「クリスマス・キャロル」とは、どういう作品かというと、
「並外れた守銭奴で知られるスクルージは、クリスマス・イヴにかつての盟友で亡きマーリーの亡霊と対面する。マーリーの予言通りに3人の精霊に導かれて、自らの辛い過去と対面し、クリスマスを祝う、貧しく心清らかな人々の姿を見せられる。そして最後に自分の未来を知ることに。」( 「光文社 古典新訳文庫」の「クリスマス・キャロル」より)
その内容については、光文社古典新訳文庫や新潮文庫でも読めますし、「青空文庫」の「クリスマス・カロル」でも読むことができます。その中でも、光文社古典新訳文庫での訳者・池央耿氏による訳筆が、もっとも現代に即して明快である感じがします。
(12月25日追記:ただし、「さんむし」さんは、「新訳?クリスマス・キャロル」(2006年12月23日)で、「古典新訳文庫の『クリスマス・キャロル』の訳がひどい。今までに何種類も翻訳が出てる本の新訳なのに、日本語が古めかしくて硬い。」と厳しく批判しています。確かに、「『クリスマス・キャロル』の新訳を斬る」(2006年12月25日)で触れているように、原文の意味を取り違えている部分はまずいと思います)
1.この作品中で、スクルージが言い交わした娘と別れる場面では、こんな会話を交わしています。
娘 「今のあなたは拝金主義」
スクルージ 「商売は誰にも恥じることもない、正々堂々の行為だ! 世の中に、貧乏ほど始末の悪いものはない。それなのに、金儲けというと、世間では蛇蝎(だかつ)のように忌み嫌う!」
この会話を読むと、「お金儲けは悪いことですか?」と言っていた御仁(村上世彰氏)を思い出します。
このようにスクルージは自他認める拝金主義者ですが、悪人ではありませんでした。
「ここに、見過ごしてはならないことがある。人が何と言おうと誹(そし)ろうと、スクルージは断じて悪人ではない。もとより悪心のかけらもなく、不正は働かず、廉潔一途がスクルージの身上である。子供の頃の貧苦と孤独が世の現実に対する恐怖を焼き付けて、石橋をたたいて渡る慎重居士になったのは同情に値するが、それは一種の防衛機制であって、吝嗇のなせる業ではない。甥のフレッドが言うとおり、私利私欲は頭にない証拠に、金にあかして贅沢をするでもない。金を稼ぐのは、ひたすら、まっとうに、真面目に働くことを天職と心得ているからである。自身、四角四面なスクルージは他人に対しても厳格だったに違いない。悪辣な儲け話を持ちかけられれば、それこそ『おととい来い』だろう。」(「光文社 古典新訳文庫」の「クリスマス・キャロル」の「訳者あとがき」190頁))
村上世彰氏の罪責がどうなるかは分かりませんが、「不正は働かず、廉潔一途がスクルージの身上」でしたから、スクルージは逮捕されるような行動にさえ、出ていないだろうと想像できるのです。
かといって村上氏が悪人かというと、果たしてどうでしょうか?
オリックスは、村上ファンドの中核2社に社外取締役を派遣し、30億円の資金提供をし、初期の村上ファンドの投資事業組合への出資募集は、オリックスの投資部門が代行するなど、村上ファンドは「オリックスの別働隊」でした。オリックスの宮内義彦氏は、政府の審議会のトップとして規制を撤廃し既得権者を打ちのめした後、それにより新しい利権を獲得するという「改革利権」を手にしていたのです(有森隆+グループK著「『小泉規制改革』を利権にした男 宮内義彦」(2006年12月、講談社)参照)。悪人と非難するに相応しい人物は、村上氏よりも宮内義彦氏であるのです。
2.「光文社 古典新訳文庫」の「クリスマス・キャロル」の解説(池 央耿氏)には次のようなことが書かれています。
「世の中が大きく変われば、一方に必ず守旧派がいて、古き佳き時代を懐かしむのはいずこも同じ人間社会の常である。クリスマスの祝祭についても、イギリスでは19世紀のはじめ頃から、昔の牧歌的な習慣がすたれていくのを嘆く声が次第に高まっていた。加えてイギリスはハングリー・フォーティズ――飢餓の40年代を迎えることになる。大飢饉が続発して、多数の市民が困窮した10年間である。今で言う格差が広がって、都市人口の3分の1が赤貧に喘いだ、と物の本に伝えられているから、人心が荒(すさ)んだであろうことも想像に難くない。以前のように、人々が上下の隔てなくクリスマスの喜びを分かち合うのはむずかしい情況だった。
そうした世相を映して、新聞雑誌の論説や、教会の説教で弱者に対する思いやりを訴えることが一種の流行になり、特にクリスマスの時期には論者が競って慈善を説いた。ディケンズが『クリスマス・キャロル』を書いたのがまさにこの時代である。自身、少年時代に貧苦の悲しさをいやというほど味わい、作家として不動の名声を築いてからは慈善運動にも熱心だったディケンズの「クリスマス精神」が、普段は新聞雑誌を読まない層や、牧師の説教に縁のない市民たちから熱狂的な支持を得て、同書は発売1週間で5000部という、当時としては異例の売れ行きを記録した。書籍が決して廉価ではなかった時代にこれだけ売れたのは、活字文化が一般に浸透して読書人口が増えたことを語る事実でもあろう。
ディケンズはこれ以前にも、『ボズのスケッチ集』や『ピクウィック・クラブ』、雑誌「ハンフリー親方の時計」などでクリスマスを書いている。いずれも読者の懐古趣味に訴えるかのようでありながら、その実、祝祭の華やぎと、人がそれぞれに抱いている負の記憶を同じ視野の中に統一する狙いで貫かれていると言っていい。喪失の体験や、貧窮の辛苦、孤独の悲哀、遺恨、痛憤……、と現実は甘くない。世に生きるということはそういうことであって、実人生の暗部から目をそむけ、いやなことは忘れて、束の間のクリスマスを祝ったところで、喜びも善意も取ってつけたようなものだろう。闇があっての光である。負の記憶を包含してはじめて祝祭は喜びを増し、人の善意は生きる。これが、幼時の悲惨な境遇から出発してジャーナリストの目で社会を見つづけたディケンズの、宗旨にこだわらないクリスマス哲学だった。」
今の日本は、「大飢饉が続発して」ということはないですが、都市と地方の格差は修復不可能なまでに拡大し、今年の経済成長は名目2%に届かず、企業の好景気は労働人口の3分の1を非正規雇用者が占めることで支えられているにすぎません。非正規雇用者や自営業者の国民年金は破綻の危機にさらされたままで、国民健康保険制度も同様の状況です。このように、経済の落日と人心の荒廃が見え隠れするという事態になっていますから(高村薫「社会時評」東京新聞12月18日付夕刊7面)、ディケンズが『クリスマス・キャロル』を書いた時代と、今の日本の時代と似通ったところがあるのです。
「クリスマス・キャロル」にはスクルージの過去を含めて貧しい人々の様子が克明に描かれています。
「実人生の暗部から目をそむけ、いやなことは忘れて、束の間のクリスマスを祝ったところで、喜びも善意も取ってつけたようなものだろう。闇があっての光である。負の記憶を包含してはじめて祝祭は喜びを増し、人の善意は生きる。これが、幼時の悲惨な境遇から出発してジャーナリストの目で社会を見つづけたディケンズの、宗旨にこだわらないクリスマス哲学だった。」
実人生の暗部に目を背けることなく、「忍耐、寛容、献身、和合……、すべてを超えて行き着くところに善意を謳うクリスマス精神」(「クリスマス・キャロル」(光文社古典新訳文庫「解説」175頁)。ディケンズ終生のテーマと言われているこの「クリスマス精神」「クリスマス哲学」について、考えて欲しいと思います。
なお、昨年もクリスマスにちなんだテーマでエントリーを書いています。「サンタクロースの法律問題」です。こちらもご覧下さい。
1.取締役の報酬については、平成17年に制定された「会社法」では、
361条(取締役の報酬等)1項
取締役の報酬、賞与その他の職務執行の対価として株式会社から受ける財産上の利益(以下この章において「報酬等」という。)についての次に掲げる事項は、定款に当該事項を定めていないときは、株主総会の決議によって定める。
(各号については省略)
と定めています。
この規定は、以前は
商法269条1項
取締役ガ受クベキ報酬ニ付イテノ左ニ掲グル事項ハ定款ニ之ヲ定メザリシトキハ株主総会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム
(各号については省略)
と規定していました。
(1) この2つの条文を比較すると、文言上、「賞与」が明示されたことと、報酬の定義が明確になったといえます。従来、「賞与」が商法269条の「報酬」に含まれるのか問題となっていました。しかし、「会社法」の条文を素直に理解するなら、「賞与」をわざわざ規定した以上、「賞与」は361条の手続により処理することが明確になったな、と思いました。
ところが、「賞与」の点についての宮島教授の記述は、違うのです。
「新会社法エッセンス」201頁では、退職慰労金が「報酬」に含まれるかを論じた後に、
「また、賞与も問題とされる。これは会社が利益をあげたときに剰余金から与えられるもので、委任関係からは独立した一種の贈与ともいうべきものである。したがって、報酬や退職慰労金とはまったく性質を異にするものといえる。賞与も、報酬や退職慰労金と同様に総会決議にかかることになるが、こちらは毎期の剰余金処分の一部としての総会(461条、454条)にかかることになる。
と書かれています。
要するに宮島教授によると、賞与が依然として「報酬」に含まれるのかが問題となり、賞与は、361条での株主総会決議によるのではなく、余剰金処分としての株主総会決議(461条、454条)によるというわけです。
この記述を読んだとき、「賞与」がまだ問題となると思っているのだろうか、特に「賞与」が明文化されたことさえも知らないのかなと、唖然としました。
そう思っていたら、11月1日に正誤表が出版社である「弘文堂」から出ました。それによると、
201頁 3行目
(誤)したがって、報酬や退職慰労金とは
(正)したがって、報酬と同列には規定されたが、報酬や退職慰労金とは
となっていますから、「賞与」が明文化された点は訂正されたことになります。
(2) しかし、記述の一番の問題は、会社法でも「賞与」が問題となるとしている点です。現行法である商法では、「賞与」が「報酬」に含まれるか問題となっていましたが、会社法でも「賞与」がまだ問題となるとしているのは本当なのでしょうか?
相澤哲・法務省大臣官房参事官 石井裕介・法務省民事局付「新会社法の解説(8) 株主総会以外の機関(上)」商事法務1744号102頁では、
としています。「現在、多くの会社が、いわゆる『役員賞与』について、報酬決議(現行商法269条)とは別に、利益処分に係る決議をし、支払うこととしているが、このような処理を認めたまま、余剰金処分に係る権限を取締役会に委譲することを認めることは(会社法459条)、お手盛りの防止の観点からも妥当ではないものと考えられる。
会社法では、役員賞与その他の取締役等に対して与える財産上の利益については、剰余金処分の手続などの他の手続と切り離し、株主総会の決議により定めるものとしている。(注37)。
(注37) 会社法では、剰余金の処分から『株式会社の財産を処分するもの』を除いているため(会社法452条)、剰余金の処分として役員賞与の支給をすることができない。…」
この記述によれば、「役員賞与…は、剰余金処分の手続などの他の手続と切り離し、361条の株主総会の決議により定める」のであり、「剰余金の処分として役員賞与の支給をすることができない」のです。
そうすると、これは「賞与…は毎期の剰余金処分の一部としての総会(461条、454条)にかかることになる」との宮島教授のご見解を否定していることになります。
もちろん、相澤哲・法務省大臣官房参事官らによる「新会社法の解説」は、「文中意見にわたる部分は筆者らの私見である」(商事法務1737号11頁)としていますから、宮島教授のご見解が明らかに間違いとは言えないでしょう。
(3) しかし、どちらの見解に合理性・説得力があるでしょうか?
宮島教授のご見解だと、461条で「賞与」を明記した意味が全くなくなってしまいますし、452条の括弧書からすると、「賞与」を余剰金処分として行うことは不可能に近いです。このように、2つの条文でわざわざ明記したのですから、それを無視するような解釈は難しいのではないでしょうか。
そうすると、「『賞与』が明記されたにもかかわらず、規定のなかった商法と同様に問題となるして、前のままの解釈を採用する」と考えるよりも、「461条で『賞与』が明記し、452条の括弧書で抜け道を防止したことで、『賞与』の問題点は立法上解決した」と考える方が合理的・説得的であると考えます。
そのように考えると、「賞与」はもはや立法により解決し、問題があるとの記述は妥当ではないというべきでしょう。
ちなみに、弥永真生筑波大教授「リーガルマインド会社法」202頁では、
「利益処分によって与えられる、いわゆる『役員賞与』が平成17年改正前商法269条にいう『報酬』にあたるかどうかについては学説が分かれていたが、会社法は、委員会設置会社以外の会社においては、報酬、『賞与』その他職務執行の対価として取締役が会社から受ける財産上の利益は株主総会の決議により定めるものとした(361)。」
としています。弥永教授も「賞与」は立法により解決したと理解なされています。
2.この問題に限らず、平成17年商法改正など、多くの改正が相次いでいます。ここで取り上げた疑問点とは別に、一般論としては、新法・改正法については、特にどれほど正確に理解でき、合理性のある解釈を行えるのか、学者の力量が問われているといえるでしょう。特に、要綱案で明らかでなかったことが多い「会社法」においては、資料が乏しいので、なおさらだと思います。
特に会社法においてあてはめるのですが、一般論としては、新法・改正法は、多くの文献を参照しながら「正解」を把握することが重要だと思います。
ただ、言うまでもないのですが、やはり立法担当者・法制審議会委員の解説が最も信頼がおける解説であることは確かですが。
<11月9日追記>
「新会社法の解説(10) 株式会社の計算等」商事法務1746号」34頁にも「役員賞与」について記述がありました。もちろん、「会社法452条を根拠とする株主総会決議によって取締役等に対する支払を根拠付けることはできない」と書いてあります。
その記事について疑問に思うことがあったので、ここで触れたいと思います。
1.日経新聞(10月14日付夕刊)の「ドキュメント挑戦――企業買収4 ニッポン放送巡る攻防(上)」において、
「『ためにする議論』をしたといわれることは、学会の末席に身を置く者として最大の侮辱を受けたといわざるをえない――。商法や証券取引法などの大御所、神戸大学名誉教授の河本一郎は憤りを隠さない。
ニッポン放送を巡る法廷闘争で、河本はライブドアの株取引の手口を違法だとする鑑定意見書を裁判所に提出した。その内容をライブドア側に立った成蹊大学助教授の田中亘が切って捨てたためだ。河本は意見書を追加提出、田中の意見を『理解不能』と切り返した。
と、書かれていました。
(1) これは、「河本一郎は憤りを隠さない」なんてあたかもインタビューしたかのようですが、意見書の内容のままですね。
上記別冊商事法務289号「河本一郎意見書」390頁では、
「田中意見書は、その4頁の10行目から11行目にかけて、『本件買付けを違法とする主張は、ためにする議論のように思われてならない。」という。「ためにする議論」をしたといわれることは、学会の末席に身を置く者としては、最大の侮辱を受けたものといわざるをえない。…
証取法27条の2第1項では、極端に形式的解釈をし、(自己株式取得についての)商法210条9項では弾力的な解釈をされるのはなぜであるのか、理解不能である。」
と、出ています。おそらくインタビューなしでこれを記事にしたのでしょうが、もしそうなら意見書を引用したと記事に書くべきでしょう。紛らわしいです。
(2) ともかく、ここで何を争っているのか気になります。かなり大雑把に言うと、
河本一郎名誉教授は、ライブドア側がしたToSTNeT−1取引での株取引は、実質的に相対取引であるから市場取引ではなく、その取引は公開買付け規制(証取法27条の2)の趣旨に反して違法だと主張しました(上記22頁)。
これに対して、田中亘助教授は、ToSTNeT−1取引での株取引は、証取法2条の定義からすると、市場取引であって、公開買付け規制の趣旨に反して違法とする主張(河本)は、ためにする議論だと言うのです(上記433頁〜)。
さて裁判所は、田中亘助教授が説いたように形式的解釈をしました。証券取引は、大量の株取引を行うのですから、「証券取引法の解釈に当たっては、取引ルールの一義的明確性が要求されるというべきであり、条文に忠実な解釈を行うべきもの」だからです(保全異議申立事件地裁決定(東京地裁平成17年3月16日)上記341頁)。
河本名誉教授は、東京高裁に提出した意見書においても、異議審は「極端な形式的解釈論に安易によりかかったもの」と批判していますが、定義規定がおかしいという反論に説得力を持たせるのは困難でしょう。
それと、河本名誉教授が引き合いに出した「商法210条9項」については、田中助教授は、証取法との違いとして2〜3行触れただけなのに、商法210条9項関係を延々と書いたあげくに「理解不能」と書いても反論になっていないと思います。
論理的に難しい主張をして、それが田中助教授に厳しく批判されたからといって、「最大の侮辱」だなんて、論理の説得性を争う法律学の大家らしくない言動ですし、かえって、「理解不能」と書いたことで、河本名誉教授もとうとう理解能力が欠如してしてまったのかと、悲しくなりました。
2.さてこの連載記事には続きがあって、それもかなり気になりました。
日経新聞(10月17日付夕刊)の「ドキュメント挑戦――企業買収5 ニッポン放送巡る攻防(下)では、
「ニッポン放送事件で(ニッポン放送顧問弁護士の)中村の主張は一見、破天荒なものだった。裁判所は、従来、増資の主な狙いが事業のための資金調達であれば、結果的に主要株主が変わることになっても認めてきた。しかし、この事件で中村は『資金需要はない。しかし企業価値を守るという正当な目的のための新株予約権の発行であり、認められるべきだ』と主張した。
資金需要があれば増資が認められてきた背景を突き詰めて考えれば、事業の拡大という企業価値の向上が見込まれるからではないか。そうだとすれば、資金需要以外の方法で、企業価値を守ることも当然、認められていいはずだ――。中村はこう考えた。…
3月11日、東京地裁は…防衛策を否定。中村は上級審でも敗れた。
ある講演で中村は『裁判官には企業価値で物事の善しあしを判断するという常識はまったくなかった」と話したあと、次のように推測してみせた。『株主の召使である取締役が株主構成のあり方を変えるなんてことを、正面から堂々と言ってくるなんてとんでもないことだ』
法律家の常識に挑んだ事件だった。中村は『別の裁判官なら、勝てたかもしれない』」
と、しています。
(1) ニッポン放送事件の裁判所の決定はいずれも、株式会社法制の構造に忠実なものでしたし、従来の新株発行に関する判例の(裁判官による)理解や、新株発行と新株予約権の違いの理解からしても、当然の結論でした(詳しくは、判例時報や判例タイムズでの東京高裁決定の解説を参照して下さい)。
なぜ、中村弁護士が独自の判例解釈に基づいた主張が、裁判所に認められると考えたのか、不可解です。負ける可能性が高いのになぜそんな主張をするなんて、不利益を受ける依頼人をないがしろにした行動としか思えません。
「裁判官には企業価値で物事の善しあしを判断するという常識はまったくなかった」と言っているようですが、単に裁判官を説得できるだけの論理を提示できなかっただけでしょう。元々、独自の判例の解釈を展開していたのですから、それでは企業価値論にまで、踏み込んで判断を求める方が無理だと思います。
(2) 論理を重んじる「法律家の常識」に挑んだ事件であることは確かですが、別の裁判官なら勝てたかもしれないというのは本当でしょうか?
確かに、日本中の裁判官のうち誰かはニッポン放送側の主張を認めたかも知れません。
しかし、私が過去において接した裁判官の方々から教えて頂いた商法の理解からすると、商事部の裁判官であれば誰でも、今回の裁判所の判断と同じ論理を採用するはずです。
「別の裁判官なら勝てたかもしれない」なんて、講演に来た人達に対して、「変な裁判官にあたったのが不幸であって、自分は悪くない。」と言いたいのでしょうが、そんなことを言っても商法学を学ぶ者に対しては、到底信じられない発言だと思います。
中村弁護士が全く信じられないとは言いませんが、どんな高名な弁護士に依頼する場合であっても、依頼人側は弁護人が述べる見解を鵜呑みにすることなく、ちゃんと商法の理解をしてから弁護方針を決めるべきでしょう。ニッポン放送やフジテレビのように敗訴してからでは遅いですから。
もちろん、商法学を学ぶ者にとっては、無理な主張を強行すれば判例ができるので嬉しいのですが(苦笑)。


