FC2ブログ
Because It's There
主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
09« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31.»11
スポンサーサイト 
--/--/-- [--] --:--:-- » E d i t
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 *  TB: --  *  CM: --  * top △ 
2005/10/24 [Mon] 02:33:22 » E d i t
東京高裁平成17年9月29日判決は、小泉首相による靖国参拝について「私的行為」であるとし、憲法判断をせずに原告の訴えを棄却しました。東京高裁の評価として、「憲法判断をしなかったことは合憲判決だから、東京高裁は合憲判決である」と考える方が(ネット上では)多少いるようです。

1.そこで、この東京高裁判決は合憲判決を下したのでしょうか?について検討してみたいと思います。


(1) まず、東京高裁平成17年9月29日判決は、

「被控訴人小泉が平成13年8月13日に靖國神社に赴いて本件参拝を行った一連の行為は,これらを一体の行為としてみても,また,個別の行為としてみても,いずれも国家賠償法第1条第1項所定の『公権力の行使に当たる公務員が,その職務を行うについて』されたものには当たらないものというべきである。そうすると,本件参拝が内閣総理大臣の職務行為として行われたものであることを前提とし,これが憲法第20条第3項に違反するとする控訴人らの主張は,その前提を欠くものであり,控訴人らの請求は,その余の点について判断するまでもなく,理由がないといわざるを得ない。」


と判示して、控訴棄却しました。

この判決文をみるとわかるように「憲法第20条第3項に違反するとする控訴人らの主張は,その前提を欠くものであり,控訴人らの請求は,その余の点について判断するまでもなく」というのですから、判決文を素直に理解すれば、憲法判断を回避した判決だと判断できます。



(2) そこで、このように裁判所が憲法判断を回避した場合、合憲判決と理解すべきなのでしょうか?

戸松秀典「憲法判断の方法」法学セミナー増刊・憲法訴訟221頁では、

「裁判所が憲法判断を回避したことに対し、それは、暗黙のうちに合憲であることを認めた判決だとするのは正当ではない。裁判所は、合憲・違憲の判断を全く加えていないのであるから、判決からは、合憲・違憲のいずれの効果も生じていないのである。」


と、しています。

このように、憲法判断をしていないのですから、合憲・違憲のいずれの判断もしていないと理解するのは当然であり、憲法学上、まったく異論がないといえるでしょう。

以前、憲法判断回避の準則については、「大阪高裁は違憲判断をしてはいけなかったのか?」というところでふれましたが、元々、憲法判断回避の準則は、憲法判断をしないものなのですから、憲法判断回避の準則の理解からしても、戸松教授の記述は当然の指摘だといえます。


(3) そうすると、「憲法判断をしなかったことは合憲判決であるから、東京高裁は合憲判決である」との考えは妥当ではなく、東京高裁判決は合憲判決を下したとはいえません



2.合憲判決だと考える方は、マスコミ不信から「各新聞社がわざと東京高裁の判断を軽視しているのではないか?」と考え、「違憲判断を行った大阪高裁と同様に東京高裁の判断も尊重すべきである」との理解の下に、合憲判決だと理解したいのでしょう。
マスコミ不信に根ざしたその気持ちは理解できなくもありません。


しかし、浦部法穂「判決の効力と判例理論」法学セミナー増刊・憲法訴訟231頁によれば、

「合憲判断に一般的な確定的効果――最高裁で合憲判決がなされたならば、もはや誰も当該法律の違憲を争いえなくなり、裁判所も以後これに反する判断をなしえなくなるというような効果――を認めえないことについては、合憲判断は不用意になされる場合もありうるなどの理由から、ほとんど異論はない。」


と、しています。これもまた、憲法学上全く異論がありません

このように、憲法学上は、合憲判断には類似事件につき二度と争えないという効力はなく、それほど重視されていないのですから、仮に合憲判断をした判決と理解したとしてもそれほど意味がないのです。

まして、憲法判断を回避した判決であると正しく理解した場合には、憲法判断自体を回避した判決は、論理的にいって合憲判断をした判決よりまして、重視する必要はないでしょう。憲法判断を回避した判決がでたという意味はありますが。

判決文を読めば分かりますが、かなり簡潔な判決文ですから、数ある憲法判断を回避した判決のなかでも、憲法学上、今後取り上げられることは極めて少ないと思われます。

ですから、各新聞がその紙面において、東京高裁を大きく取り上げなかったのは、このような憲法学上の理解に則したものと理解できますから、憲法学上は、「わざと東京高裁の判断を軽視した」ことにはならないのです。

そうすると、「各新聞社がわざと東京高裁の判断を軽視している」と考えることは、妥当ではありません



3.ネットを見ていると特に思うのですが、いくらマスコミ不信があるとはいえ、マスコミがわざと東京高裁を軽視しているとか、マスコミが「違憲判決という間違い」を撒き散らしていると思うのは、根拠のない思い込みではないでしょうか?

以前にも書きましたが、他人に騙されることなく自己決定できるためには、「文献など調べて十分に検討して自己の考えを確立する」べきです。ネットで調べることもいいのでしょうが、ネット上で皆が同じように書いていることや有名なブログで書いていることが、必ずしも正しいわけではありません(というか、間違いがかなりあります。が、あえて名指しする気はないです。)。

日本の法律論における専門的な問題点は、ネット上ではまず分かりませんから、手間を惜しむことなく図書館や書店で専門書を調べることはごく当たり前だと思っていますが、さてどれだけの人がきちんと調べているのか……。
目覚める」人が増えるといいのですが、期待はできないでしょうね。


<11月6日追記>
上に挙げた東京高裁は、「本件参拝は,仮に内閣総理大臣の職務行為として行われたとすれば,全体として,信教の自由に対する制度的保障である政教分離規定とされる憲法第20条第3項において国及びその機関が行うことを禁止されている「宗教的活動」に当たる可能性があるということができる(最高裁平成4年(行ツ)第156号同9年4月2日大法廷判決民集51巻4号1673頁参照)。」と判示しています。この範囲では憲法判断を示している、ということができます。

テーマ:靖国参拝 - ジャンル:政治・経済

憲法 *  TB: 1  *  CM: 4  * top △ 
2005/10/21 [Fri] 01:03:37 » E d i t
10月17日に小泉首相はまた靖国参拝を行いました。その少し前に大阪高裁が違憲判断を下していて、この2つの点に対して、憲法学者のコメントが新聞・雑誌に載っています。そこで、それを挙げて若干のコメントを付けたいと思います。



1.まず大阪高裁判決に対して。


(1) 朝日新聞(9月30日付夕刊)において、浦部法穂・名古屋大大学院教授(憲法)は、

「高裁レベルで憲法判断を出した点で大きな意味を持つ判決だ。踏み込んだ判決だと感じたポイントは2点ある。1つは、公私の区別に関して『あいまいにしていたら公的だ』とした点。2つ目は、信教の自由をめぐる法的利益の侵害についてで、従来の『公権力による強制』だけでなく、『圧迫、干渉を受けない権利』まで認めたことだ。ここまで踏み込んだのなら請求を認めてもよかったのではないかと思う。」


と述べています。

首相が靖国神社に参拝するといっても、私人(一個人)という資格で行うのであれば何ら問題はないのですが、国家機関を担う公人として行うのであれば政教分離違反となります(浦部編「憲法キーワード」58頁~:通説)。そうすると、公的か私的か否かが問題となりますが、「私的行為とあえて明確にせず、曖昧な言動に終始する場合、私的とする判断もできますが、大阪高裁では公的と認定する要素の1つと判断したわけです。

この大阪高裁の判断は、違憲判断を下した福岡地裁平成16年4月7日判決より踏み込んだ判断ですが(判例タイムズ1157号134頁参照)、これは至極当然の判断でしょう。もし曖昧にすれば法の規制を免れることを許せば、簡単に脱法行為を認めてしまうことになるからです。

そして、小泉氏は、内閣の首長である内閣総理大臣の地位にある以上、天皇陛下と同様に公人であって、公の場で行う殆どの行為が公的色彩を帯びてしまうのはある意味、不可避です。そうすると、首相による靖国参拝は、曖昧にしていた場合はもちろん、どう工夫をしても殆どすべてに近く公的参拝となってしまうと考えます。


「請求を認めてもよかったのではないか」という点については、次のような解決策があります。それは、朝日新聞(10月6日付朝刊)において、

「今回のケースで損害があったことが認められれば、憲法判断は必ず必要になる。ただし、損害を認めることにためらいを覚えるのが、現在の下級審の裁判官の一般的な感覚だ。
 内容は違うものの、最高裁は9月、選挙権を行使できなかった外国在住者に1人5千円の損害賠償を認めた。この判決に触れ、『靖国参拝訴訟でも同じように、憲法で保障された権利が侵害された場合、実際の損害額の立証が難しくても認める『名目的損害賠償』の考え方を採れば、論理としては完結したと言える』という最高裁関係者もいる。」


と、しています。
このように「名目的損害賠償」の考え方によれば、大阪高裁のように請求棄却でなく、損害賠償を肯定することができるというわけです。損害賠償を肯定すれば「傍論」だとして違憲判断を無視するような言動も(法的には)できなくなります。
小泉首相による司法権に対する挑発と思えるような靖国参拝・それに伴う言動や、最高裁関係者の示唆もあることですし、今後は、損害賠償を肯定する下級審判例が出る可能性が高くなったといえます。



(2) 日本経済新聞(10月1日付朝刊)において、渋谷秀樹・立教大大学院教授(憲法)は、
「勝訴した方が判決理由の一部を不服として上告するのは難しく、原告が上告しなければ違憲判決が確定する。一方、原告が上告した場合には、大法廷に回付され、歴代首相の靖国参拝を巡る初の憲法判断が示される可能性がある。」という記事に続けて、

「違憲判断が確定すれば、首相の行動を拘束する効果を持つと考えるべきだ。」


と述べています。

このコメントは大阪高裁違憲判決が確定した場合の効力について、コメントしたものだといえます。従来、「違憲判決の効力」は最高裁判所の判決だけを念頭に置いてきましたので(野中「判決の効力」芦部編・講座憲法訴訟第3巻(昭和62年)110頁~参照)、下級審の違憲判決が確定した場合の効力は、殆ど論じていなかったと思われます。
しかし、渋谷教授は、下級審判決であっても、判決である点に変わりがないのですから、確定した以上、最高裁判決と同様に拘束力を認めようとするものだと思います。

今後有力になる見解だと思いますが、もし認めると、どのような事例であっても、論理的には下級審違憲判決が確定すればすべての下級審判決で拘束力を認めることになりますが、それでよいのかというと戸惑いを感じます下級審判決は、今後の同種の事件につき最高裁の判断により覆される可能があるからです(佐藤美由紀「『違憲判決の効力』論の変遷」杏林社会科学研究19巻3号(2003年)参照)。
ただ、おそらく、渋谷教授のご見解は、今回のような事例における下級審判決に限定して主張されているのかもしれません。



(3) 週刊朝日10月21日号(10月11日発売)において、小林節・慶応大教授(憲法)は、

「9月30日に大阪高裁が小泉首相の靖国参拝を『公的参拝』だとして違憲判決を下しました。それをとらえて小泉さんや自民党は『そんなのは傍論である』とか、『私的参拝に決まっているだろう』と反応した。
 これには複線があって、昨年4月に福岡地裁が違憲判決を出しました。その判決の文脈では私的参拝だったら合憲だったので、とたんに『私的だ』と言いだした。でもね、公用車を使って公設の秘書官を連れて、あえて記帳で『内閣総理大臣 小泉純一郎』と書いて、大騒ぎになって記者から公式参拝か私的参拝か聞かれたら『公的とか私的とかいう質問は無意味だ』と。そこまでいったら、国語的常識から言っても法的常識から言っても、これは公式参拝ですよ。
 国家の代表者が戦没者を追悼するというのは正しいことで、平和を願うのもいいことです。しかしそのために特定の宗教施設を国家御用達にするということは、これは宗教差別で政教分離に反するわけです。憲法常識からいったら、耐えられないことですよ。それが違憲判決が出たら、それに対して怒っていると。違憲判決が出て当たり前なんです。」


と、インタビューに答えています。

小林教授も「違憲判決」と言っていますね。それはともかく、小林教授も、(上でも述べていますが)公式参拝は違憲であるという憲法学上の通説に基づいて発言したものです。
例えば、芦部信喜「憲法学3 人権各論(1)増補版」199頁では、

「私は、かつて国家神道の1つの象徴的存在であった宗教団体である靖国神社に少なくとも内閣総理大臣が国民を代表する形で公式参拝を行うことは、目的は世俗的であっても、その効果において国家と宗教との深いかかわり合いをもたらす象徴的な意味をもち、政教分離原則の根幹をゆるがすことになるので、『効果』ないし『過度のかかわり合い』の要件に照らし、違憲であると考える」


と論じています。
このように公式参拝が違憲であることを前提として、憲法学上の通説は小泉首相の靖国参拝は公式参拝であって違憲と判断しています、というわけです。憲法学上、圧倒的通説ですし、これ以上、特にここで論じる必要はないでしょう。




2.10月17日に小泉首相が行った靖国参拝について。

10月17日に行った靖国参拝は、昨年までと違って「内閣総理大臣 小泉純一郎」との記帳や、私費による献花料の支払いをせず、昇殿せずに拝殿前で参拝して、参拝後の記者会見や談話も出しませんでした。また、「1人の国民として参拝した。総理大臣の職務として参拝したのではない。」と私的参拝であることを強調しています(日経新聞〔10月17日付夕刊・10月18日付朝刊〕)。

このような事実関係において、朝日新聞(10月17日付夕刊14面)において、浦部法穂・名古屋大大学院教授(憲法)は、

「今回は一般の人と同じ場所で参拝して『私人』の立場を強調したのだろうが、公用車を使い、厳重な警備の中で参拝しており、これまでと本質的には何ら変わらない。首相の立場で、外交問題につながる参拝は、私的な参拝とは言えない。高裁段階で判断が分かれているとはいえ、9月30日には、大阪高裁で違憲判決が出たばかりだ。それを全く無視して首相が参拝を強行するというのは、法治国家ではない。司法判断を軽く扱っている。」


と、しています(ちなみに浦部教授も「違憲判決」と言っていますね)。

細川博之官房長官は、17日の記者会見で、今回の参拝について、高裁判決の影響に関して『たまたま本日の参拝がこうであったということだ。首相の意識に特に変化はない」と語っています。

しかし、小泉首相は、17日夕、「今までは総理大臣として特別に昇殿を許されていた。普通の一般の国民と同じようにした。」と説明しています(朝日新聞〔10月18日付朝刊〕)から、ここまで言っている以上、細川長官の記者会見と異なり、小泉首相に意識の変化があったといえるでしょう。そして、今年から参拝方式を一変させたのですから、当然ながら、「昨年までの参拝は違憲の疑いがあった」と示唆する結果になります(日経新聞〔10月18日付朝刊〕参照)。

そうすると、今回の小泉首相の参拝方式により、今までの靖国参拝は、より違憲と判断し易くなったといえます。


従来の参拝はともかく、10月17日靖国参拝は、従来と変えた以上、私的参拝であると判断することも可能です。大阪高裁が違憲と判断した要素をなるべく排除するようにしていますので。

しかし、上で述べたように、「首相による靖国参拝は、どう工夫をしても殆どすべてに近く公的参拝となってしまう」のですから、10月17日の参拝形式でも公式参拝に当たるという判断がごく自然であると思います。そして、10月17日は、靖国神社の最重要行事である秋季例大祭の初日ですから、その日に参拝することは、客観的にみて宗教的意義が深い行為といえ、その意味でも政教分離原則違反の疑いが濃いといえます。

そうすると、「これまでと本質的に変わらない」という浦部教授のコメントは、憲法学上の多数説の判断を提示したもの、すなわち10月17日の参拝も政教分離原則に違反して違憲であるといえるでしょう。

テーマ:靖国参拝 - ジャンル:政治・経済

憲法 *  TB: 3  *  CM: 32  * top △ 
2005/10/19 [Wed] 02:46:14 » E d i t
前回、別冊商事法務289号「企業買収をめぐる諸相とニッポン放送事件鑑定意見」について触れましたが、日経新聞の記事にその意見書の内容らしきものが出ていました。
その記事について疑問に思うことがあったので、ここで触れたいと思います。


1.日経新聞(10月14日付夕刊)の「ドキュメント挑戦――企業買収4 ニッポン放送巡る攻防(上)」において、

「『ためにする議論』をしたといわれることは、学会の末席に身を置く者として最大の侮辱を受けたといわざるをえない――。商法や証券取引法などの大御所、神戸大学名誉教授の河本一郎は憤りを隠さない。
 ニッポン放送を巡る法廷闘争で、河本はライブドアの株取引の手口を違法だとする鑑定意見書を裁判所に提出した。その内容をライブドア側に立った成蹊大学助教授の田中亘が切って捨てたためだ。河本は意見書を追加提出、田中の意見を『理解不能』と切り返した。


と、書かれていました。

(1) これは、「河本一郎は憤りを隠さない」なんてあたかもインタビューしたかのようですが、意見書の内容のままですね。
上記別冊商事法務289号「河本一郎意見書」390頁では、

「田中意見書は、その4頁の10行目から11行目にかけて、『本件買付けを違法とする主張は、ためにする議論のように思われてならない。」という。「ためにする議論」をしたといわれることは、学会の末席に身を置く者としては、最大の侮辱を受けたものといわざるをえない。…

 証取法27条の2第1項では、極端に形式的解釈をし、(自己株式取得についての)商法210条9項では弾力的な解釈をされるのはなぜであるのか、理解不能である。」


と、出ています。おそらくインタビューなしでこれを記事にしたのでしょうが、もしそうなら意見書を引用したと記事に書くべきでしょう。紛らわしいです。


(2) ともかく、ここで何を争っているのか気になります。かなり大雑把に言うと、

河本一郎名誉教授は、ライブドア側がしたToSTNeT-1取引での株取引は、実質的に相対取引であるから市場取引ではなく、その取引は公開買付け規制(証取法27条の2)の趣旨に反して違法だと主張しました(上記22頁)。

これに対して、田中亘助教授は、ToSTNeT-1取引での株取引は、証取法2条の定義からすると、市場取引であって、公開買付け規制の趣旨に反して違法とする主張(河本)は、ためにする議論だと言うのです(上記433頁~)。



さて裁判所は、田中亘助教授が説いたように形式的解釈をしました証券取引は、大量の株取引を行うのですから、「証券取引法の解釈に当たっては、取引ルールの一義的明確性が要求されるというべきであり、条文に忠実な解釈を行うべきもの」だからです(保全異議申立事件地裁決定(東京地裁平成17年3月16日)上記341頁)。

河本名誉教授は、東京高裁に提出した意見書においても、異議審は「極端な形式的解釈論に安易によりかかったもの」と批判していますが、定義規定がおかしいという反論に説得力を持たせるのは困難でしょう。

それと、河本名誉教授が引き合いに出した「商法210条9項」については、田中助教授は、証取法との違いとして2~3行触れただけなのに、商法210条9項関係を延々と書いたあげくに「理解不能」と書いても反論になっていないと思います。
論理的に難しい主張をして、それが田中助教授に厳しく批判されたからといって、「最大の侮辱」だなんて、論理の説得性を争う法律学の大家らしくない言動ですし、かえって、「理解不能」と書いたことで、河本名誉教授もとうとう理解能力が欠如してしてまったのかと、悲しくなりました




2.さてこの連載記事には続きがあって、それもかなり気になりました。

日経新聞(10月17日付夕刊)の「ドキュメント挑戦――企業買収5 ニッポン放送巡る攻防(下)では、

「ニッポン放送事件で(ニッポン放送顧問弁護士の)中村の主張は一見、破天荒なものだった。裁判所は、従来、増資の主な狙いが事業のための資金調達であれば、結果的に主要株主が変わることになっても認めてきた。しかし、この事件で中村は『資金需要はない。しかし企業価値を守るという正当な目的のための新株予約権の発行であり、認められるべきだ』と主張した。
 資金需要があれば増資が認められてきた背景を突き詰めて考えれば、事業の拡大という企業価値の向上が見込まれるからではないか。そうだとすれば、資金需要以外の方法で、企業価値を守ることも当然、認められていいはずだ――。中村はこう考えた。…

 3月11日、東京地裁は…防衛策を否定。中村は上級審でも敗れた。
 ある講演で中村は『裁判官には企業価値で物事の善しあしを判断するという常識はまったくなかった」と話したあと、次のように推測してみせた。『株主の召使である取締役が株主構成のあり方を変えるなんてことを、正面から堂々と言ってくるなんてとんでもないことだ』
 法律家の常識に挑んだ事件だった。中村は『別の裁判官なら、勝てたかもしれない』」


と、しています。


(1) ニッポン放送事件の裁判所の決定はいずれも、株式会社法制の構造に忠実なものでしたし、従来の新株発行に関する判例の(裁判官による)理解や、新株発行と新株予約権の違いの理解からしても、当然の結論でした(詳しくは、判例時報や判例タイムズでの東京高裁決定の解説を参照して下さい)。

なぜ、中村弁護士が独自の判例解釈に基づいた主張が、裁判所に認められると考えたのか、不可解です。負ける可能性が高いのになぜそんな主張をするなんて、不利益を受ける依頼人をないがしろにした行動としか思えません。

「裁判官には企業価値で物事の善しあしを判断するという常識はまったくなかった」と言っているようですが、単に裁判官を説得できるだけの論理を提示できなかっただけでしょう。元々、独自の判例の解釈を展開していたのですから、それでは企業価値論にまで、踏み込んで判断を求める方が無理だと思います。


(2) 論理を重んじる「法律家の常識」に挑んだ事件であることは確かですが、別の裁判官なら勝てたかもしれないというのは本当でしょうか?

確かに、日本中の裁判官のうち誰かはニッポン放送側の主張を認めたかも知れません。
しかし、私が過去において接した裁判官の方々から教えて頂いた商法の理解からすると、商事部の裁判官であれば誰でも、今回の裁判所の判断と同じ論理を採用するはずです。
「別の裁判官なら勝てたかもしれない」なんて、講演に来た人達に対して、「変な裁判官にあたったのが不幸であって、自分は悪くない。」と言いたいのでしょうが、そんなことを言っても商法学を学ぶ者に対しては、到底信じられない発言だと思います。

中村弁護士が全く信じられないとは言いませんが、どんな高名な弁護士に依頼する場合であっても、依頼人側は弁護人が述べる見解を鵜呑みにすることなく、ちゃんと商法の理解をしてから弁護方針を決めるべきでしょう。ニッポン放送やフジテレビのように敗訴してからでは遅いですから。
もちろん、商法学を学ぶ者にとっては、無理な主張を強行すれば判例ができるので嬉しいのですが(苦笑)。

テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

書評 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2005/10/16 [Sun] 01:54:02 » E d i t
最近、別冊商事法務289号「企業買収をめぐる諸相とニッポン放送事件鑑定意見」が発売されていたことに気づきました。

1.商事法務のメルマガによると、

「買収防衛策をめぐる実務の最新動向に関する論稿と、ニッポン放送事件に関する学者等の『鑑定意見』をまとめて収載! 実務家・研究者必読!」

だそうです。ということで急いで購入してきました。ただ、全部は読んでいないので、ちょっとした感想くらいを書いてみます。


(1) 一番の購入動機は、「コフィー教授の反論を受けた大物教授は誰か?」を知りたかったからです。
NNN24(平成17年3月18日付)の報道によると、

 新株予約権の発行をめぐるライブドアとニッポン放送の法廷闘争で、ライブドア側の主張を裏付ける重要な意見書がアメリカの法律家によって東京地裁に提出されていたことが明らかになった。

 コロンビア大学法学部のジョン・コフィー教授は、企業の買収合併やコーポレートガバナンスなどに詳しく、アメリカでも屈指の会社法の専門家。

 ニッポン放送側は日本の大学の権威といわれる教授らの意見書を東京地裁に提出して企業防衛の正当性を訴えたが、ライブドア側はそれに反論するコフィー教授の意見書を提出していたことがわかった。

 ニッポン放送側は、「企業や株主の利益追求は短期的な株価に左右されるべきでなく、長期的な株主利益を優先させるべき」とのコフィー教授の文章を引用して、新株予約権発行の正当性を訴えたが、コフィー教授は「ニッポン放送の解釈の仕方は違うので、ライブドアの『意見書』で指摘した」としている。


と、してたからです。
確かにコフィー教授の論文に出ていました。正直、まさかこの先生がコフィー教授から「そんなことは言っていない」と言われているとは思いませんでした。今でも大変尊敬している先生ですが。
これなら、法務省が学者の関与なしに「会社法」で色々改正しても文句は言えないなと感じました。ともかく、気になっていたので、これですっきりして良かったです。


(2) もう1つの購入動機は、「誰がどちら側の意見書を書いたのか?」です。

ロイター(平成17年3月24日付・江本恵美記者)の報道によると、

双方の主張をバックアップするにあたり、法律関係者の意見も真っ二つに分かれた。…

 今回は弁護士事務所の依頼を受けて学識者が裁判所に提出する「意見書」でも対立が鮮明になった。ニッポン放送、ライブドアとも、「意見書は10人から15人かき集めて書いてもらった」(ライブドア幹部)という。

 ニッポン放送側の顔ぶれには、商法や証券取引法の大家で現役の東京大学教授をまじえた大物学者が含まれる。日本全国、西の大学から東の大学までを網羅する勢いだ。…

 ライブドアの意見書を書いた多くの学者は、ニッポン放送の意見書を書いた大物学者の教え子。恩師に対抗する立場で意見書を書くことになったため、「最初はやはり少々つらい思いがあった」と打ち明ける学者もいた。


と、していたからです。

ニッポン放送側の意見書を書いたと思われる教授(=今回の新株予約権が「不公正発行」に当たらないとした意見書を書いた教授)は、確かに大物学者です。江頭憲治郎・東大教授、神田秀樹・東大大学院教授、河本一郎・神戸大名誉教授、上村達男・早大教授、森本滋・京大大学院教授、森田章・同志社大大学院教授、ですから。

これに対して、ライブドア側の意見書を書いたと思われる教授(=不公正発行にあたるとした意見書を書いた教授)は、大杉謙一・中大教授、近藤光男・神戸大大学院教授、中東正文・名古屋大大学院助教授ですね。

頼まれた側からの意見書と御自分の自説とは一致していないのかもしれませんが、まさか、江頭教授が不公正発行に当たらないと主張したとは…。



2.個人的には、この意見書を読んで、「ニッポン放送事件」で感じていた違和感が理解できたように思いました。その違和感とは、最初の東京地裁が出る前から、当然、「不公正発行」に当たると思っていたので、「ニッポン放送側は、なぜ不公正発行に当たらないと主張できるのか!?」ということです。

ざっと読んだだけですから、不正確であるとは思いますが、新株発行に関する不公正発行に関する判例の理解について、公正発行に当たらないとした意見書の理解と、私が学生時代に(元)某裁判官の方から教えて頂いた理解が違っていました

私が教えて頂いた判例の理解からすると、「不公正発行」に当たるとするのが自然なのですが、判例の理解が違うなら、確かに、ニッポン放送側の主張も十分主張として成り立ちます。その点を理解できたことが良かったことです。
裁判官と(ニッポン放送側の)学者とで、なぜ判例に対する理解が違ってしまうのか、という点は……仕方がないのでしょうね(苦笑)。


この本は、企業買収に関する論文が多数書いてあるので、むしろ、その論文の方が枚数的に多いので、それをまとめて読むことができるのも良い点でしょう。もっとも、旬刊商事法務などで公表済みの論文ですが。




3.別の話になりますが、このニッポン放送事件に関連して登場してきた、村上ファンドは、阪神電鉄株を多数保有して、阪神タイガース上場の賛否をファンに問うよう提案したり、また、楽天は、横浜ベイスターズを有するTBSを実質的に買収しようとしています。

今、パ・リーグ最大のイベントであるプレーオフの最中です。もうすぐプロ野球最大のイベントである、日本シリーズも始まります。今、この時期になぜ、買収などを行おうとするのでしょうか? プロ野球最大のお祭りの最中になぜ、それをぶち壊すようなことをするのでしょうか?

楽天・三木谷社長や村上世彰氏は、野球に関して全くのど素人なのでしょう。ど素人でなければ、野球ファン皆が待ち望んでいる最大の祭りをぶち壊すようなことをするはずがありません。

ですので、一言言いたいと思います。

「このクソ野郎! ど素人は野球に口を出すな!!!!!」





そういえば、新聞記者が三木谷社長や村上氏に「プレーオフに水をさすような行為をして恥ずかしいとは思いませんか?」と質問したのでしょうか?

もししていないのなら、新聞社及び新聞記者にも言いたいと思います。

「詰まらん質問ばかりしていないで、意味のある質問をしろ! 少しは脳ミソ使えよ! 」







テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

書評 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2005/10/10 [Mon] 02:12:16 » E d i t
大阪高裁平成17年9月30日判決は、小泉首相の靖国参拝を違憲とする判断を示しましたが、これに対して、「この判決は結局は請求を棄却したのに、違憲判断を示すことは『憲法判断回避の準則』に違反しており、許されない」と考えた方もいるようです。

1.では、 「請求を棄却したのに、違憲判断を示すことは『憲法判断回避の準則』に違反しており、許されない」のでしょうか? これは憲法判断回避の準則の理解にかかわる問題です



(1) 憲法判断回避の準則とは、裁判所はその憲法上の争点に触れずに事件を解決できるならば憲法判断をしなくてもよいし、判断すべきではないというものです。
この原則の主要な根拠は、日本国憲法は付随的審査制を採用しており、その付随的審査制の下では、事件解決に必要でない限り裁判所はできるだけ政治部門の判断に介入すべきではないという自制論です。

(2) 勘違いしている方が多少いるようですが、この憲法判断回避の準則は、憲法上当然に認められるとは理解されていません。では、この準則は憲法上認められるのでしょうか?

この点については、3説に分かれています(中村睦男「憲法30講」248頁~参照)。すなわち、

厳格な肯定説(法律判断先行説・宮沢):憲法判断は必要なときのみ行うべきで、他の事由で事件解決ができるなら、むしろ憲法判断を行うべきではない

否定説(憲法判断先行説・有倉):裁判所は当該法律等の合憲性をまずはじめに審理判断しなければならない。例えば、裁判官が当該法律を適用して有罪判決を下す場合には当該法律の合憲性が前提となるからである。

緩やかな肯定説(憲法判断裁量説・通説):法律判断先行か憲法判断先行かを二者択一的に捉えずに、憲法判断回避の準則を原則的に肯定しつつ、憲法判断を行うかどうかは、裁判官の裁量に委ねられる
具体的には、事件の重要性、違憲状態が繰り返されるおそれ、権利の性質等を総合的に考慮して、十分理由があれば憲法判断に踏み切ることができる(野中=中村他「憲法2」293頁、佐藤幸治「憲法」362頁)。



ではいずれの説が妥当なのでしょうか?

憲法81条で定める違憲審査制は、憲法違反の国家行為を是正するものであって、最高法規(憲法98条)である憲法の規範内容が、下位の法律や措置によって不当に踏みにじられないように統制しようとする「憲法保障」の方法の1つです。

付随的違憲審査制であっても、違憲審査制である以上、憲法保障機能を果たすことが期待されているのであって、厳格な肯定説ではこの憲法保障機能を無視することになり、妥当ではありません。
そうすると、事件の重要性、憲法違反行為が繰り返し行われることが予想される場合には、当該事件の解決に直接結び付かなくても人権保障と憲法秩序の確保のために憲法判断を示す必要性が高いのです(本下智史「違憲審査制の意義とその活性化の方向性」法学セミナー597号(2004年)33頁)。


このような理由から、緩やかな肯定説が妥当であり、通説であるわけです。すなわち、この準則は憲法上、原則として認められますが、裁判官の裁量によって準則を適用しない場合があることになります。

下級裁判所に限らず、最高裁判所においても事件の解決に必要でない場合でも憲法判断を行っていることからすれば、判例も、通説と同様の見解を採用していると理解できます。


(3) そうすると、大阪高裁の事案で問題となった小泉首相の靖国参拝について、この準則を適用すべきだったのでしょうか?

小泉首相は、各地で靖国参拝訴訟が提起された後も参拝を繰り返す旨の発言を公然と行ってきており、最近は、参拝を「適切に判断する」と繰り返すのみで、ことさらに曖昧にさせている状況ですから、これからも靖国参拝訴訟が起こされる可能性が高いのです(10月5日の高松高裁を含め11件の判決言い渡し)。しかも、靖国公式参拝は政教分離原則に違反するというのが通説ですし、小泉首相の言動からすれば公式参拝に当たり、違憲とする理解が通説でしょう。

よって、「違憲状態が繰り返されるおそれ」がある場合に当たり、事件の重大性、政教分離原則の問題であることを総合考慮すれば、憲法判断回避の準則を適用すべきでない典型的なケースといえるのです(本下・前掲33頁参照)。


(4) 以上のことから、「請求を棄却したのに、違憲判断を示すことは『憲法判断回避の準則』に違反しており、許されない」との考えは妥当ではありません



2.なお、「司法のしゃべりすぎ」の著者である、井上薫判事は「元来、裁判所には主文に関係ない点を判断する権限がなく、9月30日の大阪高裁のした違憲判断は越権の違法がある」と主張しているようです(朝日新聞〔10月6日付朝刊〕15面)。

この主張に元々根拠があるのかという根本的な疑問はともかく、少なくとも、緩やかな肯定説からすれば、違憲判断は裁判官の裁量によるので、憲法判断回避の準則は裁判官を法的に拘束するものではなく、裁判官が留意すべき倫理的ルールにすぎません。ですから、憲法判断回避の準則に従わない判決も違法と評価されません(戸波「憲法」448頁など通説)。

井上薫判事は、厳格な肯定説をより厳格にした立場を主張しているようですが、そのような独自の見解に立ってはじめて「越権の違法となる」のに、およそ違法の問題が生じない緩やかな肯定説(判例・通説)に対して「越権の違法がある」と批判しても、論理的に言って全く批判になりません

独自の見解を主張されること自体は、(学者であれば)尊敬に値しますが、憲法保障機能をあまりに軽視した見解ですので、現在の憲法学説・裁判実務上、他に主張者はいないようですし、さらには将来も、主流になることはありえないと思われます。


独自の見解を主張して憲法保障を軽視する言動を繰り返す、井上判事の言動は、むしろ、裁判官の憲法尊重擁護義務(憲法76条3項・99条)に違反するおそれがあり、裁判官の職責を失いかねない、大変な問題を含んでいるといえるでしょう。

不思議に思うのは、井上判事を高く評価する方達は、高く評価すればするほど、かえって井上判事を辞職に追い込みかねないのですが、それでもいいと思っているのでしょうか? もっとも、井上判事は、独自の見解を公然と繰り返しているのですから、それで不利益を受けても「自己責任」であって、他の人にとっては人事なのでしょうね。



<11月7日追記>
憲法判断回避の準則とは、法的に、裁判所が憲法判断をすることが許されない、という準則ではありません。すなわち、「憲法判断をすべきでない、ということは、法的にはどのような場合についてもいえない」(浦部法穂「事例式演習教室」(1998年)254頁)のであり、倫理的なルールなのです。これは憲法学上、異論のない共通した理解です。(ですので、井上判事のご見解は「共通の理解」から逸脱した独自説ということになるのです)

憲法判断を回避すべきか否かという議論は、結局は、法解釈上の議論というのではなく、違憲審査制の機能やあり方についての実際的な評価にかかわる議論なのです。
憲法 *  TB: 6  *  CM: 8  * top △ 
2005/10/09 [Sun] 17:40:18 » E d i t
大阪高裁平成17年9月30日判決は、いわゆる「違憲判決」を下しましたが、それに対して、「地裁・高裁という下級裁判所には違憲(立法)審査権がないから、不当な判決である」と(ネット上では)考える方がいました。

1.では、下級裁判所には違憲審査権が認められていないのでしょうか? 違憲審査権を規定している憲法81条は単に「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」としているにすぎず、文言上、必ずしも明白とはいえません

そこで、違憲審査権は最高裁判所が独占しているのか(否定説:憲法制定過程当時の政府見解(のみ))、下級裁判所にも認められるのか(肯定説:通説・判例)が問題となります。


(1) この問題については、最高裁昭和25年2月1日大法廷判決(憲法判例百選2(第4版)416頁・刑集4巻2号73頁)は、次のように判示して、肯定説を採用しています

「憲法は国の最高法規であってその条規に反する法律命令等はその効力を有せず、裁判官は憲法及び法律に拘束せられ、また憲法を尊重し擁護する義務を負う…。従って、裁判官が、具体的訴訟事件に法令を適用して裁判するに当たり、その法令が憲法に適合するか否かを判断することは、憲法によって裁判官に課せられた職務と職権であって、このことは最高裁判所の裁判官であると下級裁判所の裁判官であることを問わない。憲法81条は、最高裁判所が違憲審査権を有する終審裁判所であることを明らかにした規定であって、下級裁判所が違憲審査権を有することを否定する趣旨をもっているものではない。」

最高裁大法廷判決が出ているので、これで議論は終わり……。でもいいのですが、折角ですので議論を続けます。


(2) 否定説は、憲法81条により最高裁判所に抽象的違憲審査権(=具体的な事件とは無関係に法令の違憲審査を行うもの)が付与されたと考えて、そうした場合、下級裁判所は抽象的違憲審査を行うにふさわしい組織を備えていない、ということを根拠にしています。


しかし、憲法81条は抽象的審査権を採用したのではなく、付随的違憲審査制度(違憲審査は、具体的な事件の裁判の中でそれに付随して行う)を採用していると理解されています(最高裁昭和27年10月8日大法廷判決・通説)。そうすると、日本国憲法は、付随的審査制を採用する以上、下級裁判所にも違憲審査権を認めているとするのが素直な理解といえます(前掲百選416頁〔阿部〕)。

しかも、日本国憲法がもし違憲審査権を最高裁判所に独占させる趣旨であれば、その趣旨の規定と下級裁判所から最高裁判所への移送手続の規定を置くはずですが、憲法上そのような規定はありません。そうすると、移送手続規定がない以上、日本国憲法は、違憲審査権を最高裁判所に独占させることを予定していないといえます。

また、憲法81条の文言上、「最高裁判所は…憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する『終審』裁判所」であると規定して、最高裁判所が違憲審査権の最終的な行使者であることを強調したものであって、下級裁判所にも違憲審査権があることを予定しています。さらには、憲法制定過程において、改正案では下級裁判所に違憲審査権がないようにみえるとの指摘があったので、その誤解を避けるために現在の条文になったという経緯さえもあるわけです(高柳賢三ほか編「日本国憲法制定の過程2」245頁)。


よくよく考えてみれば、もし訴訟事件において、ある法律上の規定が違憲であると下級審裁判官が判断した場合、もし下級審に違憲審査権がないとすると、裁判官は、違憲無効であって、その法律上の規定は被告(又は被告人)に適用すべきでないと思っていても、その法律上の規定を被告(又は被告人)に適用して、損害賠償又は刑罰を科すことになります。

それでは、かえって、憲法98条(憲法の最高法規性:憲法は国の最高法規であり、その条規に反する法律…その他の行為…はその効力を有しない)と、裁判官の憲法尊重擁護義務(憲法76条3項・99条)に違反してしまう結果になり、著しく不合理です。



(3) このような理由により、日本国憲法は違憲審査権を憲法76条の司法権一般(したがって同じく司法権を担当する下級裁判所にも)に与えている(肯定説)、むしろ、下級裁判所への違憲審査権の付与は憲法上の要請である(内野正幸「憲法解釈の論点」165頁)と理解されています。これが現在の通説(法学協会編「註解日本国憲法(下)1216頁、野中=中村他「憲法2」247頁など)・判例であり、もはや争いがない問題といえます。

そうすると、「地裁・高裁という下級裁判所には違憲(立法)審査権がないから、不当な判決である」との考えは、妥当ではありません




2.「地裁・高裁という下級裁判所には違憲(立法)審査権がないから、不当な判決である」と考えた方は、憲法学を知らない全くの素人なのでしょうから、私は、そう考えることを馬鹿にする気にはなれません。
しかし、問題だと思うのは、素人である自分の考えを調べることなく正しいと思い込み、法律の専門家である大阪高裁判事の方が間違っていると思うことです

もちろん、法律の専門家であっても間違うことはあるでしょうから、それをおかしいと主張するなということではありませんが、この問題は図書館か書店で憲法の本を読めば、簡単に分かることなのに、調べることをしていないのです。

問題点について調べて検討し、十分理解して(合理性のある)自己の考えを確立することは、法律学を学ぶ者は誰でも行っていることです。本来、これは、法律以外の分野でも共通することだと思います。そうすると、「調べずに自己の考えを正しい思い込む」ことは、思考力が著しく低下していると思わざるを得ません

思考力が低下しているということは、他人の意見に左右され易くなるわけで、国家機関や企業から不当な侵害・損害を受けても容易く丸め込まれてしまったり、他方で、無茶苦茶な主張を国家機関や企業に強要してしまう…。
思考力が低下する国民が増えることは、国家にとって実に扱いやすいでしょうから、ある意味いいことなのでしょうが、馬鹿にされていること(又は騙されていること)に気づかないことは実に不幸なことです。
「エホバの証人」の雑誌の名前を借用すれば、「目覚めよ!」と言いたいところなのですが(笑)

テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

憲法 *  TB: 0  *  CM: 4  * top △ 
2005/10/07 [Fri] 08:33:53 » E d i t
9月30日に大阪高裁判決は、小泉首相の靖国参拝を違憲とする判断を示しましたが、この大阪高裁判決について「違憲判決」と表記した報道機関がありました。
それに対して、この判決は請求を棄却し国側が勝訴しており「違憲判決」は出ていないので、「『違憲判決』という見出しは間違っており、『違憲判断』という見出しにすべきだ」と考えた方もいるようです。

では、「違憲判決」と表記すると間違いなのでしょうか? すなわち、「違憲判決」とは何を意味するのかが問題となります。


戸松秀典「憲法裁判の方法1-『違憲判決』とは」法学教室192号(1996年)45頁(芦部=戸松=高見=戸波編「ユーブンク憲法」245頁で引用)には、

 「裁判所が違憲との見解を示した裁判例を『違憲判決』と呼ぶことが多い。……その際、裁判のどこをとらえて違憲判決といっているのだろうか。判決の主文において違憲と説かれているわけではなく、裁判の理由中で違憲の判断が展開されているところに注目してそう呼んでいるのである。これは、裁判が判決の方式でなく、決定や命令をとったときでも同様なはずである。そのときは、違憲決定とか違憲命令というべきであるが、それらの例が少ないためか、そのような言い方はあまりなされない。つまり、違憲判決とは、正確には、違憲という判断を伴う判決、ないし、判決(あるいは、決定、命令)の理由中に違憲の判断が示された裁判という意味として慣用的に使われる語句ということができる。……このように……違憲判決とは違憲判断のことだと読み替える必要がある。」


と書かれています(これは、憲法学者共通の了解事項のようです)。

つまり、違憲判決とは、正確には「違憲判断」とか「違憲裁判」と呼んだ方がいいのですが、通常、そのように表現しているというわけです。そして、大阪高裁判決も判決の「理由」中で違憲判断を示したようですから、大阪高裁判決による靖国参拝違憲判断を「違憲判決」と表記することは、憲法学上の慣用的用法であり、間違っていないといえます。



なお、判決文の「理由」中には、判決の結論にとって論理的に不可欠な部分と、判決の主文と無関係の部分(=傍論)とがありえます。これを分ける意味は、前者の場合にのみ、判例の拘束力(先例拘束性:判決の示した法理が後の裁判の基準として、のちの判決を拘束するもの)が生じるからです。

そうすると、傍論か否かは、事後の裁判所との関係においてのみ意味を持つものであって(戸波「憲法」463頁、佐藤幸治「憲法」27頁~参照)、「傍論での憲法判断が『違憲判決』に含まれるのかどうか」という議論とは、無関係です。

言い換えると、大阪高裁判決における違憲判断が傍論か否かを問わず、傍論での違憲判断も「違憲判決」に含めて論じているのが一般的です(含めないとする説は、憲法学上の論文では見当たりませんでした。


<10月29日追記>
傍論での違憲判断の是非は、岩手靖国訴訟事件(仙台高裁平成3年1月10日判決)から議論されていますので(ジュリスト979号(1991年)39頁~)、その頃から、(傍論での違憲判断も「違憲判決」に)「含めないとする憲法学上の論文がない」ということです。小林教授・浦部教授も大阪高裁判決を「違憲判決」と言っています。百地教授でさえ、傍論での違憲判断の是非を論じた法律雑誌(法律のひろば(2004年)57巻7号67頁~)において、傍論は違憲判決に含まれないとは明示していません。念のため。)。


傍論での違憲判断も「違憲判決」に含めて論じるのは、憲法判例では傍論での憲法判断であっても、後の裁判に影響しますので、傍論であっても軽視できないことが背景にあると思われます。このような傍論の「影響」について、(後の裁判所に対する)「事実上の拘束力」をもたらすものだと指摘する学者が少なくないのです(小林直樹「憲法判断の原理」下巻(1978年)18頁)。
この「傍論」の議論については、詳しくは、戸松秀典「憲法判断の方法」法学セミナー増刊・憲法訴訟(1983年)225頁~などを参照して下さい。



縷々書いてきましたが、表記として「違憲判断」か「違憲判決」かは、あまり意味のある議論ではないですが、大阪高裁が小泉首相の靖国参拝を違憲と判断したために、騒がれたのでしょう。

「内閣総理大臣による靖国参拝」が政教分離原則に違反して違憲かどうかについては、「内閣総理大臣の公式参拝」は政教分離原則(憲法20条3項)に違反し、違憲であるとするのが、憲法学上の通説でしょう(芦部信喜「憲法学3(人権各論1)199頁、緊急特集「靖国神社公式参拝」ジュリスト848号(1985年)参照)。多くの憲法上の文献からすると、今後も合憲説が学説の主流になることは極めて考えにくいです。
そのような状況では、靖国参拝訴訟が提起されて違憲判断がでる方がむしろ当然といえるでしょう。
そうすると、騒ぐ気持ちは理解できますが、憲法学上は騒ぐほどのことではないのですが。



<10月8日追記>
ネットを見ていると、「憲法判断回避の準則」「下級裁判所の違憲立法審査権」(「憲法判例百選2」416頁~参照)について、誤解している方が結構います。ちゃんと文献を調べれば分かることなのに。誤解してマスコミ批判を繰り広げても、意味がないと思いますが。
そういえば、10月6日付朝刊の朝日新聞15面によくできた記事がありました。このような記事を読めば「憲法理論についての誤解」も解消されるのでしょうね。

<10月12日追記>
lunaticさんの10月1日日記へ寄せてくるコメントには、法律的にあまりにどうかと思うのが多いので、応援をこめてTBしました(追記:私はコメントしてませんでしたが、コメント削除に。TBも反映せず。)。「朝日新聞や毎日新聞への非難は、違憲判断が下されたことに対する八つ当たり」というのは、同感ですね。

テーマ:法律全般 - ジャンル:政治・経済

憲法 *  TB: 0  *  CM: 33  * top △ 
2005/10/04 [Tue] 05:30:18 » E d i t
いよいよ本題の論点ですが、「私の視点 ウイークエンド」(朝日新聞10月1日朝刊)で、納税と在外選挙権との関係を論じていたのでそれを取り上げてみます。


この「私の視点 ウイークエンド」において、駒宮史博・新潟大学法科大学院教授(税法)は、このように論じています。

「私は、在外選挙権の行使を認めることに異論はないが、認めるならば、在外国民にも納税義務を課すべきだと考える。このことについて、広く早急な議論を提起したい。
日本国憲法は…成年者による普通選挙権を日本国民に保障(第15条)すると同時に、納税の義務(第30条)を定めている。…
ところで、現在の日本の所得税法は、海外に住む日本人については「非居住者」…として、担税力の大小にかかわらず、所得税の課税対象から除外している。…
ただし…公務員の場合には何年海外に在住していても国内に住所を持つものとみなし、日本の所得税の課税対象となっている。…
日本国憲法上、投票権は納税義務の見返りとして与えられたものではない。しかしながら、納税義務がない一方で投票権が行使できることになると、公正さを欠く結果を招く可能性がある。(以下、省略)」


としています(同じ主張は、ネット上にもありました)。

要するに、「納税義務という国家に対して義務を果たしている者が選挙権を享受すべきである」という主張です。

これは、平成8年に実施された衆議院総選挙当時、在外国民の投票を全く認めていなかった公職選挙法(平成10年改正前)の合憲性について、在外選挙権を認めないことは合憲であるという合憲説の理由の1つです(戸波江二「在外日本国民の選挙権」法学教室162号(1994年)42頁)。



1.では、「納税義務という国家に対して義務を果たしている者が選挙権を享受すべきである」という主張は妥当でしょうか?


結論からいえば妥当ではありません

(1) まず、在外日本人のすべてが納税義務を免れているわけではないので、この批判はあたらないということです。すなわち、一時海外滞在者にとっては納税をしない時期は一時的ですし、また、単身赴任などの場合には家族を通じて間接的に納税をしている場合があるからです(戸波・前掲43頁)。
それに、駒宮教授ご自身もご指摘していますが、公務員であれば海外赴任中も納税義務は免除されないのですから(所得税法3条参照)、在外公務員の選挙権に関して、この否定説の理由は当てはまらないわけです。

また、JOVAの主張さんによると、

「日本は多くの国々と租税条約を結んでいます。米国居住者は、日本の所得も含めて全世界の所得を合算して税務申告をします。反対に日本に居住しているアメリカ人は、アメリカでの所得も含めて全世界の所得を合算して日本で税務申告をします。このように租税条約は互恵条約です。我々は租税条約を通じて間接的に日本政府に納税をしていることになるのです。」


このように理解すれば、在外日本人すべて納税しているといえます。


(2) そして、もっとも問題なのは普通選挙の原則(憲法15条3項)との関係です。
すなわち、普通選挙の原則は、近代選挙の発展過程において、制限選挙制の撤廃と国民すべての政治参加を要求する運動によって勝ち取ってきたもので、近代選挙の根幹をなす原則です(戸波・前掲42頁)。この普通選挙の原則は、選挙者の能力・資産・社会的地位などの要素を一切捨象して、成年者であれば誰でも当然に選挙権を持つことを要求したものです(1人1票の原則)。

この原則は、最小限の意味では、財産や納税額を選挙権の要件としない選挙を意味するのですから、「納税義務を負う者のみ選挙権を認めるべき」という主張は、納税を選挙権の要件とすることと同じですので、最小限の意味での普通選挙の原則(憲法15条3項)でさえ違反してしまうのです。

駒宮教授も、「成年者による普通選挙の原則を日本国民に保障」しているとご指摘しているのですから、この論説自体に矛盾を孕んでいたといえるかもしれません。


駒宮教授は所得税だけ触れて論じていますが、他の税金関係については納税義務があったりします。詳しくは、「海外居住者のための便利帖」さんをご参照下さい。
http://www.interq.or.jp/world/naoto/benricho/tax.html


(3) 「納税義務を負う者のみ選挙権を認めるべき」との理由は、「広く早急な議論を提起」するまでもなく、言い古された理由であって、この裁判の1審判決・2審判決(掲載されている判例時報1705号、判例タイムズ1088号を見る限り)における被告(国)も主張していません。もちろん、最高裁判決の中でもこの理由は採りあげていません。現在では主張(理由)としての価値を失っているといってよいでしょう。


(4) このようなことから、「納税義務という国家に対して義務を果たしている者が選挙権を享受すべきである」という主張は、妥当ではないと考えます。



2.駒宮教授の論説自体は、(おそらく)納税義務を在外選挙権の要件としているのではなく、「在外選挙権を認めるならば所得税法を改正して、在外日本人にも所得税を課すべき」というものです。立法政策として、そうしている国(米国)もあるようです。

ただ、その在外日本人には外国において所得税が課されているでしょうから、国際的な二重課税の調整の必要が生じます。結局は、所得税法を改正してもどれほど課税できるのかなと、思ってしまいますが。
所得税改正については、本題からはずれますし、立法論なので指摘するだけにとどめます。

テーマ:裁判 - ジャンル:政治・経済

憲法 *  TB: 0  *  CM: 2  * top △ 
2005/10/02 [Sun] 03:46:43 » E d i t
言うまでもなく、ここでニュースに出た裁判例・社会問題について、法律論を展開しているのですが、なぜこのようなブログを始めたのか?を書いてみます。



1.簡潔に言えば。「その裁判例や社会問題に表れている問題点は、従来の学説や判例に照らして妥当なのか、いち早く検討してみよう」と思って、このブログを開設してみたのです。

もちろん、新聞などでは解説が付いていますから、それで十分だと思う人もいるでしょう。しかし、判決文の読み違えや、記者の勘違いと思われるような解説もみかけます。また、なるべく見解を公平に扱おうとするためだったり、その新聞社の主張を貫くためか、重要でない立場を重要視している記事もあって、誤解を招く解説も少なくないのです。

ですので、「判決の意味は○○だから記事は間違っているのではないか? 通説的には○○と解されているから、記事は少数意見ではないか?」と指摘しておくのも意味があると考えました。

また、新聞の解説には第一人者の解説が付いていたりします。それは大変貴重な解説ですが、その多くはネット上にないので、第一人者の解説をネット上にも残しておきたいと思いました(著作権の問題があるので、全部は無理ですが…)。



2.このブログで法律論を展開する場合、心掛けていることがあります。それは、必ず文献や判例を検索して書くことです。

問題を分析する際のよりどころの「主たるものは条文や判例という客観的ルール」(米倉明「民法の教え方」67頁参照)だからです。また、文献を調べずに書くことは、「千万人といえども我行かん」とばかりに、(法律の専門家にとって)受け入れ難いような筋の曲がった論理を展開することになりかねないからです。




このようなブログを書く切っ掛けとなったのは、「猫の法学教室」さんへの投稿ですから、「猫の法学教室」さんには大変感謝しています。
このブログだけでなく、「猫の法学教室」さんの方もぜひご覧になって下さい。(閉鎖に伴い削除)



<平成18年6月27日追記>

「猫の法学教室」さんはHPを閉鎖しました。

テーマ:政治・時事問題 - ジャンル:政治・経済

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。