この場合、学校は常に保護者に報告し、協議を図る義務があります。
学校にはこれほどの法的責任があります。ですが、イジメ自殺が減るわけではないのです。
学校でイジメにあっているなら、法的責任を無視している学校なら、学校から逃げるしかないのです。
学校から逃げて、ネットに逃げ込んで、マジメなブログに相談するのもいいでしょう。イジメから逃げて、一緒に、伊吹文科相の裸踊り―――ある意味、効果のないことをあるかのように馬鹿馬鹿しい振る舞いをしているのも「裸踊り」でしょうが―――を見ようじゃないですか!!!
1.まず、病気腎移植問題について理解するには、日本における移植医療の問題の背景を知っておく必要があります。
「――移植医療の問題の背景は。
死体腎移植が少なすぎる。米国では三年待てば移植できるが、日本では平均で十六年かかる。透析患者の十六年の生存率は30%未満。この間、臓器移植の仲介をする「日本臓器移植ネットワーク」に登録料を払い続けるのは詐欺に近い。行政や学会、移植医の怠慢であり、責任もある。透析から脱するには移植か、死しかないが、現実には移植はほとんど選択できない。だから、海外渡航移植を望む患者が増える。これは、どう考えてもおかしい。」(東京新聞11月30日付朝刊「核心」)
日本では移植するには16年、透析患者の16年の生存率は30%未満ですから、移植できる頃には透析患者の70%は死亡しているわけです。なので、日本では腎臓移植を選択できず、生活できなくなるような人工透析を続けながら、死を待つ状態なのです。「日本臓器移植ネットワーク」に登録料を払い続けるのは詐欺に近いと罵倒するくらい、今の日本では死体腎移植はなく、今後も死体腎移植が増える見込みがないのです。
この現状から脱却するには、透析技術の向上も一方法ではありますが、透析が体に合わない人がいるのですから、米国並みの速さで腎臓移植をする道が求められているのです。
2.次に、ずっとなされてきた報道により、万波氏は患者に説明することなく人体実験に近いことを行ってきたのではないかなどという、偏見を抱いている方もいるかと思います。まずその偏見を払拭するため、次の記事を紹介します。
(1) 「毎日新聞12月1日付朝刊6面「記者の目」」
「病気腎移植の万波誠医師=津久井達(松山支局)
◇治療への献身、飾らぬ性格−−無頓着、無用の誤解招く
宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)の万波誠医師(66)らによる病気腎移植が、批判を浴びている。確かに、倫理委員会に諮ったケースはほとんどなく、レシピエント(移植を受けた患者)を選んだ基準も不透明だった。がんの腎臓を移植するなど、安全性も疑問視されている。しかし、この問題が発覚するきっかけになった臓器売買事件から約2カ月間、近くで取材をしてきて、常に患者を第一に考える万波医師の人柄に親近感を覚えたのも事実だ。病気腎移植を「地方医師の暴走」と片づけてはいけないと思う。
「わしゃ、もう隠すのがつらいんじゃ」。病気腎移植が発覚して、数日後の深夜だった。当時、「病気腎移植は宇和島徳洲会病院に移って始めた」としてきた万波医師が、私の取材に突然、前任の市立宇和島病院時代にも10件前後の病気腎移植をしたことを認めた。
万波医師は「わしの立場も分かるだろ。(市立宇和島病院には)世話になったから。いろいろな迷惑がかかるんよ。気の毒じゃろ。わし一人でかぶればいいと思ったんよ」と言った。その言葉に、うそはないと思う。飾らない性格と、治療に対する献身的な姿勢を見てきたからだ。
休日も病院に顔を出し、平日は帰宅が午前0時近くになることもある。病室のベッド脇にしゃがみこんで、何時間も患者に病状を説明している姿を見た人もいる。この2カ月間、ほぼ同じズボンでサンダル履き。94、00年に万波医師の腎臓移植手術を受けた女性は「病院に他にも先生はいるけど、万波先生に診てもらわないと不安」と話す。
こんなこともあった。夜に病院を出てきた万波医師が報道陣の問いかけに答えず車に乗りかけた時、50代の先輩記者が「先生、最近頻尿で困ってるんですわ」と声をかけた。足を止めようとしたのだが、頻尿の症状も本当だった。すると、万波医師は車から降りて、「いつから」「症状は」「一度検査を受けた方がいい。すぐに済むから」と話しかけてきたのだ。
万波医師らが病気腎移植を生体腎、死体腎移植に次ぐ「第3の道」と呼んで正当化しようとする気持ちも、分からないわけではない。万波医師は「目の前の患者を透析から解放してやりたかった。本当につらい状況にいる人もいるんですよ。針を刺されて土色の顔をして、耐え忍んでいる。そうでなかったら死ぬんですから」と話している。
何人かの人工透析患者に会った。50代の男性は針を刺した跡が盛り上がった両腕を見せてくれた。透析を受けた日は車を運転するのがやっとで、仕事を辞めた。男性は「家族のために働きたい。養ってやりたい」と窮状を訴えた。透析を長年続けたり、透析が体に合わず苦しむ人も多い。「病気腎でもいいからほしい」という声も聞いた。万波医師の病気腎移植を受けて「神様、仏様、万波様じゃ」と話す人さえいた。
しかし、私も万波医師たちのやり方がすべて正しかったとは思わない。患者と向き合うこと以外は無頓着で、無用の誤解も生んだ。「密室で移植を進めてきた」という批判がその一つだ。
02年8月に高知市で開かれた移植の研究会では、当時の部下が病気腎移植の1例を発表している。万波医師も了承し、医師ら約100人がその実例報告を聞いた。決して、ひた隠しにしていたわけではない。もし万波医師が学会に所属し、論文で病気腎移植を世に問うていたら、今とは違う評価を得た可能性もあっただろう。残念でならない。
専門家は一斉に「腎臓に疾患があっても、可能な限り摘出を避けるのが原則。摘出しなければならない腎臓なら、移植にも使えない」と批判している。しかし、万波医師は今も、「腎臓がもったいない。(病気腎移植を)続けたい。もっと広まればいい」と話す。一方で、「国が『いけん』と言えば、二度とやらない」とも述べている。
全国に人工透析患者は25万人以上。一方で、97年に臓器移植法が施行されたが、脳死判定は50例だけだ。死体腎移植の件数も増えていない。こうした日本の現状について、万波医師に何度聞いても、「わしは目の前の患者を精いっぱい診ているだけ」としか答えない。だが、万波医師は多くの腎臓病患者と接する中で、病気腎移植という発想に至ったのではないかと思う。
ドナー(臓器提供者)不足が解消されない限り、病気腎移植を学会などが禁止するだけでは、根本的な解決にならないのは明らかだ。病気腎移植の是非について公開の場で議論を深めるとともに、今回の問題を移植医療の現状を見直す一歩にしなければならない。
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毎日新聞 2006年12月1日 東京朝刊」
(2) この記事でかなり万波氏が治療に当たっての姿勢が分かるのではないかと思います。
「病室のベッド脇にしゃがみこんで、何時間も患者に病状を説明している姿を見た人もいる。……
こんなこともあった。夜に病院を出てきた万波医師が報道陣の問いかけに答えず車に乗りかけた時、50代の先輩記者が「先生、最近頻尿で困ってるんですわ」と声をかけた。足を止めようとしたのだが、頻尿の症状も本当だった。すると、万波医師は車から降りて、「いつから」「症状は」「一度検査を受けた方がいい。すぐに済むから」と話しかけてきたのだ。」
この部分が特に際立っている点ではないかと思います。
万波氏にとっては、うるさく邪魔をしてくる報道陣なのですから、その一人が「頻尿で困っている」と言ったとしても、無視するか、「病委任に行けば」と言い捨てて終わってしまうのが、通常の対応ではないかと思います。しかし、万波氏の場合は、車から降りて、きちんと対応したのですから、うるさい報道陣であっても患者第一な態度は大変立派なものだと思います。
万波氏は、ともかく患者第一であり、腎臓移植をする場合には、患者に対して十分に説明しているのが常態であり、病気腎移植であれば特に詳しく説明しているはずだと思われます。
と言う報道もありましたが、おそらく、この患者2人は説明を受けたのに忘れてしまったというのが本当のところではないかと思われます。「宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)で実施された病気腎移植問題で、同病院の貞島博通院長らは26日会見し、万波誠・泌尿器科部長(66)が執刀した11件の病気腎移植のうち、移植を受けた患者2人が病名を知らされていなかったことを明らかにした。2人は病気腎であることは認識しており、治療結果については満足しているという。」(毎日新聞11月27日付朝刊)
3.「毎日新聞平成18年11月27日付朝刊2面「闘論」」
「闘論:病気腎移植 難波紘二氏/大島伸一氏
病気で摘出した腎臓を、移植に活用した問題が波紋を広げている。移植手術にかかわった宇和島徳洲会病院の万波誠医師らは、透析患者の苦痛を取り除くためと強調するが、疑問視する声も強く、厚生労働省は調査に乗り出す方針だ。病気腎移植の是非について2人の医師に聞いた。【構成・大場あい】
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◇「第3の道」評価したい 医師の裁量権の範囲−−広島大名誉教授・難波紘二氏
万波氏らは、病気のために摘出し病理検査を経た後に廃棄されるはずだった臓器を活用する道を開いた。死体、生体移植に次ぐ移植医療の「第3の道」として積極的に評価したい。
米国では、腎臓がんを持った患者の腎臓が実際に移植された14例についての論文が発表され、生存率が3年後100%、5年後93%というデータがある。日本でも、脳死、心停止後の場合は原発性脳腫瘍(しゅよう)の患者からの提供が認められているが、この中には神経膠芽腫(こうがしゅ)、神経芽細胞腫など全身に転移を来すものもある。これは、転移のリスクのある臓器の移植を容認しているということだ。腎臓がんのリスクだけを問題視するのは、矛盾しているのではないか。
また、万波氏らが学会等で公表してこなかったという批判がある。だが、万波氏は日本移植学会員でもなく、また発表する義務もない。同学会がすべて取り仕切ろうという姿勢はおかしいのではないか。ただし、万波氏らの症例は画期的なデータとみられるので、症例数、生存率などを知名度の高い国際誌にぜひ英文で発表すべきだと思う。
提供の自発性、移植機会の公平性に対する異論もあるが、病気腎移植は第3の道であって、現行の臓器移植法の対象にはならない。私個人としては、腎臓を摘出した患者自身が積極的に「提供したくない」という意思表示をしない限り、所有権を放棄したとみなすのが日本の従来の医療の「慣習法」だととらえている。
その意味で摘出に同意さえしていれば、「提供」に改めて同意が必要だとは思わない。また、移植を受ける人を選ぶのも、医師が医の倫理にのっとって優先度の高い人を選ぶのであれば、医師の裁量権に含まれると考えるべきだ。
脳死者からの提供が増えない以上、今後は病気腎移植を普及させるしかない。その際に、新たな法律や、厚労省が策定を目指す指針が必要とは思わない。
必要なのは、医の倫理に照らして、ごく一般的なことだけだ。例えば▽摘出が医学的に必要で、患者から摘出の同意を得ている▽摘出の是非を検証するために病理医が摘出腎の病変部をチェックするシステムを作る−−などは、徹底して順守していかなければならない。
◇必要なプロセス、省略 「患者のため」が暴走−−日本移植学会副理事長・大島伸一氏
新たな医療の道を切り開くには、インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)の徹底や、専門家による批評を受けることなど、相応のプロセスが必要だ。万波氏らは病気腎移植を「第3の道」と称するが、独自の理論を盾に、必要なプロセスを実行できない人に新たな医療を試みる資格はない。
まず、「臓器を提供したい」という人を調べたら、たまたま病気だった場合と、患者が病気を治しに来た場合とは、意味が全く違う。本来治療目的で来た人が治療を放棄して臓器を提供するというのはよほどの事情があるはずだが、一連の症例では、同意した経緯などが文書化されていないため、提供意思が形成された過程がわからない。極めて例外的なケースとしての病気腎移植があったとしても、宇和島徳洲会病院での生体腎移植78例中11例というのはあまりに多すぎる。
また、移植医療の現場では、がんと感染症は禁忌であり、がんの臓器を移植することは想定していない。海外で事例があっても、必要なプロセスを省略していい理由にはならない。
目の前の患者の苦しみを取り除くのが医療の本来の姿だが、そんな医師の思いが暴走につながる時もある。特に現代のように医療技術が猛スピードで進歩している時代は、監視するシステムが必要だ。それがインフォームド・コンセントの徹底など、社会と医療者との「約束」であり、学会などでの専門的な議論だ。
今回の病気腎移植も、この「暴走」と同じ構造があると思う。すべての医師が患者のためと称し、「第3の道だから手続きは必要ない。裁量権はすべて医師にある」と同じようなことをやったらどうなるのか。治療に行った患者は「ひょっとしたら腎臓をとられるかもしれない」と常に心配しなければならなくなるのではないか。移植医療では臓器を待つ患者も大変だが、提供者が不利益を受けることがあってはならない。
今回の問題の背景には、ドナー(臓器提供者)不足という問題もある。日本では、移植医療を普及させるための法律も技術もあるのに、諸外国と比べ、提供を増やす努力は希薄である。今回の問題をきっかけに、社会全体がこの問題に正面から向き合うことを期待したい。
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■人物略歴
◇なんば・こうじ
広島大卒。血液病理学、生命倫理専攻。呉共済病院を経て、82〜05年広大教授。65歳。
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■人物略歴
◇おおしま・しんいち
名古屋大卒。名大病院長などを経て、04年から国立長寿医療センター総長。61歳。
毎日新聞 2006年11月27日 東京朝刊」
ここで大島氏が述べている批判は、よく出ている批判です。これに対して、難波氏はほどんど答えてるので、この記事を読むと、病気腎移植問題について理解できるのではないかと思います。
(1) まず1つめの批判。
「新たな医療の道を切り開くには、インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)の徹底や、専門家による批評を受けることなど、相応のプロセスが必要だ。……本来治療目的で来た人が治療を放棄して臓器を提供するというのはよほどの事情があるはずだが、一連の症例では、同意した経緯などが文書化されていないため、提供意思が形成された過程がわからない。……監視するシステムが必要だ。それがインフォームド・コンセントの徹底など、社会と医療者との「約束」であり、学会などでの専門的な議論だ。」
要するに、万波氏は相応のプロセスなく病腎移植を行っていることが妥当でないとしています。すなわち、同意を得たというためには同意書が必要であり、病気治療で腎臓を摘出する患者の場合、摘出だけでなく提供についても同意書が必要であるのに、経緯を全て書いた同意書を得ずに移植を行ったことは妥当でない、病腎移植について学会で発表していないことが妥当でないという批判です。
これに対する反論。
「提供の自発性……に対する異論もあるが、病気腎移植は第3の道であって、現行の臓器移植法の対象にはならない。私個人としては、腎臓を摘出した患者自身が積極的に「提供したくない」という意思表示をしない限り、所有権を放棄したとみなすのが日本の従来の医療の「慣習法」だととらえている。その意味で摘出に同意さえしていれば、「提供」に改めて同意が必要だとは思わない。」
「万波氏らが学会等で公表してこなかったという批判がある。だが、万波氏は日本移植学会員でもなく、また発表する義務もない。同学会がすべて取り仕切ろうという姿勢はおかしいのではないか。ただし、万波氏らの症例は画期的なデータとみられるので、症例数、生存率などを知名度の高い国際誌にぜひ英文で発表すべきだと思う。」
要するに、病気の腎臓であっても摘出自体には同意が必要だが、治療のため摘出された腎臓は本人に使い道がない以上、通常、医師の処分に任せたものというべきで、「提供」について同意は必要ではない。また、移植学会の会員でない万波氏は、病腎移植につき発表すべき義務はなく、移植学会は会員でない者に礼を尽くしてお願いをすることはあっても、発表を命じる権限はない。万波氏の症例は貴重なので、知名度の高い国際誌で発表することで、世界的な医療の発展に寄与するようお願いする。
相応のプロセスが必要であるというのは、根拠を欠いた勝手な言い分にすぎない。
(2) 2つめの批判。
「移植医療の現場では、がんと感染症は禁忌であり、がんの臓器を移植することは想定していない。海外で事例があっても、必要なプロセスを省略していい理由にはならない。」
要するに、病腎移植は許されず、腎臓がんのあった臓器を移植することは特に禁忌で許されない。
これに対する反論。
「米国では、腎臓がんを持った患者の腎臓が実際に移植された14例についての論文が発表され、生存率が3年後100%、5年後93%というデータがある。日本でも、脳死、心停止後の場合は原発性脳腫瘍(しゅよう)の患者からの提供が認められているが、この中には神経膠芽腫(こうがしゅ)、神経芽細胞腫など全身に転移を来すものもある。これは、転移のリスクのある臓器の移植を容認しているということだ。腎臓がんのリスクだけを問題視するのは、矛盾しているのではないか。」
要するに、米国では腎臓がんを移植した実例が14例もあり、5年後の生存率93%というデータもあるくらいなので、腎臓がんのあった臓器の移植は禁忌ではない。
がんのあった臓器の移植が許されないというのは、禁忌ということではなく、転移の恐れがあるからであろうが、 神経膠芽腫(こうがしゅ)、神経芽細胞腫など全身に転移を来すような臓器の移植は認めているのだから、腎臓がんのリスクだけ問題視するのは、矛盾である。
(3) さらに批判。
「今回の問題の背景には、ドナー(臓器提供者)不足という問題もある。日本では、移植医療を普及させるための法律も技術もあるのに、諸外国と比べ、提供を増やす努力は希薄である。今回の問題をきっかけに、社会全体がこの問題に正面から向き合うことを期待したい。」
要するに、ドナー不足を解消する必要があるが、病腎移植は妥当でないので、遺体に対して執着のある国民意識から脱却し、臓器提供は社会奉仕の一貫であるという意識を持つべきであり、臓器不足の原因は、日本の臓器移植法が、脳死移植の際にドナーカードなどによる意思表示を必要条件にしていることにもあるので、条件を緩和するなどして、脳死者からの提供を増やす努力を社会全体で行うべきである。
これに対する反論。
「脳死者からの提供が増えない以上、今後は病気腎移植を普及させるしかない。その際に、新たな法律や、厚労省が策定を目指す指針が必要とは思わない。」
要するに、社会全体がこの問題に正面から向き合うといっても、どう努力すれば脳死者からの提供が増えるというのか、お為ごかしに過ぎない。脳死者からの提供を増やす努力をするとしても、増えるかもしれないという淡い期待感にすぎず、今、必要としている透析患者を見殺しにするのと同じである。今の日本では、病気腎移植の道しか残されていないのだから、病気腎移植を普及する方法が最善策である。
4.健康な腎臓移植が好ましいことは、病気腎移植について肯定する立場、否定する立場、いずれの立場も同様です。健康な腎臓を移植すべきという理念を徹底するのが「病気腎移植否定説」ですが、そうなると、16年も移植を待つ状態というほど深刻なドナー不足である日本では、透析患者を見殺しにしているままになってしまいます。
理念を貫くのは美しいのですが、深刻なドナー不足という現実がある以上、病気腎移植を認めようとする「病気腎移植肯定説」の方が、現実的な対応のように思えます。病気腎移植はダメなどと綺麗ごとを言っている場合ではないはずです。
「日本移植学会などの調査によると、05年には日本全国で994件の腎移植があり、834件が生体腎移植、160件が死体腎移植だった。これに対し、日常的に人工透析を受けている患者は全国で約26万人。死体腎移植希望者だけでも1万2000人弱いて、年間の死体腎移植件数の70倍以上に達する。
移植が盛んな欧米でも提供者不足は変わらない。米国の腎臓移植は年約1万7000件で、うち死体腎が1万件以上を占める。英国でも年3000例の移植があり、約2500件が死体腎だ。米国では約6万4000人、英国でも6000人弱が死体腎移植を希望しており、いずれも年間移植件数の数倍以上だ。」(毎日新聞11月15日付)
このように、日本では欧米と異なり、死体腎移植より生体腎移植の方が多いのですが、生体腎移植は健康体から臓器を切り取るのですから、本来、生体腎移植は好ましくないはずです。しかし、ドナー不足という現実を考慮して、生体腎移植はほとんど問題視しないのです。
同じくドナー不足という現実を考慮して、しかも生体腎移植のように健康体を傷つけるわけではなく、病気腎移植は病気ゆえ摘出した腎臓を移植するのです。ドナー側にとっては、生体腎移植より病気腎移植の方が問題性が少ないといえそうです。
生体腎移植をほとんど問題視せず、病気腎移植をことさらに問題視するのは、どうにも腑に落ちないのです。
もし病気腎移植を肯定する場合、問題はどういう病気の場合なら可能なのかなど、医師の側にかなり技量を必要とすることになるでしょうし、患者に対して今まで以上に十分にリスクを説明する必要が生じます。病気腎移植を広めるとしても、実際上は可能な医師はごく限定されることになりそうです。
1.報道記事から。
(1) 「時事ドットコム」(2006/11/30-17:57)
「2006/11/30-17:57 代理出産、学術会議に審議要請=法整備の必要性検討−政府
政府は30日、代理出産など生殖補助医療の在り方について、日本学術会議(会長・金沢一郎国立精神・神経センター総長)に審議を要請した。同会議の答申を受け、生殖補助医療に関する法整備が必要かどうか検討する。答申の期限は定めていない。
厚生労働省の辻哲夫事務次官は、同日の定例記者会見で「(代理出産をめぐる問題は)非常に幅の広いデリケートな問題。最も幅の広い日本の有識者がそろっているのは学術会議。(審議の内容は)幅広い観点から、代理出産をこれからどのように目指していくのかという基本論になると思う」と話した。
代理出産については、厚労省の生殖補助医療部会が2003年4月、罰則付きで禁止すべきだとの結論をまとめたが、法制化されず、その後議論は止まっている。」
政府が法整備を考えている場合、通常、法制審議会で検討する(とはいえ、最近の法制審議会は官庁や経済界主導で行っており、委員の意見を考慮することはありません。)のですが、日本学術会議に審議を要請しているのですから、かなり珍しい例であると思います。
日本学術会議に審議を要請した理由は、代理出産をめぐる問題は非常に幅の広いデリケートな問題なので、最も幅の広い日本の有識者がそろっている学術会議において、幅広い観点から検討して欲しいことのようです。
時事通信社の報道によると、「答申の期限は定めていない」そうです。
(2) 「読売新聞平成18年11月30日付夕刊1面」
「代理出産 法整備へ 法相、厚労相 学術会議に審議要請
政府は、代理出産などの生殖補助医療に関する法整備に着手する方針を固めた。長勢法相と柳沢厚生労働相が30日、日本学術会議に対し、代理出産の是非や基本的なルール、民法上の親子関係のあり方などについて、審議を要請する。政府はなるべく早く答申を得たうえで、適切な生殖補助医療のあり方を定める新法などの検討に入る考えだ。
不妊に悩むカップルの増加に伴い、代理出産などを希望する人も増え、生殖補助医療の技術も進歩している。しかし、現在、代理出産などのルールを定めた法律はないことから、さまざまな問題が浮上している。
最近では、タレントの向井亜紀さん夫婦が、米国女性に代理出産を依頼して生まれた双子の出生届を東京都品川区に提出したが、不受理となった。東京高裁は受理を命じる決定をしたが、同区が抗告し、最高裁で審理されることになった。
長野県では、子宮を摘出して子供を産めなくなった30歳代の女性に代わり、50歳代の母親が「孫」を代理出産。家族関係が複雑になるとして問題になった。
このため、法務、厚労両省は産婦人科などの学会だけでなく、法律、倫理などの観点から幅広く議論する必要があるとして、多方面の学識者で構成される日本学術会議に議論を求めることにした。答申の期限は定めない。
同会議では、医療、生命科学、法律など各分野の専門家が集まり審議を重ねる方針だ。具体的には、〈1〉代理出産の是非〈2〉代理出産が認められる場合、どういうケースか〈3〉代理出産により生まれた子供をめぐる親子関係、法律上の地位――などが話し合われる見通しだ。
現行の民法には、親子関係について詳細な規定はない。最高裁判例では、分娩(ぶんべん)の事実をもって母子の親子関係が発生するとしており、民法に新たな規定を設けるかどうかなどが焦点となる。
生殖補助医療 子供ができにくい「不妊カップル」を補助する目的で行われる医療。〈1〉別の女性が代わって出産する代理出産〈2〉精子を人工的に女性の体内に注入する人工授精〈3〉体外で精子・卵子を受精、分割させて、受精卵を子宮内に移植する体外受精――などがある。
(2006年11月30日 読売新聞)」
この記事でも、日本学術会議に審議を求めた理由が書かれています。それによると、「法務、厚労両省は産婦人科などの学会だけでなく、法律、倫理などの観点から幅広く議論する必要があるとして、多方面の学識者で構成される日本学術会議に議論を求めることにした」ようです。もっとも、厚労省の生殖補助医療部会の「報告書」においても、法律・倫理面からの検討を行っていましたから、幅広く議論をするというのも妙なことです。
ただ、法律面の検討をしたといっても、厚生科学審議会生殖補助医療部会について(第2回厚生科学審議会(平成13年6月11日開催)において設置決定))(PDF)を見ると、東京都立大教授(当時)・石井美智子氏は家族法を専門とする民法学者あり、この方が関与したとしても、憲法、国際私法、国際民事訴訟法を専門とする学者が関与した形跡は見当たりませんでした。
また、法制審議会生殖補助医療関連親子法制部会では、部会長は学習院大学教授(当時)・野村豊弘氏ですが(ジュリスト1243号(2003年、有斐閣)6頁参照)、野村氏は家族法の分野についての論文・著作が殆どなく、とても家族法を専門としているといえない人物なので、もしかしたら家族法の面の検討も十分でなかったかもしれません。
「報告書」からすると、憲法、国際私法、国際民事訴訟法の検討が不十分であったのですから、改めて法律面につききちんとした検討が必要でしょう。
答申の時期は、政府はなるべく早く答申を得たいようですが、「答申の期限は定めない」ようです。
(3) 「読売新聞平成18年11月30日付夕刊2面」
「【解説】代理出産 法整備検討 既成事実化に危機感
政府が今回、代理出産などの生殖補助医療に関する法整備に踏み切る背景には、出産に関する技術進歩に、法律が追いついていない現状がある。法務、厚生労働両省には、妊娠と出産の法的ルールがないまま、「既成事実化」が進んでいくと、混乱がさらに深まるとの危機感がある。
不妊カップルの女性に代わって別の女性が子どもを宿す代理出産は、生殖補助医療が抱える問題点の典型例だ。出産を希望する不妊カップルやその相談を受ける現場の医師らが、生殖補助医療に望みをつなぐ気持ちを否定はできない。
しかし、感情論だけで法制化を進めるのは危険だ。倫理、法律、医学的な安全性など多方面から議論を深める必要がある。これまで政府は、生殖補助医療のあり方については厚生労働省、出生児の法律上の親子関係については法務省で縦割りの検討をしてきた。日本学術会議に審議を依頼するのは、省庁間の垣根を超え、より高いレベルで議論を深めることが不可欠だと判断したためだ。
代理出産の是非は、諸外国でも判断が分かれている。フランスのように基本的に禁止している国もあれば、英国のように安全性確保や非営利を前提に容認している国もある。出生児の未来、少子化に悩む社会を考えれば、早急なルール作りが必要だ。(政治部 久保庭総一郎)
(2006年11月30日 読売新聞)」
1面の記事と2面の記事は同じ記者が書いた記事ですが、政治部の記者が書いたものです。代理出産問題であれば、普通は、社会部や科学環境部が扱うはずですが、政治部が扱ったのですから、異例の扱いのように思えます。
「出生児の未来、少子化に悩む社会を考えれば、早急なルール作りが必要だ」と結論付けていることからすると、政治部としては、少子化対策の一環として、代理出産を認める方向にあるといえそうです。高齢者に限らず、若い世代であっても子供が産まれにくくなっている状態にあり、若い世代からのがん発生率が高まっていることからすると、政治家の意識としては、代理出産は少子化対策の1つであると考えていると思われます。
(4) 「毎日新聞のHP」(11月30日 20時42分)
「代理出産:日本学術会議に審議要請 法相・厚労相
長勢甚遠法相と柳沢伯夫厚生労働相は30日、日本学術会議(金澤一郎会長)に対し、不妊の夫婦に代わって別の女性が妊娠・出産する代理出産の是非など生殖補助医療に関する審議を要請した。代理出産については、厚労省の審議会が禁止を求める報告書を03年にまとめたが、米国など海外での出産例や、国内での実施例が相次いでおり、改めて幅広い専門家による検討を求め、今後の制度作りに生かす。
学術会議は年内にも、法律、哲学、生命倫理、産婦人科、小児科などの専門家による委員会を設置する。両省の審議会で生殖補助医療について議論をした経緯はあるが、各分野の専門家に偏っていたため、幅広い分野の専門家に参加してもらうことにした。約1年間の審議で論点を整理し、代理出産の是非などについて取りまとめる。
金澤会長は「大変重要な問題であり、法整備を前提とするのではなく、学術的・総合的観点からきちんと議論していきたい」と話している。
厚労省は「報告書は約5年半の議論を経てまとまったもので、尊重してもらえるものと考えている。その上で、学術的な立場から議論し直す意義はある」と話している。
代理出産を巡っては、タレントの向井亜紀さん夫妻が米国で実施し、その双子の出生届に関する裁判が続いているほか、今年10月には、長野県下諏訪町の諏訪マタニティークリニックで、50代の女性が娘夫婦の受精卵を妊娠・出産した例が明らかになるなど、問題化している。【永山悦子】
毎日新聞 2006年11月30日 20時34分 (最終更新時間 11月30日 20時42分)」
時事通信や読売新聞の記事と異なり、毎日新聞の報道のみ、「約1年間の審議で論点を整理」するとしています。この報道は真実なのでしょうか? どういうルートでこういう情報を得たのでしょうか? よく確かめてみる必要があります。
この記事には、興味深い点が2つあります。
1つは、
の点です。「金澤会長は「大変重要な問題であり、法整備を前提とするのではなく、学術的・総合的観点からきちんと議論していきたい」と話している。」
法整備を前提として答申を求めているのに、法整備を前提としていないと答えているのです。後々、問題を生じてしまうのではないでしょうか?
もう1つは、
の点です。「厚労省は「報告書は約5年半の議論を経てまとまったもので、尊重してもらえるものと考えている。その上で、学術的な立場から議論し直す意義はある」と話している。」
厚労省は、「報告書を尊重しろ」というのですから、どうやら厚労省は、代理出産を容認する気がないようです。
しかし、「報告書」は、憲法・国際私法・国際民事訴訟法について知らない者ばかりで作成されたものでした。なので、向井夫妻の代理出産訴訟について、東京高裁決定は「報告書」を検討したうえで、出生届受理を命じたのです。厚労省は、東京高裁決定についてまるで理解できていないようです。
厚労省は、自己決定権・生殖の尊厳の見地を無視し、医療現場の実態や声も無視し、代理出産を認める国民がかなりの人数を占めていることを無視するようです。官僚というものは、国民の意見を聞かない者、見直すということをしない者ばかりのようです。
2.代理出産は、生殖に関する自己決定権に密接に関わるものですが、日本国憲法は米国憲法に由来している面があり、解釈論も米国の議論を採用することが多いのです。そうなると、憲法論的には、米国(の一部の州)では代理出産を認めている以上、日本国憲法下において代理出産を全面禁止することは難しいように思います。
日本で代理出産を禁止しても、代理出産を禁止しているEU諸国の国民が米国に行って代理出産を行っているのと同様に、日本人が米国で代理出産を行うことは減るはずがなく、日本と米国との関係は軍事面に限らず、人的交流が盛んであり、社会的・経済的にも密接であることからすると、今後一層増えるはずです。米国で代理出産を認めている以上、日本法で代理出産を禁止しても、無意味に近いのです。
厚労省が代理出産を禁止した「報告書」の尊重を求めても、それは現実から目を背けたものであり、官僚らしい責任回避の行動にすぎないのです。












