愛猫「ミュシャ」が永眠しました。
「ミュシャ」の由来は、もちろんアルフォンス・マリア・ミュシャです。
家に帰ると何時であっても玄関で待っていたり、10数年にわたりいつでも傍にいて。私に対しては全くの無防備で、これほどまでに全幅の信頼を寄せてくる猫は初めてでした。
嫌だと思ったら、診察している獣医であろうと誰であろうと、わけ隔てなく、遠慮なく噛み付き爪を立てました。こんな態度に、「相手を区別しない毅然した態度は見習いたい、人もかくあるべき」と感じていました。最後まで毅然とした態度だったのが、余計に悲しい……。
「ミュシャ」を失った悲しみが多少でも癒えるときまで、ブログの更新を一時停止します。読者の方には申し訳ないです。
TBやコメントは、どのエントリーでも遠慮なくお願いします。すべて読ませて頂きます。ただ、TBを返したり、コメントへのお返事は、いずれ気持ちが回復した後にさせて頂きます。申し訳ありません。
<7月12日追記>
悲しみが癒えた訳ではありませんが、ブログの更新を再開します。コメントを寄せて頂いた方はもちろん、更新停止中もアクセスして頂いた方には心から感謝しています。
簡潔に言えば。「その裁判例や社会問題に表れている問題点は、従来の学説や判例に照らして妥当なのか、いち早く検討してみよう」と思って、このブログを開設してみたのです。
もちろん、新聞などでは解説が付いていますから、それで十分だと思う人もいるでしょう。しかし、判決文の読み違えや、記者の勘違いと思われるような解説もみかけます。また、なるべく見解を公平に扱おうとするためだったり、その新聞社の主張を貫くためか、重要でない立場を重要視している記事もあって、誤解を招く解説も少なくないのです。
ですので、「判決の意味は○○だから記事は間違っているのではないか? 通説的には○○と解されているから、記事は少数意見ではないか?」と指摘しておくのも意味があると考えました。
また、新聞の解説には第一人者の解説が付いていたりします。それは大変貴重な解説ですが、その多くはネット上にないので、第一人者の解説をネット上にも残しておきたいと思いました(著作権の問題があるので、全部は無理ですが…)。
このブログで法律論を展開する場合、心掛けていることがあります。それは、必ず文献や判例を検索して書くことです。
問題を分析する際のよりどころの「主たるものは条文や判例という客観的ルール」(米倉明「民法の教え方」67頁参照)だからです。また、文献を調べずに書くことは、「千万人といえども我行かん」とばかりに、(法律の専門家にとって)受け入れ難いような筋の曲がった論理を展開することになりかねないからです。
このようなブログを書く切っ掛けとなったのは、「猫の法学教室」さんへの投稿ですから、「猫の法学教室」さんには大変感謝しています。
このブログだけでなく、「猫の法学教室」さんの方もぜひご覧になって下さい。
<平成18年6月27日追記>
「猫の法学教室」さんはHPを止めてしまったようです。
「理論の世界には疑ふことの許されない権威はない。私は特に若い学徒の
――この問題には限らず――思惟における徹底的な態度を希望する」
これは、刑事法学に巨歩を印された佐伯千仭博士の言葉です
(佐伯「原因において自由な行為」刑事法講座2巻(1952年)309頁)。
斉藤誠二博士と同様に(Law School癸械院複隠坑牽映)34頁)、
ここでもこうした態度で法律論を展開して行きたいと思っています。



