FC2ブログ
Because It's There
主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
10« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30.»12
スポンサーサイト 
--/--/-- [--] --:--:-- » E d i t
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 *  TB: --  *  CM: --  * top △ 
2005/11/26 [Sat] 20:28:45 » E d i t
公立図書館における蔵書破棄訴訟について、平成17年7月14日に最高裁判決が出ていましたが、その差戻し控訴審判決(東京高裁)が今月の24日にでました。
その差戻し判決とは、「その千葉県船橋市立図書館の司書が『新しい歴史教科書をつくる会』や関係者の著作などを処分したことをめぐり、著者らが『人格的利益を侵害された』として市に損害賠償を求めた訴訟の差し戻し控訴審判決」(朝日新聞平成17年11月25日付)のことです。この控訴審判決についてコメントしてみたいと思います。


1.まずは蔵書破棄訴訟の最高裁判決について復習しておきます。



(1) 最高裁判決は要するに、
①「公立図書館は,住民に対して思想,意見その他の種々の情報を含む図書館資料を提供してその教養を高めること等を目的とする公的な場」である。だから、
②「公立図書館の図書館職員は,公立図書館が上記のような役割を果たせるように,独断的な評価や個人的な好みにとらわれることなく,公正に図書館資料を取り扱うべき職務上の義務を負」い、閲覧図書を「独断的な評価や個人的な好みによってこれを廃棄することは,図書館職員としての基本的な職務上の義務に反する」こと。
図書の破棄によって侵害される利益は、「公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは,当該著作者が著作物によってその思想,意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なう」としているので、「当該図書の著作者の人格的利益」であること、
と判断しました。


いくらか分析すると、
下級審判決で採用していた図書館・図書館員の裁量論を否定して(又は重視せずに)、「図書館を公的な場」と理解したのですから、一種のパブリック・フォーラム論を採用したといえます(松田浩・駿河台大学専任講師「法学セミナー」2005年12月号124頁参照)。

また、被侵害利益として、著作財産権でも著作者人格権にも当たらない新しい利益、すなわち、「著作者の人格的利益」を創設しました。著作権でもない利益を認めたのですから著作権の保護を超えてますし、判決文からすると、この利益は未来永劫(著作者が生きている限り?)、公立図書館全てに対して、不当な扱いを受けないように求めることができると理解できます。
著作権にあたらないことについては、「“presented by tatuya”」さんをご参照下さい。



(2) この判決に対しては多くの疑問点があります。

図書館には、収蔵能力や予算との関係で収蔵に限界があり、日々膨大に出版される本の内から自分が所属する図書館に何を入れるのかを判断するのですから、購入・閲覧・廃棄に関して広い裁量権があります。そうすると裁量権、それも広い裁量権を否定することは困難なのに、最高裁判決のように裁量論を採用しないのは非現実的な論理です。

また、未来永劫(著作者が生きている限り?)、不当な扱いを受けないように求めることは、いわば積極的・請求権的な権利です。このような積極的・請求権的な権利を法律の明文なしに認めることは、人権の基本的な理解からして不整合です。最高裁判決ではその点について説明がなされているとは思えません。

仮に、法律の明文を設けたとしても、「未来永劫(著作者が生きている限り?)、不当な扱いを受けないように求めることができる」権利は、将来に渡って、かつ一時的でなく継続的、それも全公立図書館に請求できる権利です。そうすると、そこまで著作者の主張を認めるのは、図書館の自由・著作物所有者の財産権の侵害であって、法律の明文でも認められないというべきです。ここまで著作者を保護する必要があるのでしょうか。かえって恐ろしさを感じます。

さらに、著作物の流通過程の問題であるのに、なぜ著作権の保護以上に、未来永劫(著作者が生きている限り?)、不当な扱いを受けないように求めることができるのか、理由が不明です。
その「著作者の人格的利益」は著作権でもない利益ですから、元々その利益内容が全く不明確です。著作者としては著作物が売れることで利益を得るのですから、むしろ図書館に収蔵されない方が(廃棄される方が)、売れる可能性あるのでかえって利益になるはずですから。

そして最大の問題は、不明確な利益で損害賠償を認めることは、図書館の自由・独立性を損ない、図書館・図書館員の萎縮効果をもたらし、常に監視する又は監視するおそれのある著作者の著作は購入しないことにつながり、むしろ多様な情報収集・提供が行われなくなって図書館の役割を果たすことができず、かえって国民の知る権利を侵害するといえます。


もちろん、この事案で問題となった図書館職員の行動は、地裁の認定を見ても、明らかに個人的な反感から廃棄したわけで、図書館の役割や図書館の自由に関する宣言からしても、義務違反はあると思います。「日本図書館協会」も「船橋市西図書館の蔵書廃棄問題について」と「船橋市西図書館蔵書破棄事件裁判の最高裁判決にあたって」という記事において、許されないと表明しています。

しかし、義務違反はあっても利益侵害があるかは別問題です。著作物は出版後は、その著作物自体は所有権の利用・処分の自由があります。そうすると、著作者と著作物所有者・利用者の保護のバランスは著作権法で行っているのですから、著作者の保護は著作権法の範囲内で保護すると理解することが妥当です。
このように、著作権の保護を越えて利益侵害を認めた最高裁判決は不当であり、むしろ裁量論を採用して、損害賠償を否定した下級審判決の方が妥当であると考えます。ここではこの事案の地裁である、東京地裁平成15年9月9日判決を挙げておきます。ご参照下さい。




2.次に差戻し控訴審判決についてです。まず朝日新聞(平成17年11月25日付朝刊)によると、

「最高裁が7月、違法性を認めて差し戻し、賠償額が焦点となっていたが、浜野惺(しずか)裁判長は「廃棄されたのと同じ本が再び図書館に備えられている」などとして、1人あたり3000円の賠償を同市に命じた。
 1人あたり300万円の賠償を求めていた著者側は「3000円では図書を捨てたことへの懲罰にならず、安すぎる」と、再上告を検討することを明らかにした。
 判決は、今年9月、在外邦人の選挙権をめぐる訴訟で国に1人あたり5000円の賠償を命じた最高裁大法廷判決を踏まえ、「図書が再び備えられていることなど一切の事情を総合勘案すると、3000円が相当」と述べた。訴訟費用の負担については、原告側99.9%、市側0.1%とした。 」


とされています。



(1) 在外邦人の選挙権は「名目的賠償」を認めた判決です。そうすると、要するに、図書館に当該廃棄された書籍が収蔵されれば「著作者の人格的利益」は回復したので、殆ど賠償する必要はなく、「名目的な賠償」だけを認めればよいとしたわけです。

「著作者の人格的利益」が不明確なので(最高裁判決も明確にしなかった)、誰もよく分からない利益ですから、表現の自由と並んで重要な権利である「選挙権」と比べると、保護すべき利益は小さいというべきです。控訴審判決は(判決文を見ていないのではっきりしませんが)、選挙権と比較すると保護すべき利益は小さいと考え、1人あたり3000円(7個人1団体で計2万4000円)と判断したのでしょう。
個人的には、賠償額は1人あたり100円くらいでいいと思いますが、「選挙権と比較すると保護すべき利益は小さい」と考えたことは妥当だと考えます。

なお、日本では懲罰的損害賠償は認めていませんので、3000円(7個人1団体で計2万4000円)の賠償が「懲罰」的賠償になっていないのは当然です。念のため。



(2) この点、毎日新聞(平成17年11月24日付)によると、

「『つくる会』の藤岡信勝副会長の話 賠償額は極めて不当。最高裁の画期的な判決の意義を空洞化させるもので、上告も検討する。」


としています。
しかし、(個人的には保護すべき利益はないと考えますが、仮に「利益」を認めたとしても)元々最高裁判決が認めた「利益」は不明確で、保護すべき利益は極めて小さいのですから、むしろ賠償額は多すぎるくらいです。元々最高裁判決には説得力が乏しく、その意義は小さく、かえって弊害が大きいのです。
ですから、1人当たり3000円という賠償額によって最高裁判決の意義を空洞化させるとはいえないと考えます。




3.最後に参考になるブログ・文献を紹介しておきます。

蔵書破棄訴訟については、「図書館員の愛弟子」さんと、「Library&Copyright」さんもご参照下さい。より理解が深まると思います。

現在、判例評釈としては、上記の法学セミナー1005年12月号124頁があるだけです。また、まだ手に入れていないのですが、「ず・ぼん11」という雑誌には、蔵書破棄訴訟についての特集が組まれています。ご参照下さい。
裁判例 *  TB: 1  *  CM: 0  * top △ 
2005/11/12 [Sat] 00:48:23 » E d i t
このタイトルは、朝日新聞(11月7日付朝刊)「時流自論」において、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏(オランダ人ジャーナリスト)が書いた論説の表題です。

1.是非、記憶にとどめておきたいので、一部引用しておきたいと思います。

 「『ニチベイ(日米)』のような2国間関係は…文化的にもまったく似て非なる国同士だ。ただ最近、この2ヶ国に驚くべき類似点が露呈してきた。それを一言で表せと言われたら、『孤立』以上にふさわしい言葉はないだろう。…

 他国の運命など、米国はまったく関心をもっていない。強大な軍事力で築いた、外界からのいかなる挑戦をもはねつける堅強な殻の中に閉じこもりつつ、軍事力によって世界を変革することを願っているのだ。…

 そして日本。…日本は世界最大の債権国であるにもかかわらず、戦略的、政治的、外交的には諸外国が気づかないほど隅っこに隠れ住んでいる。…
 
 孤立主義とはいえ、日本と米国の理由はまったく異なる。…しかし、国家ではなく、政権の中枢にいる人たちに照準を合わせてみると、驚くべき類似点があることが分かる。ブッシュ大統領やその側近は、『繭』の中にいるのだ。同じ共和党の右派議員たちは過去数週間、それに気づいて愕然とした。パウエル前国務長官の腹心であるウィルカーソン大佐は『空想に生きていて全く能力のない政権』と言い表した。…さらに、父親のブッシュ元大統領の親友、スコウクロフト元国家安全保障担当大統領補佐官は、後継者でもあるライス現国務長官には理を諭しては無駄だ、とまで述べている。
 
 小泉首相は、一見すると『繭』の中にひそんでいるようには見えない。テレビ受けする政治家・小泉氏は日本国民にとっては常に身近な存在のようにみえる。だが、アジアの隣国をはじめ、世界各国の首脳たちと、小泉首相は一体どのような関係を築いているというのか。そう考えると、小泉首相の孤立ぶりは極めて明白だ。

 小泉首相の『繭』はブッシュ大統領の『繭』より小さく、1人用である。亀が甲羅を背負い歩くように、彼はそれを持ち歩いている。それ自体はたわいもないようなことでも、中国や韓国からのひんしゅくを買い、他のアジア諸国からも軽蔑されるような象徴的な行為に、小泉首相はなぜこだわるのか。私はその理由を知りたいと思い続けてきたが、結局、断固とした態度を示すという彼なりの生き方なのだ。総選挙の争点となっていた郵政改革も自民党改革も、実際の改革は彼の手に負えるものではない。国民の圧倒的な支持ともいわれるが、小泉首相自身は、有権者から授かった支持を形にしていかなくてはならないということを、理解しているとは思えない。

 小泉首相が『繭』に閉じこもっているという事実は『靖国参拝』だけではなく、彼が手をつけない分野からもわかる。近年、極めて情勢が不安定な世界の中で、日本は近隣諸国とより生産的な関係を構築すべく創意に富んだ外交政策を早急にとらなくてはならない。小泉首相の付き合いの悪さは、日本には当然そうした態度を取る余裕があると日本のエリート層が思い込んでいる贅沢である。『ブッシュ大統領のプードル』だとか『愛玩用子犬(言いなり)』という皮肉を込めた批判が示す通りだ。

 ペットは世話が要る、主人との関係は保護が前提だ。しかし米国の孤立主義は単独行為であり、他国への配慮もなければ、相互依存の意識にも欠けている。…しかも、かつては存在した米国の保護さえないまま、新たな大きなリスクに直面している。日本の政治エリート集団は、その事実さえ認識できなくなってしまった。」




2.小泉首相による靖国参拝について違憲と判断した大阪高裁判決後も、小泉首相は参拝したわけです。下級審裁判所とはいえ、違憲判断なのですから、首相でありながらその司法判断を無視してまで靖国参拝を行うのはなぜなのか…。小泉首相なりの理由はあるのでしょうが、結局は、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の目には、「断固とした態度を示すという生き方」の表明としか映っていないわけです。おそらく、外国からみた一般的な意識なのでしょうし、日本においても、小泉首相礼賛派以外の人達は、同じように思っているのでしょう。


2001年5月14日、衆議院予算委員会で小泉首相は「『戦没者にお参りすることが、宗教的活動といわれればそれまでだが、靖国神社に参拝することが憲法違反だとは思わない。」と発言していますが、それは、

「戦没者をお参りすることが宗教的活動といわれれば『それまでだ』といったん認めておきながら、しかし『そうは思わない』というのは矛盾している。全体として憲法擁護義務(憲法99条)を負う一国の政治指導者のものとは思えない、きわめて没論理的な反応である。(高橋哲哉「靖国問題」107頁~)」


のです。
こういった論理性のない言動は、論理性を極めて重んじる法律の世界とは全く異質であり、相容れない言動です。論理性がなく、ただ「断固とした態度を示すという彼なりの生き方」には、全く共感できませんし、憂鬱な気持ちになります。真っ当に法律を学ぶ者からすれば。


小泉首相は一人用の「繭」の中にいると指摘されたわけですが、小泉首相賛同者はそのような小泉首相であることを分かっていて選んだのですから、小泉首相賛同者もまた「繭」の中にいるのではないでしょうか。

小泉首相はメディア(特にテレビ)をうまく使って大勝したわけですが、「繭」の中にいても、小泉首相自身は構わないのでしょうし、小泉首相賛同者もまた構わないと思っているのでしょう。
しかし、毎日新聞(11月6日朝刊)の「発言席」において、田中真紀子衆議院議員は、「ハーメルンの笛吹き」という表題で、

「先の衆院選の経過と結果を見て、ドイツの伝説『ハーメルンの笛吹き』を思い出した。…

 …特別送達という裁判所からの呼び出し状や訴状送達など司法の使者としての郵便局の役割は今度誰が担うことになるのか?
 メディアという笛に踊らされた怖さと愚かしさを、今後国民一人一人が甘受しなくてはならない。

 郵政だけに絞った選挙であっても結果が為政者側の勝利であれば、その他すべての政策も白紙委任を与えたと同じ効果を持つ。現に米国産牛肉の輸入再開、定率減税廃止、消費税引き上げ、憲法改正、在日米軍再編、靖国参拝など選挙前から予測されていた諸課題が急ピッチで処理されている。国民にとって最も重要な財政再建や社会保障制度における受益と負担の問題は、得心のいく説明はなされていない。…」


と、論じています。
このように日本国民は「繭」の中にいても、多くの不利益を被るのです。田中議員の論説にもありますが、憲法改正についても、今憲法改正をする必要性があるのでしょうか? 憲法改正したくらいでは世の中が良くなりませんし、変わりもしないのです。「成熟した国家の憲法運用にとっては、憲法改正は大きな意味を持たない」のですから(デイヴィッド・ストラウスの見解・山元一「法学セミナー612号」(2005年12月号)10頁参照)。法律学を学ぶ者としては、憲法改正の論議は、現実の不利益から目を逸らすための手段にすぎないと思えてなりません。 

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏が指摘した外交政策、田中議員が指摘した内政政策により、多大な不利益を被るのは、結局は日本国民です。日本国民はいつから「繭」を出ることができるのでしょうか? もしかしたらずっと「繭」の中にいるのでしょうか…。

それよりも、正直な話、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の論説をどれだけの人が理解できているのか、とも思います。特に朝日新聞の論説だとそれだけで拒否反応する人もいるようですから、尚更です。しかし、新聞は記事内容で評価すべきものですから、どの新聞だろうと内容さえよければ、構わないと思うのですが…。カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の論説を理解して、論説に共感する人が一人でも増えることを期待しています。



…そうなると、やはり「改革ファシズムを止めろ」の運動につながるのでしょうね。そろそろ、私も「ブロガー同盟」に入った方がいいのかもしれません(笑)。(平成19年8月18日削除)

テーマ:小泉首相 - ジャンル:政治・経済

政治問題 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2005/11/09 [Wed] 05:15:35 » E d i t
日々、色々なブログを読んでいますが、なかでも「世に倦む日日」さんは、文章運びがうまく、一気に読ませる力があって楽しいので、よく読んでいます。後は、TBやリンクで色々良いブログにたどり着けるのも魅力です(その一つが「カッシーニでの昼食」さんです)。このブログを読んでいる皆さんは、どんなブログを読んでいるのでしょうか?



1.それはともかく、最近、「世に倦む日日」さんと「カッシーニでの昼食」さんが、共産党・共産主義について書かれていますが、こういうやり取りが読めるなんて実に楽しいです。
「カッシーニでの昼食」さんの記事を読むともう、やり取りは終わってしまいそうですが、今後の展開が楽しみではあります。もっとも、共産主義については門外漢なので、読んでも十分に理解できているとはいえないのですが…。



2.さて本題である「靖国問題」ですが。

「靖国問題」では、特に上訴の可能性を巡って「世に倦む日日」さんへの批判が多かったと思います。
「世に倦む日日」さんは、「政府が小泉首相の靖国参拝を私的参拝であると言い、…合憲性を強く主張するのなら、…上告審で憲法判断を問い争う選択をすべきだった」というのですから、要するに、「文句があるなら、政府は上告すればよかったのに」と主張するわけです。
これに対して、批判する方達は、「上訴の利益はないから上訴は絶対できない、単に却下されるだけで上訴するなんて無意味だ」と主張するわけです。


「傍論での憲法判断の是非(下)」で書きましたが、私は「文句があるなら政府は上訴すればよかったのに」という主張は法的に妥当だと思うのです。それは上訴するのは無意味でなく、上訴する意義があるからです。

繰り返しになりますので結論だけを書くことにしますが、憲法学の立場からは、「判決理由中の違憲判断については特別に上訴の利益を認めるという理論構成もありうる」との提言(野坂泰司・法学教室137号(1992年)95頁)があります。それと、「上告が却下されるとしても、最高裁において(傍論として)憲法判断がなされる可能性がある。」(初宿正典・ジュリスト979号(1991年)43頁)という主張もあるのです。
このように憲法学上は2つの学説があり、国側としては憲法判断を得られる可能性があったのですから(もっとも、合憲と判断するとは思えませんが)、靖国参拝大阪高裁判決において勝訴した国側も上告をしてみる意義があったといえるのです。上告は決して無意味ではないのです。

民事訴訟法の一般的な学術書だけを見れば、民事訴訟法だけの議論では批判する方達の主張の通りです。しかし、この靖国参拝訴訟は憲法訴訟であって、民事訴訟法だけの問題ではなく、憲法論でもあるのですから、憲法学からの観点もぜひ考えて欲しいと思うのです。現に、憲法学からの主張があるのですから。


ブログの一番最初に書いたことですが、法律学においては「理論の世界には疑ふことの許されない権威はない。」のです。手持ちの法律書だけを見て通説・判例と書いてあったとしても、大家と言われている学者が主張していることだとしても、常に疑いの目を向けることこそ、法律学を学ぶ者の姿勢ではないかと思います。ですので、民事訴訟法だけでなく、憲法論としてはどうなのか、検討してみることが大切なのだと思います。

しかし、「世に倦む日日」さんは、「法曹界の人間でもなく憲法学の専門家でもない」そうですから、(失礼ながら)いわば法律の素人ですし、批判する方も殆ど素人のようです。それなら、たとえ法解釈が多少違っていたとしても大したことではないとして、おおらかに議論していいと思うのですが…



「世に倦む日日」さんくらいになると、いくら批判されても気にしないのでしょうし、首相による靖国参拝のことなんて、既に多くの人の関心も薄れているのだと思います。だから、今更上訴のことなんて書いても意味がないのかもしれません。
しかし、「世に倦む日日」さんは法的に妥当な主張をしているのに、「間違っていると非難する方」を信じたままになってしまい、それが法律を良く知らない人達の多数の意識となったままでいる(ように見える)…。

すでに「間違っていると信じている者」が考えを変えるのかどうかは全く分かりませんし、上訴できるか否かなんてすぐに忘れてしまうのでしょうけど、これを読んだ人が自分で調べて考えてみる切っ掛けになればよいと思い、この記事を書いてみました。

もちろん、私自身は「この記事を信じろ!」と言いたいですが(笑)

テーマ:靖国参拝 - ジャンル:政治・経済

憲法 *  TB: 1  *  CM: 0  * top △ 
2005/11/06 [Sun] 10:14:53 » E d i t
「傍論での憲法判断の是非(上)」の続きです。


3.「下級審判決において原告を敗訴としておきながら、参拝を違憲だとして原告の主張を容認する判断を示すと、被告側である国(行政)は傍論の内容に不満があっても控訴・上告は認められないから、『裁判を受ける権利』の侵害となる(百地章「首相の靖国神社参拝と憲法判断」法律のひろば57巻7号(2004年)73頁)という批判があります。

これと同趣旨のものとして、「『ねじれ判決』の形を取った傍論は、被告側の上訴権を奪う」もので違憲・違法である(百地、高橋)という批判があります。

では、この批判は妥当でしょうか?



(1) 裁判を受ける権利(憲法32条)は、人権保障を確保し、「法の支配」を実現する意義を有する人権です。この人権に関する第3章の表題が「国民の権利及び義務」とされているように、人権は「国家権力」に対する権利ですから、人権保障は、国に対しては及ばないのです。また、憲法の基本的特質として、個人の自由を保障し、国家権力を制限する法であること(戸波「憲法」5頁)からしても、国家は人権を有しないわけです。

そうすると、人権である「裁判を受ける権利」は国には保障されていないのですから、憲法の基本的特質からすれば、「被告側である国(行政)の『裁判を受ける権利』の侵害となる」ことはありえないのであって、批判は妥当ではないのです。

渡辺康行教授は「ジュリスト1287号」64頁において、

「『裁判を受ける権利』が侵害されるということは、行政主体にそのような憲法上の権利が保障されているという一般的ではない前提をとらない限りは、そもそも考えられない。」

と手厳しく反論なされています。
要するに、この批判は、憲法の基本的特質に反する理解に基づいた批判であるから、批判者は憲法の基本的理解を欠いているのではないか、というわけです。


(2) また、最高裁・通説は、従来から一貫して、上訴に関する制度設計(=いかなる理由で上告できるか)は、立法裁量に委ねられ、憲法上の要請ではないとしています(最高裁昭和23年3月10日判決、最高裁平成13年2月13日判決、山元一「平成13年度重要判例解説」21頁、三宅=塩崎他編「新民事訴訟法大系」第4巻60頁)。

そうすると、被告側である行政が上告できないのは、上訴の利益が欠けるという立法政策に基づくのですから、上告が制限されても違憲・違法の問題となりません。結局、「傍論は被告側の上訴権を奪う」という批判は妥当でないと考えます。




4.判決に不満があっても上告できないのに、『傍論』の中で違憲判断を行うのは、最高裁を終審裁判所とした憲法に違反する」という批判もあります(産経新聞・9月30日付参照)。

これと同趣旨のものとして、「下級審の場合は、その憲法判断が最終となってしまう形で行うことは許されない」(高橋和之「憲法判断の方法」(1995年)65頁)という批判があります。

では、この批判は妥当でしょうか?


(1) 憲法81条にいう「終審裁判所」とは、元々は、その裁判所の裁判に対しては、上訴が許されないという意味にとどまる(宮澤=芦部補訂「全訂日本国憲法」(1978年)675頁)から、常に最高裁への上告を認める趣旨ではないといえます。

仮に憲法81条の趣旨を徹底して、合憲性の争いについては、その点の最終的決定権は最高裁に留保される、すなわち、最高裁への上訴を許さなければならないとしても、訴訟手続上の限界(=立法裁量)があるから、常に最高裁へ上訴されるわけではないと考えます。これは、上告審の負担軽減を図るという平成10年の民訴法改正の趣旨に沿うものだといえます。

このような理由から、「『傍論』の中で違憲判断を行うのは、最高裁を終審裁判所とした憲法に違反する」という批判は妥当でないと考えます。


(2) また、上に挙げた高橋教授のご見解に対して、高橋=大石編「憲法の争点」257頁で、野坂教授は「疑問である」として、

「傍論での憲法判断は事実上の影響力をもつにとどまり、何ら法的な拘束力をもたないと解されるからである。」


と理由を述べています。
要するに、憲法学の立場からすれば、傍論での憲法判断は事実上の影響力しかない(=法的拘束力がない)ので、上告が認められなくても、下級審の憲法判断が最終となったわけではないので、批判は妥当でないというわけです。



5.1~4にわたって批判に対して反論を行いましたので、「憲法上、傍論での憲法判断は許される」ということが明らかになったと思います。

補足として、行政側は上告する方法はなかったのか? 最高裁で憲法判断なされる余地はないのか? という点について検討してみたいと思います。


(1) 憲法学上、次のような点が指摘されています(野坂「法学教室」137号95頁参照)。

「『実質は…憲法20条に違反するか否かを争点とする憲法訴訟』であり、…言ってみれば、当事者にとっては、請求の当否についての判断もさることながら、その前提となる憲法上の争点に関する判断こそが重大な関心事であった…。…憲法訴訟においては、結論で勝てばよいというものではなく、いかなる理由で勝つかが決定的に重要であり、既判力の生じる判決主文の判断と理由中の判断とを画然と区別して、後者を前者に至る手段的なものとしてのみ位置づけることは必ずしも適切でない…。そこで、かような観点から傍論であっても判決理由中の違憲判断には一定の拘束力を生じうるというのであれば、請求棄却判決に対しても理由中の違憲判断にのみ不服がある被告に特別に上訴の利益を認める余地がないではないと思われる。」


このように、憲法学の立場から、判決理由中の違憲判断については特別に上訴の利益を認めるという理論構成もありうるとの提言があるのです。


(2) また、上訴の利益が認められないとして却下されるとしても、その決定に伴って、何らかの形で「下級審判決の違憲判断を実質的に批判する独自の見解」を付加する可能性も指摘されていました。すなわち、

「最高裁がその却下判決の中で、傍論として(たとえば「ちなみに」と前置きした上で)、本判決の憲法解釈ないし違憲審査権の行使の仕方について、最高裁としての意見を展開すること自体は、法令上排除されているわけではないから、…原判決の違憲判断を実質上批判する判示を付加する可能性もあろう。」(初宿正典「ジュリスト」979号(1991年)43頁)


という指摘です。
要するに、上告が却下されるとしても、最高裁において(傍論として)憲法判断がなされる可能性があるから、上告をしてみる意義があるというわけです。


(3) もっとも、岩手靖国訴訟において、最高裁は上告を却下し、控訴審判決の違憲判断を実質上批判する方向での判断を付加しなかったので(野坂「法学教室」137号97頁参照)、この2つの指摘は認められなかったのです。ですので、この2つの指摘は1度は最高裁で受け入れられなかったわけです。

しかし、最高裁は特に否定した判断は示しませんし、また、現在のように公式参拝訴訟が頻発している状態では、最高裁での憲法判断をする必要性は高いのですから、この2つの指摘は認める余地は十分にあると考えます。
(日経新聞において渋谷教授は、大阪高裁判決の確定で拘束力を肯定するコメントをしていますから、尚更、認める余地があるといえるでしょう)

そうすると、行政側は上告する方法は皆無ではなかったのであり、最高裁で憲法判断なされる余地はあるといえるのです。(もっとも、東京高裁で敗訴した原告が上告していますから、もはやこの「2つの指摘」を論じる意味は乏しいのですが)




6.長々と論じてきましたが、「傍論での憲法判断」については認められるとするのが妥当であり、これが憲法学上の多数説です。むしろ、傍論での憲法判断は、事実上の効果しかないとしても「一種の違憲の宣言判決」であるとか「勧告的意見」であると位置づけ、好意的に評価する見解も有力です(奥平康弘「憲法裁判の可能性」4頁、斉藤小百合「法学セミナー」597号31頁、木下智史「法学セミナー」597号33頁)。


批判する見解で気になったのは、上でも論じましたが、「上告が認められない場合には、下級審は憲法判断をすべきではない」という点です。これは、3・4で論じた批判をまとめたものといえます。

これは、「上訴の利益がないという訴訟法(法律)上の限界を理由に、下級審の憲法判断に制限を加えるもの」と言い換えることができるでしょう。しかし、下位の法規範で、下位の法規範を制限すべき憲法に制限を設けるものですから、およそ国法の解釈として妥当性を欠いていると感じるのです。

憲法解釈が統一されることが望ましいのは当然であり、これ自体は異論のないことなのです。しかし、だからといって、下級審での「傍論での憲法判断」を否定することは、憲法秩序の維持を図るべきという憲法保障の観点からして妥当なのでしょうか? また、裁判官が明らかに違憲と判断した場合でも、憲法判断することを否定することは、裁判官の憲法尊重擁護義務(憲法76条3項・99条)と矛盾しないのでしょうか?

「傍論での憲法判断」を否定することは、色々と問題が多いと思われます。



<平成18年1月19日追記>
野坂「法学教室」137号95頁参照部分の引用を増やしました。

テーマ:靖国参拝 - ジャンル:政治・経済

憲法 *  TB: 0  *  CM: 4  * top △ 
2005/11/06 [Sun] 00:50:20 » E d i t
靖国参拝訴訟における大阪高裁判決(平成17年9月30日)・福岡地裁判決(平成16年4月7日)は、「原告には法的利益がないとして訴えを棄却したにもかかわらず、参拝行為の違憲性を判断した判決手法」を採りました。

この判決手法に対して、多くの批判がなされています。そこで、その批判は妥当なのか? について検討してみたいと思います。




1.1つ目は、「この判決は結局は請求を棄却したのに、違憲判断を示すことは『憲法判断回避の準則』に違反しており、許されない」という批判です。

これと同趣旨のものとして、「余計な判断を付け加えることは裁判判決としてあるまじきことで、裁判官の政治的な発言に等しい」(渡辺洋三「法律時報39巻8号」(1967年)32頁)とか、「主文に影響しない憲法問題を理由欄に書くのは『蛇足』であり、越権の違法がある」(井上薫判事)という批判があります。

これらの批判は、要するに最高裁・下級審問わず傍論を付け加えることは許されないというものですが、この批判は妥当でしょうか?



この批判に対しては、次の3つの反論があります。


(1) まず、憲法判断回避の準則を原則的に肯定しつつ、憲法判断を行うかどうかは裁判官の裁量に委ねられるという「緩やかな肯定説(憲法判断裁量説)が通説であり、小泉首相による靖国参拝は、憲法判断回避の準則を適用すべきでない典型的なケースにあたるから、批判は妥当でないといえます。

これは、以前「大阪高裁は違憲判断をしてはいけなかったのか?」というエントリーで書きましたので、詳しくはそれをご参照下さい。


(2) また、芦部信喜「憲法訴訟の理論」(昭和48年)413頁では、朝日訴訟事件大法廷判決(昭和42年5月24日)が「なお念のために」付加した憲法判断の当否について、

「『少なくとも最高裁が、その事件の内容の重要性なり、法解釈ないし判例の統一の必要性に応えて、憲法判断を念のため付加すること自体は、まさに最高裁の政策的考慮にもとづく憲法判決の1つの方法として、場合によってはむしろ積極的に是認すべきではないか』と考える。最高裁にこの種の傍論を付加することを許さないような憲法訴訟の法理は存在しないし、傍論に展開された憲法判断が一定の政治的な意味ないし影響力をもつからといって、そのこと自体を非難するのは違憲審査権そのものを否認する(つまり、憲法判決はすべて多かれ少なかれ裁判官の政治的発言であるという事実を認めない)にひとしいからである。」


と述べています。

このように、傍論を付加する判決の形式を「裁判判決にあるまじきことで、裁判官の政治的な発言に等しい」という批判は妥当でないといえます。


(3) さらに、渡辺康行「『国家の宗教的中立性』の領分」ジュリスト1287号65頁~によると、

「裁判所が国家賠償訴訟おいて、訴えを棄却しながら違法性を認める判断をすることも、少なくない。例えば、最高裁は監獄法施行規則旧120・124条にかかる事件において、規則が委任の範囲を超えて無効であるとの判断によって、幼年者との接見を許さない拘置所長の処分を国賠法上違法としながらも、過失はないとして請求を棄却したことはよく知られている。…
 裁判所が上記の最高裁判決のような仕方で国賠法による『制裁機能・違法行為抑止機能・違法状態排除機能』を果たそうとすることは、行政法学においても積極的に評価されている。
 また、非嫡出子の住民票続柄記載にかかる事件の東京高裁判決…に関しても、『被告行政主体の側は上訴ができなくなり、原告が上訴しない限り上級審の判断が得られなくなる』という状態が生じた。しかし、『国家賠償の行政権統制機能をそもそも果たし得ないことに比べれば、より小さい問題』と評されていた。
 このような国賠法に関する裁判例や行政学の議論状況からしても、福岡地裁の判断は特異なものということではない。」


としています。
要するに、傍論での憲法判断は、行政学上、違法行為抑止機能・行政権統制機能を果たすものとして積極的に評価されており、特異な裁判例とは評価されていないということです。


(4) このように「最高裁・下級審問わず傍論を付け加えることは許されない」という批判は妥当ではないと考えます。




2.2つ目の批判に移る前に、民事訴訟法の問題である上訴について、確認しておくことにします。

(1) 松本博之=上野泰男「民事訴訟法」(第4版)(平成17年)691頁を引用すると、

「控訴審判決が確定すると、自己に不利な判決効が生じることになる当事者に上告の利益が認められる(ただし、判決理由中の判断には既判力が生じないから、控訴審判決の理由にだけ不服があっても、上告の利益は認められない。最判昭和31.4.3…)。しかし、原判決に対し上告の利益があっても、それだけでは上告権は基礎づけられない。上告審は法律審として、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反だけを上告理由とし(325条1項・2項)、その主張がない上告は不適法として却下されるからである(315条・316条参照)。しかも、現行民事訴訟法は、最高裁判所の負担軽減のため最高裁判所への上告を制限し、最高裁判所への上告権は、上告理由のうち、憲法違反または絶対的上告理由を主張するときに限り認められる(312条1項・2項。…)。」


としています。
ここで確認しておくことは、上告が認められるには、憲法違反の主張だけでは上告できず、上告の利益が必要であるということです。そして、上訴の濫発を防ぎ、上訴審の処理の迅速を維持するため、判決理由中の判断の不服を理由とする上訴は認められないということです。


少し重複しますが、憲法学者である野坂泰司「岩手靖国訴訟最高裁決定」法学教室137号(1992年)95頁~では、

「1991年(平成3年)3月21日仙台高裁…は…「上告人らに上告の利益を肯認すべき理由は全く見当たらないから、本件上告は、その利益を欠くものとして明らかに不適法であり、かつ、その欠缺は、補正することのできないものである」として、上告を却下した。
 一般に上訴が適法として認められるためには上訴の利益、即ち原判決に対する不服の利益の存在が必要とされる。而して、右不服概念については、いわゆる形式的不服説に立って、裁判の既判力が生じる判決主文に対する不服についてのみ上訴の利益を認め、既判力が生じない判決理由中の判断に対する不服については上訴の利益を認めないのが判例・通説である。以上の考え方を前提とする限り、原判決の理由中の憲法判断に対する不服のみを根拠に上訴を認めることは困難であると思われる。その意味では、仙台高裁による上告却下決定は、裁判所としてごく通常の判断をしたものということになろう。これに対して被告側は特別抗告を申し立てたが、最高裁はこれを不適法として却下した。」


としています。


(2) この2つの引用からすると、民事訴訟法学及び憲法学上の通説・判例は、判決理由の不服は憲法判断であるか否かを問わず、傍論か否かを問わず、判決理由中の不服については、上告の利益が認められないということです。

言い換えると、「傍論だから上告の利益がない」のではなく、「判決理由中の判断についての不服だから上告の利益がない」のです。

なお、上告の利益についての民事訴訟法自体の議論は、もう少し細かくなるのですが、その点はここでの本題に影響しないので、省略しています。

テーマ:靖国参拝 - ジャンル:政治・経済

憲法 *  TB: 0  *  CM: 8  * top △ 
2005/11/04 [Fri] 05:50:51 » E d i t
朝日新聞(10月31日付夕刊)読売新聞(10月31日付)において、井上薫判事が「判決理由が短すぎる」などと評価されて、再任の可否を判断する最高裁の諮問委員会に伝達されているそうです。どうやら「判決理由が短すぎる」ことはマイナス評価されるようです。
それでは、「判決理由が短すぎる」ことをマイナス評価することは妥当なのでしょうか? について検討してみたいと思います。



1.まずこの問題が書かれた記事を引用してみます。

朝日新聞(10月31日付夕刊)によると、

『判決短すぎる』とマイナス評価 横浜地裁判事「司法のしゃべりすぎ」著者

 裁判の結論である判決主文と無関係な記述は『蛇足』だと主張する『司法のしゃべりすぎ』の著者の、井上薫・横浜地裁判事が『判決理由が短すぎる』などと評価され、来春の任期切れを前に再任の可否を判断する最高裁の諮問委員会に伝達されていたことが31日、分かった。諮問委員会は12月に開かれる。
 判事の任期は10年で、任期切れを迎えるたびに審査される。関係者によると、横浜地裁の浅生重機所長は昨年11月、井上判事に『判決が短すぎる。これでは、当事者は裁判を受けた気にならない』と伝えたという。
 今年9月、人事評価書に『訴訟当事者から判決文について不満が表明されているのに改善が見られない』と記載、井上判事に開示した。…
 浅生所長は…、『あくまでも裁判官の先輩としてのアドバイス。裁判所は、当事者双方の意見をよく聞いて判断したという姿勢を示すことが必要だと思う』と説明している。また、『判決の内容に踏み込んだアドバイスではないので、裁判官の独立を侵すものではない』としている。
 …『判決が短すぎる』との理由で当事者が東京高裁に控訴したケースは複数あるという。」


と、しています。

また、読売新聞(10月31日付)によると、

「裁判官の任期は憲法80条で10年と定められ、任期切れを迎えるたびに再任するかどうか審査される。外部の有識者らによる『下級裁判所裁判官指名諮問委員会』…が再任についての意見を出し、最高裁が最終決定するが、再任希望者の所属する裁判所の所長(高裁は長官)が毎年行う人事評価が重要な判断材料となる。
 関係者によると、横浜地裁の浅生重機所長…は昨年11月、井上判事に判決理由の短さを指摘し、改善を勧告。今年7月の個人面談を踏まえた人事評価書で『訴訟当事者から判決文について不満が表明されているのに、改善が見られない』などと記載した。
 諮問委には既にこうした評価が伝えられており、200人弱に上る今回の再任希望者の中から、井上判事を重点審議対象の1人に選び、現在、再任の可否を検討しているとみられる。…
 読売新聞の取材に対し、浅生所長は、…『判決理由が極端に短ければ、当事者が『自分の主張を受けとめてくれたのか』と疑問に思うのは当然。当事者から不満が出れば、所長が本人に指摘することはありうる』と話す。
 一方、井上判事は『判決の長さについて定めた法律はなく、法令に違反していない裁判官をやめさせることはできないはずだ』と訴えている。
 …井上判事の判決文には、事実認定や法的判断のほとんどを当事者の主張の引用で済ませ、理由は十数行だけと非常に短いものがある…。」


と、しています。

この記事から窺えることは、
①判決理由が短いことに不満をもつ訴訟当事者がかなりいること
②判決理由が短いことは自他共に認められ、しかも井上判事は訴訟当事者の不満を知りながら全く改善する意思がないこと、です。




2.最初に注目した点は、井上判事が「判決の長さについて定めた法律はない」と主張している点です。これが正しいのであれば、判決理由が短いことを理由にマイナス評価することは妥当でないといえるでしょう。では、この主張は妥当なのでしょうか? これは「判決書の作成目的」と関連して問題となります。


梅本吉彦「民事訴訟法」(2002年)838頁によると、

「判決書を作成する目的については、一般につぎのようにいわれている(司法研修所編『9訂・民事判決起案の手引』(平成13年法曹会)1頁)。すなわち、①訴訟当事者に対して、判決の内容を知らせるとともに、これに対し上訴するかどうかを考慮する機会を与えること、②上級審に対して、その再審のため、いかなる事実に基づき、いかなる理由の下に、判決したのかを明らかにすること、③一般国民に対して、具体的な事件を通じて法の内容を明らかにするとともに、裁判所の判断及び判断の過程を示すことによって裁判の公正を保障すること、④判決をする裁判官自身に対しては、自己の考え、判断を客観視することを可能にすることの4点である。」

と、しています。

そして、民訴法253条によると、判決書には、主文、事実、理由、口頭弁論の終結の日、当事者及び法定代理人、裁判所、を記載しなければなりません。
判決理由を判決書に書くことは、

「主文の結論を導き出した過程を明確にする重要な意義がある。もとより理由は学術論文ではないので、その訴訟限りで必要かつ十分な程度の説示で足りる。しかし、当事者をして納得せしめるに十分な根拠付けがなされなければならない。」


という意味があるとされています(梅本「民事訴訟法」840頁)。


この民訴法253条の「基礎にあるのは、最近、急速に普及した新様式判決書」にあります(梅本「民事訴訟法」839頁)。
この新様式判決書は、

「中心的な争点を明確にし、判決書は当事者に分かり易いものであるべきであるという基本的考えの下に考案され、…中心的争点については、具体的な事実関係が明らかになるよう、主張と証拠を摘示しながら丁寧に記述するよう心掛けること」


にあるのです(梅本「民事訴訟法」840頁~)。

このような引用からすると、民訴法253条にいう「理由」は、判決書作成の目的からすると、当事者に分かり易い理由を示すべきであり、当事者を納得させるだけの十分な根拠付けをしなければならず、特に、中心的争点については当事者が納得できるように、できる限り丁寧に記述することが要請されている、といえます。

そして、これは判決書作成目的からすると、単に当事者だけが納得できる判決であればいいのではなく、一般国民から客観的にみて納得できるほどの判決である必要があります。要するに、当事者が納得しているとか、当事者が納得している判決文であると、判事が主観的に思っているだけではいけないのです。

そうすると、判決理由は、ある程度の長さが要求されていることが、民訴法253条において要求されていると考えます。なぜなら、できる限り丁寧に記述するのであれば、ある程度の長さをもって記述することが不可避ですし、しかも敗訴者だけでなく、一般国民から客観的にも納得できるだけの十分な根拠付けをするのであれば、意を尽くすため長文となるのが通常だからです。

このようなことからすれば、「判決の長さを定めた法律」はあるので、「判決の長さについて定めた法律はない」との主張は妥当ではないと考えます。その結果、記事にあるような浅生所長の発言は妥当であり、浅生所長が「判決理由が短すぎる」ことをマイナス評価したことは、法律上、妥当といえます。




3.次に、注目した点は、井上判事は、「法令に違反していない裁判官をやめさせることはできないはずだ」と主張している点です。仮に、「判決理由が短いことをマイナス評価できない」とした場合、やめさせることはできないのでしょうか? 
上に挙げた記事にも出ているように、ここでは再任の可否が問題となっているので、「下級裁判所裁判官の再任制(憲法80条1項中段)の捉え方」が問題となります。

この再任制の捉え方については、大別すると(内野「憲法解釈の論点」158頁)、

自由裁量説(最高裁事務局、田上):再任の可否の決定は最高裁の自由裁量である。憲法80条の文言は「任期を10年」としているから、文字通り理解するのが素直な解釈だからである。

再任原則説(覊束裁量説:多数説):裁判官の身分保障の見地から、裁判官は原則として再任され、再任の可否を決める最高裁の権限は覊束裁量にかかる。


があります。

学説はともかく、最高裁事務局は一貫して自由裁量説ですから、現状では自由裁量説に従うことになります。そうすると、再任の可否は、最高裁の自由裁量なのですから、自由に再任しないこと(=やめさせること)ができることになります。
そうだとすれば、「法令に違反していない裁判官をやめさせることはできないはずだ」との主張は妥当でないといえます。




4.この記事を読んで気になったのは、「井上判事は訴訟当事者の不満を知りながら全く改善する意思がないこと」です。


民事訴訟の目的の1つには、紛争を解決することがあります。訴訟当事者は判決文に不満をもち、控訴する事態まで生じているのに、しかも井上判事は不満を知りながら改善しないのですから、自説に固執して紛争解決を怠っているとみることができます。

紛争解決できずにいる、井上判事は何のために裁判官の立場にいるのでしょうか。持説を持っていること自体は尊敬に値するのですが、「事実認定や法的判断のほとんどを当事者の主張の引用で済ませ、理由は十数行だけと非常に短い」判決文もあるのですから、当事者を納得させようとする意思に欠けるとも評価できます。それだけにとどまらず、かなりの訴訟当事者の不満を無視してまで、持説に固執するのですから、裁判官としての資質を欠いているといわざるを得ないでしょう。

このように考えると、「判決理由が短いことでマイナス評価を受けること」が妥当であることも考慮すれば、「井上判事が重点審議対象の1人に選ばれている」ことは極めて妥当であり、諮問委員会及び最高裁が井上判事を再任しない可能性はかなり高いと考えます。


井上判事も、法律家である以上、持説を曲げないことで再任されないことも十分に予想しているはずです。にもかかわらず、改善する意思がないのです。ある意味、裁判官の職を賭けてご主張されているのですから、「確信犯」であるといえるでしょう。予測通り、再任しないのが、むしろスジではないでしょうか

井上判事は、他に著書もあるのですから、弁護士又は学者としてのご活躍を期待しています。

テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

諸法 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2005/11/03 [Thu] 19:49:39 » E d i t
最近、商法学者による会社法の本が何冊か出版されています。そのなかで、宮島司・慶応大大学院教授による「新会社法エッセンス」のなかで「取締役の報酬」に関して疑問点があるので、それについて触れたいと思います。

1.取締役の報酬については、平成17年に制定された「会社法」では、

361条(取締役の報酬等)1項
 取締役の報酬、賞与その他の職務執行の対価として株式会社から受ける財産上の利益(以下この章において「報酬等」という。)についての次に掲げる事項は、定款に当該事項を定めていないときは、株主総会の決議によって定める。
 (各号については省略)


と定めています。

 この規定は、以前は

商法269条1項
 取締役ガ受クベキ報酬ニ付イテノ左ニ掲グル事項ハ定款ニ之ヲ定メザリシトキハ株主総会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム
(各号については省略)


と規定していました。


(1) この2つの条文を比較すると、文言上、「賞与」が明示されたことと、報酬の定義が明確になったといえます。従来、「賞与」が商法269条の「報酬」に含まれるのか問題となっていました。しかし、「会社法」の条文を素直に理解するなら、「賞与」をわざわざ規定した以上、「賞与」は361条の手続により処理することが明確になったな、と思いました。
ところが、「賞与」の点についての宮島教授の記述は、違うのです

「新会社法エッセンス」201頁では、退職慰労金が「報酬」に含まれるかを論じた後に、

「また、賞与も問題とされる。これは会社が利益をあげたときに剰余金から与えられるもので、委任関係からは独立した一種の贈与ともいうべきものである。したがって、報酬や退職慰労金とはまったく性質を異にするものといえる。賞与も、報酬や退職慰労金と同様に総会決議にかかることになるが、こちらは毎期の剰余金処分の一部としての総会(461条、454条)にかかることになる。


と書かれています。
要するに宮島教授によると、賞与が依然として「報酬」に含まれるのかが問題となり賞与は、361条での株主総会決議によるのではなく、余剰金処分としての株主総会決議(461条、454条)によるというわけです。
この記述を読んだとき、「賞与」がまだ問題となると思っているのだろうか、特に「賞与」が明文化されたことさえも知らないのかなと、唖然としました。

そう思っていたら、11月1日に正誤表が出版社である「弘文堂」から出ました。それによると、

201頁 3行目
(誤)したがって、報酬や退職慰労金とは
(正)したがって、報酬と同列には規定されたが、報酬や退職慰労金とは


となっていますから、「賞与」が明文化された点は訂正されたことになります。


(2) しかし、記述の一番の問題は、会社法でも「賞与」が問題となるとしている点です。現行法である商法では、「賞与」が「報酬」に含まれるか問題となっていましたが、会社法でも「賞与」がまだ問題となるとしているのは本当なのでしょうか?

相澤哲・法務省大臣官房参事官 石井裕介・法務省民事局付「新会社法の解説(8) 株主総会以外の機関(上)」商事法務1744号102頁では、

「現在、多くの会社が、いわゆる『役員賞与』について、報酬決議(現行商法269条)とは別に、利益処分に係る決議をし、支払うこととしているが、このような処理を認めたまま、余剰金処分に係る権限を取締役会に委譲することを認めることは(会社法459条)、お手盛りの防止の観点からも妥当ではないものと考えられる。
 会社法では、役員賞与その他の取締役等に対して与える財産上の利益については、剰余金処分の手続などの他の手続と切り離し、株主総会の決議により定めるものとしている。(注37)。
(注37) 会社法では、剰余金の処分から『株式会社の財産を処分するもの』を除いているため(会社法452条)、剰余金の処分として役員賞与の支給をすることができない。…」

としています。
この記述によれば、「役員賞与…は、剰余金処分の手続などの他の手続と切り離し、361条の株主総会の決議により定める」のであり、「剰余金の処分として役員賞与の支給をすることができない」のです。

そうすると、これは「賞与…は毎期の剰余金処分の一部としての総会(461条、454条)にかかることになる」との宮島教授のご見解を否定していることになります。


もちろん、相澤哲・法務省大臣官房参事官らによる「新会社法の解説」は、「文中意見にわたる部分は筆者らの私見である」(商事法務1737号11頁)としていますから、宮島教授のご見解が明らかに間違いとは言えないでしょう。


(3) しかし、どちらの見解に合理性・説得力があるでしょうか?

宮島教授のご見解だと、461条で「賞与」を明記した意味が全くなくなってしまいますし、452条の括弧書からすると、「賞与」を余剰金処分として行うことは不可能に近いです。このように、2つの条文でわざわざ明記したのですから、それを無視するような解釈は難しいのではないでしょうか。

そうすると、「『賞与』が明記されたにもかかわらず、規定のなかった商法と同様に問題となるして、前のままの解釈を採用する」と考えるよりも、「461条で『賞与』が明記し、452条の括弧書で抜け道を防止したことで、『賞与』の問題点は立法上解決した」と考える方が合理的・説得的であると考えます。

そのように考えると、「賞与」はもはや立法により解決し、問題があるとの記述は妥当ではないというべきでしょう。

ちなみに、弥永真生筑波大教授「リーガルマインド会社法」202頁では、

「利益処分によって与えられる、いわゆる『役員賞与』が平成17年改正前商法269条にいう『報酬』にあたるかどうかについては学説が分かれていたが、会社法は、委員会設置会社以外の会社においては、報酬、『賞与』その他職務執行の対価として取締役が会社から受ける財産上の利益は株主総会の決議により定めるものとした(361)。」


としています。弥永教授も「賞与」は立法により解決したと理解なされています。



2.この問題に限らず、平成17年商法改正など、多くの改正が相次いでいます。ここで取り上げた疑問点とは別に、一般論としては、新法・改正法については、特にどれほど正確に理解でき、合理性のある解釈を行えるのか、学者の力量が問われているといえるでしょう。特に、要綱案で明らかでなかったことが多い「会社法」においては、資料が乏しいので、なおさらだと思います。

特に会社法においてあてはめるのですが、一般論としては、新法・改正法は、多くの文献を参照しながら「正解」を把握することが重要だと思います。

ただ、言うまでもないのですが、やはり立法担当者・法制審議会委員の解説が最も信頼がおける解説であることは確かですが。


<11月9日追記>
「新会社法の解説(10) 株式会社の計算等」商事法務1746号」34頁にも「役員賞与」について記述がありました。もちろん、「会社法452条を根拠とする株主総会決議によって取締役等に対する支払を根拠付けることはできない」と書いてあります。

テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

書評 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。