諸宗山回向院は、有縁・無縁にかかわらず生きとし生けるすべてのものを供養する寺院であり、動物供養の寺としても有名です。この回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院ですが、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」というのが、この寺院の理念となっています。
近時、回向院が当事者となったペット供養訴訟の判決が出ているため(「“ペット供養は宗教活動”で課税取り消し〜東京高裁平成20年1月23日判決」(2008/01/26 [Sat] 18:40:46)参照)、余計に動物供養を行っている寺院として知られた存在になったといえるでしょう。
以前の「家畜総回向」で気づかなかっただけかもしれませんが、今回の「家畜総回向」では、五つの色が順番に縫い付けられた幕である「五色幕(ごしきまく)」が吊るしてありました。本堂に吊り下げられている幕だけでなく、参道の入り口にもありました(旗の形でしたが、これも「五色幕」のようです)。
「五色幕(ごしきまく)」とは、青、黄、赤、白、紫の五色であり、それぞれに意味があります。
「青」はお釈迦さまの髪の色であって、心が穏やかに落ち着いた状態で「禅定(ぜんじょう)」を表しているあらわします。
「青;お釈迦さまの髪の色。心が穏やかに落ち着いた状態で「禅定(ぜんじょう)」をあらわします。
黄;お釈迦さまの身体。豊かで確固としたゆるぎない性質「金剛(こんごう)」をあらわします。
赤;脈々と流れとどまることのないお釈迦さまの血液の色。大いなる慈悲心で人々を救済してやまない働き「精進(しょうじん)」をあらわします。
白;お釈迦さまが説法されるその口元の清らかな歯の色。諸々の悪業(あくごう)や煩悩(ぼんのう)を清める「清浄(しょうじょう)」をあらわします。
紫;お釈迦さまの聖なるお体を包むお袈裟の色。あらゆる侮辱や迫害などによく耐えて怒らぬ「忍辱(にんにく)」をあらわします。
これら五色は、お釈迦さまの教えといきざまを象徴的に表した色です。五色幕を張ることは、仏教を広めるための道場であること示し、またお釈迦さま以来ご開山(無相大師)さまを経て今日まで伝えられてきた大切な心の教えを、未来永劫にも絶やすことなく伝えていくという強い意思表明でもあるのです。」(「臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺」の『五色幕』」)
普段は質素な色具合の寺院も、大変色安鮮やかな「五色幕」を吊るすことで華やかな感じになりますが、この「五色幕」にも重要な意味があったわけです。
今回も、「家畜総回向」の際に頂いた「散華」(道場にみ佛をお迎えし、佛を讃え供養する為に古来より広く行われてきたもの。元来は、樒の葉や菊の花、蓮弁等の生花を用いていたが、現在は通常蓮弁形に截った紙花を用いている)に書かれていた言葉を引用しておきます。今回は「法句経」(短詩型の教説を集成したもので、初期の仏教の教えを伝える仏教経典)にある語句であり、お釈迦さまの根本的な教えとして知られている言葉です。
「少欲知足
足るを知るは上なき財なり
法句経」
「小欲」でなく「少欲」という点が重要です。もちろん「無欲」ということでもありません。
「仏教では、古来「少欲知足」を教えています。「少欲知足」とは、欲を少なくし、
足を知る心をもて、といった教えです。
欲を少なくするのは、別段無欲ではありません。よく、仏教は「無欲」を教えて
いると受け取られますが、それは錯覚です。無欲では、人間は生きられませんよ。
また、「小欲」でもありません。欲望が小さいことはいいことですが、
仏教は必ずしも欲望が小さくなければならない、とは言っていません。
そうではなくて、「少欲」は、私たちの欲望を少なくすることです。
そして、足を知る。それが「少欲知足」です。そして、その「少欲知足」が
ほかならぬ布施そのものであると、仏教は教えています。」(「心のページ」さんの「ひろさちや『般若心経』生き方のヒント」より)
道元禅師も自らの最後の教えとして説かれた「八大人覚」において、「多欲の人は、利を求めることが多いから、おのずから苦悩もまた多い。これに対して少欲の人は、求めることもなく、欲もないからわずらうこともない。いつも満ちたりて苦悩もなく心穏やかである」と、このように少欲を行じることを諭されたそうです(「鐘の音 和尚の一口法話」の「第85話・少欲知足」)。
欲望を少なくし、その小欲で満足することは、心豊かに暮らすことができる――。人は自分自身の心の中に生じてしまう、貪りの心、愚かな心に負け、自分を見失ってしまうことがしばしばです。欲望すべて放棄するのではなく、「少欲知足」を実践することで心の満足を得えて良き人生を得ることができ、そして、その心の余裕が他の人を思いやる気持ちにつながるのだと思うのです。
「“ペット供養は宗教活動”
東京の寺で江戸時代から続く飼い犬や飼い猫の供養が課税の対象になるかどうかが争われた裁判で、東京高等裁判所は、地域に根ざした宗教活動で営利活動ではないとして、東京都が行った130万円余りの課税を取り消しました。
東京・両国にある「回向院」は350年余り前の江戸時代から飼い犬や飼い猫などを供養する寺として知られています。寺には高さ10メートルを超す動物の供養塔があり、お彼岸に営まれる動物の法要には、かわいがっていたペットの死を悼む大勢の参拝客が訪れます。
これについて、東京都が「料金をとる供養は営利活動に当たる」として、4年前、固定資産税など130万円余りを課税したため、寺が「人の供養と同じ宗教活動だ」として取り消しを求めていました。
23日の2審の判決で、東京高等裁判所の一宮なほみ裁判長は「江戸時代の文献には回向院に多くの動物が埋葬されたという記述があり、動物を供養する寺として古くから地域の人々のあつい信仰の対象だったことが認められる。供養料は取っているが、地域に根ざした宗教活動で営利活動ではない」と指摘し、東京都の課税を認めた1審とは逆に課税を取り消しました。
判決について東京都の主税局は「主張が認められず、きわめて残念だ。判決の内容をよく見たうえで今後の対応を検討したい」と話しています。
1月23日 18時16分」(NHKニュース(1月23日 18時16分))
新聞紙面では大きな扱いではありませんでしたが、NHKで何度も報道されたためか、多くの関心を呼んだ裁判例だったようです。
1.いわゆるペット供養訴訟については、「ペット供養訴訟〜宗教法人が行うペット供養(葬祭)も収益事業なのか?(上)」(2006/07/26(水) 23:04:32)、「ペット供養訴訟〜ペットの火葬や霊園の現状」(2006/08/13(日) 09:10:57)で触れています。
古来から日本の動物観は、どんな動物でも命あるものとして尊重し、供養を行ってきていました。動物供養で有名な「回向院」は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院ですが、その理念は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」であり、その理念は現在までも守られてきているのです。
回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を当院に葬ることになりました。その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻し安置した馬頭観世音菩薩像は、享保年中(1716〜35)の頃から「江戸三十三観音」に数えられています。また、回向院の境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」(文化十三年・1816)、「唐犬八之塚」(慶応二年・1866)、「オットセイ供養塔」(大正15年)、さらに義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合による「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があります。
人間はもちろん、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという、回向院の理念が守られていることは、「平成19年春季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向〜彼(か)の岸(きし)へ生まれることを願う」(2007/03/17(土) 22:25:41)、「平成19年総回向・家畜諸動物施餓鬼会」(2007/07/01(日) 23:36:53)、「平成19年秋季彼岸会・犬猫小鳥等家畜総回向」(2007/09/23(日) 21:14:58)といったようなことでも、いくらかでも理解できるかと思います。
このように、回向院での動物供養の歴史は回向院の開創間もない頃(回向院二世信誉上人の時代)まで遡るほど古いものであり、動物供養は回向院と切り離せないものなのです。東京高裁は、「回向院での動物供養の宗教性は社会的に認知されている」としていますが、極めて妥当な理解です。
この問題について検討する前に。
飼い主により、死後回向院に供養のために連れてこられたペットは幸せです。多数の犬・猫などが殺処分となっており、生涯を全うできずにいるのですから。
「無責任な飼い主による動物虐待や置き去り、利益追求ばかりで無計画な繁殖を行う悪質な業者は後を絶たない。炭酸ガスにより殺処分される犬や猫は年間約40万匹。環境省は、罰則などを強化した改正動物愛護管理法を先月から本格運用した。しかし、引き取り手がない犬や猫を動物管理センターからもらい受け、民間の動物愛護団体などが新たな飼い主を探す構図は変わってはいない。」(YOMIURI ONLINE:ズームアップ・ウィークリー(2007年7月4日)「無責任飼い主の罪」)
深夜、犬が吠えて近所から苦情を受け、家族が睡眠不足になったからなど多くの身勝手な理由――深夜吠えないように教えるのが飼い主の務めなのに――で、殺処分になっているのです。殺処分を待つ犬は、目が虚ろになり、恐怖におびえ口からよだれを流し続けています。飼い主としての務めを果たす意思がない者に飼われる動物は不幸です。
昔の地域住民は、犬が吠えるのは当たり前だと思い、文句を言い出すものはほとんどいませんでした。昔に比べれば、今の犬はほとんど吠えることがなくなっているのにも関わらず、今の日本社会は、犬が少しでも吠えることを許容出来ないほど寛容さをなくしてしまっているようにも思います。

