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2006/09/30 [Sat] 01:10:46 » E d i t
2004年11月に奈良市で小学1年、有山楓ちゃん(当時7歳)が誘拐、殺害された事件について、殺人、わいせつ目的誘拐など八つの罪に問われた毎日新聞販売所の元従業員小林薫被告(37)に対して、奈良地裁は9月26日午前、求刑通り死刑を言い渡しました。この事件についてコメントしたいと思います。


1.asahi.com(朝日新聞平成18年9月26日夕刊1面・15面。3面に判決要旨)

(1) 朝日新聞平成18年9月26日夕刊1面

奈良女児殺害、小林被告に死刑判決 被害者1人で適用
2006年09月26日13時34分
 
 奈良市の小学1年の有山楓(かえで)さん(当時7)が04年11月、下校途中に誘拐、殺害された事件で、殺人やわいせつ目的誘拐など八つの罪に問われた元新聞販売所従業員、小林薫被告(37)の判決公判が26日、奈良地裁で開かれ、奥田哲也裁判長は「わいせつ行為の着手前には強姦(ごうかん)した後に殺害することを決意していた。自己の異常な性欲を満たすための犯行であり、反省しておらず更生の可能性もない。幼少の女児が性的被害を受けていることを考えると、被害者の数だけで死刑を回避することはできない」と述べ、求刑通り死刑を言い渡した。被告側は即日控訴した。

被害者が1人の殺人事件では、身代金や強盗などの金品目的の殺人や、殺人の前科があるといった事情がない限り、死刑適用はまれ。女児が犠牲となる性犯罪が相次ぐ中、今回の判決は、被害者の数などを考慮した死刑適用基準を示した83年の永山則夫元死刑囚への最高裁判決以降の判例の流れより一歩踏み込んだものとなった。

 判決は、小林被告が女児を強姦した後に殺害する意図を持っていたと認めたうえで、殺意の発生時期について検討。女児が小林被告の部屋で宿題の算数問題をすらすら解いたことなどから「このまま帰宅させると犯行が発覚すると思い、強姦した後は殺すしかない」と思うようになったと述べ、女児が風呂場の浴槽から出ようと抵抗したためにとっさに殺意が生じた、とした弁護側の主張を退けた。

 さらに判決は「当初から女児へのわいせつ行為を意図して白昼町中でおこなわれた計画的かつ大胆な犯行」として計画性についても認定。女児の遺体を傷つけた行為に対しては「死者への尊厳が感じられない冷酷、非情な犯行だ」と断じ、遺族の処罰感情も極めて強いとした。事件の背景に小林被告の反社会性人格障害があるとしたものの、「反社会的な生き方を選択したのは被告の意思によるものだ」と述べた。

 そのうえで、小林被告に強制わいせつ致傷罪などの前科があることなどを踏まえ、「根深い犯罪傾向を有し、真剣に反省しておらず、更生の意欲もない」と指摘。小林被告の成育歴にいじめなどの不遇な点があったことを考慮しながらも、「抵抗することもままならない幼少の女児で、性的被害にも遭っていることを考えると、被害者の数だけで死刑を回避すべきとは言えない。被告の生命でその罪を償わせるほかない」と結論づけた。

 女児の両親は今年5月の公判で意見陳述し、「小林からは反省や後悔が見られない。娘が悲しむような犯罪が起きないように極刑以上の刑を与えて欲しい」と訴えた。

 一方、小林被告は公判を通じて「死刑を望む」と言い続けた。結審して以降、奥田裁判長あてに「更生する自信がない」「死刑にして欲しい」などと書いた手紙を2度送ったが、地裁は小林被告の弁護人に送り返した。

   ◇

 〈主な犯罪事実〉

●わいせつ目的誘拐 04年11月17日午後1時50分過ぎ、奈良市内の路上で、小学校から徒歩で帰宅途中の有山楓さん(当時7)を乗用車に誘い入れ、わいせつな行為をする目的で誘拐した

●殺人、強制わいせつ致死 同日午後3時ごろ、奈良県三郷町のマンション自室の浴室でわいせつな行為をした上、殺意をもって、抵抗する女児の頭などを押さえつけて浴槽の湯に沈め、同3時20分ごろに窒息死させた

●死体遺棄 遺体を乗用車に乗せて、同日午後10時ごろ、奈良県平群町の町道の側溝に遺棄した

●脅迫 同年12月14日午前0時ごろ、女児の携帯電話を使い、母親の携帯電話に「次は妹だ」とのメッセージとともに女児の遺体や妹の画像を送信し、脅した

●窃盗 同年6~11月、奈良県北葛城郡内の住宅など計6カ所から子ども用下着など計31点を盗んだ

●強制わいせつ 同年9月、奈良県北葛城郡内の駐車場で、別の女児の服を脱がせて体を触り、携帯電話のカメラで撮影した 」



(2) 朝日新聞平成18年9月26日夕刊1面

《解説》 遺族配慮 踏み込む

 極刑の選択には新潮だった被害者1人の殺人に対し、奈良地裁は一歩踏み込んだ判断をした。繰り返し『極刑以上の刑』を求め続けた遺族の感情を考慮し、女児へのわいせつや遺体の画像をメールで母親に送りつけるなど犯行全体の悪質性から、被害人数にとらわれずに極刑を導き出した。

 最高裁が83年、永山則夫元死刑囚の判決で示した死刑適用基準で強調したのが被害者の数。被害者1人の殺人事件は金品狙いなど特別の事情がない限り、無期懲役以下という判決が続いた。

 ただ、最近は最高裁や高裁の段階で、<1>悪質性や残虐性が高い<2>性犯罪が絡む<3>遺族の処罰感情が激しい――といった場合、死刑を避けた下級審の判断が覆るケースが目立つ。

 東京高裁は昨年3月、静岡県三島市の女子短大生殺害事件で、無期懲役とした一審判決を破棄し死刑を選んだ。暴行した上に生きたまま焼き殺した残忍さを重視した。

 同じく死刑が求刑された広島市の小1女児殺害事件で、広島地裁は今年7月、『被害者は1人で、計画性はなく、前科も立証されていない』と従来の判例の枠組みを変えず、無期懲役とした。

 これに対し、奈良地裁はまず、遺族の感情や犯行の残忍性、結果の重大性など従来の死刑適用基準を満たしていると認定。このうち、被害者数にこだわる結果の重大性について『被害者が幼少の女児で、性的被害を受けていることを考えると被害者数だけをもって死刑を回避すべきとはいえない』とした。

 広島地裁判決と比べ、前科や殺害の計画性が認められている違いはあるが、量刑基準が重視した被害人数以上に犯行の悪質性や一般予防を優先した判断は、厳罰化の動きが一審にも広がりつつあることを示している。(高橋昌宏)」



どのような場合に死刑を言い渡すことが許されるかについては、「永山基準」を満たす必要があります。この永山基準とは、どんな場合に死刑を言い渡すことが許されるかについて、「連続ピストル射殺事件」で4人を殺害した永山則夫被告に対する判決で、最高裁が示した基準です。

「<1>犯行の罪質<2>動機<3>態様ことに殺害の手段方法の執拗(しつよう)性・残虐性<4>結果の重大性ことに殺害された被害者の数<5>遺族の被害感情<6>社会的影響<7>犯人の年齢<8>前科<9>犯行後の情状を併せて考察したとき、その罪質が誠に重大で、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合は、死刑の選択も許されるといわなければならない――。」


これら<1>~<9>の判断要素(「量刑因子」と呼ばれています)は、並列的に挙げられていて総合考慮するわけですが、生命はもっとも重要な利益ですから、命を奪うこと、すなわち被害者数は「極めて重要な量刑因子である」(判例タイムズ1213号90頁)ことは確かです。

しかし、その多寡が他の量刑因子を無視できるほど圧倒的なものでない限り、殺害の手口、強盗・強姦目的の有無などといった「行為に関する事情や、被害者の属性等、結果の重大性にかかわる事情との相関関係によらざるをえないから、決して絶対的なものではない」(判例タイムズ1213号91頁)ので、判例は被害者数だけに着目してはいないと解されています。
そのため、光市母子殺害事件最高裁判決についても、単純に被殺者が複数(2名)であることから死刑を選択したのではなく、
「自らの手で、いずれも確定的殺意に基づき相次いで殺害したこと、うち1名の殺害が性犯罪目的で敢行されたものであり、もう1名も無抵抗の幼児を殺害したものであることなど、行為及び結果に付帯する事情をも重視して、そのような判断を導いたものと理解すべき」(判例タイムズ1213号91頁)とされています。

朝日新聞の記事では、「今回の判決は、被害者の数などを考慮した死刑適用基準を示した83年の永山則夫元死刑囚への最高裁判決以降の判例の流れより一歩踏み込んだもの」としています。確かに、少し前の判例の流れからすると、そう判断することも可能でしょう。しかし、現在の判例は被害者数だけに着目してはいないことがはっきりしているのですから、最近の判例の流れからすると、一歩踏み込んだとの判断は言いすぎように思えます。


朝日新聞の解説では、

「最近は最高裁や高裁の段階で、<1>悪質性や残虐性が高い<2>性犯罪が絡む<3>遺族の処罰感情が激しい――といった場合、死刑を避けた下級審の判断が覆るケースが目立つ」

としています。<1>と<2>の点はその通りでしょう。ただし、<3>はどうでしょうか? 

光市母子殺害事件最高裁判決の解説によると、

「本判決の結論につき、被害者遺族の被害感情の峻厳さがマスコミ等で大きく採り上げられ、社会的反響を呼んでいた事案であることと関連して、これを重視したものであるという見方をする向きがある。しかし、本判決は、被害者遺族の被害感情に言及しており、量刑因子として考慮していることは明らかであるが、上述の重視したと見られる因子に関する設示と比較してみると、これを特に重視したものと見るのは相当ではないように思われる。」

としています。
要するに、光市母子殺害事件最高裁判決は、被害者遺族の被害感情を重視したものではないのです。

奈良地裁9月26日判決は、判決要旨を読む限り、要旨の途中と結論においても遺族の被害感情に触れていますから、<3>を重視したようにも見えます。もし、被害感情を重視したものであれば、妥当でないと考えます。



(3) 朝日新聞平成18年9月26日夕刊15面

悪質性高くやむを得ない  元東京高裁判事で東大法科大学院の山室恵教授の話

 死刑の選択もやむを得ないとの印象だ。被害者1人であることなどから、かつてなら無期懲役の可能性が高い事案だったが、幼児が犠牲となる事件が相次ぐことなどへの社会の視線は厳しい。裁判所といえども世論など時代の流れは無視できない。最高裁は6月、山口県光市の母子殺害事件の被告が元少年だったにもかかわらず、二審の無期懲役判決を破棄し、従来の死刑適用基準から踏み出す判断をした。広島地裁で7月に無期懲役が言い渡された女児殺害事件に比べても、遺体を傷つけたり、遺族に脅迫メールを送信したりするなど悪質性が高かった。」

厳罰化、抑止につながらず  内田博文・九州大学院教授(刑事法)の話

 遺族感情の救済や犯罪抑止のために死刑が相当だとは思わない。安易な厳罰化は、裁判における犯罪原因や背景の分析、追究をおろそかにする。小林被告の情状鑑定では、父親による暴力や学校でのいじめ、社会的孤立が犯行に結びついたと推定されている。犯罪の原因となった問題の解決こそが抑止になるのではないか。欧州連合(EU)では死刑を禁止しているが、それで殺人が増えたという話は聞かない。裁判で遺族の過去の苦しみは検討されるが、被告に極刑が下っても未来の苦しみは救済されない。国や社会は、そこに必要な手当てをするべきだ。」



山室教授は、「最高裁は6月、山口県光市の母子殺害事件の被告が元少年だったにもかかわらず、二審の無期懲役判決を破棄し、従来の死刑適用基準から踏み出す判断をした」としています。

しかし、以前のテレビでのコメントではそういうことは言っていなかったので、新聞記者が書き間違いをしたと思います。おそらく、従来の死刑基準を踏み出していないが、従来の判例と異なり、少年であるという事情だけで死刑を回避できないことを明確にした、ということを述べていたのだと思われます。


内田教授は、「安易な厳罰化は、裁判における犯罪原因や背景の分析、追究をおろそかにする。……犯罪の原因となった問題の解決こそが抑止になるのではないか。……裁判で遺族の過去の苦しみは検討されるが、被告に極刑が下っても未来の苦しみは救済されない。国や社会は、そこに必要な手当てをするべきだ」としています。要するに、厳罰化によっては、犯罪発生を抑止できないし、国や社会によって継続的で手厚い方策をするべきだというわけです。

確かに、最近は厳罰化の傾向にあり、犯罪を犯した者を処罰し、死刑にすることで世の中に出てこないようにすることも、一方法ではあります。しかし、厳罰化によって犯罪発生を抑止できているのか、疑問に思います。特に性犯罪の場合、再犯率が高いことからすると処罰されても抑制がきかないのですから。
そうすると、特に性犯罪の場合には、厳罰化よりも、性犯罪を犯す者が出ないようにする方法を採る方が、より重要でしょう。被害が出ないで済むのですから。

もう1つは被害者対策です。
加害者を死刑にすることで遺族の苦しみは少しは軽減されるとは思います。しかし、遺族の苦しみはずっと続くのですから、根本的な被害者救済になりません。厳罰化という司法手続による救済よりも、行政による被害者救済の更なる充実の方がより効果的であり、その充実の方が必要と思われます。




2.毎日新聞 2006年9月26日 東京夕刊

(1) 

◇今こそ冷静になるべきだ--高村薫さん(作家)

 私の感覚では理解できない判決だ。死刑の選択基準は83年の永山則夫元死刑囚に対する最高裁判決が踏襲されてきた。量刑基準を変えるのであれば、国民的な合意が必要だ。個別の裁判所がその時々の世間の声に左右され、判断がまちまちになっては、裁判への信頼が失われ、法治国家ではなくなってしまう。

 被害者が幼い女の子だから死刑、年寄りだから死刑回避となれば、人の命に差があることになってしまう。子どもが犠牲になった事件だからこそ私たちは冷静になるべきだ。裁判員制度が始まれば、私たちは重大事件にかかわり、重い責任を負う。その時はすぐそこまで迫っている。だから余計に私たちは感情で判断してはならない。私はそう自分に言い聞かせている。

 死刑制度の是非についての問題もある。日本は死刑を存続する特殊な国。死刑を残していいのかどうか。死刑があるから犯罪を抑止できるという科学的証明がないからだ。冤罪(えんざい)の可能性もある。私たちの誰かが「さあ、無期ですか、死刑ですか」と迫られる場面に立ち会う。そこで、「死刑」と言えるのか、一度考えるべきだ。

 ◇適用の門戸広がり--土本武司・白鴎大法科大学院教授(刑事法)の話

 従来、日本は死刑判決を出すことに非常に慎重だった。法定刑として定められているのだから、良心と法律にのみ拘束される裁判官は死刑相当の事件なら死刑を選択しなければならない。従来の永山基準の重要な量刑要素は、特に被害者の数。2人以上でないと死刑は出せないというのは、罪刑均衡の原則からしておかしかった。山口県光市の母子殺害事件で無期懲役の高裁判決を破棄、差し戻した最高裁の判断は死刑適用の門戸を広げた。その判断に従い、死刑相当と判断したと言える。

 ◇永山基準逸脱せず--大谷実・同志社総長(刑事法)の話

 現在の犯罪、特に性犯罪に対する市民の意識が厳しくなっている。本件は、被害者数は1人だが少女を誘拐し、性的行為をしたうえで殺害し、犯行後、メールで両親を脅迫してもいる。重大な被害感情や、「安心して登下校できない」との社会への影響、犯行後の情状を考えると、被害者が1人でも永山基準を逸脱したとまでは言えない。刑罰には犯罪予防の目的もあるが、国民の規範意識に応えることも必要だ。今後は死刑判決が増えることになるだろう。」




(2) 高村薫さんは、「裁判員制度が始まれば、私たちは重大事件にかかわり、重い責任を負う。その時はすぐそこまで迫っている。だから余計に私たちは感情で判断してはならない。」と述べています。

裁判員制度が実施するようになれば、裁判員も死刑判決を下すことによって、加害者を殺すことになります。人の命を奪うことだけでなく、判決は加害者・被害者遺族の人生を左右するのですから、判決結果の重大性を感じ、感情に流されず、冷静な判断が求められるというわけです。裁判員となれば、自分が人の命を奪い、多くの人生を左右するのですから、その地位の重みを今から感じておくべきでしょう。

なお、「被害者が幼い女の子だから死刑、年寄りだから死刑回避となれば、人の命に差があることになってしまう」と書いています。しかし、加害者が弱者の場合には刑が重くなる傾向にありますから、年寄りも「弱者」に含まれますので、年寄りの場合は刑が重くなる要素となり、死刑回避の要因とはならないはずです。


土本教授が述べるように、「従来、日本は死刑判決を出すことに非常に慎重だった」といえます。今でも慎重であることは確かです。

土本教授は「従来の永山基準の重要な量刑要素は、特に被害者の数。2人以上でないと死刑は出せないというのは、罪刑均衡の原則からしておかしかった。」と述べています。要するに、一人殺害すれば死刑が相当であるのが罪刑均衡の原則に適うというわけです。

しかし、殺人罪の法定刑は死刑だけではない、すなわち、殺人罪は死刑以外の刑罰(無期懲役又は有期懲役)をも予定しているのですから、元々、1人殺せば死刑という罪刑均衡の原則はないのです。とすれば、「2人以上でないと死刑は出せないというのは、罪刑均衡の原則からしておかしかった」というのは妥当でないと考えます。


大谷実総長によるコメントは珍しいですね。それはともかく、「重大な被害感情や、「安心して登下校できない」との社会への影響、犯行後の情状を考えると、被害者が1人でも永山基準を逸脱したとまでは言えない」と述べています。

しかし、被害感情を重視するような言い方は、前述のように妥当ではありません。最高裁は被害感情を重視していないのですから。

また、永山基準を含めて判例は被害者の数は重視していますが、前述のように、判例は犯行の手口など行為や結果の重大を重視して判断しているのであって、被害感情や社会への影響、犯行後の情状を重視したわけではありません。大谷実総長は、永山基準や判例の流れについて、間違った理解をしているように思えます。

また、「刑罰には犯罪予防の目的もあるが、国民の規範意識に応えることも必要だ。今後は死刑判決が増えることになるだろう」と述べています。国民の規範意識に応えるということは、「吊るせ!」という意識に応えるということになりますが、そういう意識には警戒感を感じます。

刑罰の重さが国民の意識と無関係ではないとしても、死刑判決となれば加害者といえども命を奪う結果となるのですから、冷静な判断が必要です。「国民の規範意識に応えることも必要」と断言することは一般市民の熱を諌めない、冷静さに欠けた言い方であると思います。




3.今回の奈良地裁判決を踏まえて、今後どのように考えるべきでしょうか?  東京新聞(9月28日付)の社説を引用してみます。

性犯罪被害 再犯させぬ手立てを
 
 奈良女児殺害事件で「死刑」を言い渡された小林薫被告は、過去にも強制わいせつの罪で実刑判決を受けていた。性犯罪の受刑者らに対しては、服役中の矯正教育を徹底強化してもらいたい。

 殺された被害者が一人でも、「極刑」という踏み込んだ司法判断となったのは、残忍極まりない犯行であったことが第一だろう。

 七歳の女児を誘拐し、わいせつな行為をしたうえ、浴槽の湯に沈めて殺した。しかも、母親の携帯に女児の遺体画像や「次は妹だ」というメッセージを送りつけていた。

 法廷でも「死刑にしてほしい」「謝罪するつもりはない」などと語り、被告に反省の色はみられなかった。遺族の激しい憤りの感情も、死刑判断につながったと推察される。

 さらに、小林被告が過去二回の性犯罪の前科があったことが重大視され、その常習性や規範意識の希薄さが「更生の可能性もない」という判決を導き出したといえる。

 一九八九年の事件では、五歳の女児にわいせつ行為をし、懲役二年・四年間の保護観察付き執行猶予の判決を受けた。その執行猶予中にまたも、五歳の女児に強制わいせつ致傷の犯行に及び、九一年に懲役三年の実刑判決を受けた。

 服役中に受けたはずの矯正教育が全く機能していなかったわけで、女児殺害事件で性犯罪者の矯正問題が浮かび上がることになった。

 法務省は受刑者処遇法を改正し、今年五月から「性犯罪者処遇プログラム」の義務づけを行った。「認知行動療法」と呼ばれる心理療法で、受刑者に「自分史」を書かせ、グループでそれぞれが人生や事件を振り返ることで、自らの態度や価値観などのゆがみに気付かせ、改善させる。そんなプログラムである。

 欧米などでも実証的研究で、効果が認められているだけに、十分な効力をもたせるよう矯正教育を徹底してもらいたい。

 二十八日から始まる法制審議会の部会では、受刑者らを一定の監視下で刑務所外で生活させる「中間処遇制度」などについて検討される。

 その際、性犯罪者らに対しては、裁判所の命令に基づき、刑の終了後も再犯防止プログラムの受講や、専門施設への入所制度なども検討される可能性がある。

 罪を犯しそうな人をあらかじめチェックする「保安処分」的な発想が見える。保安処分には日本弁護士連合会などに反対論が根強くある。法制審では再犯を防ぐ手立てとして、十分に議論を尽くして、世の中が納得できる答えを出してほしい。」


(1) 「法廷でも『死刑にしてほしい』『謝罪するつもりはない』などと語り、被告に反省の色はみられなかった」わけですが、法廷で謝罪しないのはマスコミに面白おかしく報道されたくないからだそうです。また、「奈良県警の捜査員は『小林被告が心の底から死刑を望んでいるとは思えない。誰にも相手にされず強がっているだけに見える』と話す」(朝日新聞9月26日付夕刊15面)とのことですから、現実逃避のため死刑を望んでいるといえます。このようなことと、いまだ地裁段階であって事実認定や情状も変化するでしょうから、死刑相当とした判決を単純に肯定していいのか、躊躇を感じます。

この事案のような性犯罪の場合には、再犯率が高いと言われているのですから、いかに再び性犯罪を行わせないようにするかが一番の課題といえると思います。東京新聞が指摘するように「服役中に受けたはずの矯正教育が全く機能していなかったわけで、……性犯罪者の矯正問題が浮かび上がることになった」わけです。

受刑者処遇法の改正により、「今年五月から『性犯罪者処遇プログラム』の義務づけを行った。『認知行動療法』と呼ばれる心理療法で、……自らの態度や価値観などのゆがみに気付かせ、改善させる。そんなプログラムである」そうです。
さらには今後は「受刑者らを一定の監視下で刑務所外で生活させる『中間処遇制度』などについて検討」されていて、「刑の終了後も再犯防止プログラムの受講や、専門施設への入所制度なども検討される可能性がある」そうです。
それ以外にも、諸外国で行われている方法を色々と参照して、再犯を防ぐ手立てを講じて欲しいと思います。


(2) もっと根源的には問題はいかに性犯罪自体を行わせないようにすることです。

毎日新聞(9月28日付)の社説は、

「被告は高校時代に幼児性愛がテーマのアダルトアニメを見て刺激を受け、関心を持つようになったとされる。今回の事件でも誘拐の前に、「アニメのわいせつビデオを思い出して、無性にその主人公と同じようなことをしてやろうと思った」と捜査段階で供述しているのだ。

 幼児性愛を助長するビデオやアニメなどは、容易に入手できる。犯罪を誘発しかねない状況がまん延していると言ってもいい。それを許してきた社会の風潮にも問題があることを、国民全体が自覚しなければなるまい。」

として、幼児性愛がテーマのアダルトアニメを規制することを防止策の1つと考えているようです。そういうアニメを作成することを日本において規制することも一案かも知れません。しかし、小林被告人の高校生当時と異なり、今やネット上でどんな性質のビデオも入手可能なのですから、多くの性的に刺激的な物が出回っている状況では、日本で規制しても効果的な方法とは思えません。もしかしたら、幼児性愛がテーマのアダルトアニメがあることで、犯罪に出ないでいる人もいるかもしれません。

見るだけや想像に留まるだけか、それとも実際に性犯罪に出るかどうかは大きな差異があると思います。その意味で、実際に行動に出ている動物虐待に着目する必要があります。動物虐待が性犯罪の前兆と言われているのですから、動物虐待の段階で矯正することが大事なことだと思います。
もっとも、毎日新聞の解説では、坂東眞砂子氏の子猫殺しを正当化しており、動物虐待の意義を軽視して、かえって性犯罪を助長しかねませんが。


小林被告人は、「左目の視力が低いことから小・中学時代にいじめにあい、そりの合わない父親から度重なる暴力を受けていたと語っている」(朝日新聞9月26日付夕刊15面)そうです。
そうすると、いじめを犯罪としていち早く厳正に対処すること、家庭内暴力からの開放を行うことが、犯罪抑止に繋がるのではないでしょうか?


「再発防止のためには司法の場での判断とは別に、異常な犯罪を根絶するという何よりも固い意思をもって社会全体を変えていく信念が必要だ」(毎日新聞9月28日付社説)との意見もあるでしょうが、戦時中の日本軍のように「信念」(必勝の信念)を強調しても、効果的な解決策ではないのです。「信念」ではなく、「犯罪の原因となった問題の解決こそが抑止になる」(朝日新聞9月26日付夕刊における内田教授の話)のです。

テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

刑法 *  TB: 0  *  CM: 2  * top △ 
2006/09/26 [Tue] 00:14:05 » E d i t
直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題について、法的観点(動物愛護法・フランス刑法を含むペット法制)、刑事政策的観点(犯罪抑止の観点)、動物行動学からの批判を行ってきました。今回は、獣医学からの批判をしてみたいと思います。これは、獣医さんによる獣医学上の批判・反論を紹介するものです。獣医療は門外漢ですので、主観を排して文献に基づいてコメントします。

なお、動物行動学からの批判については、「++ まやのひとり言 ++」さんの「子猫殺しと避妊手術」(2006.09.13)もご覧下さい。


1.動物病院院長をしている「ペットトラブルを考えるA」さんの「坂東眞砂子氏のエッセイについて-獣医の反論1~5」からの抜粋です。(「ペットトラブルを考えるA」さんに感謝します。( )部分は抜粋のため補っています)

(1) ●坂東眞砂子氏のエッセイについて-獣医の反論1

「このエッセイ(を)一読した感想。あー、こういうの、避妊手術反対!とがなりたてる輩の陳腐な言い草の集大成って感じだなあ。けど、こいつ、文章力はあるから、妙に説得性があるように見える。……なので、獣医学上の反論を述べさせていただきたい。……

 避妊手術は、特に猫は若いうちにきちんとやるべきです。その理由は、「可哀相な貰い手のない猫をこれ以上増やさないため」ではありません。 では何のためか?「その猫が元気に健康に長生きするため」、これに尽きる!!!  どういうことか、当院のデータから説明しましょう。
 最近の猫は長生きになりました。10歳なんてヒヨッコ、15歳くらいの猫がみな、ピンピンして生きている。で、こうした年齢になってから増加してくるのが、悪性腫瘍です。中でも、雌猫の乳腺腫瘍は100%悪性であり、かつ、その悪性度は極めて高く、治療しても厳しい経過をたどります。
 当院において、この乳腺腫瘍を発症し、死亡した雌猫は全員が避妊手術を受けないまま10歳以上経過したケースである。 避妊手術をきちんと受けた猫での発症件数は、現在の所 。……

 猫の発情には周期性がありますが、これは光周期によってコントロールされています。最近の日本の家屋は夜間も煌々と明るい、そのせいで発情周期が不安定になってしまう猫も増えています。発情期の雌猫のイライラはともかく、しょっちゅうホルモンバランスが変化してしまう、こうした状況が身体に良い影響を及ぼすはずがない。
 猫の健康管理に、避妊手術は極めて重要な位置を占めているのです。……」


猫の寿命について、以前から欧米では17~18歳で、20歳を超えるものも珍しくないのですが、かつての日本ネコは7~8歳が普通とされ、短命でした。なぜ短命だったかというと、カツオ節や人間の食べ残しの魚の骨が食餌でしたから栄養バランスが悪かったことと、病気の予防のあり方や当時の獣医学が未発達であったからでした(加藤元「猫の飼い方」(池田書店)188頁)。
今では、良質のキャットフードなどにより正しい栄養が与えられるようになり、同時に、予防医学や病気の診断や治療の知識も技術も飛躍的に発達した結果、日本の猫も15歳から20歳まで生きる猫も珍しくなくなりました。

このように猫も高齢化してくると、老化によって消化器系、免疫系など体中の様々な機能が低下し、その結果、病気への抵抗力が低下し、多くの病気にかかりやすくなってきます。
多くの病気の中で、近頃急増してきているのは、致死的なガン(悪性腫瘍)です。人と同様に、より長生きするようになると、ガンが形成され増殖するチャンスが増えているからです。ただし、注意しておきたいことは、

「『ペットがガンにかかりやすくなったのは、長生きするようになったためだけでなく、彼らが人と同じ環境を共有し、人のガン発生に関与するのと同じ要因にさらされているためです』とイリノイ州シャンペーンアーバナのイリノイ大学獣医学部の頭部腫瘍学者であるバーバラ・キッチェル博士は指摘しています。」(カル=オレイ、近藤昌弘訳「猫と犬のためのナチュラル・ペット・ケアシリーズ ガン」(2004年、海苑社)13頁)


要するに、ガンの原因は、長生きしたからではなく、食事、有害物質の摂取、ストレス、遺伝によるわけです。もちろん、人間と異なり、ネコ白血病ウイルス、避妊や去勢されていないペットのホルモン、過剰なワクチン接種もガンの要因とされています。「去勢や避妊手術がガンを予防するのに健康的な食事よりずっと効果的である」(カル=オレイ・前掲6頁)とさえ言われています。

坂東眞砂子氏のエッセイについて-獣医の反論1において、取り上げている「乳腺腫瘍」は85%が悪性であり、10歳から12歳の、避妊手術をしていない雌猫に多く発生します。初期は腫瘍の大きさは米粒程度ですが、早期にリンパ節に移転し、肺に移転する例が多く見られます。10歳になる前でも、避妊手術をしていない雌猫が空咳をしていたら、すでに肺に移転していることを疑ってもいいかもしれません。

原因はホルモンの作用と見られていますが、はっきりしていません。ただし、シャムネコでは他の種より2倍かかりやすいので、遺伝的な要因も疑われています。

治療法としては、手術で腫瘍を切除し、可能な限り、乳腺周囲のリンパ節も切除します。しかし、「この病気は早期発見が難しく、進行すると手術しても予後が悪いことが多いので、早めに不妊手術を受けさせ、病気予防に努めることが大切です」(藤田桂一・監修「ネコの暮らしと健康百科 明解!にゃんにゃんクリニック」(2006年、ペットライフ社)129頁)。
9月28日追記:乳腺腫瘍に関してのサイトを2つ。
「ペット大好き!」さんの「動物医療の現場から」と、「猫マニアの館」さんの「ねこの病気」。もっと詳しく書かれていますので、参考になると思います。)


(2) ● 坂東眞砂子氏のエッセイについて-獣医の反論2

「彼女のエッセイには、雄についてはほとんど書かれてませんね。ので、これはついでのお話ですが。
 去勢手術もやっぱり健康管理のために重要です。……

 雄猫で外出する人の場合には、去勢していないと、その目的はほぼ「テリトリーに入ってくる奴をケンカして追い出す」というやつ。若くして悪性腫瘍やウイルス疾患を発症して死亡するケースでは、こうした生活をしている猫が多い。去勢して室内飼育のみで暮らしている雄猫では、生まれた時から感染している場合を除き、こういう経過をたどることはほぼありません。

 そもそも猫は室内飼育に向いた生き物です。去勢手術をして、室内飼いすることは、猫の生活(テリトリーを決めて、その中でゴロゴロするのが理想の人生)にマッチした方法です。外をプラプラ出歩いて他所の猫とコミュニケーションを取る必要性は、特にありません。 「猫は外に出さなくちゃ」と考えるのは大間違いです。


去勢していない雄猫は、発情期には外に出たがり、室内飼いの猫でも“脱走”しますので、その結果、どこかで仔猫を生ませたり、雌猫を探すうちに事故にあう可能性もあり、ウイルス疾患する可能性もあるわけです。もちろん、スプレーを防ぐこともできます。このように、去勢手術は、病気やケガを防ぎ、元気で長生きするために必要なことなのです。

 坂東眞砂子氏のエッセイについて-獣医の反論2でも、環境省も室内飼いを勧めています。これに対して、「猫がかわいそうだ」と思って、室内飼いに抵抗を感じる人がいることは確かです。しかし、

「室内飼いは猫にとって決して不幸なことではありません。そもそも猫は、広い範囲を歩き回る“徘徊(はいかい)性の動物”ではないのです。十分な食事と安全な寝場所さえあれば、それ以上は動きたがらない動物です。放し飼いをしていても外で自分の猫に会うことがめったにないのが、その証拠です。猫はどこかで寝ているのです。

 家の中にトイレと快適な寝場所があれば、猫は外に行く必要がありません。最初から家の中だけで飼い、家の中だけを“なわばり”として暮らしていれば、外に出たいとも思いません。『猫は自由に外を歩くもの。閉じ込めるのはかわいそう』という思いは、『束縛されず自由に生きたい』という私たち人間の願望を猫に重ねてしまうからではないでしょうか。

 放し飼いにされ『どこにいるのか飼い主も知らない』などというペットは今や、日本には猫以外に存在しません。ペットとは、食糧、健康をはじめ、すべてを飼い主が管理するものです。それが飼い主の責任であり義務なのです。放し飼いはもう時代遅れと言っていいでしょう。」(加藤由子「幸せな猫の育て方」(2006年、大泉書店)24頁)


猫は自分のなわばりの中で生活する習性を持っていて、「なわばりの外に出るのは、餌が不足したときと異性を探しにいくときといわれています」(東京都福祉保険局健康安全室環境衛生課「猫の飼い方」3頁)。室内飼いをしていれば家の中がなわばりであり、避妊手術をしていれば、家から出る必要がないのです。外出の自由と引き換えに、致命的な病気に感染したり、交通事故で命を奪われることは、飼い主の望むことではないはずです。致命的な病気が蔓延しておらず、交通量が少なかった昔とは、今は異なるのです。


(3) ● 坂東眞砂子氏のエッセイについて-獣医の反論3

「動物の去勢や避妊手術に反対する連中でさ、こういうこと言う奴多いよなー「セックスさせてあげられなくて可哀相」。
 あのさ、思うんだけどあんたら、セックス依存症なんじゃないの?こういうことを言う、恥ずかしくないのかァ?……

 基本的に、哺乳類の大半は発情期があるわけで、生殖は季節に支配されてます。いつもいつも頭がセックスで一杯!というわけじゃない。
 異常(である人間)を基準にして、正常を語るなかれ、と思うんです。

 一つ重要なこと。今まで散々避妊手術・去勢手術をしてきているが、手術されてセックスできなくなったことがショックで、ノイローゼになりました、なんていう動物なんか、見たことない。動物は、「自分が去勢されたんだ、避妊されたんだ」なんて気付いているわけじゃないもの。こういうことで悩むのは、人間だけです。性格だって、別段変わりません。これは、どの飼主の方も言いますね。虐待だなんて、とんでもないぞ。

 坂東氏のエッセイで呆れるのは、ご自分の無道な振る舞いの根拠に「こう言うだろう」なーんて、本人に確認も取ってない推測を立てていること。だーれも「セックスできない」ってノイローゼになんかなってないんだよ、あんたの考え(だか感想だか)には、根拠なんかないんだよ。」


避妊手術・去勢手術をしてもノイローゼになる動物なんかいないと強調しています。飼っていれば、よく分かることだと思います。「セックスさせてあげられなくて可哀相」と強調することは、「セックス依存症なんじゃないの?」と揶揄されても仕方がないのでしょう。

「『一度は出産をさせてやりたい』という人がいますが、これは人間的な発想でしょう。猫には『自分はメスだから』とか『オスだから』という認識はありません。まして『メスだから妊娠や出産ができる』などという発想もありません。そもそも交尾と妊娠の因果関係を知るよしもなく、交尾も出産もすべて本能にしたがって行っているだけです。」(加藤由子「幸せな猫の育て方」(2006年、大泉書店)90頁)

猫には「オス」とか「メス」という意識はないのです。不妊手術をしたことで、「子どもを埋めなくて悲しい」とか「男としての自信を失う」という意識もないのです。人間の勝手な思い込みで、猫を判断してはならないことを十分に理解すべきです。


(4) ● 坂東眞砂子氏のエッセイについて-獣医の反論5

「猫の生殖の特殊性なんだが。猫は交尾排卵動物なの。交尾≒妊娠なんだ。だから、セックスの意味が人間とは全く異なる。
 毎シーズン交尾させられてるということは、毎シーズン妊娠すること。で、その度に初乳も飲ませられずに放置される。身体がボロボロになってしまう!!ホルモンもガタガタになるだろう。これじゃ、本人がいつ死んでもおかしくないよ。ひどいことしやがる!!!

 あのさ、坂東さんに言いたいんだけど。こういう知識をあんた、持ってるの?
 作家のくせして、なぜ、取材しない?
 ああ、エッセイって、そこまで無神経・無責任に書き散らしていいのか。
 それとも、我々獣医・獣医療がそこまでナメられている、ということか?
 我々の仕事に対する侮辱だ。不愉快極まる。
 反論できるならしてみろよ。」


かなり激怒しています。坂東氏にように、出産後直ちに子猫を奪うことは、「毎シーズン妊娠すること。で、その度に初乳も飲ませられずに放置される。身体がボロボロになってしまう!!ホルモンもガタガタになるだろう。これじゃ、本人がいつ死んでもおかしくない」ことになるのです。
出産し続けるとどうしても体に負担がかかります。ブリーダーの猫が、一般家庭の猫と異なり、短命に終わってしまうのはその証拠です。飼い猫の「生の充実」を確保し、すぐに子猫を殺害し続けている結果、毎シーズン妊娠し、体もホルモンもガタガタになってしまうのですから、ブリーダーの猫とは比較にならないほど、猫の命をずっと削り続けているのです。

坂東氏のエッセイは、無責任な内容であり、そんな内容を正当化することは、獣医・獣医療に対する侮辱に他ならないわけです。坂東氏は、獣医・獣医療に対する知識が著しく欠けているのです。




2.坂東氏は、「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」(日経新聞でのエッセイ)からとか、「飼い猫に手術を施し、不妊状態にさせるのは、その(生殖活動の)希求をも踏みにじり、殺してしまう」(週刊現代での反論)とか、「陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる」(毎日新聞9月22日付夕刊での反論)という理由で、避妊手術を拒絶しています。

しかし、ずっと述べてきたように獣医・獣医療の見地からすると、坂東氏による避妊手術拒絶の理由は、根拠のない言い訳である
ことが分かったと思います。
本能で交尾・出産するのであって、子を産みたいという意思で交尾・出産するのではなく、生殖活動を希求しているのではないのです。不妊手術を施しても、ノイローゼになる猫はおらず、生きる意欲を絶つことにはならないのです。


また、坂東氏は、「避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。」(日経新聞でのエッセイ)として、産まれた直後の子猫を殺害しています。

しかし、産まれた直後の子猫を殺害することは、子猫の命を奪うだけでなく、親猫の命をも削るのですから、産まれた直後の子猫を殺害する方が悪いのです。獣医・獣医療の見地からすれば、どっちが良いのか、はっきりしているのです。


坂東氏は、いつものことですが「独善と狭窄」に基づいて、子猫殺しを行っているのです。
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2006/09/24 [Sun] 01:09:55 » E d i t
9月20日は「彼岸の入り」。回向院において「家畜総回向」がありましたので、参詣してきました。この彼岸の期間には、各寺院では彼岸会法要が営まれますが、参詣せずとも、改めて供養の気持ちをもつことも大切なことではないかと思います。(もちろん、ペットに限りませんし、信ずる宗教との関係を問わずということではありません。)
9月20日から26日までは動物愛護週間ですから(動物愛護法4条)、動物も命あるものであることを今一度理解してほしいと思います。

この出会ったペットに対して、慈悲の心も供養する心も全くないと感じられるのが坂東眞砂子氏です。毎日新聞9月22日付夕刊において、ポリネシア政府が坂東氏を動物虐待で告発するとの記事と、坂東批判に対する坂東氏の反論が掲載されていましたので、コメントしたいと思います。


1.毎日新聞9月22日付夕刊14面
(毎日新聞 2006年9月22日 15時00分 (最終更新時間 9月22日 15時41分))
(毎日新聞 2006年9月22日 東京夕刊ーバックナンバー)(バックナンバーの方から引用)

「子猫殺し」告白:坂東眞砂子さんを告発の動き--タヒチの管轄政府「動物虐待にあたる」

 直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。20日から26日は、動物愛護週間。坂東さんが、真意を語りたいと毎日新聞に寄稿した。

==============

 ■解説

 ◇動物の生と死、多角的議論を

 坂東さんは「子猫殺し」を発表することで、愛猫に抱く葛藤(かっとう)を伝えるとともに、過剰なペット依存社会に一石を投じ、動物の生と死について再考を促そうとした。しかし現状では、多角的で本質に迫る議論には発展していない。

 「雌猫3匹が産む猫を、がけから放り投げている」。この強い表現は、猫への愛情と罪悪感が希薄な印象で、読む側の不快感につながった。言葉を扱うプロだからこそ、意図を正確に届ける工夫がもっとほしかった。

 また、猫への避妊手術は、坂東さんの挙げる野良猫対策とは異なる側面もある。野良猫の7割以上がウイルスを持っているといわれる猫エイズの予防だ。治療法は確立されていないが、体液の接触感染が主な原因で、不妊・去勢手術を施してけんかや交尾の機会を減らせば防ぎやすくなる。

 現代社会の猫や犬は、単なるペットではなく、人生の伴りょとして扱われる。坂東さんに賛同する人は少ないだろう。ただ、私たちが「動物にとっての本当の幸せ」を知るすべはない。動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。【鳴海崇】

==============

 ◆坂東眞砂子さん寄稿

 ◇子猫を殺す時、自分も殺している

 私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。

 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。

 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。

==============

 ■ことば

 ◇子猫殺し

 坂東さんが日経新聞8月18日夕刊でエッセー「子猫殺し」を掲載。飼っている雌猫に避妊手術をせず、子猫が生まれるとがけ下に投げていることを明らかにした。日経にはメールと電話で延べ1497件(今月19日現在)の意見が寄せられた。「残酷で不快」「動物愛護の精神に反する」「生命を軽視している」「避妊手術と、子猫を殺すことを同列に論じるのはおかしい」など、大多数が批判。少数だが「これからも生と死について書き続けて」との賛意もあった。

毎日新聞 2006年9月22日 東京夕刊」



2.やっと、「タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている」との記事が出ました。

以前に紹介した、「タヒチ*ライフ」さんの「猫殺し」のエントリーは9月15日に書いたのですから、ずいぶん遅れて報道されたとの印象をもちます。もっとも、他の新聞では全く触れていませんから、それに比べればマシであるとは思います。

しかし、鳴海崇記者による解説の方はかなり問題があると思います。以下、逐一批判していきます。

(1) 

「坂東さんは「子猫殺し」を発表することで、愛猫に抱く葛藤(かっとう)を伝えるとともに、過剰なペット依存社会に一石を投じ、動物の生と死について再考を促そうとした。しかし現状では、多角的で本質に迫る議論には発展していない」


過剰なペット依存社会と非難していますが、人の価値観は他人の物差しでは計れないのですし、憲法13条(幸福追求権)は多様な価値観を保障しているのです。過剰なペット依存社会であったとしても、一概に非難することは困難です。

「過剰なペット依存社会」は日本だけではないのです。米国人のペットに対する過熱ぶりは日本の比ではありません。離婚の裁判においては、ペット問題専用の弁護士が対応に当たり、離婚後の面会の条件なども細かく決定されるのです(宇都宮直子「ペットと日本人」(文春新書、平成11年)60頁)。過熱する一方、日本と異なり、ペット・ロスに対するホットライン(専門家による電話相談)も整っており、また、米国では、獣医学部の学生たちが一定の教育を受けた後に、電話で飼い主の心の痛みについて相談を受けることも行っているのです。
ペット・ロスへのケアが十分でない日本においては、非難すべきなのは、「過剰なペット依存社会」ではなく、ペット・ロスに対するケアを充実していない現状の方であるように思えます。


鳴海崇記者は、「現状では、多角的で本質に迫る議論には発展していない」と決め付けています。しかし、ネット上では多角的な議論がなされていますし、新聞紙上でも、 「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題~犯罪抑止力としての動物虐待研究(東京新聞9月12日付)」で紹介したように、東京新聞では9月12日付で「動物虐待研究」についての論説を紹介しています。掲載時期からして、当然、坂東氏の動物虐待行為を念頭に置いた記事であることは明白です。

これに対して、毎日新聞は、最初に記事にしたこと自体は評価できますが、その後の後追い報道はしていません。何も報道することなく、「多角的で本質に迫る議論」がないと指摘するのは無責任ではないでしょうか?  「多角的で本質に迫る議論には発展していない」と決め付けるからには、毎日新聞において更なる報道を行うべきです。


(2) 

「『雌猫3匹が産む猫を、がけから放り投げている』。この強い表現は、猫への愛情と罪悪感が希薄な印象で、読む側の不快感につながった。言葉を扱うプロだからこそ、意図を正確に届ける工夫がもっとほしかった。」


鳴海崇記者が述べるように、「この強い表現は、猫への愛情と罪悪感が希薄な印象で、読む側の不快感につながった」ことは確かです。坂東氏は、作家として「言葉を扱うプロ」であるならば、論理破綻した文章でなく、もっと真っ当な言い訳をすべきでした。

しかし、「意図を正確に届ける工夫」があれば「不快感」につながらないわけではないのです。産まれたばかりの子猫を崖から投げ殺すという、残忍な方法で、常習的に(=出産毎に、数匹の子猫が産まれていると推測するのが当然であり、そうすると、既に数十匹を殺していると判断するのがほぼ100%に近く合理的な推測なので)殺害しているという動物虐待の事実(犯罪行為)を行っているから、批判されているのです。

大体、フランス刑法でも、日本の動物愛護法でも、明らかに動物虐待罪に当たる行為であるのに、動物虐待を正当化する者の言い分を尊重し、新聞掲載することは犯罪行為を助長するものです。動物虐待研究によれば、動物虐待は凶悪犯罪につながるのですから、凶悪犯罪抑止の見地から、早期に摘発することが肝心なのです。

このように、鳴海崇記者は、動物虐待の事実(犯罪行為)を行っているから、批判されていることを理解しておらず、動物虐待の危険性についても、あまりにも無理解だといわざるを得ません。新聞記者も「言葉を扱うプロ」なのですから、事の本質をきちんと理解して解説するべきです。


(3) 

「また、猫への避妊手術は、坂東さんの挙げる野良猫対策とは異なる側面もある。野良猫の7割以上がウイルスを持っているといわれる猫エイズの予防だ。治療法は確立されていないが、体液の接触感染が主な原因で、不妊・去勢手術を施してけんかや交尾の機会を減らせば防ぎやすくなる。」


鳴海崇記者が、「猫への避妊手術は、坂東さんの挙げる野良猫対策とは異なる側面もある」と指摘するのは、正しい指摘です。

しかし、

「「避妊および去勢手術をする理由はいろいろでしょうが、よくある理由というのが3つあります。「繁殖制限」と「病気予防」、「行動制限」です。

…避妊および去勢手術の一番の目的は、繁殖しないようにすることでしょう。説明するまでもないでしょうが、避妊および去勢手術をしたペットは、繁殖能力がなくなります。ですので、繁殖制限することを目的として避妊および去勢手術を行う方は多くいらっしゃいます。

次に考えられる理由は、病気の予防でしょう。メスは、人間の女性と同じように婦人科系の病気(子宮蓄膿症など)になるおそれがあります。けれども、避妊手術をして女性ホルモンをストップさせることで、婦人科系の病気になりにくくすることができます。

小さなペットにおいては、避妊せず、交配もさせない場合に病気になってしまう種類がいます。フェレットです。」( 「子猫殺し」で考えたコト:村田 亜衣さん)。


愛玩動物飼養管理士であり、ペットの適正飼養の普及活動を行っている、村田 亜衣さんによれば、不妊手術の理由は、「繁殖制限」と「病気予防」、「行動制限」をあげていますから「猫エイズの予防」だけを挙げるのは不適切でしょう。

坂東眞砂子氏のエッセイについて-獣医の反論1

「このエッセイ(を)一読した感想。あー、こういうの、避妊手術反対!とがなりたてる輩の陳腐な言い草の集大成って感じだなあ。けど、こいつ、文章力はあるから、妙に説得性があるように見える。……なので、獣医学上の反論を述べさせていただきたい。……

 避妊手術は、特に猫は若いうちにきちんとやるべきです。その理由は、「可哀相な貰い手のない猫をこれ以上増やさないため」ではありません。 では何のためか?「その猫が元気に健康に長生きするため」、これに尽きる!!!  どういうことか、当院のデータから説明しましょう。
 最近の猫は長生きになりました。10歳なんてヒヨッコ、15歳くらいの猫がみな、ピンピンして生きている。で、こうした年齢になってから増加してくるのが、悪性腫瘍です。中でも、雌猫の乳腺腫瘍は100%悪性であり、かつ、その悪性度は極めて高く、治療しても厳しい経過をたどります。
 当院において、この乳腺腫瘍を発症し、死亡した雌猫は全員が避妊手術を受けないまま10歳以上経過したケースである。 避妊手術をきちんと受けた猫での発症件数は、現在の所 。……

 猫の発情には周期性がありますが、これは光周期によってコントロールされています。最近の日本の家屋は夜間も煌々と明るい、そのせいで発情周期が不安定になってしまう猫も増えています。発情期の雌猫のイライラはともかく、しょっちゅうホルモンバランスが変化してしまう、こうした状況が身体に良い影響を及ぼすはずがない。
 猫の健康管理に、避妊手術は極めて重要な位置を占めているのです。……
 
 坂東さん、あなた、こういうこと、なーんにも知らんだろ?
 あ、知っててもどーでもいいってか?そうだよな、餌やってるだけの関係なんでしょうしね。そう書いてるもんな、エッセイで。「猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。」だもんなあ。
 つまりさあ、あんたには動物を飼う資格はないんだよ。餌やってるだけ、というのは飼ってることにはならんのよ。」


獣医さんによれば、雌猫の避妊手術の理由は、野良猫にしないためではなく、「『その猫が元気に健康に長生きするため』、これに尽きる!!!」 のです。
乳腺腫瘍は「放置していると急速に移転する致命的な病気です。……近年増加傾向にあり、10~12歳の、避妊手術をしていないメスに多く見られます」(井上緑「老猫さんの衣食住」(2006年9月、どうぶつ出版)と指摘されているように、現在、かなり知るところとなっている病気です。

今や、現在における雌猫の病気状況を考えると、避妊手術は、「その猫が元気に健康に長生きするため」に不可避なことのように思えます。

坂東氏はもちろん、鳴海崇記者は避妊手術の理由や雌猫の近時の病気状況に対して理解が不足しています。「あなた、こういうこと、なーんにも知らんだろ? あ、知っててもどーでもいいってか?」と言われても仕方がないでしょう。

もう1つ(追記)。
「猫エイズの予防」として最も効果的なのは、避妊手術ではなく室内飼いすることです。放し飼いをしている限り、猫エイズに限らず、猫伝染性腹膜炎のようにワクチンのない病気に感染するおそれがあります。猫伝染性腸炎や猫ウイルス性鼻気管炎のように、生命力がとても強く、人間の衣類について運ばれるウイルスもあるくらいで、室内飼いであっても油断できません
鳴海崇記者はきちんと調べてから解説を書くべきでした。


(4) 

「現代社会の猫や犬は、単なるペットではなく、人生の伴りょとして扱われる。坂東さんに賛同する人は少ないだろう。ただ、私たちが「動物にとっての本当の幸せ」を知るすべはない。動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。坂東さん、そして社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。」


ペットは、愛護動物とか伴侶動物と呼ばれています。それは、現在の欧米人動物観は、「動物福祉(animal welfare)」、すなわち、相手の人格などを認めたうえで、手を差し伸べる「福祉」であり、日本の動物愛護法も、このような「動物福祉」の動物観に基づいているからです。

鳴海崇記者が「動物の飼育を「自分勝手な傲慢(ごうまん)」と考えている人はどれだけいるだろうか、人間に向かうべき愛情が動物に偏って注がれていないか……。」などと考えること自体は自由です。
しかし、「私たちが「動物にとっての本当の幸せ」を知るすべはない」からといって、「自分勝手な傲慢(ごうまん)」さで、子猫の「生きたい」という生き物にとって本質的に有している欲求を奪うことは、究極の「自分勝手な傲慢(ごうまん)」ではないでしょうか?

動物愛護法の基本原則は、動物を「命あるもの」と認識し、動物をみだりに殺したり、傷つけたり、苦しめてはならないのです。それなのに、坂東氏は「自分勝手な傲慢(ごうまん)」で子猫・子犬を殺害しているのです。
坂東氏や鳴海崇記者のように、「自分勝手な傲慢(ごうまん)」で動物の命を奪ってはならないことが分からない人こそ、「社会が抱える病理」のように思えます。

坂東氏の言い分を認めると、動物虐待がはびこることを肯定し、処罰しないことになりますが、鳴海崇記者は動物虐待がはびこる社会の方が健全とでも言うのでしょうか? 

犯罪行為を正当化することは許さないという「多数派の意見」が、「自分勝手な傲慢(ごうまん)」で動物の命を奪ってよいという少数派の意見(坂東氏や鳴海崇記者)を「押し込め」ることは、各国の動物法の理念である動物の尊厳の尊重の観点からして、健全な社会であると思います。




3.坂東氏の言い訳についてもコメントしてみます。

(1) 

「私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。」


坂東氏は、対人恐怖症であり、人を愛するのが難しいから、人の代わりに猫を飼うのです。猫にしか愛情を注げないという状態自体、精神を病んでいる状態といえます。だから、「私が猫を飼うのは」、「まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さから」ではなく、精神状態の安定を得るためというべきです。坂東氏は自己分析ができていないようです。

ペット先進国の欧米では、ペット問題についてのカウンセラーが充実していますから、坂東氏はカウンセリングを受けるべきでしょう。自分の書いた論理のおかしさに気づくという効用もあるかもしれません。


(2) 

「さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。」


子猫を殺すのは「つらくてたまらない」と言いつつ、常習的に何匹もの子猫の命を奪っているのです。現実には、殺されているのは子猫だけであって、坂東氏は殺されていないのです。命は1つだけであって代わりはないのに、何匹もの命を奪っておきながら、「私は自分も殺している」という感傷に浸るのですから、自己陶酔の極みであるというべきです。自己陶酔の結果、子猫殺しという動物虐待を正当化しようとするのですから、到底納得できません。


(3) 

「しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。」


不思議に思うのは、なぜ放し飼いにするのでしょうか? 放し飼いにすれば、当然子猫を産むことになり、子猫だけでなく飼い猫全て近所に迷惑をかけているはずです。放し飼いによる「猫害」は、野良猫による「猫害」と区別できません。放し飼いこそ問題があるのです。
放し飼いにすれば、雄猫は家から出て行ってしまいますし、野良猫状態だと3~4年の寿命ですから、必ずしも「家は猫だらけ」になるのか疑問です。
日本でも欧米でも、終生飼養が原則です。「えさに困り」「私は子猫全部を育てることもできない」のであれば、元々猫を飼うべきではなく、飼えないなら子猫を産ませるべきではないのです。

もう1つ(追記)。
餌代に困り、家が猫だらけになって困るというくらいなら、なぜ3匹の雌猫(雄猫も飼っていましたが出ていったそうです)や3匹の犬(2匹は雌犬)を飼っているのでしょうか? 多頭飼いは当然、多くの出費を必要としますし、猫の世話にも時間がかかります。3匹の雌猫がいれば、最低でも3匹の雌猫×3匹の子猫=9匹は産まれますし、6匹産む可能性もあるので、同時期に18匹産まれることもあったはずです。しかも、2匹の雌犬も複数の子犬を産むのです。餌代に困り、家が猫だらけ(及び犬だらけ)になって困る事態を招いたのは、坂東氏自身なのです。自分が招いた事態なのに、「困る」と言い出すのは身勝手な言い分です。ここでも「独善」に満ちた言い訳なのです。


(4) 

「「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。」


他人の身体を同意なく傷付けることは傷害罪(刑法204条)ですから、人には不妊手術を強制できません「もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう」というのは、あり得ない例えであり、無意味な記述です。無意味な記述を書いても、全く説得力はありません。


(5) 

「もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。」


雌猫に対する避妊手術は、今や「その猫が元気に健康に長生きするため」です。「避妊手術」という言葉が一致するからといって、雌猫に対する合法的な避妊手術と、ナチスドイツや過去の日本における違法な強制的な避妊手術とは別問題です。別問題を持ち出して比較しても無意味です。

もう1つ(9月25日追記)。
「猫」の避妊手術のことなのに、なぜ、「人間の」同性愛者やハンセン病患者を持ち出してくるのでしょうか? しかも、「高等な生物が、下等な生物の性を管理する」ために避妊手術したのではなく、偏見や差別に基づいて強制的に避妊手術をしたのですから、坂東氏の言い分は正しくありません。
新潮45での寄稿でも、坂東氏を批判する日本人をわざわざ、アルツハイマー病患者と糾弾してました。こうしてみると、坂東氏は、同性愛者・ハンセン病患者・アルツハイマー病患者など差別を受けてきた者全般に対して根深い差別感情を抱いている差別主義者だと思えてなりません。


(6) 

「他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。」


「ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人」はどれほどいるのでしょうか? 病気予防など、やむを得ず、不妊手術を行っているのが通常でしょう。坂東氏は、いつもながらの「独善と狭窄」さに基づいて、非難しているのです。


(7) 

「エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。」


タヒチの報道(要約文やメール)を読む限り、エッセーは、タヒチでも正しく伝わっています。「虐待にあたるか精査してほしい」と述べていますが、不妊手術は嫌いだから子を産まれるままにしておきながら、挙句に子猫を全部飼えないから、体の弱い産まれたばかりの子猫を崖から投げ殺す行為は、飼い主の身勝手な理由で残忍な方法により殺害するものですから、動物虐待罪を有する国であれば、どこでも「虐待」に当たることは明白です。

「事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる」と述べています。そこまで言うのであれば、坂東氏が何匹の子猫と子犬を殺したのか、ぜひ捜査してほしいですし、坂東氏も何年にわたり、何匹の子猫と子犬を殺害したのか積極的に包み隠さず自白すべきです。日本の市民も知りたいことだ思います。
坂東氏は、「言論弾圧」を跳ね除けるためにも、ぜひ、何匹もの子猫や子犬をがけから投げ殺したのか、全部説明して欲しいと思います。

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2006/09/18 [Mon] 11:48:28 » E d i t
直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題について、進展があったようです。この点を中心にコメントしてみます。

1.「タヒチ*ライフ sous les cocotiers *タヒチは暑いよ~*」さんの「猫殺し」(2006年9月15日)によると、

「政府は子猫を崖から投げ捨てて殺していると日本の雑誌に吹聴したという報告を受け、告訴する事を決定。
同時にポリネシア議会の議員レヴィ氏も『動物に対する残酷な発言と、彼女を快く迎えたタヒチとその住民に対する侮辱に、大変ショックを受け、失望した』と公式発表。」

という記事がタヒチプレスに載ったそうです。(http://www.tahitipresse.pf/print.cfm?presse=17281)

坂東氏は週刊現代での反論において、

「タヒチではおおっぴらに話されることはなくても、一般的に子猫子犬が棄てられている。しかし、刑に問われたと聞いたことはない」

と書いて、高をくくっていたようですが、坂東氏の意図とは異なる事態になってきました。


こういう事態になると坂東氏は、ポリネシア議会の議員レヴィ氏が、

「『動物に対する残酷な発言と、彼女を快く迎えたタヒチとその住民に対する侮辱に、大変ショックを受け、失望した』

と発言していることや、フヌア・アニマリア協会(動物愛護協会)も、

「この記事の7日後に新刊が刊行されている事から、発言の目的は売名の為であり、動物愛護の範囲を大きく超えている。また日本人にタヒチに来くる気を失わせ、タヒチの観光業に打撃を与える。……我々はこのような侮辱を放っておく事はできない。私たちの国は汚され、我々の生命に対する尊厳と経済効果は侵害された。」

と発言したことに対して、どう答えるのでしょうか? 坂東氏はタヒチに暮らしている以上、坂東氏から「侮辱」を受けたタヒチへの説明責任は果たすべきではないでしょうか?
 

フヌア・アニマリア協会は、「この記事の7日後に新刊が刊行されている事から、発言の目的は売名の為」と指摘しています。「J-CASTニュース:「子猫殺し」直木賞作家 タヒチ刑法に抵触か : 2006/8/28」において、同様の発言をしていました。出版時期からすると、売名というか、宣伝を含めたエッセイであったと、言われても仕方がないでしょう。こういう点も、「侮辱」されたと感じる一因だと思います。


なお、

「フヌア・アニマリア協会(動物愛護協会だと思います)は、きわめて個人的な選択で子猫を殺していると大ぴらに吹聴したと糾弾。以下協会の発言:その行為は第五級の違警罪(重罪・軽罪と並ぶ犯罪の3分類の1つ。拘留・科料にあたる罪by広辞苑)に値する刑法典に触れる。」(「タヒチ*ライフ sous les cocotiers *タヒチは暑いよ~*」さんの「猫殺し」

との要約によると、子猫殺し行為に対してというよりも、子猫殺しを吹聴したという発言に対して、違警罪が適用されるように理解できます。違警罪の適用はかなり広いようです。
立証の問題がありますが、子猫殺し行為・子犬殺し行為についても告訴(起訴?)されたら、以前から触れているように、もっと重い刑罰、すなわち、フランス刑法「art.R655-1」により、「禁固2年と30,000ユーロの罰金」に処せられることになるのでしょう。




2.坂東氏は、またしても、高知新聞9月17日朝刊 第3面 「視点」(「鬼畜子猫殺し坂東眞砂子」さんからの引用)において、

「私自身の子供の頃も、生まれたばかりの子猫を川に流したり殺したりすることはまわりでよくなされていた。しかし、そこには死んでいく命に対する礼儀があった。目が明かない間、というものだ。私の子猫殺しもまた、これに則ってなされている。かつての日本の村々では、間引きは必然であり、日常的な行為だった。その対象は作物から、子猫、子犬、さらには嬰児も含まれていた。

 ……そんな間引きの風習を今も記憶している土地に生まれ育った人たちは、今回の「子猫殺し」に対して、穏やかに受け取ってくれていると思う。

 ……現在の日本の世論とは、都市生活者の意見だ。自然の摂理に無自覚で、生き物の生と死の考察の足らない人々だけに、その世論はえてして歪んでいる。今回の騒動は、世の多くの事件と同様にすぐ忘れ去られていくだろう。」

となどと、犯罪行為を正当化しています。
今まで「生の充実」とか「愛の不妊」などと言ってきて、昔の日本のことなんて一度も言及していなかったのに、「私の子猫殺しもまた、これに則ってなされている」なんて空々しいことをよく言えたものです。
批判者どころか広く「世論」もおかしいとばかりに、「世論は歪んでいる」との決め付けをしていますが、当然ながら、昔は黙認されていたとしても、今は違法であって今では許されないことには変わりはないのです。昔の黙認がなぜ今でも許されるのか、説明が一切なくては、納得できる論理になっていません。


坂東氏は、

「今回の騒動は、世の多くの事件と同様にすぐ忘れ去られていくだろう」

とのん気なことを書いています。

しかし、ペットの殺害は、禁忌という感覚に関わるので(山内昶(やまうちひさし)「ヒトはなぜペットを食べないか」参照)、坂東氏の猫殺しは、いつまでも心に刻み付けられる出来事であったといえるのです。欧米人(外国メディアにおける欧米人の反応)や多くの日本人が、坂東氏の猫殺しに感情的に嫌悪感を抱くのは、禁忌に関わるからだと思うのです。(坂東氏に好意的な論者は、その当たりの理解に欠けているように思います)

また、「仏教の世界観は、人間だけではなく、あらゆる動物を有情(心あるもの)と見て同列に置き、人間とか動物とかは、ある永続する個的存在の輪廻の諸相、諸段階に他ならない……。……このような仏教的世界観は日本文化の中に深く浸透している」(山本「改訂新版 宗教法人の法律問題」109頁)のです。そうすると、子猫の命を軽視した坂東氏の行為は、日本文化に深く根ざしている仏教(大乗仏教)の世界観に反することから、いうなれば日本文化とそぐわないのです。

仏教だけではありません。

「我々は、他の被造物、特に動物を勝手に自分の都合だけのために使っていいわけではありません。同じく創世記第一章で、神様がすべてのものを造った後、良いものだと宣言されたのですから、私たちはすべてのもの、特に動物を尊重しなければなりません。……キリスト様の、支配は奉仕であるという言葉を忘れてはいけません。いつも弱いものを特に愛するようにおっしゃいましたが、その中に動物も入っていると思います。詩編104・29-30によると、神の霊はすべてのものにひそんでいるということです。これを「神の内在」といいます。 」(松原教会・クリスチャン神父のQ&A(1))


子猫の命を軽視した坂東氏の行為は、キリスト教ともそぐわないのです。

要するに、坂東氏の子猫殺しは、禁忌に抵触しかねないのであり、日本文化ともそぐわず、仏教やキリスト教の世界観ともそぐわないのですから、忘れようがない出来事なのです。坂東氏の意図とは異なり、坂東氏の行為に嫌悪感を抱いた多くの日本人は、おそらくずっと忘れないでしょう。
もし、子猫殺し発言又は行為でタヒチで処罰されるようなら、ますます忘れないはずです。




3.坂東氏は、今更ながら、「間引き(=殺害)」は日常的だったと書いています。さすがに「日常的」とまで書いているブログは定かではありませんが、本当のところどうなんでしょうか?

統計はまずないでしょうから、すべて個人的な経験に委ねられてるのだと思います。個人的経験からすると、近所や年配者、幾つかの地方での知人に聞いても、「間引き(=殺害)」をしていませんでした。20年くらい前のことですが、親戚のいる農村地では、むしろ猫を欲しがっていたくらいでしたから、「間引き(=殺害)」はまずなかったようです。

20年くらい前のことですが、猫が産んだ何十匹もの子猫の里親探しをしましたが、すべて飼い主が見つかりました。友人、親戚、近所に限らず広く真剣に探せば、見つかるものです。また、20年くらい前に、飼い猫の避妊手術をしてもらったことがありますから、20年前でも「猫の間引き(=殺害)」以外の手段もあったわけです。

動物保護管理法(現在は動物愛護管理法)は昭和48年に成立して動物虐待罪(13条1項「保護動物を虐待し、又は遺棄した者は、三万円以下の罰金又は科料に処する」。保護動物には、犬、ねこを含む。)を規定していましたから(それ以前は軽犯罪法)、「猫の間引き(=殺害)」が日常的な昔とは何時のことなのか、と疑問に思います。


ですから、昔話としての「猫の間引き(=殺害)」は、戦前のことなんだと思います。いくなんでも、坂東氏が指摘するような「嬰児殺し」までも日常的だったというのは、戦前であってもさすがに無理な想像でしょう。




4.戦後も「猫の間引き(=殺害)」をしていたという飼い主は、生き物を飼うことの責任を自覚していない飼い主であると思うのです。

 「人間でもネコでもそうですが、生まれてきたものが祝福されなければ生まれてきたかいがありません。さもなければ、まさに生まれてきてしまってからでは“困る”のです。

 ですから、何度でもいうようですが、子ネコを生ませる人は、子どもを生ませるというハッキリした意志があり、さらにその子どもを育てるのだという覚悟がなければなりません。そして、その子ネコを喜んで飼いたいという人があって初めて、その子ネコは生を受けたことが祝福されることになるのです。

 子どもをうませるときはぜひ、この心がまえでのぞんでほしいと思います。」(加藤元・コロラド州立獣医科大学小動物臨床客員教授「猫の飼い方」154頁~)


子どもを生ませるというハッキリした意志があり、さらにその子どもを育てるのだという覚悟なく、子どもを生ませた飼い主は、無責任な振る舞いであって、正当化できることではないのです。生き物を飼うことの責任を自覚していない飼い主は、生き物を飼うべきではないのです。

坂東眞砂子氏は生き物を飼うことの責任を自覚しておらず、生き物を飼う資格を欠いているのです。坂東眞砂子氏は犬猫を飼うべきではなかったのです。




<追記1>

「NNN日本猫放送ネットワーク saihi0122.exblog.jp」さんの「腹が立つこと、泣きたくなる事」によると、

「今朝、新聞を広げて。
一番に目に付いたのが坂東マサコの記事だった。。。…

『目も開いてない時期なら犬も、猫も、嬰児も殺して良いという礼儀があった。』
だから高知では、日常茶飯事に子猫殺しを認めてるとでも言いたいのか???

言論の自由と言うのは、それから派生する非難とか色々を甘んじて受けなければならない義務も発生するはずだ。
なんでこんな人の高知県を野蛮で未開だと言わんばかりの文章を朝刊に載せるのよ?!」

と、9月17日の高知新聞での論説に憤慨しています。高知県民も、坂東氏の論説が高知を侮辱するものであると理解しているようです。坂東氏は、タヒチを侮辱し、高知を侮辱し、どういうつもりなのでしょうか。




<追記2>

「しゃべるマーライオン」さんの「シンガポール ネコ虐待男に実刑」(September 14, 2006)によると、

「ネコを虐待した男に実刑判決が下された。華人系の中年男、ネコに異常なほどの愛着を注ぐも、拾ってきたネコがベッドでおしっこをしたのに腹をたて、虐待したと報じられている。

精神科医による鑑定では、この男、Anti-Social Personality Disorderで、かなり重い症状らしい。しかし、責任能力云々に関してよりも、むしろ、ネコを虐待したこの男が、人に危害を及ぼす可能性があることに触れているところがある。判決でも、将来的な可能性を重視しての禁固1年。」


日本人の感覚では厳しいようにも思えますが、「ネコを虐待したこの男が、人に危害を及ぼす可能性があることに触れている」点は、以前に触れた「動物虐待研究」の成果に基づくと推測できます。シンガポールは、厳しい法律が見受けられることは確かですが、これも世界の動物観なのでしょうね。



<9月21日追記>

「黒猫亭日乗」さんからTBを受けましたので、こちらも。「黒猫亭日乗」さんは、前も紹介したとおり、坂東氏の子猫殺し問題について積極的に論じておられます。どれも分析が素晴らしく、非常に読む価値が高いと思わせる内容と文章力です。ぜひご覧下さい。

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2006/09/17 [Sun] 12:49:52 » E d i t
地下鉄サリンなど13事件で殺人罪などに問われたオウム真理教元代表の麻原彰晃被告=本名・松本智津夫=について、最高裁は15日、東京高裁の控訴棄却決定を支持し、被告側の特別抗告を棄却する決定を出しました。この決定についてコメントしたいと思います。


1.毎日新聞(平成18年9月16日土曜日朝刊1面)

オウム裁判:松本被告の死刑確定 教祖初公判から10年、裁判を打ち切り--最高裁
 
 ◇高裁決定を支持

 地下鉄サリンなど13事件で殺人罪などに問われたオウム真理教(アーレフに改称)の松本智津夫(麻原彰晃)被告(51)について、最高裁第3小法廷(堀籠(ほりごめ)幸男裁判長)は15日、東京高裁の控訴棄却決定を支持し、被告側の特別抗告を棄却する決定を出した。戦後最多となる計26人の殺害と1人の監禁致死など、全事件を「教祖」の指示と認定した1審の死刑が確定した。社会を震かんさせた事件の首謀者に対する裁判は、96年4月の初公判から10年余で、控訴審が一度も開かれることなく打ち切られた。(2、3面にクローズアップ、社会面に関連記事、6面に特集)

 被告が自ら控訴や上告を取り下げて裁判が打ち切られたケースはあるが、統計が残る66年以降、控訴棄却決定で死刑が確定するのは初めて。決定は4人の裁判官全員一致の意見。

 特別抗告審では、東京地裁の死刑判決の是非ではなく、(1)訴訟能力の有無(2)弁護側の控訴趣意書の提出遅れに刑事訴訟規則で容認される「やむを得ない事情」があるか(3)提出遅れという弁護活動の不備による不利益を被告に負わせることの可否--が争われた。

 第3小法廷は(1)について、▽高裁の依頼で今年2月に提出された精神鑑定の結果▽1審判決当時の被告の発言内容▽拘置所での日常生活の様子--などから、訴訟能力があるとした高裁決定を「是認できる」と述べた。

 (2)については、弁護団が趣意書を作成しながら、高裁による再三の提出勧告に対し「精神鑑定の方法に問題がある」などとして提出しなかった経緯に言及。「やむを得ない事情があるとは到底認められない」としたうえ「弁護人が被告と意思疎通できないことは、提出遅延を正当化する理由にならない」と判断した。

 (3)については「弁護人の行為による効果が、被告の不利益となる場合でも被告に及ぶことは法規の定めるところ」と指摘。「被告自ら弁護人と意思疎通を図ろうとしなかったことが、裁判を打ち切るような事態に至った大きな原因」と批判し「高裁決定を揺るがすような事情を見いだすことはできない」と結論付けた。

 松本死刑囚は17事件で起訴されたが、審理迅速化のため検察側は薬物密造など4事件の起訴を取り消し、地下鉄、松本両サリン事件の負傷者3920人を起訴事実から外した。1審では「弟子が事件を起こした」と、ほぼすべての事件で無罪を主張。東京地裁は04年2月、「空想虚言に基づいて多数の生命を奪った犯罪は愚かであさましく、極限の非難に値する」と死刑を言い渡した。

 2審の弁護団は控訴趣意書を昨年8月の期限までに提出せず、東京高裁は今年3月に控訴棄却を決定。弁護側は異議を申し立てたが棄却され、最高裁に特別抗告していた。【木戸哲】

 ◇一区切りの感--最高検の横田尤孝次長検事の話

 地下鉄サリン事件発生から約11年、初公判から10年が経過し、決定を受け一区切りの感がある。控訴審、上告審に係属中の被告がいるので、引き続き適切に対応する。

 ◇被告へのひぼう--松本被告弁護団の抗議声明

 決定はきわめて不公平で不当。強く抗議する。決定は被告が弁護人と意思疎通を図ろうとしないことが控訴棄却をもたらした大きな原因と指摘するが、被告の精神状態を無視するもので、被告へのひぼうというほかない。

 ◇被害者・遺族は会見で怒り新た

 最高裁決定を受け「地下鉄サリン事件被害者の会」代表世話人の高橋シズヱさん(59)ら被害者・遺族が記者会見し、怒りを新たにした。

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毎日新聞 2006年9月16日 東京朝刊」



●毎日新聞9月16日付朝刊6面

オウム裁判:松本被告・死刑確定 突き進んだ無差別テロ 教団武装「日本の王に」

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 ◆1審認定の13事件犯罪事実

 東京地裁判決が認定した犯罪事実は次の通り(いずれも教団幹部らとの共謀、年齢は当時)。

  (1)田口修二さん殺害(殺人)=88年に静岡県富士宮市の富士山総本部道場で起きた在家信徒死亡事件の口封じのため、89年2月、総本部向かいにある独房修行用に改造したコンテナ内で、脱会しようとした田口修二さん(21)の首を絞め殺害。

  (2)坂本弁護士一家殺害(殺人)=オウム真理教被害者の会を支援していた坂本堤弁護士(33)の排除を計画し89年11月4日未明、横浜市磯子区の坂本弁護士方で、坂本弁護士と妻都子(さとこ)さん(29)、長男龍彦ちゃん(1歳2カ月)の3人の首を絞めるなどして殺害。

  (3)サリンプラント建設(殺人予備)=教団武装化の一環として、化学兵器のサリンをプラントで大量生成することを計画。93年11月~94年12月、山梨県上九一色村(当時)でプラントをほぼ完成・作動させた。

  (4)滝本弁護士襲撃(殺人未遂)=オウム真理教被害対策弁護団で活動していた滝本太郎弁護士(37)を排除しようと94年5月9日、甲府地裁西側駐車場に止まっていた滝本弁護士の乗用車にサリンを流入させ、サリン中毒症の傷害を負わせた。

  (5)松本サリン(殺人、殺人未遂)=サリンの殺傷能力を確かめるため、教団進出に反対する住民との裁判が係属していた長野地裁松本支部の裁判官や周辺住民の殺害を計画。94年6月27日夜、松本市内でサリンを発散させ、伊藤友視さん(26)▽阿部裕太さん(19)▽安元三井さん(29)▽室岡憲二さん(53)▽瀬島民子さん(35)▽榎田哲二さん(45)▽小林豊さん(23)の計7人を殺害、住民4人に重傷を負わせた。

  (6)自動小銃密造(武器等製造法違反)=ロシア製自動小銃「AK74」を模倣した銃約1000丁を94年6月~95年3月、上九一色村の第11サティアンなどで製造しようとした。

  (7)落田耕太郎さん殺害(殺人、死体損壊)=94年1月30日未明、上九一色村の第2サティアンで、脱走後に他の信者を連れ出そうと教団施設に侵入した落田耕太郎さん(29)の首を絞め殺害。遺体をマイクロ波加熱装置とドラム缶を組み合わせた「マイクロ波焼却装置」で焼いた。

  (8)冨田俊男さん殺害(殺人、死体損壊)=警察のスパイに仕立て上げようとした信者の冨田俊男さん(27)を拷問したがスパイと認めず、口封じを計画。94年7月10日、第2サティアンで絞殺し遺体をマイクロ波焼却装置で焼いた。

  (9)水野昇さん襲撃(殺人未遂)=94年12月2日、東京都中野区の路上で、教団を脱会しようとした知人の信者を支援していた水野昇さん(82)の後頭部に注射器を使って猛毒のVXを掛け、VX中毒症の傷害を負わせた。

 (10)浜口忠仁さん殺害(殺人)=大阪市の会社員、浜口忠仁さん(28)を警察のスパイと疑い、94年12月12日、同市淀川区の路上で注射器内のVXを掛け、同月22日、中毒死させた。

 (11)永岡弘行さん襲撃(殺人未遂)=オウム真理教被害者の会会長、永岡弘行さん(56)に対し95年1月4日、東京都港区の路上で注射器内のVXを掛け、中毒症の傷害を負わせた。

 (12)仮谷さん監禁致死(逮捕監禁致死、死体損壊)=信者の居場所を聞き出そうと95年2月28日、品川区の路上で、信者の兄の仮谷清志さん(68)を拉致し第2サティアンに監禁。3月1日、全身麻酔薬の副作用による心不全で死なせ、遺体をマイクロ波焼却装置で焼いた。

 (13)地下鉄サリン(殺人、殺人未遂)=警察による強制捜査を回避するため不特定多数の人を殺害して混乱を起こそうと計画。95年3月20日朝、東京の地下鉄3路線の電車内でサリンを発散させ、乗客の岩田孝子さん(33)▽和田栄二さん(29)▽坂井津那さん(50)▽小島肇さん(42)▽藤本武男さん(64)▽田中克明さん(53)▽伊藤愛さん(21)▽岡田三夫さん(51)▽渡辺春吉さん(92)▽中越辰雄さん(54)と、駅員の高橋一正さん(50)▽菱沼恒夫さん(51)の計12人を殺害、乗客14人に重傷を負わせた。

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毎日新聞 2006年9月16日 東京朝刊」


この特別抗告は実質的な審理を行った裁判ではなく、「特別抗告審では、東京地裁の死刑判決の是非ではなく、(1)訴訟能力の有無(2)弁護側の控訴趣意書の提出遅れに刑事訴訟規則で容認される「やむを得ない事情」があるか(3)提出遅れという弁護活動の不備による不利益を被告に負わせることの可否--が争われた」というものです。

ですが、この特別抗告の一番重要なポイントは(2)の点です。すなわち、平成17年8月の提出期限をすぎて、平成17年3月に控訴趣意書を提出しても、遅延がやむを得ない事情に基づくとして(規則238条)、これを期間内に提出された適法なものとして審判の対象とすることができるのかという点です。
この点は、「松本被告の控訴棄却への異議申し立てを棄却(東京高裁平成18年5月30日決定)」や、「オウム松本被告の控訴棄却~東京高裁の控訴棄却の判断は妥当なのか?」で触れたように、「最高裁昭和32年4月23日決定…は、控訴趣意書提出最終日が弁護人側から数回にわたり延期申請があったためその都度延期され、しかもその延期された期限から1箇月以上も遅れて提出されたときは、やむを得ない事情に基づくものとはいえないとする…。」という前例もあることから、遅延がやむを得ない事情に基づくという判断は困難でした。

本決定は、次のように判示しています。

「所論は,控訴趣意書の提出が平成18年3月28日になったことについては,刑訴規則238条にいう「やむを得ない事情」があると主張する。しかし,控訴趣意書の提出期限は平成17年8月31日であり,同期限が延長された事実はないばかりか,同日の裁判所と弁護人との打合せの席上,弁護人は,控訴趣意書は作成したと明言しながら,原々審の再三にわたる同趣意書の提出勧告に対し,裁判所が行おうとしている精神鑑定の方法に問題があるなどとして同趣意書を提出しなかったものであり,同趣意書の提出の遅延について,同条にいう「やむを得ない事情」があるとは到底認められない。弁護人が申立人と意思疎通ができなかったことは,本件においては,同趣意書の提出の遅延を正当化する理由とはなり得ない。」


確かに、「やむを得ない事情」があるとはいえないという判断は妥当といえるのでしょう。しかし、「やむを得ない事情」についての事例判断にとどまり、「やむを得ない事情」の判断基準を示すことがありませんでしたから、今後の指針となりえない判例となってしまいました。「やむを得ない事情」が問題となる事例自体がほとんどないのですから、判断基準を示すべきだったと考えます。

また、弁護人としては、被告人から不服の理由を十分に聞いた上、第1審判決を分析し、説得力ある控訴趣意書を作成する必要があるのです。控訴審の弁護活動のポイントは第一にこの説得力ある控訴趣意書の作成にかかっているといえるのですから、意思疎通なく出来上がった控訴趣意書を提出することには問題がありました。それでも、控訴趣意書を提出すべきというのなら、控訴趣意書はどうあるべきなのか、控訴趣意書を軽視することにならないかなど、もっと踏み込んだ見解を示すべきでしたが、このような「控訴趣意書の重要性」に触れることがなかったのですから、説得力を欠く判例となったと考えます。

また、「『被告に訴訟能力はない。治療すべきだ』として公判の停止にこだわるあまり、被告の裁判を受ける権利が奪われる致命的な結果を招いた弁護団の責任は重大である。一方で、弁護団の精神鑑定への立ち会いや鑑定医への尋問を認めず、対立を深めた高裁の訴訟指揮も、柔軟さを欠いた。」(東京新聞9月16日付「核心」)。高裁での訴訟指揮の問題性も指摘すべきでした。訴訟指揮は、ただ審理を促進するための権限ではないのですから。

結局、「第三小法廷は約三カ月かけ、一審からの記録を精査。重大事件とあって通常あまり例がない最高裁独自の判断を『職権』で示したが、『責任は麻原被告にもある』と踏み込んで指摘した以外、中身は高裁決定と同じだった。」(東京新聞9月16日付「核心」)といったさほど内容のない決定であったと思われます。


どの新聞でも現在では、公判前整理手続により、争点を整理して、公判開始後ほぼ連日法廷を開いて審理期間を短縮するので、今回の死刑確定まで10年はかからなかったはずとの指摘がなされていました。

しかし、「審理に時間がかかるのは真実を発見しようとする努力の結果。それを否定するのは刑事弁護をするな、と言うのに等しい」と安田弁護士が憤る」(東京新聞9月16日付朝刊3面)ように、時間がかかるのはやむを得ないのです。何より、起訴時17事件(その後13事件)、1万5000点の証拠、弟子たちの供述調書もなく、3938名に及ぶ殺人及び殺人未遂の被害者(地下鉄サリン・松本サリン。その後18人に絞り込む)、麻原被告の場合、直接実行していないので、すべて「共謀共同正犯」として「共謀」の有無が最大の争点なのに、起訴状には実行行為者と「共謀して」とあるだけで、いつ、どこで、誰と、どのように謀議したのかの記述が全くありませんでした。麻原被告はほとんど目が見えないため、資料を見ることができず、調書を読んで自分で判断することもできないのですから、13もの事件をはっきり区別して弁護人との打ち合わせをすることは、弁護人も麻原被告の側も大変です。(安田好弘「『生きる』という権利――麻原彰晃 主任弁護人の手記」参照)。

要するに、元々、目が不自由で訴訟手続の進行が難しく、13事件と多く、どれも重大事件ですし、立証も弁護も難しい「共謀」を中心に争う事件だったのに、最初から「共謀」の中身や証拠を示していないのです。これでは、審理を促進しようがないのです。いずれにせよ、(1審で実質審理打ち切りということがなければ)死刑確定まで10年くらはかかったと思われます。




2.いわゆる識者のコメント

(1) 朝日新聞(9月16日付朝刊2面)
 

混迷状態 放置し悪化  

 松本被告と接見した、精神科医の加賀乙彦さんの話 事件がなぜ起きたのかを解明するためには、松本被告にコントロールされた弟子たちの話だけでは半分も状況は理解できない。松本被告の考え方の解明は全世界の人々が知りたがっており、日本にはテロリズムの本質を明らかにする責務がある。

 私は多くの拘禁反応の症例に接してきたが、松本被告も拘禁反応による混迷状態で、訴訟能力はないとみている。治療すれば症状は改善するのに、放置したことで悪化した。10年以上も裁判に要した理由のひとつはそこにある。


 『異常』で片づけるな

 ジャーナリストの江川詔子さんの話 松本被告の魅力は、何を聞いてもシンプルで力強い答えをすぐに返すところだと信徒に聞いたことがある。そういうものに頼りたい弱さは私たちにもある。複雑な世の中を善悪の二つに分けて論じたがるいまの風潮が、まさにそうだ。

 オウム事件は社会を映すゆがんだ鏡だった。『奇妙な人たちの異常な事件』で片づけるのではなく、裁判で明らかになったことを手がかりに、私たち一人ひとりが『ここから何を考えるべきなのか』を探すことが大切だ。


 カルトの構図 いまも

 浅見定雄・東北学院大名誉教授(宗教学)の話 松本被告を頂点とするオウム真理教のカルト集団的な側面が解明されず残念だ。事件当時『なぜエリートの若者たちが?』と言われたが、『有能な男とかわいい女の子を集めればもうかる』がカルトの発想。大勢の人に声をかければ、問題に突き当たっている人もいてはまってしまう、という構図はオウムの危険性が知られた今も変わっていない。さまざまなカルトが今後も力をもつ可能性があり、オウムを知らない若者世代に注意喚起する必要がある。」


一連の事件は、松本被告を頂点とするオウム真理教のカルト集団が起こした事件でした。ですから、カルト集団的な側面の解明が必要でしたし、全世界の人々が知りたがっていたのですから、「日本にはテロリズムの本質を明らかにする責務」があったはずです。

「松本被告の魅力は、何を聞いてもシンプルで力強い答えをすぐに返すところ」だったそうですが、そういう点に惹かれる人々は多いと思います。小泉首相がずっと支持率が高かったのですから。

加賀乙彦さんの話の話にあるように、「治療すれば症状は改善する」見込みがあるのですから、治療すべきだったのに、治療をせずに裁判を打ち切ってしまいました。

もちろん、裁判にあらゆる真相究明を求めることは無理な話です。ですが、裁判所が自ら「日本にはテロリズムの本質を明らかにする責務」を放棄する結果を招くべきではなかったと考えます。


(2) 法律学者のコメント

 

元最高検検事の土本武司・白鷗大法科大学院教授(刑事法)の話
 「裁判の手続きとしては、弁護団が指定期日までに控訴趣意書を出さなかったことなどで、特別抗告が棄却されるのは予想されていた。今後、弁護団が再審開始を求め続ける可能性もあり、争う道はまだある。このまま裁判の幕が下りるのなら、何か大切なことをやり残したような空虚さを感じる」産経新聞(9月16日付朝刊30面)

 

前田雅英・首都大学東京法科大学院教授(刑事法)の話 「今回の決定は、松本被告の訴訟能力を認める根拠とした医学的な検査結果を挙げ、弁護活動の不当さも指摘するなど、最高裁決定としては異例の具体的な内容になった。長期審理を容認した法曹関係者への厳しいメッセージと受け止めるべきだ。刑事裁判の迅速化を促す意味も持ち、国民が納得しやすい結末と言える」読売新聞(9月16日付朝刊38面)


確かに、前田教授の言うように、「国民が納得しやすい結末」だったのでしょう。しかし、本決定が示した内容は、訴訟能力や「やむを得ない事情」の事例判断であって、「長期審理を容認した法曹関係者への厳しいメッセージ」はありませんし、「刑事裁判の迅速化を促す意味」も込められていません。前田教授は、(近年、やっと刑事訴訟法の共著を出版したとはいえ、刑法学者であるせいか、)実質審理が1審で打ち切りという異常さを理解していないようです。

「この裁判が手続き的処理で決着をつけるべきではなく、実体を審理して決着をつけるべき重大な裁判なのは明らか」(朝日新聞(平成18年5月31日付朝刊):元東京高裁部統括判事の村上光鵄・京大法科大学院教授(刑事法))であって、「このまま裁判の幕が下りるのなら、何か大切なことをやり残したような空虚さを感じる」というのが、刑事訴訟法学者の大方の見解だと思います。


(3) 東京新聞(9月16日付朝刊31面)

【関連】松本サリン被害河野義行さん手記
唯一の『功』は、被害者支援の立法に道開いたこと
 
 
 一九九四年に起きた松本サリン事件で被害に遭い、当初容疑者扱いされた河野義行さん(56)=長野県松本市=が十五日、この十二年余を振り返る手記を本紙に寄せた。

 麻原被告の死刑が確定したが、私には何の感慨もわかない。私にとって、今回の最高裁決定も事件の通過点にしかすぎない。私にはまだ事件は終わっていない…。だが、不満は残る。

 十年間を超えた裁判は被害者にとっては長い年月であったが、否認事件で、犠牲者二十七人の殺人容疑を含む裁判では、異例の短期間の決定だと思う。控訴審では審理すらされず、被告の謀議や訴訟能力の有無などがどのように立証されたのか、不安を感じる。また、世間では裁判手続きを軽視する傾向もあり、何が何でも死刑になればよいというのであれば、社会はこの事件から何も学ぶことができなくなってしまう。

 私はこれまで、麻原被告に対して憎しみの感情はわかなかった。メディアや社会から「麻原が憎くないのか」と言われ続けたが、私の思いは変わることはなかった。私には、恨みや憎しみの感情によって不幸の上に不幸を重ねたくない、という思いがあるからだ。

 だが、犯罪被害者の立場にあっては、国の支援対策の貧困さに困惑と憤りを覚えた。微力な被害者の存在への支援をマスコミや講演活動を通して訴え続けてきた。

 被害者支援の施策は格段に改善されたが、先進国に比べて三十年遅れているとさえ言われている。二〇〇四年十二月に犯罪被害者等基本法が成立し、国や地方自治体、国民までが被害回復の責務を負った。さらに、犯罪被害者等基本計画により支援は実態に即したものになるであろう。サリン事件の功罪を問うならば、犯罪被害者の実態を世間にさらし、被害者支援の立法化に道を開いたことが、唯一の「功」の部分だと思う。」


河野さんが指摘するように、「世間では裁判手続きを軽視する傾向もあり、何が何でも死刑になればよいというのであれば、社会はこの事件から何も学ぶことができなくなってしまう」と思います。

裁判手続の軽視・無理解は、世間だけではありません。ジャーナリストの江川詔子さんは「今後、新しい事実が発見される可能性はないはず」(毎日新聞9月16日付朝刊30面)と述べていて、原則として新しい事実が予定してない控訴審の構造の理解がないのです。また、作家の佐木隆三さんは「訴訟能力の有無は、約8年の1審を見続けてきた者として問題ないと言える」と述べていて、今争っている訴訟能力の有無は、1審後控訴審時の訴訟能力の有無であって、1審時の訴訟能力を問題にしているわけではないことを理解できていないのです。なぜ、裁判を見続けてきて、裁判手続を学ばないのか不可解です。

何より大切なことは、犯罪被害者支援です。なのに、「被害者支援の施策は格段に改善されたが、先進国に比べて三十年遅れているとさえ言われている」のです。河野さんは「犯罪被害者の立場にあっては、国の支援対策の貧困さに困惑と憤りを覚えた」わけで、色々な対策が講じられてきましたが、さらなる被害者対策を行うべきです。被害者対策が充実すれば、安心して被害者が捜査への協力も可能になりますし、検挙率向上に繋がり、より住みやすい社会になると思われます。




3.東京新聞(平成18年9月16日付朝刊:社説)

カルトは解明できたか 麻原死刑確定
 
 地下鉄サリン事件などで起訴されて十一年。オウム真理教の元代表麻原彰晃被告の死刑が確定した。「カルトの犯罪」の“闇”はあまりに深い。憤りは消えず、虚(むな)しさばかりが残る。

 生い立ちをたどれば、挫折や無念の連続だったろう。オウム事件の核心は、麻原被告の社会に対する恨みや敵意だったのかもしれない。

 生まれながらに、左目がほとんど見えなかった。その障害のため、不本意ながら、盲学校に通わされ、医師になる夢を捨てたとされる。

 「東大へ行く」「政治家になる」と語り、郷里の熊本から上京したが、夢は次々と砕かれ、ついにニセ薬を売って逮捕される。

 そんな運命を恨んだのだろうか。社会を呪(のろ)ったのだろうか。

 松本智津夫という本名を捨て、麻原彰晃という“衣装”をまとうと、夢というより妄想を膨らませ、やがて身勝手な犯罪へと暴走した。

 それが、オウム帝国という疑似国家である。われわれから見れば、現実離れした虚構の帝国であったとしても、麻原被告にとっては、“省庁”をそろえた現実世界だった。その疑似国家が、本物の国家に対し、鋭い牙をむいて挑んだのが、オウム事件ではなかったか。

 地下鉄サリン事件など十三事件で起訴され、死亡者は二十七人にのぼる。世界を驚愕(きょうがく)させた大事件なのに、被告自身が法廷でほとんど何も語らなかったため、真相も真意も推し量ることしかできない。

 教団はバブル景気とともに巨大化し、バブル崩壊とともに加速度的に殺人集団へと化した。サリンやVXガスなどの化学兵器をプラント生産していた事実は、あまりに衝撃的だった。それに比べ、警察当局の出動は遅かった。カルト集団をめぐる教訓をくみ取らねばならない。

 有名大学を出た若者たちが、なぜ麻原被告を「グル」とあがめ、無差別テロに走ったのか。なぜ凶暴な教義の呪縛(じゅばく)から逃れられなかったのか…。裁判の場での解明には至らなかった。疑問の不完全燃焼は残念だ。真相究明こそが、テロ対策の第一歩だからだ。

 オウム対策の「団体規制法」が制定され、教団の活動は公安調査庁の観察下にある。分裂騒ぎの渦中にあるといえども、関係者によれば、今も出家信者は約四百人、在家信者は約千人にのぼるといわれる。

 超能力や神秘体験…。ネットを通じて、より若者はカルトに取り込まれたりする時代である。オウムを生んだ“病巣”は、今も社会のいたるところにある。」


まずもって不満が残るのは、「警察当局の出動は遅かった」ことです。坂本弁護士一家殺害事件においても、オウム真理教の「プルシャ」(バッジ)が落ちていたのに、O氏の自首もあったのに、神奈川県警はきちんと捜査をしていませんでした。「警察が当たり前の捜査をしていれば、松本サリン事件や地下鉄サリン事件など、後のオウム事件は起こらなかっただろう」(安田「『生きる』という権利69頁)とさえいえるのです。

「真相究明こそが、テロ対策の第一歩」であるのに、裁判の場での解明には至らず、疑問の不完全燃焼に終わってしまいました。日本のテロ対策はどうするのでしょうか? 過去に起きたことを教訓として未来に生かすことをなぜしないのでしょうか?

米国では、「二〇〇一年九月十一日の米中枢同時テロで、米議会の調査委員会は三年後に詳細な報告書を提出。「政府がテロの脅威を見逃してきた」と厳しく追及した」のに、「一方、松本サリン事件後に、地下鉄サリン事件を防げなかった責任について、国会でしっかりした議論はなされなかった。」(東京新聞9月16日付朝刊1面)のです。

「刑事裁判による真相解明には限界がある」ことは確かです。しかし、「麻原被告が絶対者になったメカニズムも、検察は十分に立証していない。教祖は裁きの場から退場するが、政府や国会は事件から教訓をくみ取る努力をするべきだ。いまからでも遅くはない。」(東京新聞9月16日付朝刊1面のです。

本来なら、政府や国会に真相究明や事件から教訓を汲み取る努力をすべきですが、どんな事件でも中途半端で終わることばかりです。東京新聞は、努力を促していますが、実際上は、政府や国会は何もしないのでしょう。それが今までの日本の政府や国会ですから。




4.これで麻原彰晃氏の死刑がほぼ確定したわけですが、執行の予定はどうなっているのでしょうか?

◇死刑早期執行、可能性は低く

 死刑執行について刑事訴訟法は、判決確定日から6カ月以内に法相が命令すると定めているが、法的拘束力のない訓示規定とされる。そのうえ、再審手続きが終了したり共同被告人の判決が確定するまでの期間は、6カ月の「期限」が延びるとされ、実際には7、8年後の執行が多い。

 8月末現在の死刑囚は88人。法務省は「原則として確定順に、再審や恩赦を相当とする情状の有無などを慎重に検討し、これらがない場合に初めて執行を命令する」と説明する。松本死刑囚の場合は、弁護側が再審請求する公算が大きく、一部の元幹部らの裁判も続いている。法務省幹部は「元幹部らは松本死刑囚と一緒に審理されていないので厳密には共同被告人ではないが、法の趣旨を考えれば裁判の進行は考慮するだろう」と言う。松本死刑囚の死刑が早期に執行される可能性は低そうだ。

 一連の事件では、高橋克也容疑者(48)らが現在も逃亡中だが「未逮捕の共犯者がいても死刑の執行は適法」という判例がある。」(毎日新聞(9月16日朝刊3面:クローズアップ2006:オウム裁判 松本被告・死刑確定(その1)


執行までにはかなりの時間

 刑事訴訟法の規定では、死刑は確定から六ヶ月以内に執行しなければならないが、麻原被告は共犯者の公判が続いており、執行にはかなりの時間を要するものとみられている。

 麻原被告の共犯として起訴された元幹部のうち、刑が確定していないのは12被告。広瀬健一、井上嘉浩両被告ら10人が最高裁に上告中で、中川智正、遠藤誠一両被告は東京高裁で控訴審が続いている。

 また、刑訴法では死刑囚が心神喪失状態になった場合、法相が執行を停止するとしており、弁護団は確定後も「受刑能力がない」と主張するとみられている。」(東京新聞9月16日付朝刊3面)


<参照条文>
第四百七十五条  死刑の執行は、法務大臣の命令による。
○2  前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

第四百七十九条  死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する。
○2  死刑の言渡を受けた女子が懐胎しているときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する。
○3  前二項の規定により死刑の執行を停止した場合には、心神喪失の状態が回復した後又は出産の後に法務大臣の命令がなければ、執行することはできない。
○4  第四百七十五条第二項の規定は、前項の命令についてこれを準用する。この場合において、判決確定の日とあるのは、心神喪失の状態が回復した日又は出産の日と読み替えるものとする。


毎日新聞や東京新聞の記事に出ているように、死刑執行については、刑訴法475条1項2項本文によれば、判決確定日から6ヶ月以内に法相が命令すると定めています。

しかし、これには例外があり、再審手続中であれば、再審によって確定判決も覆る可能性があるので、刑訴法475条2項により、6ヶ月での執行をしないのが通例です。
また、共同被告人に対する審理が再審、非常上告等を通じて間接的に影響を及ぼすこともあり得るので、刑訴法475条2項により、共同被告人の審理中は6ヶ月での執行をしないのが通例です。この本決定の事件では、共同被告人はいませんが、共謀共同正犯として処罰するのですから、実質的な共同被告人がいるので、刑訴法475条2項の趣旨からすれば、やはり6ヶ月での執行はないことになります。

そうなると、少なくとも7年、「10年以上執行されない」こともありうる(朝日新聞9月16日付朝刊2面「法務省幹部のコメント」より)のです。

更に言えば、裁判所がいくら訴訟能力があると認定しても、実際上は、心神喪失状態なのですから、刑訴法479条からすれば、心神喪失状態を回復するまで(今のままではおそらく死亡するまで)執行されないことも十分にあり得るでしょう。そう考えると、治療して回復を待って訴訟手続を行う方が合理的で妥当だったと思うのです。今回の決定は色々な問題点を残したといえると思います。

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2006/09/15 [Fri] 00:04:14 » E d i t
坂東眞砂子氏が産まれた子猫を直ちに、自宅の隣にある高さ15~20mの崖から投げ落として殺害する行為は、フランス刑法上、動物虐待罪に該当し、日本で行えば動物愛護法上、動物虐待罪に該当することは、すでに何度も述べている通りです(「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(上)」「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(中)~フランスのペット法事情」「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(中)(追記)~J-CASTニュースがタヒチの動物愛護団体に問い合わせ」「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(下)~「物」から「者」への狭間で」参照)。

動物虐待はその行為自体、欧米や日本では犯罪ですが、動物虐待はもっと広がりのある問題ではないか、として研究が進みつつあります。東京新聞(9月12日付夕刊)において、横山章光助教授が「犯罪抑止力としての動物虐待研究」という論説を書いているので、これを紹介したいと思います。これは、「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(下)~「物」から「者」への狭間で」の最初に問題点として指摘した「動物虐待の影響」の問題です。


1.東京新聞(9月12日付夕刊7面「文化欄」)

犯罪抑止力としての動物虐待研究 横山章光

 陰惨な青少年犯罪が起こるたびに、その前兆としての動物虐待歴が語られることが多い。例えば、神戸児童連続殺傷事件や西鉄バスジャック事件などの加害者が事件を起こす前に動物虐待を行っていたことが明らかとなっている。驚いたことに、日本では動物虐待の研究はほとんどなされておらず、ただただ『おどろおどろしいもの』として事件のあとに語られるだけである。

 ☆ ☆

 しかし欧米ではその行動に科学のメスが入り、成果を挙げ始めている。『動物虐待研究』の方向性をまとめてみると、

 <1>子どもの発達との関係

 幼い子どもは好奇心から動物をいじめてしまうことがある。成長してくると非行の一つの形として集団的な動物虐待がありうる。『他』を認識、共感することは成長段階と非常に関係している。

 <2>犯罪との関係

 動物虐待をする者がしない者と比べて、後に対人暴力を起こす可能性がかなり高いことや凶悪犯罪(特に対人暴力や殺人、性犯罪)者を調べると過去に動物虐待行動があった確率が高いことなどから、動物虐待は犯罪への第一歩であり、見逃してはならない。

 <3>小児虐待やDV(家庭内暴力)との関係

 小児虐待がある家ではペットも虐待されている可能性が高く、虐待されている小児がペットをいじめる場合も多い。DVのある家では暴力者がペットも虐待している可能性が高く、それを子どもが目撃している場合も多い。現在では『動物虐待』『小児虐待』『DV』がリンクしていると考えられている。

 <4>精神疾患との関係

 子どもにおける行為障害、成人における反社会性人格障害が動物虐待を引き起こす可能性があること。また獣姦など性嗜好(しこう)異常も隠れた問題であること。

 ――などが挙げられる。

 ☆ ☆

 従来ペットについての問題は、動物愛好家以外にはそう関心を持たれなかった。その理由のひとつとして、子どもは社会に属するが、ペットは個人に属するものであるからである。

 しかし動物虐待問題はそこに潜む様々な対人暴力の観点から社会全体が考えていかなければならない問題であろう。そのためには、

 ▽あらゆる分野での調査=日本では全くデータがないため、各分野での早急な調査が必要である。例えば、少年院や刑務所に入った者がどれぐらいの割合で動物虐待を行っていたか、一般の子どもや成人ではどのぐらいなのか、小児虐待やDVが関与している場合はどうなのか、獣医療現場や精神医療現場ではどのぐらいなのか。

 ▽協力体制の構築=動物虐待が発見される現場としては、教育・司法・医療・福祉・獣医療など様々な場所が考えられる。これらの分野がお互い学び合い、連絡を密にして速やかに情報を伝え対処していく。

 ▽教育=動物虐待を根っ子から絶つためには教育の関与が重要となる。どういう教育をすれば動物虐待が、そして対人暴力が減るのか、命の大切さや相手の立場に立って行動することを子どもたちにどう教えていくか。

 ――などが必要であろう。

 今年五月に来日したこの分野の第一人者である米ユタ州立大学のフランク・アシオーン教授は全国でシンポジウムを開き、この研究を進めていくことの重要性を説いた。彼の近著『子どもが動物をいじめるとき 動物虐待の心理学』も翻訳され、我が国でも研究会などが開かれていく予定である。

 ☆ ☆

 凶悪犯罪や小児虐待・DVなどへの対策が叫ばれているが、依然として我が国における動物虐待の全体像は曇ったまま見えていない。シンポジウムに参加したある政治家はこう発言した。『自分は今まで小児虐待の法律作成にも関与してきたし、動物愛護法改正にも関(かか)わってきた。しかしこの二つが関係あるなどとは思ってもみなかった』。今までと違った全く新しい視点が必要なのである。

 様々な分野が協力した研究・連携・対策が急がれる。

 (よこやま・あきみつ=帝京科学大アニマルサイエンス学科助教授、精神科医、ヒトと動物の関係学会事務局長)」



2.要するに、動物虐待研究の成果からは、<1>子どもの発達との関係、<2>犯罪との関係、 <3>小児虐待やDV(家庭内暴力)との関係、<4>精神疾患との関係があることが分かって来ているということです。

(1) この解説をはっきりとした言い方に言い換えると

<1>子どもの発達との関係では、成長後の虐待は非行の一つといえること、
<2>犯罪との関係では、動物虐待をする者は、後に対人暴力を起こす可能性がかなり高く、凶悪犯罪(特に対人暴力や殺人、性犯罪)を起こす前兆であり、動物虐待は犯罪への第一歩であること、
<3>小児虐待やDV(家庭内暴力)との関係では、動物虐待を行っている者の家庭では小児虐待やDV(家庭内暴力)を行っている可能性が高く、『動物虐待』『小児虐待』『DV』の3つはリンクしていること、
<4>精神疾患との関係では、動物虐待は子どもにおける行為障害、成人における反社会性人格障害の表れであり、性嗜好(しこう)異常の表れでもあること、

と説明できると思います。
こう書くと、動物虐待が及ぼす影響は、単なる倫理観・死生観の違いや(子猫殺しを普通にしてきた一部の日本人がしていた)昔の日本への郷愁や、坂東眞砂子氏が言う「愛の不妊というビョーキ」ではおよそ正当化できない、深刻な問題であることが分かると思います。



(2) このような動物虐待研究の成果からすると、坂東眞砂子氏に対して、次のような評価ができると思います。

坂東眞砂子氏は、対人暴力を起こす可能性がかなり高く、凶悪犯罪を行う可能性もありえることになり、子どもがいれば虐待している可能性があり、同居人に対してDV(家庭内暴力)を行っている可能性があり、坂東眞砂子氏は、本当に、反社会性人格障害を患っているかどうかは不明ですが、反社会性人格障害を患っている可能性があるといえます。

坂東眞砂子氏は、一度だけ子猫殺しをしたわけではなく、子猫殺し・子犬殺しという犯罪行為を常習的に行い、その行為を(子猫殺しについては明確に)正当化しているのですから、極めて危険で悪質なので、十分にありえる評価だと考えます。



(3) 坂東眞砂子氏の精神状態が危ういことは、日経新聞のエッセイと週刊現代での反論を読み比べるとよく分かるのではないかと思います。


日経新聞のエッセイの段階では、最初に「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだとう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが」として、自らのした行為の反社会性を認識しているように書き、「(子猫殺し)それに伴う殺しの痛み、悲しみを引き受けてのことである」と苦悩を見せていました。

ところが、週刊現代の反論では、「タヒチではおおっぴらに話されることはなくても、一般的に子猫子犬が棄てられている。しかし刑に問われたとは聞いたことはない」と述べて、まるで犯罪性がないかのように開き直っています。また、「この騒動を通して見えてくるのは、社会がいかに病んでいるかということだ。子猫殺しに対する病的な攻撃はやめて」と書いて、批判する側すべてを病気扱いし、もはや自らが犯した罪への苦悩の説明はなく、苦悩の気配は皆無になってしまいました。
「子猫殺しをするしかなくなる。拷問である」などと、あたかも他人から暴力を受けたかのような言い回しを使うことは、「『するしかなくなる』行為が『拷問』である以上、自分以外の誰かに強いられた苦痛というニュアンスになって、自省の意味合いはまったく読み取れない。」(「黒猫亭日乗」さんの「『週刊現代』私の反論」より)のです。


また、日経新聞のエッセイでは「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」として、猫を擬人化し、飼い猫の側の視点から正当化していました。

ところが、週刊現代での反論では、坂東氏は、飼猫に不妊手術を施すことは「自分自身に不妊手術を施すのと同様の気分だ」から、避妊手術をしないのだとして、飼猫と自己を同一化し、飼猫に自己を投影させてしまい、坂東氏自身の視点からの正当化に摩り替えてしまいました。

このように、批判されてしまう内容を書いていたのに、批判する者はすべて病気扱いにする精神状態批判を「子猫殺しに対する病的な攻撃」扱いする精神状態日経新聞のエッセイとの内容と、週刊現代での反論での内容を変容させてしまっても平気な精神状態なのです。坂東氏の精神状態の危うさを感じています。


(4) 週刊現代の反論だけを読んでも、精神状態の危うさが感じられます。

坂東氏は、「子猫を崖の下に投げ棄てるたびに頭の中が真っ白になり、恐怖と動転に襲われる。しかし、不妊手術のことを考えただけで、自己を不妊に、不毛の人生に落とし込む底なしの暗い陥穽を前にする気分になる。どちらを向いても、恐怖と動転がある。そりゃ、ビョーキだよ。」と書いています。

これは、子猫を殺す行為で「恐怖と動転」に襲われているのに、止めることなく何度も繰り返し「恐怖と動転」を味わっています。なぜ、一度で止めることなく、何度も繰り返し「恐怖と動転」を味わうのでしょうか。あまりに危うい精神状態です。

また、不可解なのは、自ら不妊手術を受けないのに、猫を擬人化し、猫が不妊手術を受けることで被る不利益を想像するという抽象的な「恐怖と動転」を感じてしまい、しかも抽象的な「恐怖と動転」よりも、実際に投げ殺すという具体的な「恐怖と動転」の方を何度も実践してしまう点です。なぜ、不妊の部分だけ猫を擬人化し、具体的な「恐怖と動転」の方を何度も実践してしまうという合理性に欠けた行動を行うのか、その精神状態は、あまりに不可解です。

これらの点からしても、坂東氏の精神状態の危うさが感じられます。坂東氏は自らのことを「ビョーキ」と何度も書いている以上、本音かどうかは不明ですが、「ビョーキ」と指摘されても仕方がないはずです。



 
3.坂東眞砂子氏自身の問題とは別に、坂東眞砂子氏が犯罪の正当化を繰り返し発表し、坂東眞砂子氏による動物虐待を大して悪いことではないと述べるブログや、東野氏のように「自分には罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればいい」として擁護する文章を流すことの影響を懸念しています。


(1) 犯罪を正当化したり、大して悪いことではないと喧伝すると、動物虐待を行う者が増加する可能性が高くなります。動物虐待は、対人暴力、特に凶悪犯罪を行う前兆ですから、「動物虐待を根っ子から絶つためには教育の関与が重要」となります。

それなのに、犯罪を正当化したり、大して悪いことではないと喧伝すると、動物虐待を助長するような教育効果を持つことになり、凶悪犯罪を抑止できない結果になります。他方で、動物虐待を行う者にとっても、凶悪犯罪を実行しないうちに阻止できれば、加害者にならず、一生の大半を刑務所で過ごしたり、死刑にならずにすむのに、それができなくなるのです。



(2) 「大して悪いことではない、騒ぎすぎだ、非難しすぎだ」と喧伝すること。この「大して悪いことではない」という言い分は、動物虐待に限らず、聞き覚えのあることです。例えば、「万引きは大して悪いことではない」とか、「飲酒運転は大して悪いことではない」とか。DVも以前は「『自分の言うとおりにならない妻を殴ることは夫として珍しくない行為であった』ことから、大して悪いことではない」とされていました。

「飲酒運転は大して悪いことではない」と思う意識があるからこそ、飲酒運転による事故によって、多くの人命が失われても、危険運転致死傷罪(刑法208条)という重罰化規定を創設しても、「自分は事故を起こさない」と思い込み、あげく多数の人を死傷させる事故を起こしてしまうのです。

飲酒運転の法改正へ、酒類提供に罰則新設
 
 飲酒運転による重大事故が相次いでいることを受け、警察庁は、運転手にアルコールを提供した人にも罰則を科す規定を道路交通法に新設する方針を固めた。

 同法には、アルコールを提供してはいけないという条文はあるものの罰則がなかった。

 同庁では、飲酒運転に甘い現状を変えるため、運転者だけでなく、周囲にも厳しく責任を問う姿勢を打ち出す。さらに、道交法違反(ひき逃げ)の懲役刑についても、現行5年以下から10年以下に引き上げる。いずれも、来年の法改正を検討する。……」YOMIURI ONLINE(2006年9月14日14時36分 読売新聞)


このように、今後はさらなる重罰化が予定されていますが、「飲酒運転は大して悪いことではない」と思う意識が変わらなければ一向に飲酒運転は減らないのです。


DVも、ドメスティック・バイオレンス(DV)防止法で処罰や接近禁止命令や退去命令があるほどの犯罪なのです。万引きも窃盗罪(刑法235条)という犯罪であって、もし万引き後逃げる途中で店員を殺傷すると、強盗致傷罪(負傷で無期又は6年以上の懲役、死亡で死刑又は無期)という重罪が問われるほどの深刻な問題なのです。

しかし、DVも万引きも「大して悪いことではない」という意識のままでは、一向にこれらの犯罪は減らないのです。



(3) もし、「大して悪いことではない」として、性犯罪の芽を摘むことができないと、再び性犯罪を犯す可能性が高くなります。

今度は女子高生に痴漢行為、植草教授を現行犯逮捕
 
 女子高生のスカートの中を手鏡でのぞこうとしたとして有罪判決を受けた名古屋商科大客員教授の植草一秀容疑者(45)(東京都港区白金台)が、電車内で女子高生に痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条例違反の現行犯で警視庁蒲田署に逮捕されていたことがわかった。

 調べによると、植草容疑者は今月13日午後10時10分ごろ、品川―京急蒲田間を走行中の京浜急行の電車内で、神奈川県内の高校2年の女子生徒(17)の下半身を触った。女子生徒が「やめてください」と声を上げたため、植草容疑者は周囲の乗客に取り押さえられ、京急蒲田駅で同署員に引き渡された。植草容疑者は当時、酒に酔った状態で、調べに対しては「覚えていない」と否認しているという。

 植草容疑者は一昨年4月、JR品川駅構内のエスカレーターで女子高生のスカートの中を手鏡でのぞこうとしたとして、現行犯逮捕された。裁判では「誤認逮捕」として無罪を主張したが、罰金50万円の有罪判決が確定している。

 この事件で植草容疑者は早大大学院教授を解任されたが、今年4月から名古屋商科大大学院の客員教授として、「国家の経済政策」をテーマに講義していた。」YOMIURI ONLINE(2006年9月14日13時48分 読売新聞)


植草一秀氏はまた性犯罪で逮捕されましたが、今度で3度目です。こうなっては、被害者に精神的ショックを与えるだけでなく、植草一秀氏にとっても今までの人生が台無しになり、家族もずっと居た堪れない思いですごさざるを得ません。これは、あまりに不幸極まりないことです。



(4) 窃盗罪という犯罪なのに「万引き」と言い換え、売春という犯罪なのに「援助交際」と言い換え、動物殺害という犯罪なのに「間引き」と言い換える。どれも、犯罪性を薄め、遵法意識を鈍磨させる効果をもたらしています。

「たかが間引きじゃないか、坂東氏の行為は大して悪いことではない」「自分には罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればいい」。いずれも犯罪を薄め、遵法意識を鈍磨させています。こういう意識が他の犯罪の場合にも波及してしまうのではないか、との危機感を抱いています。

坂東氏の犯罪行為を「大して悪いことではない」などと擁護することは、動物虐待を行う者を増加させ、凶悪犯罪のみならず、犯罪行為をためらう規範意識を失わせ、より社会不安をもたらす危険な行為であるのです。


もしかしたら、坂東氏の犯罪行為を正当化し、動物虐待を大して悪いことではない、「自分には罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればいい」として、坂東氏の子猫殺しを擁護する人達は、動物虐待を行った経験があるのではないか、との危惧感をもっています。

へたをしたら、すでに小児虐待やDVどころか、凶悪犯罪を行う一歩手前までの状態にあるのかもしれないとの危惧感も的外れではないかもしれません。すでに述べた「動物虐待研究」の成果からすれば、常習的で悪質な子猫殺しでさえ擁護するのですから、少しも大げさなことではないと思えるからです。

どれも危惧感で留まることを祈るばかりです。


なお、評論家・呉智英氏は、「坂東眞砂子『子猫殺し』を論ず」(文藝春秋2006年10月号で、「私は、子猫殺しに賛成しない」とはっきり明示しつつ、表面的には坂東氏を擁護しています。しかし、わざと間違った動物愛護法の理解を提示してそれを根拠に擁護しているので、本音の部分では坂東氏の擁護になっていない論説なのです。これは、呉智英氏の「いつもの遊び」であり、これならまだマシなのですが。
追記「黒猫亭日乗」さんの「呉智英の軽率」が説明する動物愛護法の説明は正しいので、正しい理解はそちらで。呉智英氏は昔から無茶苦茶な法理論・法解釈をするので、論理遊びとして面白かったが、今回は程度が低すぎて面白くないです。)




4.今までも色々書いてきましたが、このエントリーの締めとして、東京新聞平成18年9月14日付朝刊14面の「言いたい放談」での湯川れい子氏のコラムを引用してみたいと思います。

慈悲を失った人間  湯川れい子

 風邪をひいての休日。新しい週刊誌をぺらぺらとめくっていたら、例の『子猫殺し』の女性作家に対する、友人という人の立派な援護射撃の文章が載っていた。

 フランス領タヒチでは、子猫殺しはかなりの罰金を払わされ、場合によっては逮捕もあり得ると聞き、やれやれと少し胸をなで下ろしていたのに、また熱がぶり返した。

 私はとくに猫が好きだというわけではない。でも、犬も猫も、人間が飼い慣らして数千年。もはや野生では生きられないのだから、その生命と暮らしには等しく責任があると思っている。生殖能力を奪い取るのは残酷だ、と避妊せず、生まれてきた子猫を『自分の痛みの責任において』投げ殺す。そのどこが気持ち悪いかといったら、性と生殖を切り離して考えている人間の身勝手さだ。

 人間以外のあらゆる動物は、子孫を生み育てるために交尾する。そして彼らは命がけで出産し、寝食を忘れて子供を育てるのだ。

 つかの間の快楽のために、平気でメスを殺したり、我が子を殺したりするのは、この厳粛ないのちの営みを忘れてしまった“下等”な人間たちだけである。生きていくうえで、慈悲の理念を忘れてしまったら、もはや人間は人間ではない。いやな社会になったものだ。

 交尾はさせてもらえても、この後に命がけで生んだ子猫を取り上げられた母猫は、さぞ悲しんで子どもたちを探し回ったことだろう。あどけない無力な命を奪うことに、どんな理屈も要らない。
                       (音楽評論家)」


坂東氏がどう正当化しようと、どう擁護しようと、「生きていくうえで、慈悲の理念を忘れてしまったら、もはや人間は人間ではない」のです。

ずっと法的観点、動物学の観点、犯罪抑止の観点から、坂東氏の理屈や行為を非難してきました。しかし、「あどけない無力な命を奪うことに、どんな理屈も要らない」のです。生まれてきたばかりの無力な命をたびたび奪うことに対して、自然と、「おぞましい、嫌悪感をもつ、異常である」と意識することこそ、大事なことなのではないかと思うのです。
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2006/09/12 [Tue] 06:37:37 » E d i t
2006年9月11日で、米同時多発テロ(9・11)が発生してから丸5年、そして、郵政民営化(だけ)が問われた総選挙から丸1年が過ぎました。


1.朝日新聞(平成18年9月12日朝刊1面)

9・11テロ、5年目の朝 NYなどで追悼式
2006年09月12日01時16分
 
 国際テロ組織アルカイダのメンバーらがハイジャックした民間機で米国の中枢を同時攻撃した米同時多発テロ事件から11日、5年が過ぎた。ツインタワーが倒壊したニューヨークの世界貿易センタービル跡地の追悼式は午前8時46分(日本時間午後9時46分)、アメリカン航空11便が北棟に突入した時刻に黙祷(もくとう)をささげた。ユナイテッド航空175便の南棟突入、南棟と北棟の倒壊した時刻にも黙祷した。

 世界貿易センタービルでは、2749人が犠牲になった。死亡した人たちの名前を、その配偶者やパートナーが2人1組になって読み上げた。男性の死者が大半だったため、女性の声が続いた。日本人で亡くなった平井克征さん(当時32)の家族も名前の読み上げに加わった。跡地の底には北棟、南棟のあった場所にそれぞれ水をたたえた四角い祭壇が置かれ、遺族は次々に花を供えた。ブッシュ大統領は、市内の消防署での追悼式に臨んだ。

 国防総省(ペンタゴン)とユナイテッド航空93便が墜落したペンシルベニア州シャンクスビルでも追悼式があった。事件では、日本人24人を含む90カ国以上の3000人近くが犠牲になった。」



2.このテロ事件は、「日本人24人を含む90カ国以上の3000人近くが犠牲になった」事件でした。ブッシュ政権は、「対テロ戦争」を開始し、「ブッシュ米大統領夫妻は9月10日夕、…世界貿易センタービルの跡地『グラウンド・ゼロ』を訪れ献花し、大統領は『あす(11日)は決意を新たにする日だ』と述べ、テロとの戦いを継続する意思を示した」(「同時テロ5年前夜に追悼=大統領、死者思い「決意新たに」-米」:時事通信9月11日11時1分更新)そうです。

ですが、いまだ同時首謀者とされる国際テロ組織アルカイダのウサマ・ビンラディン容疑者の足取りはつかめていませんし(「ビンラディン容疑者の有力情報2年なし 米紙報道 2006年09月11日06時58分:asahi.com))、「アルカイダ自体は弱体化しても、イスラム過激派のテロは欧州やアジアも含め世界に広く拡散する」(日経新聞9月10日付社説)ようになりました。今や、アルカイダと関係が不明な組織が、アルカイダを模倣した攻撃を繰り返し、テロがなくなるどころか拡散してしまったのです。

テロという凶悪な犯罪で結果も重大ですし、罪はテロを行う側にあります。「寛容と自由がさりげなく息づく社会がある限り、テロに勝利はない」(毎日新聞9月12日付:余禄)ともいえるでしょう。
しかし、「9・11以後の米国の対応での正邪の二元論や、イスラエル擁護に偏りすぎた中東での外交姿勢」(日経新聞9月10日付社説)をしている限り、テロが減っていくとは思えないのです。




3.終わりの見えない「テロとの闘い」の先頭に立っている米国では、色々な弊害が生じています。

(1) 毎日新聞(平成18年9月10日付朝刊26面)

米同時多発テロ:発生5年 米メディアの苦悩 政権監視に逆風

 米同時多発テロ(01年9月11日)から5年。米国の新聞やテレビなど伝統的な主流メディアが逆風にさらされている。政府情報の流出を極端に嫌うとされるブッシュ政権の「秘密主義」、対テロ戦争下での国家安全保障と報道の自由のせめぎ合い、インターネットを足場に台頭する新メディアからの批判、読者・視聴者の信頼度の低下--。米報道機関の抱える難題の現状を報告する。【ワシントン和田浩明】

 ◆「前例ない」情報統制--秘密主義

 今年3月3日。CNNなど米テレビで長年調査報道に携わったマーク・フェルドシュタイン・ジョージ・ワシントン大准教授(メディア史)の自宅を、2人の米連邦捜査局(FBI)捜査員が訪れた。米国の調査報道の草分け的存在の一人で50~70年代を中心に活躍したジャーナリスト、故ジャック・アンダーソン氏が同大に寄贈した取材資料やメモを入手したいというのだ。

 名目は、対イラン政策関連情報が国防総省から在米親イスラエル団体経由で、米国外に流れたとされるスパイ防止法違反容疑事件の捜査。だが、アンダーソン氏の資料は「歴史的遺物」(同准教授)で、2人が探しているという80年代初頭の文書が含まれているとは思えなかった。そう説明しても、捜査員は「情報漏えいのパターンを知る役に立つ」と主張、提供を要請したという。

 フェルドシュタイン准教授の疑念は深まった。「政府の情報統制活動の一環ではないのか」。2月には、国立公文書館で長年公開されていた大量の米政府文書が具体的な理由説明のないまま再度機密指定されていたことが発覚したばかりだった。

 ◇「テロ犯利する」

 米報道関係者の間にも、現政権の情報の囲い込みを指摘する声は根強い。「ホワイトハウスから本当に情報がとりにくくなった」。長年ワシントンを拠点に活動する米大手紙記者は指摘する。

 ブッシュ大統領のリーク嫌いは有名だ。昨年末から今年6月にかけ国家安全保障局(NSA)による令状なし盗聴や、中央情報局(CIA)による大量の金融取引情報の収集など、テロ対策の一環としての極秘活動が報道で明るみに出た際は、「機密情報の漏えいはテロリストを利しかねない」と強い不快感を表明している。

 米政府の情報公開度向上を目指すジャーナリストや研究者らがつくる民間団体「オープン・ザ・ガバメント」の06年版「秘密主義通信簿」によると、06年度国防予算のうち17%は内容が非公開で、機密指定の国防関連調達予算額はここ10年で倍増した。

 01年以降、「国家機密」を理由に政府が法廷や議会などへの情報開示を拒んだ件数は年平均4件で、冷戦のただ中だった53~76年の平均2・46件の約1・6倍になった。同団体は「どの政府も政策情報の統制を望むものだが、現政権の行動は前例のない水準」と主張する。

 国立公文書館の情報保安監督室によると、国家安全保障関連文書の機密指定にかかわる費用は、CIA分を除き05年度で77億ドル(約8900億円)に達し、前年度比5・8%増えた。……

 ◆処罰恐れ、記者萎縮--安全保障

 国家安全保障に関する報道の情報源の多くは政府関係者と見られており、守秘義務違反の疑いがあるとして、刑事訴追を視野に司法省が内部調査を行う場合が多い。このため、「訴追を恐れて話したがらなくなる政府関係者が目立ってきている」(ルーシー・ダルグリッシュ・報道の自由のための記者委員会代表)という。米国民の知る権利に応え、政府活動をチェックする報道をすることがより難しくなってきているというのだ。

 ブッシュ政権高官を巻き込んだCIA工作員身元漏えい事件(03年)の裁判で、情報源秘匿のため証言を拒んだニューヨーク・タイムズ紙記者(当時)が昨年、法廷侮辱罪で収監された。米下院は6月、CIAの金融情報収集に関する同紙の報道に対し、「対テロ戦争下で米国民の生命を危険にさらす」などとして非難決議を採択した。「報道で処罰される恐れは記者を萎縮(いしゅく)させる」(フェルドシュタイン准教授)との懸念が広がっている。

 厳しい環境下で米報道機関は、情報公開制度や訴訟を駆使することで政府情報の入手を図っているという。

 ◆法制化への動き鈍く--情報源秘匿

 米国では50州中31州とワシントン特別区で、一定の条件下で情報源の秘匿権を保護している。連邦レベルの制度がないためだ。そのような中、報道の自由を維持するため、記者による情報源秘匿を認める連邦法の導入を目指す動きがある。

 昨年2月に連邦議会の上下両院に法案が提出されたが審議は進まず、今年5月に類似法案が上院に再提出された。元新聞記者で弁護士でもあるダルグリッシュ記者委代表は「今後2、3年で成立すると期待しているが、今年は11月に中間選挙もあり議会通過は難しそうだ」と見る。

 記者の情報源秘匿を認めるかは、CIA工作員身元漏えい事件でも焦点になった。だが、ワシントンの連邦高裁は05年2月、米憲法修正第1条が保障する報道の自由も、重大事件を審理する連邦大陪審に対する秘匿権までは認めていないとの判断を示した。

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 ◇報道機関に敵意--ルーシー・ダルグリッシュ・報道の自由のための記者委員会代表の話

 現政権が持つ秘密が過去5年間に増加したことは疑いの余地がない。民主主義社会における情報公開の役割への配慮が非常に低く、報道機関に敵意を持っている。

 「選挙で我々を選んだ以上、信用しろ」という姿勢だ。国家安全保障にかかわると言えば情報を遮断できると思っている。(与党共和党が支配する)議会も行政府の監督をするより政権の決定を追認する傾向が目立つ。

 情報公開度が下がったことで、匿名情報源への依存度が高まり、怒った政権側が記者を法廷に引きずり込んで情報源を明かさせようとする悪循環も生じている。

 対抗措置として、報道機関側も業界団体を通じてロビイストを雇って議員に働きかけたり、情報公開を求めて積極的に訴訟を起こすといった動きを強めている。

 ◇統制続く恐れも--マーク・フェルドシュタイン米ジョージ・ワシントン大准教授の話

 私自身もジャーナリズム史の本を書くためFBIやCIAに情報公開を求めているが拒否され続けている。政府は情報統制を戦時には強め平時には緩めるものだが、対テロ戦争には明確な終わりが見えないため、政権が代わっても統制強化が続く可能性はある。

 国家安全保障にかかわる報道をした報道機関を刑事訴追しようとの動きまである。第二次大戦中、日本軍の暗号を米軍が解読したことを推定させる記事を米紙が報じたが、当時のルーズベルト大統領は報道の自由への配慮や日本側の注目を呼ぶ懸念から訴追はしなかった。

 国家の安全保障と報道の自由のバランスを取ること自体は重要だ。テロリストを利する情報を報じたい記者はいない。だが、報道の自由への信頼は、テロとの戦いで我々が守ろうとしている民主主義の柱でもあるのだ。

毎日新聞 2006年9月10日 東京朝刊」


「機密情報の漏えいはテロリストを利しかねない」との理由で、政府による情報統制が続いていて、報道したことで処罰される可能性が生じていて、記者を萎縮させつつあるのです。

報道の自由は、「テロとの戦いで我々が守ろうとしている民主主義の柱でもある」のに、報道の自由が十分に保障されなくなってきていて、「米国民の知る権利に応え、政府活動をチェックする報道をすることがより難しくなってきている」のです。


(2) 弊害は米国国内だけではありません。

 「『私たちは戦場でテロリストたちと戦っているだけではない』『私たちは自由と人間の尊厳を促進している』。ブッシュ米大統領は、自由で開かれた社会がテロリストたちの暴力や全体主義支配に脅かされ、危機に直面しているのだと訴えています。自由思想や人間の尊厳を守るため、テロとの長期戦も覚悟すべきだと説くのです。……

 “人間の尊厳の戦い”という訴えも、時に皮肉に響きます。キューバにあるグアンタナモ米軍基地内の収容所や、ルーマニアなどにある秘密収容所は人権上、“敵性戦闘員”らの待遇をめぐって国際法違反などがあるとされ、米国自身の民主主義の看板に傷がつきました。」(東京新聞9月10日付社説

米国国内では虐待、人間の尊厳を著しく損なう行為はできないため、テロとの戦いを遂行するため、海外で人間の尊厳を害することを行っているのです。“人間の尊厳の戦い”のために行うと謳いながらも、自らも人間の尊厳を害しているという矛盾を行っているのです。




4.そうはいっても、米国内ではブッシュ大統領の支持率は急速に低下するなど、国民の側に批判する意識があります。しかし、日本では、イラク戦争への開戦を支持した小泉首相の支持率が高いままでした。大量破壊兵器の存在は否定され、2003年6月「大量破壊兵器はいずれ見つかる」などと述べたことは、単なる憶測にすぎなかったのに。

次期首相の可能性の高い安倍氏も、9月11日に行われた自民党総裁選の公開討論会において「『武力行使はも間違っていなかった。イラクは(大量破壊兵器を所持していないことを)証明できるチャンスを与えられながら証明しなかった』と述べ、米国のイラク攻撃を肯定した。
 その米国を支持した日本政府の判断についても『(大量破壊兵器の破棄、査察協力を求めた)国連決議や、日米同盟を念頭に置いて支持した決断には、合理的理由があった』と述べ、間違いではなかったと主張した」(東京新聞9月12日付2面)


このように安倍氏も、間違っていたことを認めようともしないのです。米国の上院情報特別委員会の報告書(9月8日発表)によれば、

「大量破壊兵器の存在を再び否定したうえ、フセイン元大統領が国際テロ組織アルカイダと結ぶどころか、脅威と感じ、ビンラディン容疑者に忠誠を誓ったザルカウィ容疑者(今年六月死亡)を捉えようとしていたことなどを指摘。ブッシュ大統領の唱えたイラク戦争の大義を全面的に否定した」(東京新聞9月12日付朝刊28面)

のに。



郵政民営化だけを問うた総選挙で、郵政造反組議員を離党・落選・引退に追い込んだのに、小泉首相は、9月5日に「離合集散は世の習い。自民党を出て行った人が戻ったり、野党だった人が与党になったり。世の習いなんです。」と発言しています。

郵政造反組議員への処分も恣意的でしたが、復党も恣意的な扱いをすることを平気で発言しても

「公正なルールがなければ『問答無用』の戦国時代と変わらない。つまるところ、それが小泉政治の弱点だったように思う」(朝日新聞9月12日付「政態拝見:星浩(編集委員)」13面)

と厳しく批判するのも朝日新聞くらいで、小泉首相の支持率が下がることもありませんでした。日本の市民に、健全な批判精神が宿るのはいつの日になるのでしょうか。



5.昨日、9月11日で、ブログを始めてから丸1年が経過しました。9月11日にブログを開始したのは、9・11の米同時多発テロが発生した日であり、郵政民営化だけが問われた総選挙の日だからでした。

本来、ブログを始めた日から1年経過したことは喜ぶべきことであるのでしょうが、9月11日は追悼の日でもあります。物事は複雑です。
法律論も複雑ですが、今後ともなるべく深く、そして判り易く説明していきたいと思います。これからも宜しくお願いします。
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2006/09/10 [Sun] 11:55:52 » E d i t
内縁の夫の死後、妻が冷凍保存されていた夫の精子を使って子を産み、その子が、亡き父に対する(死後)認知を請求した事件について、9月8日に最高裁決定が出ました。この決定についてコメントしたいと思います。

1. YOMIURI ONLINE(読売新聞)

凍結精子認知訴訟、最高裁が原告の上告を棄却

 凍結保存していた内縁関係にある男性の精子を使い、男性の死後に行った体外受精で女児(3)を出産した関東地方の女性と女児が、男性の子としての認知を国に求めた訴訟の上告審で、最高裁第2小法廷(中川了滋裁判長)は8日、女児側の上告を退ける決定をした。

 1、2審判決によると、男性はがん治療に備え、2001年に精子を凍結保存した。男性が生存中の体外受精は失敗したが、死後2か月で行った体外受精で成功し、女性は03年に女児を出産した。

 女児側の認知請求に対し、2審・東京高裁は「精子提供者の同意は体外受精のたびに得る必要がある」などとして棄却した。

 同小法廷は4日、同種の認知請求訴訟で、「死後生殖は現在の民法が想定しておらず、法律上の親子関係は認められない」とする初判断を示している。

(2006年9月8日19時38分 読売新聞)」


9月4日には、法律上の夫婦間の事案における(死後)認知請求訴訟で、「『死後生殖は現在の民法が想定しておらず、法律上の親子関係は認められない』とする初判断を示して」いました。

その最高裁判決と比較すると、内縁の夫婦か法律上の夫婦か、すなわち、婚姻届を出したか否かの違いだけなので、内縁の場合も同じように認知請求を否定し、父子関係を認めなかったわけです。9月4日判決と整合性を図った結果ともいえます。

もちろん、9月4日判決と同様に、戸籍上、子供の父親の欄が空欄となり、子供は社会的に不利益を負担する結果となりました。


この決定は、

「男性はがん治療に備え、2001年に精子を凍結保存した。男性が生存中の体外受精は失敗したが、死後2か月で行った体外受精で成功し、女性は03年に女児を出産した」

という事案でした。
そうすると、あと、たった2ヶ月生きていれば、認知請求は否定されなかったわけです。


9月4日判決や、9月8日決定は、「男性の死亡後に当該男性の保存精子を用いて行われた人工生殖により女性が懐胎し出産した子(以下「死後懐胎子」という。)からの認知請求」に対して、「立法がない以上,死後懐胎子と死亡した父との間の法律上の親子関係の形成は認められない」としました。

そうすると、「男性の死亡後に当該男性の保存精子を用いて行われた人工生殖」の場合にだけ認知を否定したわけですから、人工生殖の1分後に男性が死亡しても、人工生殖時は男性が意識不明で死亡直前1分前であっても、認知は認められることになります。

この範囲では、通常、「およそ自然生殖では不可能な懐胎」であっても、父子関係を肯定することになるのでしょう。奇妙なことですが。


人工生殖自体、元々自然生殖とかけ離れているのです。ずっと前から人工生殖自体を認めているのに、現行法制(民法)は、人工生殖に対応した規定ではありません。本来ならずっと前に立法が必要であったし、立法する時間も十分にあったのに、国会の怠慢で、立法していなかったのです。

そのような立法不作為により生じた不利益を、子供の側に負担させるのは不合理です。立法不作為による国家賠償請求も認められる余地があるようにも思えます。




2.NIKKEI NET:社会ニュース(9月5日)

凍結精子による体外受精児の認知、法制審で審議も・法相

 杉浦正健法相は5日の閣議後の記者会見で、凍結精子による体外受精児の死後認知を巡る訴訟で、最高裁が法律上の親子関係は認めない一方、法整備を促す補足意見を付けたことについて「最高裁の指摘を受け厚生労働省の検討が進めば、(法相の諮問機関の)法制審議会の部会でも審議を進める」と、法整備に前向きな姿勢を示した。

 法相は法制審の議論が「厚労省の議論の進ちょくがなかったため、事実上休止状態だった」と述べ、「(法整備は)重要な問題だと認識している」と強調した。 (15:01) 」


「最高裁の指摘を受け厚生労働省の検討が進めば」「(法相の諮問機関の)法制審議会の部会でも審議を進める」そうです。そうすると、法制審議会の部会が先に進める気はないということになります。

さらに、厚生労働省の検討が進まなければ、いつまでも法整備は行われないわけであり、厚労省の方で議論を始めるといった報道がないので、法整備の審議すら始まらないことになりそうです。そうすると、杉浦正健法相は「法整備に前向きな姿勢を示した」そうですが、姿勢だけであって実際上は、法整備は進まないように思えます。

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2006/09/07 [Thu] 00:07:32 » E d i t
秋篠宮妃紀子さまは、昨日、男のお子さまを出産されました。このことについてコメントしたいと思います。

1.読売新聞(平成18年9月6日付夕刊1面)

紀子さま男子ご出産、皇室41年ぶり

 秋篠宮妃紀子さま(39)は6日午前8時27分、入院先の東京・南麻布の総合母子保健センター「愛育病院」(中林正雄院長)で帝王切開手術を受け、男のお子さまを出産された。お子さまは体重2558グラム、身長48・8センチで、母子ともに非常にお健やかという。

 皇室に男子が誕生したのは父親の秋篠宮さま(40)以来41年ぶりで、皇位継承順位は皇太子さま(46)、秋篠宮さまに次いで第3位となる。皇太子さまや秋篠宮さまの次世代の継承者を得て、皇室は喜びに包まれている。

 午前10時半から記者会見した宮内庁の金沢一郎・皇室医務主管と主治医の中林正雄・愛育病院院長によると、「部分前置胎盤」による帝王切開手術は予想外の大量出血もなく、術後の経過も順調だった。

 お子さまは元気で、2、3時間の酸素投与を受けたあと、通常のベッドに移され、7日からは母子同室となるという。新宮さまの性別は医師も知らず、ご夫妻もご存じなかった。

 紀子さまは中林院長から手術終了を告げられ、「大変ありがとうございました」、秋篠宮さまは男子の知らせに「ありがとう」と淡々と述べられたという。

 紀子さまの手術は、この日午前8時23分から主治医の中林院長らの執刀で始まり、9時7分に終了した。1週間後には抜糸、10日ぐらいで退院となるという。

 秋篠宮さまはこの日、午前7時10分には病院入りし、紀子さまと水入らずで話をした後、手術室近くの部屋で待機された。男子誕生の報告を受け、秋篠宮さまは「国際顕微鏡学会議」出席のため北海道入りされている天皇、皇后両陛下に電話で直接、報告された。

 眞子さま(14)(学習院女子中等科3年)と佳子さま(11)(学習院初等科6年)はこの日が始業式で、秋篠宮さまが電話で連絡をとられたという。

 午後にはご誕生後初の儀式として、天皇陛下が新宮さまに守り刀を贈られる「賜剣(しけん)」が宮邸で行われる。

 お名前は一般のお七夜に当たる12日の「命名の儀」で、身の回りの品につける「お印(しるし)」とともに決まる。

 これで皇室の方々は23人(男子8人、女子15人)になった。両陛下には、眞子さま、佳子さま、敬宮(としのみや)愛子さまに次ぐ、初めての男子の孫となる。

(2006年9月6日13時43分 読売新聞)」



2.読売新聞(平成18年9月6日付夕刊1面)
 

両陛下がご感想「心からお祝い」…宮内庁が発表
 
 宮内庁は6日午前、紀子さまの出産を受けた天皇、皇后両陛下のご感想を文書で発表した。

 全文は次の通り。

 「秋篠宮より、無事出産の報せを受け、母子ともに元気であることを知り、安堵(あんど)しました。様々な心労を重ねた10か月であったと思いますが、秋篠宮夫妻が、その全てを静かに耐え、この日を迎えたことを喜び、心からのお祝いの気持ちを伝えたく思います。2人の内親王も、この困難な時期を、一生懸命両親に協力して過ごしてきましたので、今は、さぞ安心し、喜んでいることと思います。

 医療関係者を始め、出産に携わった人々の労をねぎらい、この度の秋篠宮家の慶事に心を寄せ、安産を祈願された内外の多くの人々に、深く感謝の意を表します」

(2006年9月6日13時9分 読売新聞)」



3.「母子ともに非常にお健やか」とのこと、心からお祝い申し上げます。今後無事に成長なされて欲しいと思います。

男の子を希望する方が少なくなく、それを明言する大臣までいました。そういう中で、天皇、皇后両陛下のご感想に出ているように「様々な心労を重ねた10か月であったと思います」。今後もずっと騒がしさが続き、心労が続くと思われますが、誰もが男の子への気遣いをして欲しいと思います。

「午後にはご誕生後初の儀式として、天皇陛下が新宮さまに守り刀を贈られる「賜剣(しけん)」が宮邸で行われる」そうで、天皇・皇族は、多くの儀式が必要とされていることを気づかされます。


男の子であってもなくても、望まれて産まれた子は幸せです。

産まれた子に手をかけて命を奪う親もいれば、子供を望んでもなかなか生まれず、不妊治療を行っても産まれずに、精神状態がおかしくなるほど悩む夫婦もいます。わたしがずっと触れてきている「人工生殖」の問題も、不妊治療の1つです。


子を望む感情と生きたいという感情は、生き物としての本質的な欲求です。

坂東眞砂子氏のように、「愛の不妊というビョーキ」(週刊現代9月16日号36~37頁)を理由として、繰り返し何匹もの子猫や子犬を常習的に投げ殺している者もいれば、私のように、ずっと「ミュシャ」の子供(子猫)を望んでいたのに、結局産むことなかったことを心から残念に思っているものもいます。

漫画家・石坂啓さんは、坂東氏の行為及びエッセイに対して、週刊金曜日(9月1日号)の「風速計」で次のように述べています(一部引用)。

「いいなァ、こんな簡単に犬猫を「処分」できて。いいなァ、こんな駄文で原稿料をもらうことができて。

 自分が「タヒチ人」になったつもりで、軟弱な都会の動物好きに一石を投じてみたかったのだろう。趣味が悪い。うちのマンションがその崖の下に建ってなくて幸いだ。たぶん毎回、息子は死にかけた子猫を抱えて走ってくるだろう。助けることができなくて、私と一緒に泣くだろう。私は軟弱だ。

 呟くのみ。「避妊してやってください」」


石坂啓さんが軟弱なら、きっと私も軟弱です。亡くなる直前、瞳孔が開ききって見えなくなった目で、私の方を見ながら苦しさを訴えていた「ミュシャ」を生涯忘れることはできませんから。
そして、「避妊」の点も同じです。「常習的に殺すくらいなら、避妊しろよ……」と。(論理破綻した文章だから、「駄文」扱いも当然でしょう)


今回の紀子さまから産まれた子は、多くの日本国民だけでなく、世界から望まれる命であり、なんと幸せな命なのでしょうか。



4.最後に。
YOMIURI ONLINE(読売新聞)

秋篠宮ご夫妻、さい帯血提供申し出る…愛育病院長

 帝王切開で男のお子さまを出産された秋篠宮妃紀子さまの主治医、中林正雄・愛育病院長は6日、秋篠宮ご夫妻が「国民の役に立つことであれば」と、さい帯血の提供を申し出ていたことを明らかにした。

 さい帯血は、へその緒と胎盤に含まれる血液で、血液を作る成分を多く含んでおり、白血病など血液疾患の治療に利用されている。

 「東京都赤十字血液センター臍(さい)帯血バンク」(江東区)によると、愛育病院は、都内の病院でさい帯血採取の提携をしている9病院の一つ。

 この日、採取された紀子さまのさい帯血は、同センターが細胞の量などを調べる精密検査を行い、要件を満たしていれば登録して凍結保存される。

 同センターでは、ご夫妻の決断に「大変にありがたい篤志。さい帯血の採取はなかなか定着しないが、妊婦の理解が深まることで、提供が少しでも増えてくれれば」と歓迎している。

(2006年9月6日21時27分 読売新聞)」


さい帯血は、白血病など血液疾患の治療に利用されています。紀子さまご出産に喜ぶのももちろんですが、他の命のこと、さい帯血移植・さい帯血治療への理解にも想いを及ぼして欲しいと思います。皇室典範改正問題は、これらに比べたら二の次の問題です。

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2006/09/06 [Wed] 01:27:47 » E d i t
夫の死後、妻が冷凍保存されていた夫の精子を使って子を産み、その子が、亡き父に対する(死後)認知を請求した事件について、9月4日に最高裁判決が出ました。この判決に対する若干のコメントと、学者のコメントを紹介したいと思います。


1.読売新聞(平成18年9月5日(火)付朝刊1面)

凍結精子で夫の死後出産、父子関係認知せず…最高裁
 
 凍結保存していた亡夫の精子で体外受精し、男児(5)を出産した西日本の40歳代の女性とその男児が、亡夫の子としての認知を国に求めた訴訟の上告審判決が4日、最高裁第2小法廷であった。

 中川了滋裁判長は、「現在の民法は死後生殖を想定しておらず、親子関係を認めるか否か、認めるとした場合の要件や効果を定める立法がない以上、法律上の親子関係は認められない」と述べ、認知を認めた2審・高松高裁判決を破棄、男児側の請求を棄却した。法的な父子関係は認められないことが確定した。

 死後生殖で生まれた子の認知について、最高裁が判断を示したのは初めて。同種の二つの訴訟では、東京、大阪両高裁が認知請求を棄却(いずれも上告中)しており、判断が分かれていた。判決では2人の裁判官が補足意見で、「早急な法整備が求められる」と指摘。生殖医療が進歩する中、親子関係を規定する民法の改正や新たな医療法制の整備が求められることになりそうだ。

 判決は、死後生殖で生まれた子と死んだ男性との関係について、「親権、扶養、相続など親子関係における基本的な法律関係が生じる余地はない」と指摘。その上で、親子関係を認めるかどうかは、「死後生殖に関する生命倫理や生まれてくる子の福祉、親族など関係者の意識、社会一般の考え方など、多角的な観点から検討した上で、立法で解決すべきだ」と述べた。

 判決などによると、女性の夫は白血病の治療で放射線照射を受ける前に精子を凍結保存し、1999年に死亡。保存時には、「死亡した際は凍結精子を廃棄する」「死後生殖は行わない」などの条件に同意していたが、女性はその後、夫の死亡を病院側に知らせないまま凍結精子を受け取り、別の病院で体外受精を受けて妊娠、2001年5月に男児を出産した。

 女性は、男児を夫婦の子として出生届を提出したが、夫婦間の子とは認められないとして受理されなかったため、認知を求めて02年に提訴。1審・松山地裁は請求を棄却したが、2審・高松高裁は、「自然血縁的な親子関係に加え、夫の生前の同意もあった」と認知を認めたため、国側が上告していた。

 精子の凍結保存は、不妊治療のほか、がんや白血病などの男性患者が放射線治療などで無精子症になることを心配して治療を受ける前に、しばしば行われている。

(2006年9月4日23時46分 読売新聞)」



 「今年7月、最高裁で開かれた弁論。女性は男児と共に法廷に立ち、『夫はこの子のたった一人の父です。何の罪もない子から、父親を取り上げるような罰を与えないで下さい』と訴えた。

 闘病生活を送っていた夫は亡くなる直前、『僕が死んだ後、再婚しないなら、僕の子を産んで、両親の面倒を見てほしい』と言い残し、夫の両親も出産を応援してくれた。現在、夫の両親と共に家族として暮らしているが、戸籍上の父は空欄のままだ。『父のない子にしたくない』との思いで起こした訴訟だった。」(読売新聞9月5日付朝刊35面)


(1) 夫は白血病の治療を受けていて、夫と妻の希望により、妻は凍結精子による体外受精を行いました。どちらも精神的・財産的にかなり負担がかかる治療です。体外受精は1度でうまくいくわけでなく何度も行うことも多いでしょう。そういう大変な思いをして産まれた子供は、夫の両親とともに暮らしています。夫の財産なんてほとんどあるとは思えませんし、実質的には夫の両親からも扶養を受けているのです。
ですから、夫の妻が最も望んだことは、夫の財産や扶養ではなく、「亡夫を息子の父親と認めて欲しい」「戸籍上の父を空欄にしないで欲しい」ということだけといっていいでしょう。


しかし、最高裁は、「現在の民法は死後生殖を想定しておらず、親子関係を認めるか否か、認めるとした場合の要件や効果を定める立法がない以上、法律上の親子関係は認められない」と述べ、認知を認めた2審・高松高裁判決を破棄して、男児側の請求を棄却したので、法的な父子関係は認められないことになりました。

そのため、夫の妻が最も望んだこと、すなわち、「亡夫を息子の父親と認めて欲しい」「戸籍上の父を空欄にしないで欲しい」ということは認められず、男児は『戸籍上は父親がいない』という不利益を負うことになりました。その結果、「就職や結婚で差別を受ける懸念もある」(毎日新聞9月5日付朝刊3面)ことになりました。法の不備による不利益を子供に負わせてしまったのです。


(2) 最高裁は、親子関係を認めるかどうかは、「死後生殖に関する生命倫理や生まれてくる子の福祉、親族など関係者の意識、社会一般の考え方など、多角的な観点から検討した上で、立法で解決すべきだ」と判示しました。

このように、多角的な観点から検討することは要請していますが、多角的な観点で検討することは当然のことですから、凍結精子による死後生殖について、全面否定することも、条件付で肯定することも可能となりました。言わば、最高裁は、無条件で全面的に国会の立法に委ねたわけです。

なお、水野紀子教授は「亡き後に冷凍保存されている精子で子を設けて欲しい」という意思は、死者の意思であって法的には意味がないという見解を主張していました。しかし、判決文にはそのような見解に言及せずに無条件で立法に委ねたのですから、水野教授の見解は採用していないとみるべきです。




2.この判決に対する学者のコメントを幾つか。


(1) 読売新聞(9月5日付朝刊35面)

水野紀子・東北大学教授(民法)の話
「極めて妥当な判決だ。不妊治療における体外受精のように自然妊娠の一部を代替するものとは異なり、死後生殖は死者の細胞を用いて生命を誕生させたもので、自然生殖とは大きく乖離(かいり)している。急速に発達した生殖技術の暴走や逸脱を早急に規制しなくてはならず、立法が間に合わないうちに逸脱を追認するのは、子の福祉の観点からも妥当ではない」

石井美智子・明治大教授(家族法)の話
「法が予定していない問題であっても、立法されるまでは現行法を解釈して解決すべきだ。今回の問題は死後生殖の是非ではなく、既に産まれた子に法律上の父子関係を認めるかどうかであるにもかかわらず、最高裁(法廷意見)が子の福祉について言及していないことには、納得がいかない。父だけではなく、父の親族との法律関係も生じないことになり、子の保護の観点が欠けている」


この事案は、人工生殖が実施している途中で、夫が急死し、その後に行われた体外受精で産まれたものであって、夫の死後に精子を摘出したといった事案ではなく、やむなく途中で死後生殖になってしまったものです。技術的には通常の体外受精という人工生殖方法と全く同じで、ただ通常と異なりたまたま父が死亡だけなのです。

ですから、水野教授が言うように「死後生殖は死者の細胞を用いて生命を誕生させたもので、自然生殖とは大きく乖離(かいり)している」というのは当たらず、水野教授の見解は妥当ではありません

水野教授は「生殖技術の暴走」を規制せよと言い、まるで体外受精など人工生殖をすべて否定又はかなり制限しようとする意図があるようです。しかし、現在、多数の人が人工生殖を利用し、今後ももっと増えるはずなのに限定しようだなんて、あまりにも非現実的な意見です。


家族法の分野では身分関係の明確性のため、なるべく立法処理が望ましいことは確かです。しかし、すべての問題を網羅したような立法は困難ですし、石井教授が言うように、「法が予定していない問題であっても、立法されるまでは現行法を解釈して解決すべき」です。人工生殖問題についてはほとんど立法の審議が止まっている状態なのですから。

また、石井教授が言うように「既に産まれた子に法律上の父子関係を認めるかどうかであるにもかかわらず、最高裁(法廷意見)が子の福祉について言及して」いないのは問題があると思います。


(2) 東京新聞(平成18年9月5日朝刊26面)

早稲田大大学院の棚村政行教授(家族法)は、「単に民法が想定していないからと立法に責任を転嫁するのは問題だ。母や子の側に立った判断もあり得た」と指摘。

大東文化大法科大学院の小野幸二教授(家族法)は「生殖補助医療による子はこれからも生まれてくる。生殖補助医療の進歩に見合う法律を作るべきだ。今回の最高裁判決がその契機になれば」と立法措置を求めた。


民法に限らず、法律が想定していない事態が生じることはよくあることです。ですから、棚村教授が言うように、「民法が想定していないからと立法に責任を転嫁するのは問題」です。


小野教授は「生殖補助医療による子はこれからも生まれてくる。生殖補助医療の進歩に見合う法律を作るべきだ」と述べています。また、滝井繁男、今井功両裁判官は補足意見で「速やかな法整備が必要だ」と立法措置を促しています。確かに、抽象的にはその通りです。

しかし、賛否が分かれているから2003年9月以降、ずっと審議が止まっている状態なのに、審議が再開するのでしょうか。そもそも家族法関係の改正自体ができていない状態なのに、死後生殖を盛り込んだ改正なんてありうるのでしょうか
また、最高裁は、凍結精子による死後生殖について、全面否定なのか、条件付で肯定なのか、方向性を示していないのですから、最高裁判決前と同じ状態のままです。単に立法を促しただけです。

今のままでは立法措置の見込みがないことが分かっているのに、立法の方向性も示すことなく、無責任に補足意見で立法措置を促し、立法解決に丸ごと委ねてしまい、立法がなければ父子関係が認められないとした最高裁平成18年9月4日判決は、妥当ではなかったと考えます。



この問題については、「死後生殖と死後認知(上)」「死後生殖と死後認知(下)」「凍結精子による死後生殖を巡る認知訴訟~最高裁7月に弁論」で論じています。こちらもご覧下さい。
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佐伯千仭先生の訃報 
2006/09/04 [Mon] 21:50:23 » E d i t
立命館大名誉教授で弁護士の佐伯千仭先生が逝去されました。


1.asahi.com(朝日新聞9月2日付朝刊35面)

立命館大名誉教授で弁護士の佐伯千仭さん死去
2006年09月01日23時23分
 
 佐伯 千仭さん(さえき・ちひろ=立命館大名誉教授、弁護士)が1日、急性循環不全で死去、98歳。通夜は2日午後7時、葬儀は3日午後2時から京都市北区紫野宮西町34の公益社北ブライトホールで。喪主は長男哲哉(てつや)さん。自宅は同市左京区下鴨下川原町53。

 京都帝大法学部助教授だった33(昭和8)年、同大教授が著書をめぐって休職処分を受けた「滝川事件」に抗議し辞職。47年に弁護士登録し、「極東国際軍事裁判(東京裁判)」や冤罪事件の「松川事件」などの弁護団に加わった。」



2.東京新聞(平成18年9月2日付朝刊27面)

佐伯千仭氏死去 立命館大名誉教授

 佐伯千仭氏(さえき・ちひろ=立命館大名誉教授、刑法)1日午後0時15分、急性循環不全のため京都市の病院で死去、98歳。熊本県出身。自宅は京都市左京区下鴨下川原町53。告別式は3日午後2時から京都市北区紫野宮西町34、公益社北ブライトホールで。喪主は長男哲哉(てつや)氏。

 京都帝大助教授だった1933年、自由主義的な刑法学説を危険視した鳩山一郎文相の要求で滝川幸辰教授が免官処分になった「滝川事件」で抗議し辞職。その後、復職した。戦後の公職追放で弁護士になり、極東国際軍事裁判(東京裁判)や、福島県で起きた列車転覆事故をめぐる松川事件などにかかわった。法制審議会委員も務めた。」



3.「ブログ、始めました」で、佐伯千仭先生の言葉を引用していました。この言葉は、私が解釈論を行ううえでいつも心に留めていることでもあります。

この言葉を知ったのは、斉藤誠二博士の論文(「刑法の入り口から出口まで」Law School(1981年4月号)31号20頁)です。この論文を一部引用して私の追悼とさせて頂きます。どうか安らかにお休み下さい。

 「刑法を勉強する場合に基本的なことをよく身につけていくことがなによりも重要なことである。しかし、ある程度勉強がすすんだ場合には、これまであまり議論されていなかったような問題にも目をむけて欲しいものである。そうすることは、法律の考え方のトレーニングにも役にたつことである。そうして、そのとき、忘れてはならないことは、本に書かれているからといって、それがいつでも妥当だというわけでのものではないということである。

 『理論の世界には疑ふことの許されない権威はない。私は特に若い学徒の――この問題には限らず――思惟における徹底的な態度を希望する』――これは、わが刑事法学に巨歩をしるされた佐伯千仭博士が、わたくしが法というものを学び始めたころ言われた言葉であり、わたくしをたえず力づけてきてくれている言葉である。おたがいにこうした態度で法律学を勉強していきたいものである。そうして、こういう態度で勉強していくことは、わが国の法曹としてのエートスを培うことにもなるのである。」




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2006/09/03 [Sun] 06:08:39 » E d i t
坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題については、日本とタヒチとの環境の差、坂東氏の法的責任、坂東氏の倫理的問題、避妊手術の理解度、日経新聞の責任、動物虐待の影響などの問題点があります。このブログでは、エントリー又はコメントの形でほとんど触れてきました。

この「子猫殺し」問題については、多くの人が「おぞましい」と感じ、坂東眞砂子氏を強く非難しています。ですが、一部、「昔はよくあったことだ」として賛同者もいます。これは個々人の独自の倫理観の違いもありますが、「ペットとはどういう存在なのか?」についての理解の差が本質的な問題と思われます。そこで、ペットとはどういう存在なのか?について、法的な観点から論じてみたいと思います。

まず前提として、坂東眞砂子氏の「子猫殺し」は事実なのかどうかです。坂東眞砂子氏のエッセイやコメントを付き合わせると矛盾しているような点が多々あって、フィクションのようにも思えますが、事実で間違いないようです。この点は、(財)日本動物愛護協会が確認済みです。

「(財)日本動物愛護協会が配信する『JSPCA*動物だより*』8月号からの抜粋。

■8月18日日経新聞夕刊「プロムナード」欄への対応について。

★はじめに
 8月18日(金)日本経済新聞夕刊「プロムナード」欄に、坂東眞砂子氏(作家)の「子猫殺し」というエッセイが掲載されました。本会としては諸関係機関と情報交換をして参りました。この件に関するこれまでの経緯をお知らせいたします。

★事実確認
 本会から、日経新聞に対し以下のことを問い合わせてきました。
・この文章は、ホラー作家の売名行為(フィクション)なのか、真実なのか。
・日経新聞には倫理委員会のような審査機関はないのか。

 その結果、次のような回答をいただきました。
・事実である。
・審査機関はあるが、審査を通ってきている。」(「るんた今日もごろんちょなり★」さんの「(財)日本動物愛護協会と坂東眞砂子氏」(9月2日)「黒猫チックの物語」さんの「日本動物愛護協会のメルマガより」(9月1日)より)



1.では本題に。まずはペットの定義からです。

「動物は、植物に対して、または人間以外の生き物として、この世に生を受けて生存しているものであるが、一般に、野獣、四足獣、哺乳動物などをいうものと考えられている。ペット(pets)はこうした動物のうち、『慈しみをもって飼養される温順な動物(tame animal treated with fondness)』と、アメリカの文献では定義されている。日本語でいえば、ペットは『愛玩動物』を意味するが、動物を飼主の慰めものとし、飼主の都合の良いときだけ飼育する動物であるから、飼主の都合により動物の生命の成り行きも決められ、飽きたときは捨てられることもある。しかし、最近では、これを嫌って、『伴侶動物』という意味でのコンパニオン・アニマル(companion animal)という言葉が用いられることがある。コンパニオン・アニマルとは、地球上に共に生きる動物としてその生命を全うさせることにより、飼主の精神の糧とするために飼育される動物である。」(長谷川貞之「アメリカのペット法事情」法律時報73巻4号(2001年)10頁)


日本の動物愛護法では、虐待し又は遺棄した場合に犯罪として罰せられることになる動物を「愛護動物」と称しています(44条4項)。

第四十四条  愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
2  愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行つた者は、五十万円以下の罰金に処する。
3  愛護動物を遺棄した者は、五十万円以下の罰金に処する。
4  前三項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
一  牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
二  前号に掲げるものを除くほか、人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの


このように飼主の都合により勝手に動物の生命の成り行きを決めることができないのですから、日本でのペットの定義も「愛玩動物」ではなく、アメリカでの定義や「伴侶動物」と同じかそれに近いものと理解できます。



2.このようなペットは人間、特に飼い主に対してどのような気持ち(感情)を抱いているのでしょうか? ペットすべてを書くことは不可能ですから、ここでは猫のみを紹介してみます。専門的な動物学から説明している、林良博・東京大学大学院農学生命科学研究科教授:監修「イラストでみる猫学」(講談社、2003年)6~7頁〔執筆担当:新妻昭夫・恵泉女学園大学人文学部教授〕からの引用です。

食肉目としての特徴

 ネコ科の動物は基本的に単独性でなわばりをもつ。なわばりを他固体から防衛するのは、餌となるネズミなどを確保するためである。なわばりの広さは小型のヤマネコ類で1~数k㎡……に及ぶ。以下では、猫を念頭において、小型のヤマネコ類の社会生態を概観してみよう。

●猫の社会生活

…子供が十分に大きくなると、子別れがはじまる。子どものうち雄つまり息子は、母親のなわばりを出て分散していく。どこかでなわばりをもてたなら幸運だが、多くの固体は放浪のまま野垂れ死にすると考えられる。

 一方、子どものうち雌すなわち娘は、母親のなわばりの一部に住みつき、しだいにその外側になわばりを広げていく。しだいに独立していくが、結果として確保されたなわばりは、母親のなわばりと一部重複していることが多い。母親が事故などで死ぬと、そのなわばりを引き継ぐ。

 以上のようなことが何世代もくりかえされると、結果はどういうことになるか。容易に想像できるように、雌猫にとって周囲の猫はすべて、母か娘か姉ないし妹、あるいは叔母・伯母と姪という母系の血縁者ばかりとなる。その雌猫たちのなわばりを囲むようになわばりをかまえる雄猫は、どこか遠方からやってきたよそ者であり、それによって近親婚は避けられている。

●猫は飼い主や人間を母親とみなす

 先に述べたように、猫の世界に父親というものは存在しない。また雌猫にとって雄猫との接触は一年に一度だけでよい。したがって猫の世界で社会関係とよべる関係は、母娘関係か、それを拡大した母系の社会関係のみである。雄猫も、ほかの固体と関係をもちたいときには、それをまねた行動をとることになる。

 また猫が異種である人間と社会関係を結びたい、つまり餌や寝場所あるいは保護を人間からしてもらいたいときには、やはり人間を母親とみなし娘のようにふるまうことになる。というより、猫は他固体とのつきあいかたとして、ほかの方法を知らないのである。

 夜遅くに帰宅すると、近所の野良猫がニャーオと鳴きながら近づいてくる。尻尾をぴんと立てながら、足元に擦り寄ってくる。この尻尾を垂直に立てるのは、まだ巣穴のなかで母親の保護を受けていたとき、排泄をうながしてもらうための姿勢と同じである。母親が肛門をなめて刺激し、排泄物を食べて巣穴を清潔に保つのである。つまり尻尾を立てて足元に近寄ってくる猫は、『わたしは子猫です』、だから『餌をください』『保護してください』とアピールしているのである。

 そこで餌を与え、満腹した猫をなでてやる。すると雄猫でも雌猫でもしだいに身体を預けてくる。さらに愛撫をつづけていると、ゴロニャンと仰向けになってしまう。腹部という肉体的にもっとも弱い急所をさらけだすのは、犬の場合には『服従姿勢』と解釈されるが、猫は『服従』ということを知らないので、この完全に無防備な状態は、『あなたを母親と思って全面的に信頼しているのですよ』という気持ちの表現と理解すべきだろう。

 ネズミや小鳥などを捕まえ、それを飼い主のもとに持ち帰る猫がいる。狩りの腕前を母親に報告しているつもりなのかもしれない。あるいは飼い主を娘にみたて、狩りの獲物とはこういうものだと教える母親の役割を楽しんでいるのかもしれない。いずれにせよ猫が人間との関係を、母子関係に擬していることはまちがいない。」


要するに、動物学的には猫の世界は母系社会であるので、猫が人間との関係は母子関係であり、猫は人間を母親とみなし娘のような気持ち(感情)でふるまうことで、人間と社会関係をもっているのです。

このような猫の特徴・感情を踏まえると、飼い主が、子猫を捨てる又は子猫を殺すことは、飼猫にとって「母親から自分の子どもを捨てられ又は殺される」という感情を抱いていることになります。
今回の「子猫殺し」問題について、「昔の日本では~」などと言って肯定的に捉える方も少なくありません。しかし、猫の特徴・感情を知った上で、板東氏の「子猫殺し」を倫理的にも肯定的に捉えることができるのでしょうか? 飼猫からすると、母親のように慕っている人間に、大事な子どもを殺されたと感じているのです。自分の倫理観は妥当なのかどうか、よく自問自答して欲しいと思います。



3.2.では動物学の観点による猫と人間との関係を紹介しましたが、法的にはペットはどういう存在なのでしょうか? 「物」か「者(人)」かどうなのか?という問題です。

(1) 法学の伝統的な世界では「人」と「物」を二分しています。人が法と権利の主体となり、物が権利の客体となっていて、「ローマ法以来の伝統」(青木人志「法と動物―ひとつの法学講義」217頁)と言われています。

動物は、この伝統的な二分法に従うと、ペットのようにいくら交流を交わしている動物であっても「物」に分類されます。


(2) しかし、オーストリア(1988年)やドイツ(1990年)では、動物の法的地位の向上のため、民法典に「動物は物ではない」という一文が挿入され、他方で、「動物については、他に規定のないかぎり、物についての規定を準用する」と規定し、単なる「物」とも「人」とも異なる位置づけをしています。

 また、フランス刑法では、1994年の改正により、動物虐待罪規定は財産犯罪の章から抜き出して、「その他の規定」の章に規定されることになりました(「直木賞作家・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」問題(中)~フランスのペット法事情」参照)。フランス刑法でも「物」でも「人」でもない位置づけになっています。
もっとも、1979年6月22日のクレテイユ大審裁判所は、離婚の際に妻にペットの犬の監護権を与え、夫への犬の養育費用請求を認める判決をしています。これは、人間の子どもを巡っての裁判と全く同じような扱いです。
解釈上も、「自然人」「法人」に次ぐ第三の「人」として、動物に法人格を与えよと説く者がいたり、フランス動物法の第一人者のマルゲノーは、保護団体に私訴権が認められていることなどから、動物は既に「人」であると説いています。
このように、フランスでは、動物は、より「人」に近い位置づけにしようとしてきていることが分かります。

現在の欧米人動物観は、「動物保護(animal protection)」から「動物福祉(animal welfare)」へ、すなわち、相手の立場・意向などを考慮することなく上から手を差し伸べる「保護」から、相手の人格・権利などを認めたうえで、手を差し伸べる「福祉」へと変わりました(長谷川貞之・駿河台大学教授「アメリカのペット法事情」法律時報73巻4号14頁)。

このようなことから、動物が「物」から「人」への方向に向かって、法律上、徐々に移動しつつあるというのが世界的潮流であると評価されています(青木人志「法と動物」221頁~)。法学の伝統的な二分法は実質的には放棄されているといってよいでしょう。


(3) この世界的潮流は日本でも及んでいて、日本法でもペットは「物」と異なった特別扱いをしているのです。

 「この大きな世界的潮流は、すでにわが国にも確実に及んでいる。とくに、……平成12年から施行された『動物の愛護及び管理に関する法律』で、旧法(『動物の保護及び管理に関する法律』)で最高3万円の罰金にすぎなかった動物殺傷行為に対して、最高1年の懲役まで科することができるようになったのは、動物虐待関連犯罪の罪責の重大さについての法的評価が、飛躍的に高まったことを意味する。

 また、……飼い犬や飼い猫が他人の過失によって死傷した場合、当該動物の客観的な財産価値を超える愛着感情の侵害に対して『慰謝料』の支払いを認めた判決例も複数存在する。慰謝料の請求が『愛犬』や『愛猫』の死傷について認められても、『愛車』や『愛用の机』の毀損についてはふつう認められないから、わが国の法律のこの場面でも、動物(とりわけペットの犬・猫)は特別扱いされていることになる。」(青木人志「法と動物」222頁)



(4) 日本人のペットに対する意識はどうでしょうか? ペットは家族の一員とか社会の一員であるという意識が多数を占めつつありますが(「ペット供養訴訟~ペットの火葬や霊園の現状」参照)、そのはっきりした表れは、多様なペット墓地の存在であると思います。

東京都町田市真光寺町にある「町田いずみ浄苑」では、ペット専用墓地だけでなく、“Withペット”と名付けて、ペットと一緒に入れるお墓を販売しています。購入者の共通点は、ペットがまさに家族同然、あるいはそれ以上の存在とであり、「一緒のお墓に入りたい」という強い願いをもっているそうです。

「そもそも考えてみれば、今までは人間とペットが同じ墓で眠るといった発想自体もなかったのだろう。法律的にも常識的としても、墓地といえば人間の事しか想定していないのだ。しかし現実は『ペットと一緒のお墓に入りたい』という人たちが増えていることを、この霊園が如実に証明している。」(須磨章「編集委員の眼:『物』から『者』への狭間で」ペット六法 第2版(用語解説・資料編)(誠文堂新光社、2006年)118頁)


ペット専用墓地だけでなく、“Withペット”と名付けて、ペットと一緒に入れるお墓の存在は、ペットに対して、死後も共に一緒にいたいという、まさに人と同様の意識をもっているといえるのです。日本人の意識は明らかに変わってきているわけです。



4.板東眞砂子氏は雌猫3匹を放し飼いにして自由な交尾・繁殖に任せ、その結果、産まれた子猫を直ちに、自宅の隣の崖、すなわち「家と同様緑に覆われた、高さ15~20mほどのもので、その下には小さな空地がある」(女性セブン9月14日号47頁:追記参照)場所に投げ落としたのです。

(1) この行為だと「すぐには死なないと思う。だからこそ放り投げられてけがをしたら息絶える瞬間までずっと苦しむ」(女性セブン)ことから、残虐な行為であることには異論がないと思います。

動物愛護論研究会編「改正動物愛護管理法Q&A」(2006年、大成出版社)167頁によれば、動物虐待罪における「虐待」とは、動物の被る「苦痛」と、これに人間側の「目的」ないし「必要性」等の事情を加えて総合的に判断するとし、具体的には、動物の被る肉体的・心理的「苦痛」の種類・程度、方法の相当性等の客観的要素と、人間の側の事情、特に目的・必要性等の主観的要素を十分に考慮し、社会通念に従って総合的に判断すべきものとしています。
長尾美夏子ほか「ペットの法律相談〔改訂版〕」(青林書院)185頁によれば、動物虐待罪に当たる具体的に問題となった例として、「団地の8階から犬を投げ下ろして殺害した」ことが挙がっていました。

そうすると、坂東眞砂子氏の子猫殺しは、即死することなく長時間苦痛を与えて殺害するものであって、崖から投げ殺すというあまりに不相当な方法による殺害ですし、法令上、飼い主による殺害自体を予定していないのですから、(日本で行えば)「みだりに殺し」にあたり、動物虐待罪(44条1項)に当たることは、当然といえるでしょう。


(2) 子猫殺しも賛成できないが、猫への不妊手術にも抵抗があるという方もいるかと思います。ですが、日本においては、どういった判断が適切なのか、既に国が基準を示しているのです。

環境省は、動物愛護法に基づく基準である、「家庭動物等の飼育及び保管に関する基準」(平成14年5月28日環境省告示第37号〔改正:平成18年1月20日環境省告示第24号〕)を出しています。

家庭動物等の飼育及び保管に関する基準(抜粋)
第一 一般原則
1 家庭動物等の所有者または占有者(以下「所有者等」という)は、命あるものである家庭動物等の適正な飼養保管に責任を負う者として、動物の生態、習性及び生理を理解し、愛情を持って家庭動物等を取り扱うとともに、その所有者は家庭動物等を終生飼養するよう努めること。

第六 ねこの飼育及び保管に関する基準
1 ねこの所有者等は、周辺環境に応じた適切な飼養及び保管を行うことにより人に迷惑を及ぼすことのないよう努めること。
2 ねこの所有者等は、ねこの疾病の感染防止、不慮の事故防止等ねこの健康と安全の保持の観点から、屋内飼養に努めるものとし、屋内飼養以外の方法により飼養する場合にあっては、屋外の疾病の感染、不慮の事故防止に十分な配慮を行うこと。
3 ねこの所有者は、繁殖制限に係る共通基準によるほか、屋内飼養によらない場合にあっては、原則として、去勢手術、不妊手術等繁殖制限の措置を行うよう努めること。
4 ねこの所有者、やむを得ずねこを継続して飼育することができなくなった場合には、適正に飼育することのできる者に当該ねこを譲渡するように努め、新たな飼育者を見いだすことができない場合に限り、都道府県等に引取りを求めること。

*動物愛護管理法7条4項「環境大臣は、関係行政機関の長と協議して、動物の飼養及び保管に関しよるべき基準を定めることができる」に基づいて定められた基準である(「改正動物愛護管理法Q&A」21頁)


要するに、猫の飼い主は終生飼養が求められており、飼い方としては原則として屋内飼養であり、放し飼いにする場合には、飼い主は繁殖のコントロールができないので、原則として不妊手術が求められているのです。
「原則」と規定して例外を認めているのは、「非常に都市部から山村なりという、人間が疎の場合もあるでしょうし、ねこも疎の場合」を考慮してのことです(【神田動物愛護管理室長】:中央環境審議会動物愛護部会(第3回会議録)。社会に迷惑をかけない場合であれば、例外もあるということであり、飼い主の都合(例えば、板東氏の理屈である「生き物の豊穣性を犠牲にしてはいけない」)で例外を認めているわけではないのです。

そして、猫を飼育できなくなった場合には、原則として譲渡するように努め、飼い主を見つけられなかった場合に限り、都道府県等への引取りを求めることとしています。当然ながら、飼い主自らが猫を殺害することを否定しています。譲渡と都道府県への引き取りだけ予定した規定だからです(反対解釈)。


坂東眞砂子氏は「現代日本におけるペットに対する過剰なまでの熱愛状態」(週刊朝日9月8日号156頁~)を批判し、そのことを子猫殺しを正当化する理由の1つとしているようです。確かに過剰な面もないとはいえません。

しかし、日本では、法令により、原則室内飼養であり、放し飼いする場合には不妊手術が求められているのです。不妊手術は、過剰なペットブームのせいではないのです。
これに対して、坂東眞砂子氏は、もし日本で同じ事をすれば、安易に子猫殺しをしていて終生飼養の原則に違反し、室内飼養の原則に違反し、不妊手術の原則にも違反することになります。

今では猫の飼い主の7割~9割が室内飼いにしています(「ペットフード工業会」の調査による)。動物愛護団体などによる啓蒙の成果であり、日本人が犬猫を飼うことで自然と変化した意識の成果といえるでしょう。

このように、日本の市民が法令を知ることなく、法令を遵守した行為を行っているのに、坂東眞砂子氏は、「日本におけるペットに対する過剰な熱愛」のせいだと、明らかに誤った認識を表明し続けているのです。

「★坂東氏の文章責任
・物議をかもすことを目的とした確信的な文章である。
・個人的な見解は自由だが、生命の尊厳を冒し、次代を担う青少年の健全な育成に悪影響を与える内容である。

★日経新聞の掲載責任
 ・社会の木鐸として良識に欠ける。
 ・動物愛護に関する社会的風潮(法制化等)の高まりに逆行する。」((財)日本動物愛護協会が配信する『JSPCA*動物だより*』8月号)


ですから、日本動物愛護協会が、生命の尊厳を冒涜し、動物愛護に関する社会的風潮(法制化等)の高まりに逆行すると抗議することは、ごく当然のことなのです。
坂東眞砂子氏は、明らかな法令違反行為や犯罪行為を行っているのに、間違った認識で正当し、法令を遵守している日本の市民の方が間違っていると言い続けることは、法を定める意味を無意味にしてしまい、日本の市民に法を軽視する意識を植えつけるものであって、危険な言動であるといえるのです。



5.再び、ペットはどういう存在なのか? という本題に戻ります。

現在日本では犬が1306万頭、猫が1209万頭で合計2515万頭が飼われています(平成17年度ペットフード工業会の調査)。それにひきかえ、子供(15歳未満)の数は、昨年より18万人少ない1747万人です(総務省が平成18年5月4日発表した推計人口(4月1日現在))。
このように、日本では、ペットは子供の数を大きく上回っており、まさにペットは子供同然という時代になっています。

「犬や猫は『物』ではないが、ヒトを表す『者』でもない。人間と同じような権利を与え義務を課すことはできない。人間社会の中でそれぞれの生き物としての個性を発揮しながら、うまく共生できるように考える役目は人間の方にある。時代の趨勢の中で、『物』から『者』へ近づきつつあるペットたちを、法律的にも、そして倫理的にもどう考えていくべきなのか…。

 まさに空白の“第三の領域”を私たちの意識の変化に合わせながら、より良く埋めていくことが大切なのではないだろうか。そのことが、“動物愛護”とはどんなことなのかを考えていくことにもつながると思えるのだ。」(須磨章「編集委員の眼:『物』から『者』への狭間で」ペット六法 第2版(用語解説・資料編)(誠文堂新光社、2006年)119頁)


世界的にも日本においても、法律はおろか市民の意識としても、動物はすでに「物」と「者」との狭間にあります。動物、特にペットは弱い立場にいるのですから、人間の側が弱者を慈しむような気持ちで、共生できるように人間の側から歩み寄ってペットに接するべきではないでしょうか。

「動物の保護と管理に関する法律」から、平成12年の改正により「動物の愛護と管理に関する法律」へと名称を変更しました。「保護」から「愛護」へと変わったのは、動物を物から命ある仲間への意識の高まりを求めるという意味が込められています。「福祉」ではなく「愛護」としたのは、少しは立場の平等さが感じられるからです。

坂東眞砂子氏を非難することは、昔の日本が子猫を間引きをしていた歴史を否定するものだとか、坂東眞砂子氏の言い分にも何らかの理があるのでないかという方もいるでしょう。しかし、動物は命ある仲間なのですから、動物の尊厳の保障に努めるよう、人間の側が意識を変えるべきなのです。
ペットは、空白の“第三の領域”にいる存在なのです。その空白の“第三の領域”を「物」扱いして無意味にしてしまうのでなく、動物の尊厳に配慮して、より良く埋めていくべきなのです。すでに埋めていくべき方向性は決まっているのです。


週刊朝日9月8日号155頁において、坂東眞砂子氏は「あのエッセイは、現代社会の多くの問題を孕んだものだと思っています。そのひとつは、愛玩物として生物を『所有』する人間の傲慢さです」と述べています。しかし、子猫殺しは、子猫を「所有物」として飼い主の都合により意のままに命を奪うものであって、まさしく坂東眞砂子氏の行為こそ、生物を『所有』する人間の傲慢さを示した太古の典型例なのです。

その意味で、空白の“第三の領域”を「物」扱いして、動物の尊厳が軽視された太古の昔に戻そうとする「坂東眞砂子氏の言い分」には、決して同意してはならないのです。
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2006/09/02 [Sat] 06:11:25 » E d i t
内縁の配偶者から窃盗をした場合、刑の免除を認める刑法244条1項の適用により刑の免除があるのかどうか? について、最高裁平成18年8月30日決定が初判断を示しました。この決定について触れたいと思います。


1.毎日新聞のHP(9月1日付朝刊)

窃盗罪:内妻からでも刑は免除されず 最高裁初判断

 同居中の元妻の現金を盗んだとして、窃盗罪に問われた無職の男(65)に対し、最高裁第2小法廷(津野修裁判長)は30日付で、被告側の上告を棄却する決定を出した。刑法には「配偶者からの窃盗罪は刑を免除する」との規定があり、被告側は「被害者は内縁の妻なので刑は免除される」と主張したが、第2小法廷は「刑の免除規定は内縁の配偶者には適用されない」との初判断を示した。懲役2年6月とした1、2審判決が確定する。

 1、2審判決によると、男は68年に被害者の女性と結婚し、78年に離婚。99年ごろ東京都内の女性のアパートを訪れて再び同居するようになり、04年8~12月、7回にわたってアパートの金庫内の女性の現金計725万円を盗んだ。【木戸哲】

毎日新聞 2006年8月31日 20時23分」



2.他人の物を盗んだ場合には、窃盗罪(刑法235条)が成立します。「他人」が配偶者や親族であっても同じです。法律上、「他人」とは自分以外の人を意味するからです。

 ただし、親族間において窃盗罪(又は不動産侵奪罪)を犯した場合には、特例があります。それが刑法244条であり、配偶者から物を盗んだ場合には、その刑を免除します。

(親族間の犯罪に関する特例)
第二百四十四条  配偶者、直系血族又は同居の親族との間で第二百三十五条の罪、第二百三十五条の二の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯した者は、その刑を免除する。
2  前項に規定する親族以外の親族との間で犯した同項に規定する罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
3  前二項の規定は、親族でない共犯については、適用しない。


刑の免除というのは、有罪であることを判決で示しますが、刑罰を科さないというものです。判決の主文は、通常、「被告人に対し刑を免除する」と記載されます(松尾「刑事訴訟法下」(新版補正版)(弘文堂、平成9年)133頁)。

刑を免除する根拠、「法は家庭に入らず」という法諺が示すように、家庭内の紛争には国家が干渉しない方がよいという法政策です。政策ということで、法的性質は、行為の違法性や責任とは無関係の一身的刑罰阻却事由を定めたものとする見解(通説・判例:最高裁昭和25年12年12日判決)となります。



3.被告人である男は、法律上の妻でない女性と1999年頃から2004年頃まで同居していることから、いわゆる内縁関係にあります。そこで、同居中の女性(内縁の配偶者)の現金を盗んだとして窃盗罪に問われた場合、刑の免除を主張できるのか、刑法244条1項の「配偶者」には内縁の配偶者が含まれるのかが問題となります。

学説上は、本条項の根拠・性質である法政策からすると内縁の配偶者にも準用すべきであるとする説(大谷・前田)と、法政策だから内縁の配偶者には準用されないとする説(通説)が対立していました。
同じく本条項の根拠・性質である政策を自説の根拠にして、説明していたわけです。これでは、正直なところ、どちらが妥当なのか判断できかねます。
(9月12日追記:内縁の夫婦は実質的には法律上の夫婦と同じですから、その意味では、内縁の配偶者にも準用すべきであるとする説も一定の妥当性があることは確かです。)


そういう中で最高裁は次のように判断しました。

「事件番号 平成18(あ)334
事件名 窃盗被告事件
裁判年月日 平成18年08月30日
法廷名 最高裁判所第二小法廷
裁判種別 決定
結果 棄却
原審裁判所名 東京高等裁判所
原審事件番号 平成17(う)2637
原審裁判年月日 平成18年01月18日
裁判要旨 刑法244条1項は,内縁の配偶者に適用又は類推適用されない

主文

本件上告を棄却する。
当審における未決勾留日数中110日を本刑に算入する。

理由

 弁護人近藤広明の上告趣意は,違憲をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。

 なお,所論にかんがみ職権で判断すると,刑法244条1項は,刑の必要的免除を定めるものであって,免除を受ける者の範囲は明確に定める必要があることなどからして,内縁の配偶者に適用又は類推適用されることはないと解するのが相当である。したがって,本件に同条項の適用等をしなかった原判決の結論は正当として是認することができる。

 よって,刑訴法414条,386条1項3号,181条1項ただし書,刑法21条により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 津野修  裁判官 滝井繁男  裁判官 今井功  裁判官 中川了滋  裁判官 古田佑紀)」


最高裁は、「内縁の配偶者に適用又は類推適用されることはない」という結論を採用しました。結論としては、多数説と同じ見解を採用しています。

理由については、「刑法244条1項は,刑の必要的免除を定めるものであって,免除を受ける者の範囲は明確に定める必要があることなどから」としました。このように、従来の学説が理由にしていた「刑法244条1項の根拠・性質」には言及せずに他の理由で説明したわけです。

刑法244条にいう「親族」の範囲については、民法の定めるところ(民法725条)によるというのが通説であり、異論がありません。このように、「親族」の範囲につき、民法と同一の解釈によることによって、同じ法概念を同一に理解できて明確となり、法的安定性に繋がるからです(法概念の統一性)。

そうすると、「配偶者」の範囲についても、民法規定と同一の解釈による方が明確であるといえます。すなわち、夫婦として婚姻届が受理されている者(民法739条)、法律上、婚姻関係がある者を「配偶者」とするのです。特に、必要的免除というように、必ず刑が免除されるという、いわば特別の恩恵を与える以上、明確にしておく必要があると言えるでしょう。

このような意味合いから、最高裁は、判示したような理由を付したのだと思います。(もっとも、最高裁は「配偶者」の定義付けをしていませんが)

もちろん、最高裁は「など」と示しているように、他の理由付けがあることも滲ませているので、刑法244条1項の根拠・性質による理由付けとも並存しうるのだと思います。



4.このようなことから、私は、最高裁平成18年8月30日決定の結論及び理由付けも妥当であると考えます。

ただ、内縁の配偶者とはいえ、この事件では被害者は元妻であったことから、単なる内縁の配偶者以上の存在とも思えますので、内縁の配偶者を「配偶者」に含める解釈もありえた事件ともいえました。

そうはいっても、1968年に結婚し1978年に離婚、再び同居を始めたのは1999年頃というように20年間も、法律上の夫婦であった以上の期間のブランクがあったことから、元妻という特殊性にこだわる必要はないと思われます。
特に、単に財布から盗むのではなく金庫内から盗んだこと、現金計725万円という高額であることからすれば、やはり刑の免除でなく、刑を科すに値する行為であったと思われます。

このように、本事件の事情を考慮してみても、内縁の配偶者を「配偶者」に含めないという判断の方が妥当であったと考えます。



5.なお、某ブログでは、配偶者とは法律婚のみを言うから、法律婚でない「内縁」と「配偶者」を組み合わせた、「内縁の配偶者」というのは矛盾した言い方でおかしいと書かれていました。

確かに、何十年か前の家族法の本を見ると、「内縁の夫」「内縁の妻」という使い方が普通であったようです。しかし、民法上、「内縁の配偶者」又は「内縁配偶者」という使い方は、内縁は婚姻に準じる関係ですし、少なくとも十数年前から一般的に定着しているので、特に問題ありません。(「内縁の妻」という使い方が好ましくないという価値判断があったとも聞いています。)

例えば、内田貴「民法4」148頁でも、「内縁の配偶者の居住権」という表題を使うなど、所々に内縁の配偶者という用語を使っています。(9月8日追記山口厚「刑法各論」207頁でも、この問題について「内縁の配偶者」と記述しています。)
また、自家用自動車保険普通保険約款の第一章賠償責任条項八条三号の免責条項にいう「配偶者」の意義についての判例ですが、最高裁平成7年11月10日判決も次のように判示しています。

「自家用自動車保険契約に適用される自家用自動車保険普通保険約款(以下「本件約款」という。)の第一章賠償責任条項八条三号には、被保険者が被保険自動車の使用等に起因してその配偶者の生命又は身体を害する交通事故を発生させて損害賠償責任を負担した場合においても、保険会社は、被保険者がその配偶者に対して右の責任を負担したことに基づく保険金の支払義務を免れる旨が定められているところ(以下、右の定めを「本件免責条項」という。)、本件免責条項にいう「配偶者」には、法律上の配偶者のみならず、内縁の配偶者も含まれるものと解するのが相当である。」


このような状況においては、内縁の妻、内縁の夫という用語よりも、内縁の配偶者の用語の方が好ましいと考えます。「配偶者」と使うことで、男女の区別をせずに説明できるという利点もありますから。



<9月12日追記>

「配偶者」に内縁の配偶者は含まないとする最高裁判例は、今回が初めてですが、多くの下級審判例が「配偶者」に内縁の配偶者は含まないとしていました。例えば、名古屋高裁昭和26年3月12日判決、東京高裁昭和26年10月5日判決、仙台高裁昭和27年1月23日判決、大阪高裁昭和28年6月30日判決、名古屋高裁昭和32年7月24日判決、大阪高裁昭和48年11月20日判決です(大コンメンタール刑法(第2版)第12巻〔2003年、青林書院〕439頁)。

被告人側としては刑の免除だと実質的には無罪に等しいので、刑の免除を得ようと争うために、多くの下級審判例が出ているのでしょうが、結論は変わらなかったわけです。今回の最高裁決定は、異論なく一致した下級審判例と通説に従ったものといえそうです。

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