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主に社会問題について法律的に考えてみる。など。
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2005/09/30 [Fri] 00:56:43 » E d i t
1つ目。

恵庭OL殺人事件の控訴審の札幌高裁判決は、1審(札幌地裁判決)を支持し控訴を棄却しました。

「Brain News Network」
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=2&news_cd=220011027500

法医学の見地など科学的に見て合理性のある認定なのか、疑問に感じます。
「BNN」のサイトにおいて、色々な検証結果が出ています。
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnTopics?news_cd=220011023925

冤罪事件は、被告人にとって不幸ですが、被害者の遺族にとっても不幸です。多くは真犯人は処罰されないままになってしまうのですから。



2つ目。

凍結保存していた内縁関係の男性の精子を使い、男性の死後に行われた体外受精で生まれた関東地方の女児が、男性の子として認知するよう求めた訴訟において、東京地裁判決は、「死者の精子を使った生殖補助医療は、自然の生殖とのかい離も大きく、現段階でこれを受容する社会的な共通認識があるとは言えない」と述べ、請求を棄却しました。

「読売新聞」
http://news.goo.ne.jp/news/yomiuri/shakai/20050929/20050929i113-yol.html

類似の事案については、高松高裁平成16年7月16日判決は、死後認知を認めていますが(判例タイムズ1160号86頁)、この判決は否定したわけです。この問題は明文の規定がないのですから、解釈に委ねられることになります。

内縁又は法律上の配偶者の、死後における人工生殖については、規制する必要性はあるかもしれません。子が生まれる前であれば。
しかし、この事案では子は生まれているのですから、子の保護が重要です。そうすると、血縁関係自体はその男性と女性との子なのですから、確実に「男性の子」である以上、「男性の子」とすることは法的にも子の保護に適うはずです。

それに、内縁関係にある男性が、死亡することを予期して、その同意の下に5回分を冷凍保存していたのですから、その合意は当然死後も予定しているのであって、その合意を無効にするのは難しいはずです。死後に及ぶ合意(意思表示)は、遺言による認知(民法781条2項)や、当事者の死亡でも終了しない委任(最高裁平成4年9月22日判決)でも認めているのですから。
元々5回予定していているのに、「3回目までは運良く生存していたからその合意は有効で、4回目は死亡してたのでその合意は無効」だなんて、合理性に欠けるでしょう。

なにより、死を予期して自分の子を残したいと思った男性と、その男性との子を求めた女性の意思を尊重して親子関係を認めることは、両性の合意に基づく結果であって(憲法24条)、合理性はあるでしょう。

特に、自分の子を残したいというのは人間としてごく自然な欲求ですから、このような生殖についての自己決定権は、憲法13条で保障されるべきものです。そうすると、これを国家が一律に禁止すること(親子関係を否定すること)は、こうした自己決定権の否定であり、国家の個人生活への過度な介入であって、許されないといえます(二宮周平「家族法」190頁参照)。

判決では「早急な法整備が求められる」などと指摘していますが、結局は「今、認知を求めている子の保護を否定する」のですから、お為ごかしにすぎません。判決文には、他にも色々と瑕疵があり、かなり問題を含んでいます。

この東京地裁判決は、妥当でないと考えます。
裁判例 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2005/09/28 [Wed] 00:57:05 » E d i t
だいぶ前の朝日新聞(9月16日付)のことですが、「参院反対派 軽い『変節』の罪の重さ」という表題の社説がありました。

それを一部引用すると、

なんとも釈然としない。郵政民営化法案の否決への流れを決定づけた自民党の中曽根弘文参院議員らが、一転して法案に賛成する。

総選挙につながった決断の重さをどう考えているのか。それをあいまいにしたまま、賛成するのは理屈が通らない。少なくとも、「民意に従う」というだけでは説明責任を果たしたことにはならない。

郵政民営化という民意の大きな流れを読めず、その後の説明責任も果たさず、離党もしない。そのまま議員を続けて恥ずかしくないのだろうか。

何もせず、ちゃっかり賛成に「変節」する。こんな態度はいかにも罪が重い。


というものです。

1.ここで朝日新聞は、中曽根参院議員らが「民意に従う」との理由で郵政民営化法案に賛成することを強く非難しているわけです。では、その非難は妥当なのでしょうか? この態度は罪が重いのでしょうか?



議員は、「全国民の代表」(憲法43条)として選挙民から独立して行動するとともに(憲法51条参照)、議会は民意を忠実に反映させなければならないので(社会学的代表:通説)、民意も推し量って政治的決定を行うことになります。
そうすると、衆議院総選挙において、自民党圧勝という結果を選挙民は選択をしたのですから、その民意を考慮して政治的決定を行うことは、ごく自然なことだといえます。


特に、与党全体の議席数が総定数の3分の2(320)を超えたことにより、憲法59条2項により、たとえ参議院で法案を否決しても、衆議院での出席議員の3分の2以上の特別多数によって法案を成立させることができます。
そうすると、たとえ参議院で郵政民営化法案を否決をしたとしても、憲法59条2項がある以上、意味がないのです。

もちろん、参議院で、どんな法案であっても反対の意思を示すことが無意味であるというのではありません。妥当でないという意思を示すことは国民への問いかけとなりますし、衆議院での修正の可能性もありうるからです。
しかし、郵政民営化法案では、すでに一度参議院で反対の意思を示したのですし、すでに国民は選挙を通じて郵政民営化賛成の意思を示したと理解できますから、(議会で反対して)二度も国民へ問いかけをする必要がありません。


このように考えるならば、憲法論的には、反対派議員が賛成に回ることを非難することは妥当ではないですし、まして罪が重いということはできません



2.もちろん、道義的に非難したいという気持ちを持つ人もいるでしょうし、そう思う気持ちも理解できなくはないです。しかし、朝日新聞は「変節したと強く非難できる立場」にいるのでしょうか?

新約聖書の「ヨハネによる福音書 8章7節」に次のような言葉があります。

「イエスは言った。なんじらのうち、罪なき者まず石を投げうて。」



文藝春秋(2005年10月号)」178頁~には、「朝日新聞が警察に屈した日」として、元朝日新聞編集委員である落合博美氏による告発が掲載されています。これによると、警察の組織的な裏金作りについて、確固たる証拠に基づいて記事にしようとしたのを、幹部が葬り去ったことが書かれています。
これは、「変節」ではないのでしょうか?

そして、報道の自由(憲法21条)が保障される報道機関として、もっとも許されず、極めて愚かしい罪である「捏造」を二度(珊瑚落書き事件、虚偽メモ事件)も行ったことを、朝日新聞はもう忘れてしまったのでしょうか? 
朝日新聞は、報道機関としてもっとも重い罪を犯した者であるのに。

このようなことからすれば、朝日新聞は「変節したと強く非難できる立場」にいないと断言できます


もちろん、私も今までの人生において「どんなに些細なことも変節したことがない」なんていえませんから、他の人はともかく、私自身は、反対派議員の「変節」を道義的に非難する気にはなれません

朝日新聞(とその社員)は、「ヨハネによる福音書 8章7節」の言葉をよく心に刻んで、社説や記事を書いて欲しいと思います。
選挙 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2005/09/26 [Mon] 03:03:15 » E d i t
まだ寄り道(付随論点の検討)をしてます。それは、衆議院の解散権を制限できるのかという点です。


時事通信の記事(2005年9月14日(水))によると、

解散権縛られず=在外選挙権訴訟で小泉首相

 小泉純一郎首相は14日夜、在外選挙権の制限をめぐる最高裁判決に関し、違憲状態が解消されるまで衆院解散はできないとの見方に対し「解散権は縛られないんじゃないでしょうか」と述べた。同時に「次の(衆院)選挙までにやらなきゃならないと思っている」と、公選法改正を急ぐ考えを強調した。首相官邸で記者団の質問に答えた。


とのことです。



1.この記事によると、小泉首相は公職選挙法を改正しなくても解散できると考えているようです(「小泉首相らしい」ですね)。そこで、今回の大法廷判決は、在外選挙権を制限している公職選挙法を違憲と判断しましたが、この公職選挙法を改正する前に、衆議院を解散できるのでしょうか、それとも制限されるのでしょうか、について検討してみます。

もちろん、この議論は今までなされたことがありませんが、「議員定数不均衡を是正しないままで内閣は解散権を行使できるか」という論点と極めて類似しますので、その点が参考になります。 



(1) 内閣(首相ではありません。)は衆議院の解散権を有していますが、その解散権の根拠については、7条説、69条説、制度説(65条説)があります。
69条説では、69条の内閣不信任案が可決される場合以外は内閣は衆議院を解散できないので、解散の民主的意義が軽視され妥当ではありません。また、制度説は、解散の根拠づけが弱く妥当ではありません。
そこで、7条説が通説であり、69条の内閣不信任案が可決される場合以外にも解散できるとしています。


(2) このように、69条以外の場合にも解散ができるとした場合、いつでも解散できるのでしょうか?

古い学説は、同一理由に基づく重ねての解散は認められないという制約はあるものの、それ以外は解散権の行使は内閣の自由裁量であって、無制限であるとしていました。
しかし、解散制度の本質は、選挙を通して国民の意思を問うものですから、この本質に従った解散でなければいけませんし、また、民意を問うとはいえ、民主的に選ばれた議会(衆議院)を解散するには十分に理由が必要ですから、恣意的な解散は憲法上許されません。
そこで、現在の圧倒的通説は、解散権は内閣の自由裁量ではなく、条理上の制約があるとしています。


(3) では、公職選挙法の是正前の違憲状態においては、内閣の解散権は条理上制約されるのでしょうか?

民意を問う必要がある重大な案件が生じた場合には、公職選挙法が違憲状態にあっても、内閣は解散権を行使できると、考えることは可能です。解散をする十分な理由があれば、解散の民主的意義を尊重して、解散を認めるべきであるともいえるからです。

しかし、最高裁判決が違憲と判断した公職選挙法のままで解散・総選挙を行うことは、違憲審査制(憲法81条)を無視することになります。また、在外選挙権を制限したままでは、民意の正確な反映が困難ですから、それを是正しないままで民意を問うために解散権を行使することは、背理であるといえます(岩間昭道「司法試験シリーズ憲法1」119頁参照)。
特にこの最高裁判決は、

「次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において,在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあるというべきである」

と判示したのです。
このように、明確に「次回の衆議院の小選挙区選挙と参議院の選挙区選挙での」選挙権を行使する地位があると明示したのですから、公職選挙法を是正しないままでの解散・総選挙は、最高裁判決による公権的判断をあからさまに無視するものであって、妥当ではありません。


したがって、公職選挙法の是正前の違憲状態においては、内閣の解散権は制約され、もし解散権を行使する場合には、憲法解釈上、解散権の濫用であって、その解散権行使は違憲であると考えます。
(争い方としては、国家賠償訴訟で行われるのでしょうが、最高裁判決により選挙権を有する地位があるのですから、当然ながら、在外日本人には賠償請求が肯定されるでしょう。)


(4) 類似論点である「議員定数不均衡を是正しないままで内閣は解散権権を行使できるか」については、東京高裁昭和59年10月19日判決は、裁判所が選挙を違憲と判断した結果として内閣の解散権が事実上制約されるとしても、事柄の性質上やむを得ないとしています。また、この論点につき、どちらかというと違憲と判断する学説(深瀬、浦部、岩間など)が多いようです。
そうすると、もし今回の論点が議論される場合には、違憲とする見解が多数となりうるといえそうです。



2.次に、憲法解釈上違憲と判断できても、訴訟の場において裁判所が違憲と判断するか、という問題は生じます。(いわゆる実体法の問題と訴訟法の問題は、別個ということですね)

最高裁(最高裁昭和35年6月8日大法廷判決・苫米地事件)は、衆議院の解散は統治行為にあたるとして、司法判断をしませんでした。しかし、統治行為論は司法審査の例外を認めるものですから、統治行為論の適用を限定するのが通説であり、その通説は、衆議院の解散裁量論で処理すべきとしています。

裁量論の問題であるとすると、裁量権の逸脱・濫用の場合には司法審査可能とされていますので、裁判所において違憲と判断することはありうることになります。

もちろん、「なお、念のため」として司法判断することも、たびたびなされていますから(最高裁昭和28年12月23日大法廷判決〔皇居外苑メーデー事件〕、最高裁昭和42年5月24日大法廷判決〔朝日訴訟〕)、「なお、念のため」として、解散権行使の是非について判断することはありうるわけです。
(もっとも、感覚としては、この問題について裁判所があえて憲法判断をするとは思えませんが。名古屋高裁昭和62年3月25日判決参照。)



3.なお、日経新聞(9月16日付)の記事によると、

総務、外務両省は15日、在外邦人の選挙権行使を制限した公職選挙法の規定を違憲とした最高裁判決を受け、同法改正案の取りまとめに向けた実務者協議を月内に開く方針を決めた。


また、読売新聞(9月17日付)の記事によると、

麻生総務相は16日の記者会見で、…選挙区選の在外投票も認める公職選挙法改正案を来年の通常国会に提出する考えを正式に表明した。


そうです。
そうすると、この論点は裁判所において争われることはなさそうです。
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2005/09/22 [Thu] 06:31:54 » E d i t
まだ本題に入らずにいますが、今回の大法廷判決が出る予兆が、かなり前からあったようです。
それは、原審である東京高裁平成12年11月18日判決の(最高裁判所調査官の)判例解説を読むとそう思えるのです。



その判例解説(判例タイムズ№1088(2002年7月1日)134頁)は、

国会の立法が国家賠償の対象となるかについては、…最一小判昭60・11・21があり、④の請求についての判断は、具体的な一事例を加えるものである。しかし、ハンセン病訴訟に関する熊本地判平13・5・11…は、…最一小判の適用される範囲を限定的に解しており、その対比は実務上参考となろう。
なお、本判決は、個別具体的な選挙において、司法的救済の道は閉ざされていないと判示しているが、本判決は、①個別具体的な選挙についての国家賠償請求を認めていないこと、②…選挙人と認められない者からの選挙訴訟は不適法にならざるを得ないこと、③…本判決がいう抗告訴訟は無名抗告訴訟とならざるを得ないと考えられるが、本判決の立場からすれば、選挙に関しては国会に大幅な裁量権があるから、認める余地がないはずであることからすると、在外日本人が国内在住者と同等な選挙権が与えられていないことについて、実際に、司法的救済の道があるとは思われない。疑問を呈しておく。


としています。

この高裁判決の論理からすると司法的救済の道がないのに、あるかのような判示をしているのですから、著しい論理矛盾があり、これを正す必要がありました。
そして、何より重要なことは、この高裁判決のままでは司法的救済の道がないのです。原告が主張したように「侵害されても司法的救済の機会が与えられないものは権利の名に値しない」(判例タイムズ№1088(2002年7月1日)139頁)のです。
まして、「疑問を呈しておく」という手厳しい指摘までなされています。そのような厳しい批判はめったにありません。そうすると、高裁判決とは異なり、最高裁においては、当然、実際上、司法的救済の道があることを認める判決を下すことを予定していたと理解できます。

その「司法的救済の道」ですが、国家賠償訴訟において、昭和60年の最高裁判決があるのに、わざわざハンセン病訴訟に関する平成13年の熊本地裁判決を取り上げているのです。そうすると、最高裁判決では、昭和60年の最高裁判決の基準を事実上緩和するなどして、国家賠償訴訟での救済を図る判決を下すことを予定していたと読むことができるでしょう。


また、行政法の問題となりますが、原告の請求について、地裁(や高裁)は無名抗告訴訟における確認訴訟であると認定して、そもそも「法律上の争訟」が欠けるとしているのですが、この請求は実質的当事者訴訟(行政事件訴訟法4条)における確認訴訟に当たり、「確認の利益」の有無を判断すべき問題であるとする意味があったと思われます。
(理念上は、無名抗告訴訟における確認訴訟と、実質的当事者訴訟における確認訴訟との区別が問題となるのでしょう。法律時報77巻3号48頁参照)



このように、この解説が書かれた2002年(平成14年)7月の段階において、高裁判決を変更することは確定的だったといえます(この段階で大法廷判決の予兆があったわけです)。そして、2004年(平成16年)12月に最高裁第二小法廷が上告事件を大法廷に回付したことで、国家賠償肯定はもちろん、それ以外の請求も認めることが予定されていたと思われます。

大法廷への回付は、2004年(平成16年)6月に、「国民の権利・自由をより実効的に保障する」という視点から行政事件訴訟法が改正されたこと(法律時報77巻3号26頁)が背景にあったともいえるでしょう。
高裁判決のままでは、在外日本人の選挙権の実効的保障がまったくできないのですから。



振り返ってみると、平成14年7月からつい最近まで、在外選挙権について、多くの学者が大きな関心をもっていたと臨んでいたという記憶がありません(今のところ、判例評釈も見当たりません)。憲法、行政法ともに色々検討する価値の大きい事件であったのに、なぜ多くの学者は、大法廷判決が出るまで積極的な発言をしてこなかったのでしょうか?

この事件は、在外選挙制度の創設(平成10年成立)、行政事件訴訟法の改正(平成16年成立)といった法改正と大いに関係するわけですが、法改正の影響を十分に咀嚼できないため、多くの学者は沈黙を保っていた、という見方は、皮肉りすぎでしょうか。
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2005/09/21 [Wed] 02:42:13 » E d i t
本題である憲法論に入る前に、気になる記事があったのでちょっと道草を。

在外選挙権制限訴訟に関する「河北新報の社説(9月14日付)」の一部です。

憲法の権利が公選法によって消滅するという状態に対し、最高裁は14日、明確に憲法違反との判断を示した。どこに住もうと憲法によって選挙権が保障されていることを確認した上で、国の不作為責任を追及した。……

判決内容は国内に住む有権者には関係がないようにもみえるが、選挙行使の権利は国民にとってかけがえのないものだということも教えている。最高裁が立法不作為を理由に初めて国家賠償を命じた判決である意義は大きく、「選挙権は民主主義社会の根幹」というメッセージだと受け止めるべきだ。

 選挙権については在日韓国人ら永住外国人の問題も残されている。最高裁は95年、地方参政権は憲法上禁じられていないと、選挙権を持つことに既に肯定的な判断を示している。その判決も受け法案が国会に提出されたが、実質審議がないまま先月4日に継続が決まった。

 放置すればまた怠慢と批判されかねないことを、国会は十分に認識しなければならない。



この社説は、在外選挙権制限訴訟及び在日外国人の選挙権の訴訟について誤解があるようです。

在外選挙権制限訴訟の最高裁判決は、「在外選挙権制限訴訟(2)」で検討したように、①憲法上、立法者の立法義務が明示され又は解釈上認められ(憲法上の立法義務の存在)、②合理的期間を経過しても立法を怠っている(合理的期間の経過)、という2つの要件が要求されていることを前提として、この2つの要件を充たすとしたものです。

ここで一番重要なことは、在外選挙権に関しては、憲法上保障されているので、是正のための「憲法上の立法義務」があるということです。

最高裁判決は判決文において、

「在外国民は,選挙人名簿の登録について国内に居住する国民と同様の被登録資格を有しないために,そのままでは選挙権を行使することができないが,憲法によって選挙権を保障されていることに変わりはなく,国には,選挙の公正の確保に留意しつつ,その行使を現実的に可能にするために所要の措置を執るべき責務がある」

として、憲法上の立法義務があることを明示しています。


これに対して、在日外国人の地方公共団体での選挙権についてはどうでしょうか?

在日外国人の地方選挙権については、選挙権の保障が憲法上禁止されているとする「禁止説」、選挙権の保障が憲法上要請されており、外国人を排除するのは違憲とする「要請説」、外国人に選挙権を保障するか否かを立法政策に委ねているとする「許容説」に分かれています。

最高裁判例(最高裁平成7年2月28日判決)は、憲法93条2項が外国人の選挙権を保障したものではないが、法律で地方公共団体での選挙権を付与する措置を講ずることは憲法上禁止されているものではないとして、許容説の立場に立っています(野中=中村他「憲法1」212頁)。

そうすると、最高裁判決によれば、在日外国人の地方選挙権に関しては、憲法上保障されておらず、「憲法上の立法義務」はないのです。
憲法上の立法義務がなければ(①の要件を欠く)、長期間立法を怠っていた(②の要件をみたす)としても、①の要件を欠くのですから違憲の問題は生じないことになります。


この社説は、「放置すればまた怠慢と批判されかねない」としていますが、文脈からして、在日外国人の選挙権に関して立法を放置すれば、「裁判所から怠慢と批判(=違憲と判断)される」という意味でしょう。
しかし、上で述べたように法律問題(憲法問題)としては、裁判所から怠慢と批判(=違憲と判断)されることはありえませんので、この社説は間違っているといえます。

もちろん、立法を求める声はあるのですから、政治問題としては、立法を求める者は国会を怠慢と批判することはあるでしょう。ですが、これはあくまで政治問題にすぎません。



この社説は、在日外国人の選挙権以外の部分については、(文章の上では)きちんとした理解を示していましたから、それにとどめておけば良かったのでしょう。
在日外国人の選挙権まで言及したことで、在日外国人訴訟はもちろん、在外選挙権制限訴訟の理解不足まで露呈した結果になってしまいました。
憲法 *  TB: 0  *  CM: 0  * top △ 
2005/09/18 [Sun] 06:26:36 » E d i t
在外選挙権制限訴訟の最高裁大法廷判決の判決文について、検討する前に、この事案では、在外国民が国政選挙権を全部又は一部を行使できないのですから、これは立法不作為(=国会がなすべき立法をしないこと)として違憲となるか、という問題です。そこで、まず、立法不作為の違憲性を論じる場合、どのような点が問題となるのかを理解しておく必要があります。




この立法不作為の違憲性の問題については、
1.立法不作為は如何なる場合に違憲となるのかという問題(いわゆる実体法上の問題)と、
2.立法不作為は違憲審査の対象となるのかという問題(いわゆる訴訟法上の問題)
に大きく分けられます(戸波「立法の不作為の違憲確認」芦部編・講座憲法訴訟1巻355頁~)。
憲法解釈上、違憲と判断(1.の問題)できるとしても、訴訟の場において裁判所が違憲と判断(2.の問題)するかどうかは、別個の問題だ、ということですね。


まず、実体法上の問題については、①憲法上、立法者の立法義務が明示され又は解釈上認められ(憲法上の立法義務の存在)、②合理的期間を経過しても立法を怠っている(合理的期間の経過)、という2つの要件が必要です。この点は異論がありません。
この要件を充たすと、立法不作為が実体法的に違憲となるわけです。


次に、訴訟法上の問題については、(1)立法不作為が違憲審査の対象となるのか、対象となるとしても、(2)立法不作為における違憲判断の方法はどのような方法があるのか、その方法の是非、という2点がさらに問題となります。

(1)の立法不作為が違憲審査(憲法81条)の対象となるのかについては、憲法81条が対象を「法律」としているので作為に限定されるのではないかが問題となります。
しかし、不作為によっても権利侵害が生じる以上、不作為を除外する理由はないとして、立法不作為も違憲審査の対象となるとするのが通説です。
現在では過去の議論といえますし、今回の大法廷判決でも、当然の前提としているので、判決文で明示していません。

(2)の立法不作為における違憲判断の方法はどのような方法があるのか、その方法の是非については、なぜ問題となるのかというと、通常の違憲判決では、裁判所が法律を違憲無効とすれば当事者は救済されるのですが、立法の不作為の場合には、単純な違憲無効では救済されないからです(戸波「憲法」446頁)。
例えば、今回の選挙権を例にとると、在外国民に選挙権がない公職選挙法が違憲とした場合、仮に公職選挙法を違憲無効としても、在外国民には選挙権はないままですから、(選挙権行使を求めている)当事者は救済されず事態の根本解決にならないのです。
そこで、立法不作為の場合には、その訴訟の方法が問題となってくるわけです。

その在外選挙権制限を争う訴訟の方法として、①選挙訴訟による選挙無効の訴え、②選挙の差止め、③国家賠償訴訟、④選挙権を有することの確認訴訟、⑤立法不作為の違憲確認訴訟、の5つがありうるとされています(戸波「在外日本国民の選挙権」法学教室162号44頁~)。



さて、今回の「大法廷判決の理由」の項目を挙げると、

第1 事案の概要等
第2 在外国民の選挙権の行使を制限することの憲法適合性について
1 
2 本件改正前の公職選挙法の憲法適合性について
3 本件改正後の公職選挙法の憲法適合性について
第3 確認の訴えについて
第4 国家賠償請求について
第5 結論
 


となっています。

「第2 1」の部分は、項目がないので空白になっていますが、ここの内容は、「選挙権又はその行使を制限することは、やむを得ない事由がない限り許されず、不作為によって選挙権が行使できない場合も同じである」、ということを判示しています。これは、立法作為・不作為を問わず、選挙権制限の限界についての一般論を展開したものといえます。
また、この「第2 1」の部分は、上で述べた実体法上の問題についての「憲法上の立法義務の存在」に関して、一般論として論じているものといえます。
なお、この選挙権制限違反は、単に憲法15条1項だけでなく、「憲法15条1項及び3項、43条1項並びに44条ただし書に違反」すると判示しています。これは、単に選挙権一般の問題でなく、憲法15条3項や44条但書で規定している「普通選挙の原則ないし平等選挙の原則」にも違反することを意味しているわけです。


「第2 2・3」も、上で述べた実体法上の問題であり、「憲法上の立法義務の存在」と「合理的期間の経過」について言及したものと理解できます。この判決ではいずれの要件も満たすものとしたわけです。


「第3」は、訴訟法上の問題であり、判決文を読むと、主位的請求(2つあり)は否定しています。本判決が主位的請求を否定した理由は、過去の法律関係の確認を求めるものであるが認めるだけの「確認の利益」がないことと(主位的請求①)、予備的請求の方が適切だから「確認の利益」が欠けるからであり(主位的請求②)、1審判決や2審判決のように「立法不作為の違憲確認訴訟↑の⑤の訴訟方法です)の主張であるから、「法律上の争訟」(裁判所法3条1項)に当たらないと断じているわけではありません。

ですので、本判決は、立法不作為の違憲確認訴訟について肯否を判断していないと理解できます。(立法不作為の違憲確認は、通常、無名(法定外)抗告訴訟の類型にあたるとされていますが、元々、原告は、「立法不作為の違憲確認の訴え=無名(法定外)抗告訴訟」を主張していませんが。)

予備的請求は、選挙権を有することの確認訴訟↑の④の訴訟方法です)に当たるものであり、本判決はこの主張は認めたものと理解できます。
この予備的請求の点は、判決文において「公法上の当事者訴訟のうち公法上の法律関係に関する訴えと解することができる」と指摘しつつ、確認の訴えを肯定したのですから、今年の4月に施行された新しい行政事件訴訟法で明示された「公法上の法律関係に関する確認の訴え」(4条:橋本博之「解説 改正行政事件訴訟法」18頁・84頁)に当たると認定して、これを認めた判決と理解できます(9月15日付の日経新聞・朝日新聞参照)。


「第4」も、訴訟法上の問題であり、立法不作為に対する国家賠償を認めた↑の③の訴訟方法です)ものです。これまでの最高裁判例(昭和60年11月21日判決)は著しく限定する基準を採用していましたが、今回の大法廷判決は、この判決と「異なる趣旨ではない」としながらも、事実上、判断基準を緩和したものと理解できます(9月15日付け読売新聞・朝日新聞参照)。


「第5」は、予備的請求を却下し、国家賠償請求を棄却した原判決を妥当でないとし、予備的請求と国家賠償を肯定した結論を示しました。原告は、人権規約違反も主張していましたが、「条約違反の論旨について判断するまでもなく」として判断を避けています。条約違反について判断を示さないのは、いつもの判決通りです。



<9月19日追記1>
某教授が、ネット上で「この大法廷判決は絶対的将来効判決を下したもの」と評価していますが、さすがにそう読むのは困難です。
将来効判決とは、法令を違憲無効とするが、無効の効果は将来の一定の時期に発生させるという判決手法をいうのですが、本判決は原告の選挙権を確認したのであって、「将来の一定時期に無効の効果が生じる」なんて一言も判旨にはないからです。
(なお、今まで将来効判決を出した最高裁判例はなく、議員定数不均衡訴訟(昭和58年と昭和60年)の反対意見や補足意見の中で示されているくらいです。)

この教授は、「公法上の確認訴訟」(行政事件訴訟法4条)=「絶対的将来効判決」と理解されているようですが、そのような文献は見当たりませんでした(橋本「解説 改正行政事件訴訟法」、小早川=高橋編「詳解 改正行政事件訴訟法」参照)。


<9月19日追記2>
平成10年改正後の公職選挙法は在外選挙制度を認めたものの、衆議院小選挙区と参議院選挙区で投票できない点について、違法であることの確認(主位的請求②)と、衆議院小選挙区及び参議院選挙区において選挙権を有することの確認(予備的請求)は、2審(東京高裁平成12年11月8日判決)の段階で付け加えたものです(9月15日付日経新聞及び判例タイムズ1088号133頁)。
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2005/09/16 [Fri] 01:41:50 » E d i t
平成17年(2005年)9月14日に最高裁大法廷判決がでました。そこでは、1.平成8年に実施された衆議院総選挙当時、在外国民の投票を全く認めていなかった公職選挙法(平成10年改正前)の合憲性、2.在外選挙制度を認めたものの、衆議院小選挙区と参議院選挙区で投票できない公職選挙法(平成10年改正後)の合憲性が問題となりました。

この問題点について検討する前に、2つの記事が気になったのでそれについて触れてみます。

1つは、朝日新聞〔夕刊〕(9月15日付け)の「素粒子」の記事の1つです。それは次のようなものです。

ああ、怠慢。その報い。
在外選挙権制限で国会の「立法不作為」は違憲と最高裁。しかし提訴から9年もかかるとはね。


1996年11月提訴、1審判決が1999年(平成10年)10月に原告敗訴、2審判決が2000年(平成12年)11月に在外邦人側の控訴棄却をしたのですから、2審から最高裁判決が出るまでの間が一番長くかかったわけです。これは「裁判の迅速化に関する法律」(平成15年7月16日施行)からしても妥当でないとも考えられます。
しかし、平成17年4月に施行された新しい行政事件訴訟法で「確認の訴え」が明文化されましたから、最高裁はこの明文化を待っていたと思われます。ですので、「素粒子」の批判的な物言いは、少々的外れではないでしょうか?

もう1つは、産経新聞〔朝刊〕(9月15日付け)での長尾一紘中央大学教授(憲法)の話です。それは次のようなものです。

最高裁の違憲判断は選挙権の保障という点では前進だが、学説では合憲と違憲に分かれており、どちらかといえば合憲説が多数派。判決は、学説を踏み越えてしまったものとみることもできる。
外国は在外の国民の選挙権について、3年、5年と期限を切って与えているのが一般的。在外邦人は、選挙情報や投票方法など、国内と等しい立場にもない。判決が、彼らと国内の選挙民を同じように扱わなければならないとしているならば問題で、最高裁判決は国際的な状況を分かっているのかと感じる。
さらに、重要判決の割には十分な理由が示されておらず、不明確な点も少なくない。どこまで制度を改めればよいのか。今後、十分な論議が必要とされよう。


この議論について論文を探しましたが、論文は1つぐらいしかなく(戸波江二「在外日本国民の選挙権」法学教室162号(1994年)39頁~、芦部=戸松他「選挙権」ユーブンク憲法2〔戸波〕145頁~)、合憲説(辻村)と違憲説(戸波)に分かれてはいても、学説上、殆ど議論していなかったのですから、「合憲説が多数説」という主張には説得力はないです。(戸波教授を除く)学者が検討を怠っていたのであり、特に、選挙権について専門でありながら、漫然と合憲と主張していた辻村教授の罪は重いでしょう。

このように学説が怠惰な態度でありながら、「最高裁は国際的な状況を分かっているのか」とか、「判決には十分な理由がない」などという、長尾教授の指摘は、自らの勉強不足を反省せずに最高裁判決を非難するもので、長尾教授のお話は恥ずべきものだと考えます。「通信手段が国際的規模で発展を遂げている(最高裁判旨)」という国際的状況への理解を欠くものであり、「選挙権を全く認めないか半分しか行使させない」(読売新聞(9月15日付け朝刊)大石眞京大教授のコメント)という明確な不合理性を認識しないものだからです。
また、比例区だけしか選挙権を行使できない点についても、実質的に衆院選挙で2票(小選挙区・比例区)、参院選挙で2票(選挙区・比例区)あるのに、それを各選挙で1票しか認めないのですから、一人一票(実質的に各選挙で2票)の原則に違反するので、行政事務側の事情があっても合憲と導く方が難しいと思うのです。

「どこまで制度を改めればよいのか」は、最高裁に教えてもらうのでなく、本来、学者が積極的に提示すべき問題でしょう。

この判決を契機として、いわゆる憲法学者は十分な議論をすべきだと考えます。最高裁に違憲と指摘されるまで違憲性を認識しないこと自体、憲法学者としての能力が疑われると思いますので。

<追記1(9月17日)>
トラックバックを受けたCASA ROSSAさんで「有権者ネットワーク」の存在が大きいことが分かりました。ありがとうございます。

<追記2(9月17日)>
各新聞にコメントを載せた学者の一覧です。
朝日新聞は、戸波江二早大教授。読売新聞は、大石眞京大教授と小林武愛知大教授。産経新聞は、長尾一紘中大教授と奥平康弘東大名誉教授。毎日新聞は、成田憲彦副学長(政治学者)と野中俊彦法政大教授。東京新聞は、奥平康弘東大名誉教授。
日経新聞は、憲法学者のコメントはなく、杉本良夫・豪ラトローブ大教授と二宮正人・サンパウロ大教授のコメントを載せています。
この問題の第一人者のコメント(少なすぎますが)を載せた朝日新聞はさすがです。コメント分量は読売新聞が一番多いですが、デーブ・スペクター氏のコメントまであるのが訳が分かりません。コメント内容が充実していたのは、産経新聞の奥平教授のコメントでした。
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2005/09/15 [Thu] 04:36:54 » E d i t
…というタイトルを挙げたのは、9月12日発行の「日刊ゲンダイ」でしたが。

自民党の圧勝という結果に終わって、自民党に投票した有権者や新聞報道でも、「圧勝で嬉しい」というのでなく、「怖くなった」との声・記事をかなり目にしました。このことは、自ら行った投票結果を十分に想像することができなかったことを意味します。簡単に言えば、「よく考えないで投票した」ということになりますね(苦笑)。

そこで疑問に思うのは、我々日本人は選挙(民主主義・法制度、さらには日本国憲法)について十分に理解しているのだろうか、ということです(戸波=松井他「Sシリーズ憲法1」46頁~参照)。

顧みれば日本では、明治憲法も、「進め一億火の玉だ」のスローガンも、占領体制も、日本国憲法も、あたかも四季が巡るように来たっては、みなそれぞれに定着し、次いで(日本国憲法を除けば)思い出となって去っていきました。あの「生類憐みの令」でさえ、4半世紀にわたって「定着」した国です。
そうすると、選挙の意義はもちろん、日本国憲法でさえごくごく浅く定着しているにすぎず、十分な理解をしていないように感じられます。


では、今後、日本人は、「選挙制度を十分理解した上での思慮に富んだ行動」ができるようになるのでしょうか?

日本には、近代立憲主義の伝統がないばかりか、アリストテレス、ストア派、キリスト教、中世立憲主義、近代自然法論など、近代立憲主義を育んだ思想的遺産のほとんどすべてがないのです(戸波=松井他「Sシリーズ憲法1」47頁)。

そうすると、思想的遺産がまったくない中で、そのような行動にでることができるのか……。さらには、今後予定されている裁判員制度において、裁判員となった国民や裁判員制度を実施している事件を聞いた国民は、冷静な対応ができるのか……。かなり悲観的な思いをしています。



<追記>
9月15日の朝日新聞(朝刊)に、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏(「時流持論」のコラムニスト・外国人ジャーナリスト)が、今回の総選挙について寄稿しています。その記事の中に、次のような記述がありました。それは

「自民党内を含め、政治家は、予想以上の自民圧勝が1つのトリックの結果だったと思いこんでいるが、それは、日本の民主主義がいかに弱くなったかを示す兆候でもある。」

と。
外国人から見ると、よりこのような感想を抱くのでしょう。日本人は…、記事を載せた朝日新聞も、同様の感想を持つとよいのでしょうが…。

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2005/09/11 [Sun] 12:25:02 » E d i t

「理論の世界には疑ふことの許されない権威はない。私は特に若い学徒の
――この問題には限らず――思惟における徹底的な態度を希望する」


これは、刑事法学に巨歩を印された佐伯千仭博士の言葉です
(佐伯「原因において自由な行為」刑事法講座2巻(1952年)309頁)。
斉藤誠二博士と同様に(Law School№31(1981年)34頁)、
ここでもこうした態度で法律論を展開して行きたいと思っています。
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