2.東京新聞平成20年5月14日付夕刊9面「社会時評」(眤七亜
「裁判員制度への困惑 民意を活かすべきは民事
裁判員制度の開始までちょうど1年となった。一市民が法廷の最上段に並んで座(すわ)り、被告人を目の前にして有罪か無罪かを決めるなんて、真面目(まじめ)に考えれば考えるほど困惑するというのが、市井の本音である。現に最近の世論調査で、6割の人ができればやりたくないと回答している現実を、国は座視すべきでない。
折りしも先月、犯行当時18歳と1ヶ月の少年であった山口県母子殺害事件の被告が、差し戻し審で死刑判決となった。数ある刑事裁判のなかでも、極刑を求める被害者遺族の活発な活動によって、ひときわ世論の注目を集めてきた裁判だったが、私などは最後まで、何が正しいのか分からなかった。
◇
第一に、強姦(ごうかん)目的や殺意といった事実認定について。検察の描いた事件の姿と、弁護側の主張がはなはだしく異なるとき、一般には証拠をもとに判断することになるが、その証拠自体の評価の仕方が分かれてしまうことがある。光市事件も、被害者の首の扼痕(やくこん)をめぐって、二審以降、検察と弁護側が真っ向から対立した。検察が明白な殺意を主張するのに対して、弁護側は抵抗する被害者を抑えようとして手が首にかかったものと言うのだから、両者の違いはあまりに大きい。しかも、それらは同じ証拠写真から導かれた結論なのである。
第二に、量刑について。光市事件では、犯行当時の被告が18歳だったことで、従来の判例に倣えば死刑は回避されるケースだった。しかし今回、被害者遺族の熾烈な処罰感情が世論と司法を動かし、判例は覆されたのだが、仮に被害者遺族がべつの人だったら、被告は無期懲役になっていたと考えられる。私たちはこれをどう考えたらよいだろうか。同じ犯罪事実に対して、あるときは死刑になり、あるときは無期懲役ですむ。こんな現実は、私たち素人に耐えられるものではない。
このほかにも、公判前に行われる争点整理や、それによる公判の迅速化など、簡便になってゆく審理には直感的に不安も覚える。裁判で取り上げる証拠や争点を限定するには、警察と検察の取り調べの全過程の録音・録画が大前提となるべきところ、現時点では供述調書の読み聞かせ段階の録画に限られるらしい。こうしてあてがいぶちの資料だけ与えられて、さあ死刑か無期かと問われるのである。しかし、最後は自分の心証で死刑判決を出せるような人が、現実にはどれほどいることか。民意とは、いざとなればもっと慎重なものである。
◇
さて、裁判員制度なるものが民意を裁判に反映させるために導入されるのであれば、なぜ死刑か無期かを争うような刑事裁判から始まるのだろうか。血まみれの犯罪死体の写真を一般市民にさらし、強姦などの一部始終をいちいち読み聞かせるのが、開かれた法廷だというのだろうか。
民意を広く社会常識と捉(とら)えるなら、それを活(い)かすところは、加害者も被害者も個人である刑事事件ではなく、むしろ公害訴訟や薬害訴訟、あるいは近年増加している労働訴訟や行政訴訟のほうだろうと思う。裁判の長期化の弊害はこうした民事裁判も同様であるし、公害問題や労働問題は私たちにとってより大きな関心事であり得る。もちろん専門知識の詰まった数万ページもの証拠資料など手に負えないが、ここでこそ争点整理の手続きが活きてこよう。
想像してみよう。もし薬害肝炎訴訟を私たち裁判員が裁いていたなら、はるか昔に国と製薬会社の責任を認めて賠償を命じていたはずだ。
結局、ほんとうに私たちの民意が活かされるべき民事裁判が閉ざされたままであるのは、国と司法と官庁が、ここだけは国民に触れさせないとして死守しているからにほかならない。そして、本来は民意よりも、証拠にもとづく精密な審理が必要な刑事裁判のほうを一般市民へ投げ出して、頬(ほお)かむりしたということである。こんな状況で私たちに出来るのは、軽々に声を上げた「世論」など形成しないことぐらいだろうか。
(たかむら・かおる=作家)」
3.幾つかの点について触れていきます。
(1) 眤爾気鵑蓮光市事件裁判について、
「私などは最後まで、何が正しいのか分からなかった」理由として、2点挙げています。
「第一に、強姦(ごうかん)目的や殺意といった事実認定について。検察の描いた事件の姿と、弁護側の主張がはなはだしく異なるとき、一般には証拠をもとに判断することになるが、その証拠自体の評価の仕方が分かれてしまうことがある。光市事件も、被害者の首の扼痕(やくこん)をめぐって、二審以降、検察と弁護側が真っ向から対立した。検察が明白な殺意を主張するのに対して、弁護側は抵抗する被害者を抑えようとして手が首にかかったものと言うのだから、両者の違いはあまりに大きい。しかも、それらは同じ証拠写真から導かれた結論なのである。
第二に、量刑について。光市事件では、犯行当時の被告が18歳だったことで、従来の判例に倣えば死刑は回避されるケースだった。しかし今回、被害者遺族の熾烈な処罰感情が世論と司法を動かし、判例は覆されたのだが、仮に被害者遺族がべつの人だったら、被告は無期懲役になっていたと考えられる。私たちはこれをどう考えたらよいだろうか。同じ犯罪事実に対して、あるときは死刑になり、あるときは無期懲役ですむ。こんな現実は、私たち素人に耐えられるものではない。」
「強姦(ごうかん)目的や殺意といった事実認定」については、弁護側の主張に対して、差戻控訴審はことごとく否定してますが(
「【死刑判決で弁護団(1)】「裁判所は被告人の心を完全に見誤った」(2008.4.22 18:07)、
「【光市母子殺害判決の要旨(3)】弥生さん殺害「弁護側鑑定は採用できない」 」(2008.4.22 18:53)、
「【光市母子殺害判決の要旨(4)】弥生さん殺害「供述経過は不自然であり、信用することはできない」」(2008.4.22 19:21))、殺害方法については、「左順手で」「左手の上に右手のひらを重ねて置いて、被害者の頚部を絞めつけた」と判断するのです。
しかし、この裁判所の判断は、両手を頚部において締め付けたという検察側とも異なりますし、右手で逆手で押さえたものであって殺意がないという弁護側との主張とも異なるのですから、裁判所は独自の認定を行ったのです。(検察側が主張する事実が認定できるか否かを行うのが刑事裁判であるのに、検察が主張していない事実を認定すること自体も問題ですが)
「同じ証拠写真」から三様の判断が出てくるのですから、裁判所の判断は本当に正しかったのだろうか、裁判員が裁判所と同じような独自の判断を導けるのでしょうか。検察と弁護側の鑑定が全く異なる結論を導いているのに。大いに疑問を感じるのです。
もっとも、差戻し控訴審の判旨を読んで、殺意があったと納得した人もいるかもしれません。しかし、
問題は検察側の主張する事実が「合理的な疑いを超える程度」に証明できているのかどうかなのです。
刑事訴訟では、「疑わしきは被告人の利益に」の原則が支配していますので、挙証責任を負担するのは検察官です。そして、裁判の結果(有罪判決)が人の生命・自由又は名誉にとって回復しがたい重大な不利益をもたらすものですから、犯罪事実の証明度は大変高く、検察側だけが、「合理的な疑いを超える」(beyond a reasonable doubt)程度の証明(=通常の経験知識を持つ人が、抱くのももっともだ(reasonable)と思われる疑問を克服した(beyond)証明)までしなくてはならないのです(光藤景皎『口述 刑事訴訟法 中〔補訂版〕』(成文堂、2005年)121頁)。すなわち、神ならぬ人間が判断することだから100%の真実までは要求されないが、90%以上の確かさ程度では足りず、ほぼ100%に近い程度が要求されるのです(
荒木伸怡・立教大学教授「草加事件最高裁判決の意義」参照)。
「合理的な疑いを超える程度の証明」については、次のような作家の伊佐千尋氏の説明がもっとも分かりやすいかもしれません。
「検察側の証明によって、被告人が有罪であると判断することに疑いがほとんど残らない状態を指します。例えば、白いカンバスに黒い墨を塗っていき、気になる余白がない状態になって、被告人を有罪にすることができる。逆に気になる白い部分が残れば無罪を答申しなければならないということです」(亀井洋志『司法崩壊』(WAVE出版、2008年)30頁)
もし、裁判員であったとしたら、光市事件裁判でも、検察側はその主張する犯罪事実の1つ1つについて「合理的な疑いを超える程度の証明」をしていたと、判断できるのでしょうか。よく考えて欲しいと思います。
眤七阿気鵑蓮⇔矛哉獣任砲弔い討盖震を抱いています。「従来の判例に倣えば死刑は回避されるケースだった」(
「光市事件・差戻控訴審:広島高裁平成20年4月22日判決は元少年に死刑判決〜広島高裁判決の問題点について検討」(2008/04/23 [Wed] 20:33:18))のに、「今回、被害者遺族の熾烈な処罰感情が世論と司法を動かし、判例は覆された」のです。
「仮に被害者遺族がべつの人だったら、被告は無期懲役になっていたと考えられる」のです。そうなると、被害者遺族が「死刑にならなければ殺してやる」とまで公言するほどの活動をしていれば死刑判決になり、犯罪予告までしなければ無期懲役となり、被害者遺族がいなければ無期懲役になっていたと考えられるのです。
同じ犯罪事実に対して、被害者遺族の有無や行動次第で、死刑になったり無期懲役になったりするのは、恣意的で場当たり的な判決を正面から認めることになり、実に不合理です。
「こんな現実は、私たち素人に耐えられるものではない」という判断は、実に尤もなことです。
(2) 最近の刑事裁判の審理などにも、問題があります。眤七阿気鵑
「簡便になってゆく審理には直感的に不安も覚える」と指摘しています。
「このほかにも、公判前に行われる争点整理や、それによる公判の迅速化など、簡便になってゆく審理には直感的に不安も覚える。裁判で取り上げる証拠や争点を限定するには、警察と検察の取り調べの全過程の録音・録画が大前提となるべきところ、現時点では供述調書の読み聞かせ段階の録画に限られるらしい。こうしてあてがいぶちの資料だけ与えられて、さあ死刑か無期かと問われるのである。しかし、最後は自分の心証で死刑判決を出せるような人が、現実にはどれほどいることか。民意とは、いざとなればもっと慎重なものである。」
多くの文献が指摘していることではありますが、警察又は検察の取り調べでは、取り調べ相手に罵詈雑言を浴びせるのは通常のことであって、利益誘導や脅しで自白を取るのが従来からの方法です(冤罪File1号11頁、東京新聞平成20年5月14日付24面「こちら特報部」『収監直前元参院のドンが語る司法改革 取り調べすべて可視化を』)。可視化の対象が自白部分にとどまるのであれば、今の調書の内容と同じで意味がないのです。
今の調書の内容と同じで意味がないもの、こうした「あてがいぶちの資料」だけを与えられて、「死刑か無期かと問われる」のです。しかも、裁判員制度であれば通常、3日間の審理を予定しており、ますます「公判の迅速化など、簡便になってゆく審理」になっていくのですから、「あてがいぶちの資料」である自白が本当に真実を話しているのか否か、判断する時間や資料が減ってしまい、一層、不安を覚えることになるのです。
裁判員制度の設計者は、「精密司法」に替えて「核心司法」になると言っているのですが、「核心司法」とは、枝葉を切り落とした杜撰司法にほかなりません。裁判員に過大な負担をさせない、ということで簡略・迅速化が推し進められることは、被告人の権利や弁護権がないがしろにされる可能性が極めて大きいのです(「特集にあたって……編集委員会」法と民主主義2008年4月号)。この点でも問題が生じるのです。
(3) 眤七阿気鵑蓮元々、
裁判員制度について、死刑か無期かを争うような刑事裁判を対象にするのか疑問に感じていることも、述べています。
「さて、裁判員制度なるものが民意を裁判に反映させるために導入されるのであれば、なぜ死刑か無期かを争うような刑事裁判から始まるのだろうか。血まみれの犯罪死体の写真を一般市民にさらし、強姦などの一部始終をいちいち読み聞かせるのが、開かれた法廷だというのだろうか。」
海外の陪審員制度においても、殺人事件などの審理で精神的ショックを受けてしまうことが問題となっているため、日本でも同様の問題が生じることが予想されます。そこで、こうして「心のケア・プログラム」を設ける方針を決めています。
「裁判員に「心のケア」 24時間の電話相談
2008年5月12日 06時36分
来年5月の裁判員制度導入に向け、最高裁は12日までに、殺人事件などの審理で精神的ショックを受けた裁判員を対象に、24時間態勢の無料電話相談窓口や心理カウンセラーによる面談を受けられる「心のケア・プログラム」を設ける方針を決めた。
裁判員裁判の対象事件は殺人や強盗致傷などの重大事件。審理の中で、遺体の解剖写真や凶器、残酷な犯行場面の再現などを見たり、被害者や遺族の話を聞いたりして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になる可能性が指摘されている。
裁判員制度に対する最近の意識調査でも、参加に消極的な人の多くが理由として「心理的な不安」を挙げており、最高裁は不安を解消してもらうため、陪審制のあるオーストラリアや米国の複数の州でも採用されている類似の制度を参考に、プログラムを考案した。電話相談は民間の専門業者に委託する。
(共同)」(東京新聞(2008年5月12日 06時36分))
しかし、ここまでして、重大事件を対象とする裁判員制度を実施する必要があるのでしょうか。
犯罪による被害者だけでなく、裁判員制度により、「心のケア」を必要とするような「被害者」を作り出すことは、とても不合理な思いがするのです。裁判に民意を反映させるという名目で、「被害者」を作り出すことは、「開かれた法廷だ」というのでしょうか。
刑事訴訟では、民事訴訟と異なり、無罪推定の原則など厳しい証拠法上の原則があることを踏まえて判断しなければならないことが、裁判員にとって大きな負担です。また、多数の犯罪を犯している被告人も多く、その犯罪を規定している刑法上の文言は専門用語の宝庫であって、罪刑法定主義上、自由な解釈は許されないことから、刑事訴訟での専門用語と相俟って、裁判員にとって、事実認定だけに専念することはおよそ難しいのです。そして、死刑か無期かという究極の判断を迫られ、もし死刑判決を下すのであれば、一生涯、人の命を背負って生きていかなければならないのです。
「裁判員制度なるものが民意を裁判に反映させるために導入されるのであれば、なぜ死刑か無期かを争うような刑事裁判」から始めるのか、大いに疑問なのです。
(4)
裁判において民意を活かすのであれば、本来、民事事件(民事裁判)ではないのかと、眤七阿気鵑肋Г┐討い泙后
「民意を広く社会常識と捉(とら)えるなら、それを活(い)かすところは、加害者も被害者も個人である刑事事件ではなく、むしろ公害訴訟や薬害訴訟、あるいは近年増加している労働訴訟や行政訴訟のほうだろうと思う。裁判の長期化の弊害はこうした民事裁判も同様であるし、公害問題や労働問題は私たちにとってより大きな関心事であり得る。もちろん専門知識の詰まった数万ページもの証拠資料など手に負えないが、ここでこそ争点整理の手続きが活きてこよう。
想像してみよう。もし薬害肝炎訴訟を私たち裁判員が裁いていたなら、はるか昔に国と製薬会社の責任を認めて賠償を命じていたはずだ。」
イ:
裁判員制度において、なぜ刑事裁判のみが対象になっているのかについては、次の理由です。
「・ なぜ、刑事裁判から導入されるのか。民事裁判のような身近な事件から始めればいいのではないか。(会場)
・ 民事裁判を裁判員制度に入れなかった理由は、係争額が低くても、事実と法律関係が複雑に絡み合っている事件が多いため、ふさわしい事件を選び出すことが非常に困難という理由で、審議会で多数の反対があったためだ。(井上教授)
・ 民事事件、行政事件でも、将来、裁判員制度の導入を検討されているのか。(会場)
・ 民事事件、行政事件への裁判員制度の拡大については、司法制度改革審議会の意見では、将来の課題とされている。刑事事件は、民事、行政に比べれば内容が身近で参加していただきやすいため、まず刑事事件から始めて、その運用の実態を見てから他の領域も検討する予定だ。(四宮教授)
・ 身近でやりやすいという点で刑事事件を選んだのではなく、社会の関心が強く、事柄が皆に関わることであったために、そこからやろうということになった。私は個人的には、民事、行政事件でも、近隣紛争など身近な問題については一般の方が入ってやった方がいいのではないかという意見を持っていたが、審議会の多数意見とはならなかった。しかし、将来導入される可能性はあり得る。(井上教授) 」(「司法制度改革 タウンミーティング イン 金沢」)
裁判員制度を導入した学者同士でも、なぜ、裁判員制度において刑事事件を対象にしたのかというごく基本的なことでさえ、意見の違いがあるほど、ずさんな導入だったことがよく分かります。
色々と理由を挙げていますが、刑事事件は社会の関心が強いとはいえ、「事実と法律関係が複雑に絡み合っている事件」は民事事件に限られるわけではありません。「公害問題や労働問題は私たちにとってより大きな関心事であり得る」のですから、むしろ、こちらの方が裁判員制度の実施に相応しいと思えるのです。ですから、井上正仁教授は、民事事件に導入してもいいのではないのか、という意見をもっているわけです。
このように、民事事件にも裁判員制度を導入しなかった理由は、明確なものとはいえないのです。
ロ:眤七阿気鵑蓮◆崛杼してみよう。もし薬害肝炎訴訟を私たち裁判員が裁いていたなら、はるか昔に国と製薬会社の責任を認めて賠償を命じていたはずだ」という例を挙げていますが、この例は多くの市民が誰でも納得できる例ではないでしょうか。裁判所における判断は、薬害肝炎訴訟の原告側に、長年、多くの苦痛を与えるばかりであり、結局は、政治判断という決着になったのですから。
眤七阿気鵑蓮⇔磴箸靴峠个靴討い泙擦鵑、国立マンション訴訟(景観訴訟)事件(
「国立マンション訴訟(景観訴訟)最高裁判決(上)〜後だし条例は不当なのか?」(2006/04/07 [Fri] 21:28:26))も考えられます。桜とイチョウの並木が続く国立市内の通称『大学通り』沿いの景観のあり方については、まさに地域の多数の住民、将来の地域にあり方の行方を決めるものなのですから、市民の多くにとって重大な関心事です。これこそ、東京都民が裁判員として判断するのが、もっとも相応しい事件であると思うのです。ある個人が犯した犯罪事件よりもずっと。
ですから、井上教授も、眤七阿気鵑汎瑛諭◆嵬瓜、行政事件でも、近隣紛争など身近な問題については一般の方が入ってやった方がいいのではないかという意見」を持っていたのですが、それは否定されてしまいました。
3.眤七阿気鵑力誓發麓,里茲Δ癖絃呂把めています。
「結局、ほんとうに私たちの民意が活かされるべき民事裁判が閉ざされたままであるのは、国と司法と官庁が、ここだけは国民に触れさせないとして死守しているからにほかならない。そして、本来は民意よりも、証拠にもとづく精密な審理が必要な刑事裁判のほうを一般市民へ投げ出して、頬(ほお)かむりしたということである。こんな状況で私たちに出来るのは、軽々に声を上げた「世論」など形成しないことぐらいだろうか。」
本当に民意を活かすべきなのは、民事裁判であるのに、「民事裁判が閉ざされたままであるのは、国と司法と官庁が、ここだけは国民に触れさせないとして死守しているからにほかならない」のです。
「精密司法」は捨て去られ、「本来は民意よりも、証拠にもとづく精密な審理が必要な刑事裁判のほうを一般市民へ投げ出して」、利益を受けるのは裁判官と検察官だけであり、その結果、有罪率99.9%という現状において、今後は杜撰な立証・認定さえも可能にするのです。そんな杜撰な立証・認定によって不利益を受けるのは、被告人となる一般市民なのです。
死刑判決を出すことは、人の命を奪うことになるのですから、裁判官にとっても大変な心理的なストレスを受け、裁判官は一生涯責任を背負うことになります。裁判員制度が実施されれば、一般市民のせいに出来るのですから、実に裁判官に優しい制度です。死刑冤罪であっても、一般市民のせいにできるのですから。
このように、今の裁判員制度は、一般市民にとっては好ましくないのです。
しかし、裁判員制度を改正しない限り、このままで実施されてしまいます。そうなると、
「こんな状況で私たちに出来るのは」、犯罪が増加していないのに、体感治安の悪化に基づいて、やたらと厳罰化を叫びまくるという愚かな行動は戒め、「軽々に声を上げた『世論』など形成しないことぐらい」なのです。
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